↓大阪モノレールに乗車して万博公園駅に着いた。
↑下車した後、「随分と久し振りに大阪モノレールに乗車した…」と車輌を何となく眺めていた。
↓万博公園駅は1982年から順次延伸されて1997年以降は「大阪空港(所謂“伊丹”)を結ぶ交通」となっている「大阪モノレール線」と、「彩都線」という愛称の「国際文化公園都市モノレール線」とが交わる乗換駅だ。モノレールの車輌が並んで停車している様子が何となく面白いと思った。
↓駅名の看板だ。右側は行き先が2つ書かれている。
↓改札口へ向かおうとして階段に眼を留めた。サッカーのJリーグ、<ガンバ大阪>の本拠地スタジアムが近く、階段がチームの色になっていて大きくロゴマークが入っていた。
年末に他地域へ出た際の写真を眺めていて、未だ記事に使用していない好い写真を見付けて取上げてみた。時には、必ずしも縁深いのでもない他地域へ出て歩き廻るようなこともしてみたい感だ。
難波神社…(2023.12.31)
難波から本町の辺り迄、御堂筋を歩いてみた。「12月31日」というのは、賑やかなような、静かなような、何か微妙な空気感だと思いながら歩を進めた。
↓難波神社に至った。
↓仁徳天皇(にんとくてんのう)を祭神とし、素盞嗚尊(すさのおのみこと)を配祀している。加えて境内に博労稲荷社を擁し、倉稲魂尊(うかのみたまのみこと)を祀る。その旨が記されている。
↑倉稲魂尊(うかのみたまのみこと)というのは、稲荷社に祀られる稲荷神のことである。
この社の起こりは相当に古いようだが、943(天慶3)年には現在の天王寺区上本町に鎮座していたという。1597(慶長2)年には豊臣秀吉から立退料が支払われ、現在地に遷座したという。
やがて「大坂夏の陣」の後、境内地の多くが幕府に没収されたという。江戸時代には、仁徳天皇等を祀る神社というよりも、「博労稲荷社」として知られ、人々に親しまれていたようだ。商家の多かった船場―地下鉄の本町駅や堺筋本町駅の周辺地域という―が近いことから、商家の関係者の間で、商売に御利益が在るという「稲荷社」として篤い信仰の対象となったようだ。
明治期には「府社」に列せられる。1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまい、1974(昭和49)年に再建されている。
↓「街のど真ん中」というような場所だが、この鳥居の中は少し静かな「神社らしい」という雰囲気が溢れていると思う。
↓明治期に列せられた「府社」と明記されている。
↓空襲で損なわれ、少し長い年月を経て再建が成った社殿だ。
↑大阪で好い時間を過ごしていたこと、無事に2023年が過ぎようとしていたことに感謝の意を表しながら参拝した。
↓境内の木だが、空襲による大火災の中を生き残ったと伝えられる。大変に貴重な木だ。
↓この木を暫し見入っていた。
↓「初詣」の参拝者を迎える時が近付いており、こういう干支の画の様々な飾りが辺りには見受けられた。
こういうような、広壮な公園というような様相でもない境内ながら、街中で存在感を放つという社が、何か凄く好い。
↓難波神社に至った。
↓仁徳天皇(にんとくてんのう)を祭神とし、素盞嗚尊(すさのおのみこと)を配祀している。加えて境内に博労稲荷社を擁し、倉稲魂尊(うかのみたまのみこと)を祀る。その旨が記されている。
↑倉稲魂尊(うかのみたまのみこと)というのは、稲荷社に祀られる稲荷神のことである。
この社の起こりは相当に古いようだが、943(天慶3)年には現在の天王寺区上本町に鎮座していたという。1597(慶長2)年には豊臣秀吉から立退料が支払われ、現在地に遷座したという。
やがて「大坂夏の陣」の後、境内地の多くが幕府に没収されたという。江戸時代には、仁徳天皇等を祀る神社というよりも、「博労稲荷社」として知られ、人々に親しまれていたようだ。商家の多かった船場―地下鉄の本町駅や堺筋本町駅の周辺地域という―が近いことから、商家の関係者の間で、商売に御利益が在るという「稲荷社」として篤い信仰の対象となったようだ。
明治期には「府社」に列せられる。1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまい、1974(昭和49)年に再建されている。
↓「街のど真ん中」というような場所だが、この鳥居の中は少し静かな「神社らしい」という雰囲気が溢れていると思う。
↓明治期に列せられた「府社」と明記されている。
↓空襲で損なわれ、少し長い年月を経て再建が成った社殿だ。
↑大阪で好い時間を過ごしていたこと、無事に2023年が過ぎようとしていたことに感謝の意を表しながら参拝した。
↓境内の木だが、空襲による大火災の中を生き残ったと伝えられる。大変に貴重な木だ。
↓この木を暫し見入っていた。
↓「初詣」の参拝者を迎える時が近付いており、こういう干支の画の様々な飾りが辺りには見受けられた。
こういうような、広壮な公園というような様相でもない境内ながら、街中で存在感を放つという社が、何か凄く好い。
万博記念公園駅周辺…(2023.12.31)
一心寺 三千佛堂…(2024.01.01)
一心寺の境内から天王寺駅へ通じる道路へ向かおうとした。
↓通りから半ば見えるような様子に少し驚かされた。
外側で十二神将と千躰佛を並べた堂の中に弥陀三尊図を祀っているのだという。戦禍で損なわれた堂であったが、時を経て2002(平成14)年、通に面して参拝し易い形で改めて起こした堂であるということだ。
↓専用の蝋燭を求め、点火専用ライターを拝借して御参りした。専用蝋燭は慎重に見ずに浮かべるような形になっている。浮かべて点火する訳だ。愛用の、煙草を点けるライターでは火を点け悪い。
↑大阪で好い時間を過ごせていることに感謝の意を表した。
↓長い伝統を汲む古刹ということになるが、それ以上に多くの人達の信心の拠所であり、色々と文化活動が展開されているような様子が興味深い。
この一心寺、並びに三千佛堂については、大阪から引揚げて程無く「再訪を希望…」と頭の中に思い浮かぶようになった。
↓通りから半ば見えるような様子に少し驚かされた。
