「初おにぎり」というのをやっていて愉しんだのだったが、目立つ建物の独特な雰囲気も眺めて愉しんでいた。
↓何度見てもこの建物は面白い。
↓四条大橋の辺りで本当に目立つ。
何度見ても、カメラを提げていれば使ってしまう感じだ。
「ここは阪急電車」…(2025.01.01)
壁掛け…:祇園四条駅(2025.01.01)
祇園 <Music Bar CABARET>…(2024.12.30)
『トムとジェリー号』:京都河原町駅(2025.01.01)
四条通り・烏丸通り…(2024.12.30)
京都河原町駅周辺…(2024.12.30)
JR京都駅…(2024.12.30)
↓JR京都駅の真正面の出入口辺りだ。とにかく賑わっていた。
↓何度見ても独特な雰囲気が醸し出される空間だ。
京都駅に着いて宇治を往来した。やがて京都1泊を含めて関西に滞在したが、今般は京都駅は顧みる機会が殆ど無かった。
↓今般、出先で撮った写真の中、何度も京都に入った他方、京都駅の画が非常に少ないことに気付いた。
最近、大阪等と京都との間を動き回る場面が生じると、何となく阪急の列車を好んで使う傾向が在るような気もする。今般はそういう感じだった。
↓何度見ても独特な雰囲気が醸し出される空間だ。
京都駅に着いて宇治を往来した。やがて京都1泊を含めて関西に滞在したが、今般は京都駅は顧みる機会が殆ど無かった。
↓今般、出先で撮った写真の中、何度も京都に入った他方、京都駅の画が非常に少ないことに気付いた。
最近、大阪等と京都との間を動き回る場面が生じると、何となく阪急の列車を好んで使う傾向が在るような気もする。今般はそういう感じだった。
クラフトジンのロックにトゥペロチキンテンダー…:<HRC Kyoto>(2025.01.03)
池坊のいけばな作品…(2025.01.03)
六角堂=頂法寺:京都(2025.01.03)
一杯の珈琲…:八坂神社に近い路上にて(2025.01.01)
↓街でこの種の、カフェのメニューのようなモノが掲出されるのはよく見掛ける。
↓冬季に戸外でこういう具合に飲物が頂けるというのは、在るようで多くないかもしれないとも思った。
八坂神社の人込みを観て、境内に入って参拝をしようか否か迷ったが、結局参拝した。京都の地に鎮座するよく知られた<祇園社>の神々に、京都で過ごす機会が得られたこと、無事に過ごしていることについて、感謝の意を表したかったのだ。八坂神社には、街の東を護る<青龍>という役割も在る。やって来た京都で、街の東で動き回った御縁も少し嬉しい。
↓御店のロゴが在った。<GION COFFEE NANAFUKU>(ギオン コーヒー ナナフク)という。八坂神社の傍で2022年頃に開店したのだそうだ。
↓行き交う人達や通り過ぎる車輛を眺めながら、熱い<アメリカーノ>をゆっくりと啜る。出先の街に在りながら、地元に在る時以上に地元に居る時のような感覚を覚えるかもしれない。
↑結局、冬季でも晴天で、風が強くない中なので、戸外が意外に心地好いのであるが。
ほんの少しだけ「贅沢な時間」を愉しませて頂いた。
↓冬季に戸外でこういう具合に飲物が頂けるというのは、在るようで多くないかもしれないとも思った。
八坂神社の人込みを観て、境内に入って参拝をしようか否か迷ったが、結局参拝した。京都の地に鎮座するよく知られた<祇園社>の神々に、京都で過ごす機会が得られたこと、無事に過ごしていることについて、感謝の意を表したかったのだ。八坂神社には、街の東を護る<青龍>という役割も在る。やって来た京都で、街の東で動き回った御縁も少し嬉しい。
↓御店のロゴが在った。<GION COFFEE NANAFUKU>(ギオン コーヒー ナナフク)という。八坂神社の傍で2022年頃に開店したのだそうだ。
↓行き交う人達や通り過ぎる車輛を眺めながら、熱い<アメリカーノ>をゆっくりと啜る。出先の街に在りながら、地元に在る時以上に地元に居る時のような感覚を覚えるかもしれない。
↑結局、冬季でも晴天で、風が強くない中なので、戸外が意外に心地好いのであるが。
ほんの少しだけ「贅沢な時間」を愉しませて頂いた。
<東華菜館>の建物…(2025.01.03)
日本酒にチキンウィング…:<HRC Kyoto>(2025.01.01)
↓立寄ってTシャツを入手した経過は在ったが、食事を摂っていなかったので寄ってみた。
↓席に御案内頂いた。京都の御店は数年振りにオープンなのだが、それ以外の場所も含め、ハードロックカフェで食事を愉しむこと自体も少々御無沙汰していたことに思い至った。
↑「1月1日からご来店有難うございます」とでも言われれば「1日は暇やから寄れたというだけです」と混ぜ返し、笑いながら酒と料理を御願いする。
↓<平安四神>という銘酒を所望した。これは京都市内の嘗ての<聚楽第>の水が使われているという蔵の品物だ。スッキリした酒だ。朱雀、玄武、清流、白虎と四方位を守護する存在を総称して「四神」である。佳いモノが在る!
