↓上富良野神社の辺りで、花色で一隅を覆ってしまっているような様子に眼を奪われた。
↑芝桜である。上富良野を訪ねた時、この芝桜が好い時季であった。
↓そしてこの蒲公英にも眼を奪われた。
蒲公英を見て「Одуванчики(アドゥヴァンチキ)…」と呟いてしまった。
日本国内に滞在していた国外出身の友人と御一緒した際、友人が蒲公英を見掛けて「Одуванчики(アドゥヴァンチキ)!」と少し声を上げ、姿勢を低くしてそれを眺めていた様子を思い出した。
友人は幼少期、または少し長じてからも、春に戸外を駆け回って、蒲公英を愛でるようなことを好んでいて、見掛けると酷く懐かしく嬉しい気持ちになるのだという。
「春に戸外を駆け回って、蒲公英を愛でる」というような、如何でも構わないような事柄も、戦禍が続いて、人に大きなダメージをもたらしてしまうようなモノが、判り悪い状態で散らばってしまっているような中では、思うように出来なくなってしまう訳だ。それでも花は咲くのであろうが。そう思って、蒲公英が気になっている昨今である。
上富良野も、かの「大正泥流」のような状態になってしまった。村を放棄するも已む無しという論調が強まった中、父母と共に拓いた土地を簡単に諦めたくはないと復興が進められた。多分、そんな復興の頃にも、この蒲公英のような花が姿を見せ、「これが咲くなら、作物も育つようになる筈だ」と人に希望を与えたかもしれない。
こういうさり気無い花は、災禍や戦禍を乗り越えるような人々の傍らで、そういう努力を静かに見守る存在なのかもしれない。そういう花が、地域を見守る神社の辺りに在ったというのが、何か強く記憶に残る。
↓蒲公英と芝桜とが組み合わさって見える箇所も在り、何やら暫し佇んで見入ってしまった。
訪ねてみた上富良野から戻って然程の事実を経ているのでもないが、早くも懐かしくなる感じである。
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