外側で十二神将と千躰佛を並べた堂の中に弥陀三尊図を祀っているのだという。戦禍で損なわれた堂であったが、時を経て2002(平成14)年、通に面して参拝し易い形で改めて起こした堂であるということだ。
↓専用の蝋燭を求め、点火専用ライターを拝借して御参りした。専用蝋燭は慎重に見ずに浮かべるような形になっている。浮かべて点火する訳だ。愛用の、煙草を点けるライターでは火を点け悪い。
↑大阪で好い時間を過ごせていることに感謝の意を表した。
↓長い伝統を汲む古刹ということになるが、それ以上に多くの人達の信心の拠所であり、色々と文化活動が展開されているような様子が興味深い。
この一心寺、並びに三千佛堂については、大阪から引揚げて程無く「再訪を希望…」と頭の中に思い浮かぶようになった。
一心寺…(2024.01.01)
動物園前駅の辺りに求めた宿で過ごす夕べに向け、駅のロッカーに似持ちを預けて動き廻ることとした。そして天王寺駅の界隈に至り、辺りを歩き廻った。
↓天王寺駅から、辺りの地名の由来になっているらしい四天王寺へ向かう道筋の途中、少し入った辺りに少し不思議な感じのモノが在る。
↓少し「前衛芸術?」という風ではあるが、これは寺の門に見受けられる金剛力士像である。画は“阿形”だ。
↓そしてこちらは“吽形”である。これは一心寺の門だ。
↓正月の門松が飾られていたが、一心寺は大勢の参拝者で賑わっていた。
一心寺は1185(文治元)年い法然上人が開いたと伝わる古刹である。法然上人は草庵を結んで「日想観」、夕陽を見ながら極楽浄土を観想するという「観無量寿経」に説かれる修法に勤しんだのだという。やがて草庵が一心寺になって行った。
所謂「大坂冬の陣」では、徳川家康の本陣が布かれたのはこの一心寺の辺りであったという。以降、江戸時代を通じて盛んな活動が続いた寺である。明治20年に「御骨佛」の造立を手掛け、以降は「御骨佛の寺」として広く信仰を集めた。
第2次大戦期の戦禍で、この寺の伽藍等は大きく損なわれてしまったが、戦後に再建が行われて現在に至っている。そういう中で、大胆なデザインの像を備えた門等が登場している。
↓酷く賑わう境内を歩き廻った。
↓幾つかの御堂で手を合わせた。
↓屋根の瓦の一部が、低い場所に飾られていて、少し興味深く眺めた。
↓何か凄く「有難い場所」に足を踏み入れたような気もした。
事前に知識が在ったのでもないが、法然上人が修法に励んだ草庵を起源とする古刹に出くわし、多くの人達の信心の拠所になっているという場所の初春の雰囲気の中で少し過ごすことが叶ったのは大変に幸いだった。
↓天王寺駅から、辺りの地名の由来になっているらしい四天王寺へ向かう道筋の途中、少し入った辺りに少し不思議な感じのモノが在る。
↓少し「前衛芸術?」という風ではあるが、これは寺の門に見受けられる金剛力士像である。画は“阿形”だ。
↓そしてこちらは“吽形”である。これは一心寺の門だ。
↓正月の門松が飾られていたが、一心寺は大勢の参拝者で賑わっていた。
一心寺は1185(文治元)年い法然上人が開いたと伝わる古刹である。法然上人は草庵を結んで「日想観」、夕陽を見ながら極楽浄土を観想するという「観無量寿経」に説かれる修法に勤しんだのだという。やがて草庵が一心寺になって行った。
所謂「大坂冬の陣」では、徳川家康の本陣が布かれたのはこの一心寺の辺りであったという。以降、江戸時代を通じて盛んな活動が続いた寺である。明治20年に「御骨佛」の造立を手掛け、以降は「御骨佛の寺」として広く信仰を集めた。
第2次大戦期の戦禍で、この寺の伽藍等は大きく損なわれてしまったが、戦後に再建が行われて現在に至っている。そういう中で、大胆なデザインの像を備えた門等が登場している。
↓酷く賑わう境内を歩き廻った。
↓幾つかの御堂で手を合わせた。
↓屋根の瓦の一部が、低い場所に飾られていて、少し興味深く眺めた。
↓何か凄く「有難い場所」に足を踏み入れたような気もした。
事前に知識が在ったのでもないが、法然上人が修法に励んだ草庵を起源とする古刹に出くわし、多くの人達の信心の拠所になっているという場所の初春の雰囲気の中で少し過ごすことが叶ったのは大変に幸いだった。
道頓堀…(2023.12.31)
<7ELEVEN>…:天神橋筋六丁目駅周辺(2023.12.30)
KOBAN…:天神橋筋4丁目(2023.12.30)
大阪天満宮を訪ねた後、天神橋筋六丁目駅の方へ進もうと歩いた。
↓何やら話し掛けている幼稚園に通うような年恰好に見える子どもに、膝を折って姿勢を低くし、目線を子どもに合わせるようにして「どうしたのや?」と話しを聴く警察官という様子の画が描かれた看板を眼に留めた。
↑天神橋筋4丁目、商店街の辺りで見掛けた。大阪府警の交番である。
大阪の街中で、交番にはこの「子どもの話しを聴こうとする警察官」という画の看板が目印のように使われていた。看板を観て、「子どもから御年寄り迄、街の人達の訴えを聴くので気軽に御声掛けを」というような感じなのだと思った。
↓国内の警察は、都道府県が運営する機関なので、ここで見掛けた看板のようなモノは都道府県が異なると様子が変わる。この看板も大阪府警の独自のモノだと見受けられる。
↓建物の壁に「駐輪禁止」である。大阪は自転車が多い。そして何処にでも自転車が置かれるのであろう。
大切な仕事に熱心に取組む関係者に感謝すべきであろうというようなことも思いながら脇をゆっくりと通り過ぎた。
↓何やら話し掛けている幼稚園に通うような年恰好に見える子どもに、膝を折って姿勢を低くし、目線を子どもに合わせるようにして「どうしたのや?」と話しを聴く警察官という様子の画が描かれた看板を眼に留めた。
↑天神橋筋4丁目、商店街の辺りで見掛けた。大阪府警の交番である。
大阪の街中で、交番にはこの「子どもの話しを聴こうとする警察官」という画の看板が目印のように使われていた。看板を観て、「子どもから御年寄り迄、街の人達の訴えを聴くので気軽に御声掛けを」というような感じなのだと思った。
↓国内の警察は、都道府県が運営する機関なので、ここで見掛けた看板のようなモノは都道府県が異なると様子が変わる。この看板も大阪府警の独自のモノだと見受けられる。
↓建物の壁に「駐輪禁止」である。大阪は自転車が多い。そして何処にでも自転車が置かれるのであろう。
