上富良野では1897(明治30)年に開拓に着手されたことを、現在に続く自治体の礎が築かれた出来事と捉えており、1997(平成9)年には「100年」ということで<上富良野町開拓歴史広場>を整備している。
この<上富良野町開拓歴史広場>は地域の歴史等を伝えるような場、住民や来訪者の憩いの場というような様子になっている。そして「三重団体」というように呼び習わされたという、三重県からの入植者達が拓いて農地を起こしたとされる地区の一隅にこの広場は設けられている。
↓広場にこういうモノが在った。
↑地図である。少し立体的に見える描写の立派な図だと思う。
↓暫しこの地図を眺めた。
↑十勝岳の山頂側から下って、川などになっている先に上富良野が在り、図の真中辺りに在る上富良野駅から見て、図の左側の辺りが<上富良野町開拓歴史広場>ということになる。
1926(大正15)年の十勝岳噴火の際に生じた「大正泥流」は、十勝岳を少し遠くに望む麓の開けた辺りに襲い掛かったということになる。地図が掲出されている辺りの向こうに、十勝岳が薄い噴煙を上げているのも見えていた。
「大正泥流」は噴火の際の熱で、山頂周辺に未だ多く残っていた雪が一気に融け、大量の水が土や岩と共に流れ、木々を薙ぎ倒して、漫然と木が押し流されるのでもなく「縦に回転」という凄まじい勢いで押出した訳だ。
<上富良野町開拓歴史広場>が在る辺りも含め、明治30年代から大正年間の30年間程で拓かれた農地などは「大正泥流」で悉く損なわれてしまった。その他の財物も相当な被害を受け、犠牲者も多く生じている。その災害後の復興の取組は、言ってみれば「2回目の開拓」というようなものであったのだという。
こうした歴史を伝えようとする場を訪ねることが出来たのは非常に善かったと思う。
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