
常磐公園というのは1910(明治43)年に開設が決まった後、1912(大正元)年から工事が始まり、1916(大正5)年に開園した。その後1928(昭和3)年に園名碑が造られ、河川切替工事の関係で1935(昭和10)年に現在の場所に移ったのだそうだ。
1928(昭和3)年に園名碑が造られたが、この位の時代には昭和天皇の即位を記念するとして様々な建設事業が行われたようだ。公園の園名碑に関して、公園開設時の経緯等も在るので第七師団の師団長に揮毫を依頼することになった。当時、公園の名は「常盤」と「常磐」が混在していた。これに関して、揮毫をした師団長は「常磐公園」というように書いた。
↓「常磐公園」と「磐」の字が用いられている。「盤」ではない。

↑「常磐」が「常盤」に転訛したというように言われているようだが、両者共に「永久に変わらない」という程度の意味である。現在、固有名詞として「常磐公園」が用いられるが、辺りの住所では「常盤」が用いられている。少し面白い。「常磐公園」と「磐」が用いられたのは、「皿」は割れるが「石」は割れないと縁起を担いだとも、陸軍の地図に「常磐」という地名表記が在ったとも、単純な勘違いとも言われ、詳しいことは不明なようだ。
この「常磐公園」と揮毫した師団長は渡辺錠太郎という人物である。陸軍中将として1926(大正15)年から1929(昭和4)年に第七師団長を務めた。その後、1931(昭和6)年に陸軍大将に昇任している。
「渡辺錠太郎」という名に聞き覚えが在った。かの「2.26事件」で殺害されてしまった教育総監である。大きな事件に巻き込まれてしまった人物だ。
渡辺錠太郎は徴兵検査で陸軍に入隊後、召補試験という制度で士官学校へ進み、少尉に任官する。やがて陸軍大学校に進み、大尉に昇任する。日露戦争に従軍して負傷したという経過も在った。その後、参謀本部での任務や、外国公館の駐在武官等を歴任する。1920(大正9)年に少将に昇任し、1925(大正14)年に中将に昇任している。そして第七師団長を務め、大将昇任後は台湾軍司令官を務め、軍事参議官として陸軍の中枢で活動する。
所謂「エリート」というような学歴等を有するのでもなく、有能な若手を見出して登用しようとする制度で内部の教育を経て大将になったという例は殆ど無いのだという。大変な読書家であったと伝えられ、教養深い人物であったという。党派的な動きを見せる人達を牽制するような場面も在ったらしい。そういうことで「2.26事件」の際には襲撃の対象になってしまった。
↓文字に纏わる挿話が少し面白いのだが、その挿話に登場する人物が歴史の中でも少し知られているというのは興味深い。

常磐公園の出入口に在る園名碑だけでも、なかなかに興味深い。
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