大切な仕事に熱心に取組む関係者に感謝すべきであろうというようなことも思いながら脇をゆっくりと通り過ぎた。
大阪市北区某所…(2023.12.30)
天神橋筋六丁目駅で大阪天満宮を訪ねようと思い立った。天神橋筋商店街に入って「6丁目、5丁目、4丁目…」と1丁目の辺りへ直進すれば大阪天満宮の直ぐ傍に至る。それを知らずに、途中で脇の方の路へ出てしまい、何やらぐるりと大きく廻って随分と歩いてしまった。
↓何やら高層マンションや、何かの専門学校と見受けられる建物等が冬の蒼天の下に佇む様を見上げた。「何処?!」という感じで、とりあえず通行量が多そうな辺りを探して進むことにしたのだった。
↑大阪駅を擁する街の北側で、様々な地下鉄路線が入り交じっている辺りの雰囲気は、何となくこういうような感じだと思う。
「何となくこういうような感じ…」を眺めながら、「然程急ぐでもない…」と散策する感じを出先ではよくやってしまう。「散策」と号してはいるものの、「不慣れな場所で迷っている」に過ぎないかもしれないのだが。
↓何やら高層マンションや、何かの専門学校と見受けられる建物等が冬の蒼天の下に佇む様を見上げた。「何処?!」という感じで、とりあえず通行量が多そうな辺りを探して進むことにしたのだった。
↑大阪駅を擁する街の北側で、様々な地下鉄路線が入り交じっている辺りの雰囲気は、何となくこういうような感じだと思う。
「何となくこういうような感じ…」を眺めながら、「然程急ぐでもない…」と散策する感じを出先ではよくやってしまう。「散策」と号してはいるものの、「不慣れな場所で迷っている」に過ぎないかもしれないのだが。
<OSAKA STATION CITY>…:大阪駅を望む(2023.12.30)
大阪駅を望み易いような場所を求めて辺りを歩いた。
↓こんな看板に出くわした。
↑色々なテナントが入っているので、大阪駅を総称して「ステーションシティー」と称しているのだろうとは思う。が、1日の利用者数が58万人にも及ぶという、関西では群を抜いて大きな駅は、最早「大阪駅“市”」とでも呼びたいような人の出入りだと思う。日本国内の数多くの“市”を見渡せば、大阪駅の1日の利用者数に遠く及ばないような場所の方が多数派ではないかという気がする。
↓夥しい数の人やモノが流れ、多くの列車が間断無く発着し、バスやタクシーや、その他の車輌も多々行き交っている大阪駅だ。何か“街”という巨大な生物の“血流”が滲む場所というような気もした。
時にはぼんやりとこういう様子を眺めてみるのも悪くはない。
↓こんな看板に出くわした。
↑色々なテナントが入っているので、大阪駅を総称して「ステーションシティー」と称しているのだろうとは思う。が、1日の利用者数が58万人にも及ぶという、関西では群を抜いて大きな駅は、最早「大阪駅“市”」とでも呼びたいような人の出入りだと思う。日本国内の数多くの“市”を見渡せば、大阪駅の1日の利用者数に遠く及ばないような場所の方が多数派ではないかという気がする。
↓夥しい数の人やモノが流れ、多くの列車が間断無く発着し、バスやタクシーや、その他の車輌も多々行き交っている大阪駅だ。何か“街”という巨大な生物の“血流”が滲む場所というような気もした。
時にはぼんやりとこういう様子を眺めてみるのも悪くはない。
通路…:阪神電車梅田駅&大阪駅周辺(2023.12.30)
映り込み…:大阪駅周辺(2023.12.30)
大阪天満宮…(2023.12.30)
大阪では「天満」、「天満橋」、「天神橋筋」というように、大阪天満宮に関連が在るらしい地名の場所が多く見受けられる。大阪天満宮の素材感が大きいということが伺える。他方、考えてみると大阪天満宮に立寄ってみた経過が無かった。
天神橋筋六丁目駅周辺に滞在しようと大阪に入った際、大阪天満宮を訪ねることを思い付いた。天神橋筋六丁目駅のロッカーにモノを預けて身軽になり、好天に恵まれた街を歩き始めた。
「正解」としては、天神橋筋商店街を6丁目から1丁目迄、順にゆっくり進めば大阪天満宮の傍に至った。が、何となくJR天満駅の辺りに出る等して、少し変な方向に進んでしまった。
↓何か中途半端に廻り込んで、漸く「直ぐ近くらしい…」という辺りに至った。
↓天神橋筋商店街を延々と進めば善かったのだと気付かされた。
↓回り道でも何でも、目指してみた大阪天満宮に辿り着いたのは善かった。表大門を望んだ。
↓門の辺りに周辺案内図のようなモノが在って、郵便ポストが据えられていた。
↓境内案内図が、何かイラスト的で感じが好いと思った。
↓初詣で夥しい数の人々がやって来るということで、それへの備えが整う中、歳末の好天という中で少し賑わうような様子だった。
↑「御賽銭を遠くから投げないで下さい」と掲示が出ている。
↓社殿が金網で護られるというような様子になっていた。
↓無事に大阪に着いて、大阪天満宮を訪ねられたことに感謝の意を表し、辺りを一回りした。
神社そのものは、難波宮の北西を守護するとして650年に起こっている。<大将軍社>と呼ばれた。
901(延喜元)年、大宰府へ行くことになってしまった菅原道真が、この<大将軍社>に立寄って旅の安全を祈願したと伝わる。
やがて菅原道真に関連した天神信仰が拡がって行く。949(天暦3)年には、菅原道真が立寄ったと伝わる<大将軍社>の前に7本の松が生えて霊光を放っているという奇譚が囁かれ、都にも伝わる。それを聞いた村上天皇の勅命で<天満宮>が建立された。従前の<大将軍社>は摂社ということになり、この場所は<天満宮>を中心とする社になって行く。
永くこの<天満宮>は受継がれる。火災等で建物が損なわれることも在ったが、再建が繰り返されている。1724(享保9)年の火災で損なわれて再建された建物は、1837(天保8)年の大塩平八郎の乱に伴う火災で損なわれた。そして1843(天保14)年に建物が再建されているのだが、この建物は第2次大戦時の戦禍を免れて現在に受継がれているのだという。
↓右の頁が大阪天満宮の御朱印だ。確り頂いた。
↓表大門を潜って出ようとすれば、真上にこういうような干支で方角を示すようなモノが飾られていることに気付いた。
