
↓振り返ると武田神社の鳥居が見える。上り坂になっている。

武田神社が在る場所は、戦国大名化して勢威を誇った武田家が3代に亘って本拠地としていた居館であった場所だ。現在、武田通りと呼ばれる道路に概ね沿うように「城下町」的な様相を呈していた。
↓路傍にさり気なく看板が出ている。戦国期の武田家の盛衰に纏わる挿話を扱う種々の物語に色々な人達が登場する。そんな人達が邸宅を構えていたと伝わる場所が示されている。

↑武田神社の辺りに在った居館は、所謂「近世城郭」というような要塞のような感じでもなかったという。結束の高い家中の将士で地域を護れば事足りるという考え方であったとも伝わる。
武田家に関しては「二十四将」という言い方が在る。色々と活躍する多士済々な家臣たちを擁した武田家の様を現す表現だが、名門として尊重される武田家が守護という役に就き、地元の多くの武士達を傘下に従える様子が何世代も続く中、色々と活躍する豊富な人材が分厚くなっていたのだと想像出来る。
↓こういうような形でも史跡の紹介が在る。

↓飯富虎昌は武田信虎、武田信玄の2代に仕えて活躍した人物で大変に信認が厚かった。武田信玄と対立してしまった息子の武田義信を補佐していた関係上、争いに巻き込まれて排されてしまったのだという。

甲府の武田通りは、早くも「再訪してみたい場所」という感である。
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