↑干支が美しいのだが、「酉」は鶏というよりも鳳凰のような姿で少し面白い。
↓そしてこういう<御神酒笑姿>(おみきえびす)という像も在る。
↓境内に蛭子遷殿を擁することに因むモノで人気が在るようだ。
↑2007年から<天満天神えびす祭>という催しも行われているようだ。戦後長く途絶えていた催事を復興したということであるという。
今般、大阪天満宮を訪ねてみて、大阪がより身近に感じられるようになった気もする。神社は一度訪ねて御終いではない。何度でも参拝に立寄る場所でもある。またゆっくりと訪ねてみたいものだ。
天神橋筋六丁目駅周辺に滞在しようと大阪に入った際、大阪天満宮を訪ねることを思い付いた。天神橋筋六丁目駅のロッカーにモノを預けて身軽になり、好天に恵まれた街を歩き始めた。
「正解」としては、天神橋筋商店街を6丁目から1丁目迄、順にゆっくり進めば大阪天満宮の傍に至った。が、何となくJR天満駅の辺りに出る等して、少し変な方向に進んでしまった。
↓何か中途半端に廻り込んで、漸く「直ぐ近くらしい…」という辺りに至った。
↓天神橋筋商店街を延々と進めば善かったのだと気付かされた。
↓回り道でも何でも、目指してみた大阪天満宮に辿り着いたのは善かった。表大門を望んだ。
↓門の辺りに周辺案内図のようなモノが在って、郵便ポストが据えられていた。
↓境内案内図が、何かイラスト的で感じが好いと思った。
↓初詣で夥しい数の人々がやって来るということで、それへの備えが整う中、歳末の好天という中で少し賑わうような様子だった。
↑「御賽銭を遠くから投げないで下さい」と掲示が出ている。
↓社殿が金網で護られるというような様子になっていた。
↓無事に大阪に着いて、大阪天満宮を訪ねられたことに感謝の意を表し、辺りを一回りした。
神社そのものは、難波宮の北西を守護するとして650年に起こっている。<大将軍社>と呼ばれた。
901(延喜元)年、大宰府へ行くことになってしまった菅原道真が、この<大将軍社>に立寄って旅の安全を祈願したと伝わる。
やがて菅原道真に関連した天神信仰が拡がって行く。949(天暦3)年には、菅原道真が立寄ったと伝わる<大将軍社>の前に7本の松が生えて霊光を放っているという奇譚が囁かれ、都にも伝わる。それを聞いた村上天皇の勅命で<天満宮>が建立された。従前の<大将軍社>は摂社ということになり、この場所は<天満宮>を中心とする社になって行く。
永くこの<天満宮>は受継がれる。火災等で建物が損なわれることも在ったが、再建が繰り返されている。1724(享保9)年の火災で損なわれて再建された建物は、1837(天保8)年の大塩平八郎の乱に伴う火災で損なわれた。そして1843(天保14)年に建物が再建されているのだが、この建物は第2次大戦時の戦禍を免れて現在に受継がれているのだという。
↓右の頁が大阪天満宮の御朱印だ。確り頂いた。
↓表大門を潜って出ようとすれば、真上にこういうような干支で方角を示すようなモノが飾られていることに気付いた。
↑干支が美しいのだが、「酉」は鶏というよりも鳳凰のような姿で少し面白い。
↓そしてこういう<御神酒笑姿>(おみきえびす)という像も在る。
↓境内に蛭子遷殿を擁することに因むモノで人気が在るようだ。
↑2007年から<天満天神えびす祭>という催しも行われているようだ。戦後長く途絶えていた催事を復興したということであるという。
今般、大阪天満宮を訪ねてみて、大阪がより身近に感じられるようになった気もする。神社は一度訪ねて御終いではない。何度でも参拝に立寄る場所でもある。またゆっくりと訪ねてみたいものだ。
大阪駅にて…(2024.01.02)
↓大阪駅に立寄った。
↓新今宮駅から大阪環状線の列車で大阪駅に着いたのだった。
↓各方面への様々な種類の列車が発着する大阪駅である。列車の案内も判り易く掲出されている。
↑大阪以北、京都等へ向かう線を「京都線」、大阪以西、神戸等へ向かう線を「神戸線」と呼び習わしている。停車駅が多い順番に「普通」、「快速」、「新快速」である。今般は播州赤穂駅へ向かう列車に乗る。
↓関西空港への列車の乗車位置を案内する掲示が何となく眼に留まった。大阪駅から乗車する国内外の乗客が多いのであろう。
↓列車がやって来た。
↓12輌編成だが、姫路駅で4輌切り離すということなので、姫路以遠に進む側の乗車口から乗り込んだ。
↓身軽に動き廻っている。
↓1時間半余りの乗車という予定だ。ゆっくりと車中で過ごす。
この日は、夕方に神戸空港に入って新千歳空港に発つ前の時間を利用して、坂越(兵庫県赤穂市)を訪ねてみることにして<青春18きっぷ>を使った。こういうような感じが気に入っている。
↓新今宮駅から大阪環状線の列車で大阪駅に着いたのだった。
↓各方面への様々な種類の列車が発着する大阪駅である。列車の案内も判り易く掲出されている。
↑大阪以北、京都等へ向かう線を「京都線」、大阪以西、神戸等へ向かう線を「神戸線」と呼び習わしている。停車駅が多い順番に「普通」、「快速」、「新快速」である。今般は播州赤穂駅へ向かう列車に乗る。
↓関西空港への列車の乗車位置を案内する掲示が何となく眼に留まった。大阪駅から乗車する国内外の乗客が多いのであろう。
↓列車がやって来た。
↓12輌編成だが、姫路駅で4輌切り離すということなので、姫路以遠に進む側の乗車口から乗り込んだ。
↓身軽に動き廻っている。
↓1時間半余りの乗車という予定だ。ゆっくりと車中で過ごす。
この日は、夕方に神戸空港に入って新千歳空港に発つ前の時間を利用して、坂越(兵庫県赤穂市)を訪ねてみることにして<青春18きっぷ>を使った。こういうような感じが気に入っている。
<1日乗車券 エンジョイエコカード>…(2023.12.31)
堺筋本町駅にて…(2023.12.31)
<船場センタービル>…(2023.12.31)
大阪では南北に延びる道を「筋」、東西に延びる道を「通」と呼び習わす。こういう区別が、存外に合理的で好いというように思う場合も多い。
その「筋」の代表的なモノである御堂筋で、南側の難波辺りを起点に北上し、本町に至った。
↓高速道路の高架の下に建物が在って、<船場センタービル>と称している。
↓大晦日なので、<船場センタービル>のテナントも閉まっている。が、それはそれとして、空間と光の醸し出す雰囲気は好い。
この辺りでは、地下鉄御堂筋線の本町駅が近いので、そこから地下鉄を利用して滞在中の宿に引揚げることが出来ると思った。が、一寸思った。御堂筋から東側の堺筋に進み、地下鉄の堺筋線を利用すると、特段に乗換えも無く、目指したい天神橋筋六丁目駅に至ることが叶うのである。
↓この辺りで東西を結ぶ道である中央大通に入って、東寄りを目指すこととした。
↓中央大通と並行するような高速道路の高架下には、相当に長い範囲で建物が建っている。何となく見ると「延々と続いている?」というようにも見える。
↓<船場センタービル>の「9」というような表示が在った。
↓少し進むと<船場センタービル>の「8」というような表示で「心斎橋筋」とも示されている。
<船場センタービル>は1970(昭和45)年にオープンしたという。辺りの東西を結ぶ道を拡幅して中央大通を整備しようとした際、移転をせねばならない様々な沿道の用地利用者の補償のため、従前利用していた面積が利用可能になることを目指し、高速道路の高架の下に10棟のビルを建てたというモノなのだ。「1号館」から「10号館」まで在り、写真は「9号館」や「8号館」ということになる。
↓進み続ける。「7」は「7号館」だ。「丼池筋」(どぶいけすじ)という表示も在る。
↓「6」は「6号館」だ。「三休橋筋」(さんきゅうばしすじ)という表示も在る。
↓「5」は「5号館」で「中橋筋」(なかばしすじ)となっている。
↓「4」は「4号館」で「藤中橋筋」(ふじなかばしすじ)となっているが、古くは難波橋筋(なにわばしすじ)と呼ばれた。街の変遷の中で難波橋が架け替えられて辺りに無くなり、新しい藤中橋が架かったことから藤中橋筋という呼び方が登場したのだという。
↓漸く地下鉄堺筋線の堺筋本町駅の出入口が見えた。
↓堺筋の辺りも、先程見ている御堂筋辺りと同じような設えが見受けられる。
結局、御堂筋から堺筋へ向けて中央大通を歩き、中央大通と交わる何本もの「筋」を見たということになった。他方、後から考えると御堂筋辺りの本町駅と堺筋本町駅とは地下鉄の中央線で結ばれて1駅間だった。それに乗車しても好かった訳だが、その時は「一寸だけ歩けば…」というようにしか考えなかったのだ。
<船場センタービル>について、御堂筋の辺りで中を通って地下鉄御堂筋線の駅に出入した、または館内の御店で食事を摂ったということは在った。が、高速道路の高架下に拡がる様子をゆっくり眺めるという機会は、設けられそうで設け悪いかもしれない。そういう意味で、何となく歩いて面白かった。出先では、こういうような「何となく面白い」を少しずつ重ねる程度の過ごし方をするのが好いのかもしれない。
その「筋」の代表的なモノである御堂筋で、南側の難波辺りを起点に北上し、本町に至った。
↓高速道路の高架の下に建物が在って、<船場センタービル>と称している。
↓大晦日なので、<船場センタービル>のテナントも閉まっている。が、それはそれとして、空間と光の醸し出す雰囲気は好い。
この辺りでは、地下鉄御堂筋線の本町駅が近いので、そこから地下鉄を利用して滞在中の宿に引揚げることが出来ると思った。が、一寸思った。御堂筋から東側の堺筋に進み、地下鉄の堺筋線を利用すると、特段に乗換えも無く、目指したい天神橋筋六丁目駅に至ることが叶うのである。
↓この辺りで東西を結ぶ道である中央大通に入って、東寄りを目指すこととした。
↓中央大通と並行するような高速道路の高架下には、相当に長い範囲で建物が建っている。何となく見ると「延々と続いている?」というようにも見える。
↓<船場センタービル>の「9」というような表示が在った。
↓少し進むと<船場センタービル>の「8」というような表示で「心斎橋筋」とも示されている。
<船場センタービル>は1970(昭和45)年にオープンしたという。辺りの東西を結ぶ道を拡幅して中央大通を整備しようとした際、移転をせねばならない様々な沿道の用地利用者の補償のため、従前利用していた面積が利用可能になることを目指し、高速道路の高架の下に10棟のビルを建てたというモノなのだ。「1号館」から「10号館」まで在り、写真は「9号館」や「8号館」ということになる。
↓進み続ける。「7」は「7号館」だ。「丼池筋」(どぶいけすじ)という表示も在る。
↓「6」は「6号館」だ。「三休橋筋」(さんきゅうばしすじ)という表示も在る。
↓「5」は「5号館」で「中橋筋」(なかばしすじ)となっている。
↓「4」は「4号館」で「藤中橋筋」(ふじなかばしすじ)となっているが、古くは難波橋筋(なにわばしすじ)と呼ばれた。街の変遷の中で難波橋が架け替えられて辺りに無くなり、新しい藤中橋が架かったことから藤中橋筋という呼び方が登場したのだという。
↓漸く地下鉄堺筋線の堺筋本町駅の出入口が見えた。
↓堺筋の辺りも、先程見ている御堂筋辺りと同じような設えが見受けられる。
結局、御堂筋から堺筋へ向けて中央大通を歩き、中央大通と交わる何本もの「筋」を見たということになった。他方、後から考えると御堂筋辺りの本町駅と堺筋本町駅とは地下鉄の中央線で結ばれて1駅間だった。それに乗車しても好かった訳だが、その時は「一寸だけ歩けば…」というようにしか考えなかったのだ。
<船場センタービル>について、御堂筋の辺りで中を通って地下鉄御堂筋線の駅に出入した、または館内の御店で食事を摂ったということは在った。が、高速道路の高架下に拡がる様子をゆっくり眺めるという機会は、設けられそうで設け悪いかもしれない。そういう意味で、何となく歩いて面白かった。出先では、こういうような「何となく面白い」を少しずつ重ねる程度の過ごし方をするのが好いのかもしれない。
大正橋停留所…:大阪(2023.12.31)
大正駅の界隈を訪ねてみた。以前に立寄っているような御店を訪ねて昼食を摂るようなことを思い付いたのだったが、大晦日なので変則的な営業で開いていない感じだった。そこで駅の辺りで何となく一息入れていた。
↓バス停が在った。
↓幾つもの運行系統のバスが発着する大正駅傍には、運行系統別に停留所が設けられている。
大正区の鉄道駅については、JR大阪環状線の駅と、地下鉄の長堀鶴見緑地線の駅が在るばかりだ。従って古くから「区内はバスを利用」という様子で、「区内と少し先の交通結節点とをバスで結ぶ」ということでもある。そういう流れでバスの運行系統も多彩で、運行便数も多目だ。
↓鉄道高架を潜ってバスが近付く。
↓やって来たバスに乗って、なんば駅の辺りに出てみることにした。
この大阪市内のバスだが、特に何をするのでもなく後側から乗車し、下車時に均一運賃の210円を支払う。現金もICカード乗車券も使用可能だ。ICカード乗車券は乗車時と下車時の2回のタッチではなく、下車時に1階タッチだ。均一料金なので、寧ろ電子マネーで210円が単純に引き去られるというような様子だ。
大正橋停留所からなんば駅を目指すバスだが、<京セラドーム大阪>を望むような辺りから桜川駅辺りに至り、JR難波駅に通じる湊町を抜けて南海なんば駅を望むような辺りに到る経路を進んだ。
地下鉄で動き廻って、着いた駅から歩き廻るというようなことをするのが好きだが、時には街の路線バスも悪くはない。
↓バス停が在った。
↓幾つもの運行系統のバスが発着する大正駅傍には、運行系統別に停留所が設けられている。
大正区の鉄道駅については、JR大阪環状線の駅と、地下鉄の長堀鶴見緑地線の駅が在るばかりだ。従って古くから「区内はバスを利用」という様子で、「区内と少し先の交通結節点とをバスで結ぶ」ということでもある。そういう流れでバスの運行系統も多彩で、運行便数も多目だ。
↓鉄道高架を潜ってバスが近付く。
↓やって来たバスに乗って、なんば駅の辺りに出てみることにした。
この大阪市内のバスだが、特に何をするのでもなく後側から乗車し、下車時に均一運賃の210円を支払う。現金もICカード乗車券も使用可能だ。ICカード乗車券は乗車時と下車時の2回のタッチではなく、下車時に1階タッチだ。均一料金なので、寧ろ電子マネーで210円が単純に引き去られるというような様子だ。
大正橋停留所からなんば駅を目指すバスだが、<京セラドーム大阪>を望むような辺りから桜川駅辺りに至り、JR難波駅に通じる湊町を抜けて南海なんば駅を望むような辺りに到る経路を進んだ。
地下鉄で動き廻って、着いた駅から歩き廻るというようなことをするのが好きだが、時には街の路線バスも悪くはない。
<ホテルロイヤルクラシック大阪>…(2023.12.31)
↓南海なんば駅に近い辺りで御堂筋に足を踏み入れると、酷く目立つ建物を眼に留めた。
↑大掛かりな和風の設えの上にビルが載っているような感じだ。
この辺りには1958年から2009年まで<新歌舞伎座>という劇場が在って知られていた。劇場が閉館して移転した後、用地と旧い建物がそのままになっていたが、2015年にそれが解体され、そして結婚式場とホテルなどの複合施設<ホテルロイヤルクラシック大阪>が建てられた。2019年に開業したそうだ。
↓建物の一部は、劇場の和風の意匠が継承されているとのことだ。
こういうような、古く在ったモノの意匠を取り込んで新たなモノを建てるというようなやり方は面白いと思った。今般は横断し悪い場所を歩いていて、反対側から「酷く目立つ建物?」とこの建物を観ていたのだった。
↑大掛かりな和風の設えの上にビルが載っているような感じだ。
この辺りには1958年から2009年まで<新歌舞伎座>という劇場が在って知られていた。劇場が閉館して移転した後、用地と旧い建物がそのままになっていたが、2015年にそれが解体され、そして結婚式場とホテルなどの複合施設<ホテルロイヤルクラシック大阪>が建てられた。2019年に開業したそうだ。
↓建物の一部は、劇場の和風の意匠が継承されているとのことだ。
こういうような、古く在ったモノの意匠を取り込んで新たなモノを建てるというようなやり方は面白いと思った。今般は横断し悪い場所を歩いていて、反対側から「酷く目立つ建物?」とこの建物を観ていたのだった。
ミックスモダン焼…:<ぼてぢゅう>(2023.12.31)
↓難波で眼に留めた看板だ。昼食の時間帯なので立寄ってみた。
「“ぼてっ”としたお好み焼きを“ぢゅうっ”と焼く」ということで<ぼてぢゅう>という店名になったという。1953(昭和28)年に創業したそうだ。
↓こんな具合に箸等が登場する。待つこと暫しという感じだ。
↓左から2番目が標準の“オリジナル”だ。左端が“甘口”で右側は“辛口”、“ピリ辛口”となって、計4種のソースから好みのモノを使う。
↑大阪辺りではソースについて、様々な種類のモノが出回って、各々に好みのソースを使うというような感じになっているようだ。
↓御願いしていた「ミックスモダン焼」が登場だ。
↑「モダン焼」と言う場合、「お好み焼き」に焼きそば麺が入る。相対的に「新しい」のが、焼きそば麺の入った「モダン焼」だ。老舗の<ぼてぢゅう>は、「発祥の店の一つ?」という説も在るらしい。
↓“ピリ辛口”のソースとマヨネーズを点けて「モダン焼」を頂いた。
↓ヘラで適当に切り分けた「モダン焼」を小皿に取って頂く。
「大阪で食べる…」とでも言えば、大阪以外の地域に在ると串カツやお好み焼きを思い浮かべるかもしれない。特段に意図したのでもないが、今般は双方共に頂いた。時にはこういうのも好い。
「“ぼてっ”としたお好み焼きを“ぢゅうっ”と焼く」ということで<ぼてぢゅう>という店名になったという。1953(昭和28)年に創業したそうだ。
↓こんな具合に箸等が登場する。待つこと暫しという感じだ。
↓左から2番目が標準の“オリジナル”だ。左端が“甘口”で右側は“辛口”、“ピリ辛口”となって、計4種のソースから好みのモノを使う。
↑大阪辺りではソースについて、様々な種類のモノが出回って、各々に好みのソースを使うというような感じになっているようだ。
↓御願いしていた「ミックスモダン焼」が登場だ。
↑「モダン焼」と言う場合、「お好み焼き」に焼きそば麺が入る。相対的に「新しい」のが、焼きそば麺の入った「モダン焼」だ。老舗の<ぼてぢゅう>は、「発祥の店の一つ?」という説も在るらしい。
↓“ピリ辛口”のソースとマヨネーズを点けて「モダン焼」を頂いた。
↓ヘラで適当に切り分けた「モダン焼」を小皿に取って頂く。
「大阪で食べる…」とでも言えば、大阪以外の地域に在ると串カツやお好み焼きを思い浮かべるかもしれない。特段に意図したのでもないが、今般は双方共に頂いた。時にはこういうのも好い。
<大東洋>…(2023.12.31)
早朝、宿の朝食前の午前5時台に散策に出た。天神橋筋六丁目辺りから、概ね地下鉄谷町線の上に相当するような箇所をゆっくり歩けば、中崎町駅の出入口を経て、梅田地区というような辺りに15分要するか如何かという感じで辿り着いてしまう。
↓その「梅田の辺り…」に至ると、こういう看板が目に入る。
↓サウナ、浴場にカプセルホテルが在って、建物内にはレストランも在る場所だ。
↓サウナ、浴場については、カプセルホテル滞在以外に日帰りでの利用も可能だ。早朝時間帯限定で、日中から夜の通常料金より少し安くなっている。勿論、深夜料金の加算も無い。そういう訳で一寸利用してみたのだ。
出先で、ゆっくりとサウナを利用するのも心地好い。ここは各々に温度帯が違うサウナが3つ設えられている。非常に好かった。
利用して、少し明るくなった頃に戸外に出れば、看板の灯りは「消灯時間」になっていた。こういうような施設は、記憶に留めたい。
↓その「梅田の辺り…」に至ると、こういう看板が目に入る。
↓サウナ、浴場にカプセルホテルが在って、建物内にはレストランも在る場所だ。
↓サウナ、浴場については、カプセルホテル滞在以外に日帰りでの利用も可能だ。早朝時間帯限定で、日中から夜の通常料金より少し安くなっている。勿論、深夜料金の加算も無い。そういう訳で一寸利用してみたのだ。
出先で、ゆっくりとサウナを利用するのも心地好い。ここは各々に温度帯が違うサウナが3つ設えられている。非常に好かった。
利用して、少し明るくなった頃に戸外に出れば、看板の灯りは「消灯時間」になっていた。こういうような施設は、記憶に留めたい。
<曽根崎お初天神通り>…(2023.12.30)
夕刻に梅田辺り、大阪駅に近い地区を何となく歩き廻ってみた。
↓こういう様子に眼を奪われた。
↓商店街のアーケードに、文楽の人形が在る。これは『曽根崎心中』のヒロインである「お初」であるようだ。
『曽根崎心中』との関係で「お初天神」の通称で知られる「露天神社」(つゆのてんじんじゃ)が近くに在る辺りに、第2次大戦後に飲食店等が集まるようになった。そこが商店街となって行く。1964(昭和39)年には「曽根崎センター街」ということでアーケードが完成している。1986(昭和61)年に至り、アーケードを改修する契機に「曽根崎お初天神通り商店街」と名称を変更してげ現在に至っているのだそうだ。
↓何か慌ただしく通り過ぎたが、ゆっくりと散策してみたいような、独特な雰囲気が放たれていたようにも思った。
↓こういう様子に眼を奪われた。
↓商店街のアーケードに、文楽の人形が在る。これは『曽根崎心中』のヒロインである「お初」であるようだ。
『曽根崎心中』との関係で「お初天神」の通称で知られる「露天神社」(つゆのてんじんじゃ)が近くに在る辺りに、第2次大戦後に飲食店等が集まるようになった。そこが商店街となって行く。1964(昭和39)年には「曽根崎センター街」ということでアーケードが完成している。1986(昭和61)年に至り、アーケードを改修する契機に「曽根崎お初天神通り商店街」と名称を変更してげ現在に至っているのだそうだ。
↓何か慌ただしく通り過ぎたが、ゆっくりと散策してみたいような、独特な雰囲気が放たれていたようにも思った。
「ベルリンの壁」…:統国寺:大阪・天王寺(2024.01.01)
↓こういうモノが在る。
↓多少汚れて、落書等も見受けられるコンクリートの壁だ。
↓こういうような具合に置かれている。
↓置かれているモノが、かの「ベルリンの壁」である旨が示されている。
「大阪に“ベルリンの壁”が在る。持って来て置いて在る」というように聞き及んだので探してみたのだった。政治の状況等で、同法が分断され、“壁”まで建てた歴史を伝えようということなのかもしれない。
↓天王寺駅辺りの谷町筋を歩み、脇に入った辺りの寺に「ベルリンの壁」が在る。
辺りでは「韓国の御寺」で通っている様子だ。1969(昭和44)年に在日本朝鮮仏教徒協会の傘下ということになった寺である。朝鮮・韓国の仏教儀礼と伝統儀式を挙行しつつ、朝鮮・韓国・日本の差異を超えて仏教儀式・布教を幅広く行うという活動を続けているようだ。実際、朝鮮半島に由来の人達がこの寺に墓所を設けて御参りをするようなことをしている様子が伺える場所である。
↓長い伝統を有する寺で、貴重な文物も大切に受継がれている。
↓なかなかに味わい深い建物が在る。
↓境内に据えられた仏像も面白い。
↓境内にはこうしたモニュメントも在った。
↑朝鮮半島に由来で、身近な人達との縁が薄い死者を弔うというような活動をしている様子だが、そういう関係でこうしたモニュメントも登場したのだと察した。
↓建物の改修工事の竣工記念ということだが、独特なデザインの大きな瓦がモニュメントになって飾られていた。
↓色々と在るが「分断」という歴史に想いを巡らせる「ベルリンの壁」がさり気なく在るというのは貴重だ。駐車スペースというように利用された辺りの脇に、この「壁」は据えられていた。
↓多少汚れて、落書等も見受けられるコンクリートの壁だ。
↓こういうような具合に置かれている。
↓置かれているモノが、かの「ベルリンの壁」である旨が示されている。
「大阪に“ベルリンの壁”が在る。持って来て置いて在る」というように聞き及んだので探してみたのだった。政治の状況等で、同法が分断され、“壁”まで建てた歴史を伝えようということなのかもしれない。
↓天王寺駅辺りの谷町筋を歩み、脇に入った辺りの寺に「ベルリンの壁」が在る。
辺りでは「韓国の御寺」で通っている様子だ。1969(昭和44)年に在日本朝鮮仏教徒協会の傘下ということになった寺である。朝鮮・韓国の仏教儀礼と伝統儀式を挙行しつつ、朝鮮・韓国・日本の差異を超えて仏教儀式・布教を幅広く行うという活動を続けているようだ。実際、朝鮮半島に由来の人達がこの寺に墓所を設けて御参りをするようなことをしている様子が伺える場所である。
↓長い伝統を有する寺で、貴重な文物も大切に受継がれている。
↓なかなかに味わい深い建物が在る。
↓境内に据えられた仏像も面白い。
↓境内にはこうしたモニュメントも在った。
↑朝鮮半島に由来で、身近な人達との縁が薄い死者を弔うというような活動をしている様子だが、そういう関係でこうしたモニュメントも登場したのだと察した。
↓建物の改修工事の竣工記念ということだが、独特なデザインの大きな瓦がモニュメントになって飾られていた。
↓色々と在るが「分断」という歴史に想いを巡らせる「ベルリンの壁」がさり気なく在るというのは貴重だ。駐車スペースというように利用された辺りの脇に、この「壁」は据えられていた。
朝に…:新今宮駅の辺りで…(2024.01.02)
朝、JRの列車に乗って移動しようとしていた。新今宮駅が徒歩圏で利用し易いということに気付き、新今宮駅周辺へ歩を進めた。
↓そして振り返った。
↑明るくなって行く天を背後に、聳え立つ<あべのハルカス>が見える。暫し見入った。
大阪を離れることになった。例によって慌ただしい滞在ではあるが。「До свидания! Мой любимый город!」(ダ スヴィダーニヤ!モイ リュビームィー ゴーラド!)(再会の時迄!愛しき街よ!)というフレーズが頭に浮かんだ。ロシアの人気バンドの歌の歌詞に在るフレーズであるが。
「再会の時迄!愛しき街よ!」(До свидания! Мой любимый город!)ということで、何度も再会している大阪である。何時かまた…
↓そして振り返った。
↑明るくなって行く天を背後に、聳え立つ<あべのハルカス>が見える。暫し見入った。
大阪を離れることになった。例によって慌ただしい滞在ではあるが。「До свидания! Мой любимый город!」(ダ スヴィダーニヤ!モイ リュビームィー ゴーラド!)(再会の時迄!愛しき街よ!)というフレーズが頭に浮かんだ。ロシアの人気バンドの歌の歌詞に在るフレーズであるが。
「再会の時迄!愛しき街よ!」(До свидания! Мой любимый город!)ということで、何度も再会している大阪である。何時かまた…
通天閣の在る光景…(2024.01.01)
滞在した宿は、通天閣とあべのハルカスとの間位で、寧ろ通天閣に近い場所だった。最寄の地下鉄駅にはそんなイメージの壁画も据えられている。
そういう場所の宿に落ち着くと、「とりあえず通天閣を眺める」というようなことを思う。辺りはほんの少し勝手知っている(つもりになっている)ので、一寸様子を観に出た。
↓少しずつ暗くなって行く時間帯に辺りに至った。
↓照明が少しずつ目立つような感じになっている。
↓暗くなるに連れて加賀谷亜紀を増して行く感じだ。
↓通天閣を眺めるのが面白く、見上げると見える辺りを一回り歩いていた。
↓商店街からの眺めも好い。
↓この角度の眺望も悪くない。別な角度のような、辺りの店舗の過度な迄の装飾が在るでもなく、無骨なようで美しい通天閣のデザインが際立つような気がする。
何時の間にか、多少御無沙汰すると「そう言えば…観たい…」と感じる場合も生じるようになっている通天閣だ。今般は眺める機会を設けられて善かった。
そういう場所の宿に落ち着くと、「とりあえず通天閣を眺める」というようなことを思う。辺りはほんの少し勝手知っている(つもりになっている)ので、一寸様子を観に出た。
↓少しずつ暗くなって行く時間帯に辺りに至った。
↓照明が少しずつ目立つような感じになっている。
↓暗くなるに連れて加賀谷亜紀を増して行く感じだ。
↓通天閣を眺めるのが面白く、見上げると見える辺りを一回り歩いていた。
↓商店街からの眺めも好い。
↓この角度の眺望も悪くない。別な角度のような、辺りの店舗の過度な迄の装飾が在るでもなく、無骨なようで美しい通天閣のデザインが際立つような気がする。
何時の間にか、多少御無沙汰すると「そう言えば…観たい…」と感じる場合も生じるようになっている通天閣だ。今般は眺める機会を設けられて善かった。
天神橋筋六丁目駅周辺…(2024.01.01)
<あべのハルカス>を見上げた…(2024.01.01)
「何処に出る」を然程気にせずに「とりあえず…」と地下鉄の天王寺駅の出口から地上に上った。
↓こんな様子を仰ぎ見た。
↓歩を進める都度に見え方が少し変わる。高層建築を近くで見上げる場合は大概はそういうものでもあるとは思うが、それはそれとして面白い。
↓歩いた道路が谷町筋と交差する辺りに大きな歩道橋が交差点の辺りで環状の歩道を形成しているような場所が在る。その場所が<あべのハルカス>を仰ぎ見るには好適だと個人的には思っている。
↓「硝子の巨塔」という感だが、何か天に刺さるような感じでありながら、同時に天に包み込まれているかのようにも見える。天の様が壁面に映り込んでいるからだと思う。
↓2010年の着工で、百貨店部分が2013年に開業し、2014年に竣工して全面開業したという<あべのハルカス>である。300mの高さなのだという。
↓この<あべのハルカス>は「独立峰」のような存在感だ。超高層建築が林立しているというのでもない。圧倒的に群を抜く高さの<あべのハルカス>が目立つ。
時にはこういうモノを眺めるのも好い。
↓こんな様子を仰ぎ見た。
↓歩を進める都度に見え方が少し変わる。高層建築を近くで見上げる場合は大概はそういうものでもあるとは思うが、それはそれとして面白い。
↓歩いた道路が谷町筋と交差する辺りに大きな歩道橋が交差点の辺りで環状の歩道を形成しているような場所が在る。その場所が<あべのハルカス>を仰ぎ見るには好適だと個人的には思っている。
↓「硝子の巨塔」という感だが、何か天に刺さるような感じでありながら、同時に天に包み込まれているかのようにも見える。天の様が壁面に映り込んでいるからだと思う。
↓2010年の着工で、百貨店部分が2013年に開業し、2014年に竣工して全面開業したという<あべのハルカス>である。300mの高さなのだという。
↓この<あべのハルカス>は「独立峰」のような存在感だ。超高層建築が林立しているというのでもない。圧倒的に群を抜く高さの<あべのハルカス>が目立つ。
時にはこういうモノを眺めるのも好い。