↓日本酒を御願いするとクリスタルな枡を頂いて使って持ち帰るということも出来るのだが、ストレートに枡は持ち帰ることにした。
↑酒は普通のグラスで普通に飲むのが好い。
↓こういうような雰囲気のカウンターに陣取り、酒と料理とを愉しむという感じが好い。
↓チキンウィングだ。確りと味が滲みた鶏肉を摘まむ。更にセロリも添えられている。意外に量感が在る。
↓食後にレモネードも頂いた。御店で毎日のように仕込むオリジナルなのだという。
京都の意外に佳いモノということになる銘酒が登場して、米国風な「アレって旨いよね…」の料理が在って、懐かしいような新しいような店内で、何年間かの空白期を経て京都に還って来た<HRC Kyoto>は好かった。「御気に入りの場所」が増えたことを歓迎したい。
↓席に御案内頂いた。京都の御店は数年振りにオープンなのだが、それ以外の場所も含め、ハードロックカフェで食事を愉しむこと自体も少々御無沙汰していたことに思い至った。
↑「1月1日からご来店有難うございます」とでも言われれば「1日は暇やから寄れたというだけです」と混ぜ返し、笑いながら酒と料理を御願いする。
↓<平安四神>という銘酒を所望した。これは京都市内の嘗ての<聚楽第>の水が使われているという蔵の品物だ。スッキリした酒だ。朱雀、玄武、清流、白虎と四方位を守護する存在を総称して「四神」である。佳いモノが在る!
↓日本酒を御願いするとクリスタルな枡を頂いて使って持ち帰るということも出来るのだが、ストレートに枡は持ち帰ることにした。
↑酒は普通のグラスで普通に飲むのが好い。
↓こういうような雰囲気のカウンターに陣取り、酒と料理とを愉しむという感じが好い。
↓チキンウィングだ。確りと味が滲みた鶏肉を摘まむ。更にセロリも添えられている。意外に量感が在る。
↓食後にレモネードも頂いた。御店で毎日のように仕込むオリジナルなのだという。
京都の意外に佳いモノということになる銘酒が登場して、米国風な「アレって旨いよね…」の料理が在って、懐かしいような新しいような店内で、何年間かの空白期を経て京都に還って来た<HRC Kyoto>は好かった。「御気に入りの場所」が増えたことを歓迎したい。
<鶴羽薬師堂>…(2025.01.01)
「初おにぎり」…(2025.01.01)
↓「1月1日の朝」と呼び得るような午前9時にもならない時間帯だ。四条大橋の辺り、<東華菜館>の建物の前辺りに人だかりが見えた。
↑様子を見ていると、何かを売っている様子だ。
↓街でおにぎりの御店を営んでいる方が「毎年の恒例」と1月1日に「初おにぎり」と称して販売しているようだ。
↓朝食をスルーして動き、京都に迄至ってしまったので、3つも求めてしまった。
↑「油揚おかか」、「鶏そぼろ」、「昆布」と、何処か京都風な感じだと勝手に思った3点を択んだ。
↓油揚と鰹が交った感じは「京都のおかず」という風情だった。
↓鶏そぼろの味が絶妙だ。
↓確り味が滲みた昆布を使っていた。
「おにぎり」というようなモノも、或いは「郷土の文化」という側面が在ると思う。期せずしてそういうモノに触れた感じだ。
↑様子を見ていると、何かを売っている様子だ。
↓街でおにぎりの御店を営んでいる方が「毎年の恒例」と1月1日に「初おにぎり」と称して販売しているようだ。
↓朝食をスルーして動き、京都に迄至ってしまったので、3つも求めてしまった。
↑「油揚おかか」、「鶏そぼろ」、「昆布」と、何処か京都風な感じだと勝手に思った3点を択んだ。
↓油揚と鰹が交った感じは「京都のおかず」という風情だった。
↓鶏そぼろの味が絶妙だ。
↓確り味が滲みた昆布を使っていた。
「おにぎり」というようなモノも、或いは「郷土の文化」という側面が在ると思う。期せずしてそういうモノに触れた感じだ。
京都河原町駅…(2025.01.01)
四条駅周辺案内図…(2024.12.31)
<HRC Kyoto>でTシャツを入手…(2024.12.30)
↓四条通で四条大橋を渡った辺り、少し東にやって来た。
↑<HRC Kyoto>が甦った。普通のビルに入居し、上階が飲食をするカフェで、下階はグッズを売るショップだ。
<HRC Kyoto>とでも言えば、以前の御店で入手していたTシャツを大事に使っていて、時折それを写真に撮るという様子だった。が、今般はグッズのショップのみではなく、カフェもオープンしたということだった。思わずTシャツを新たに求めた。
↓「京都店グランドオープン」ということで用意されたモノを入手した。
↓胸の側はシンプルデザインだと思った。
↓伏見稲荷大社に着想を得たかのような、「京都的?」な画を使っている。
↓これも胸の側はスッキリしている。
↓他店では赤は余り使わないらしい。赤い地に楽器を弾く女性だ。
↓こちらも胸の側はシンプルである。
京都で「新たな御気に入り」が入手可能となった。それが何やら嬉しい。
↑<HRC Kyoto>が甦った。普通のビルに入居し、上階が飲食をするカフェで、下階はグッズを売るショップだ。
<HRC Kyoto>とでも言えば、以前の御店で入手していたTシャツを大事に使っていて、時折それを写真に撮るという様子だった。が、今般はグッズのショップのみではなく、カフェもオープンしたということだった。思わずTシャツを新たに求めた。
↓「京都店グランドオープン」ということで用意されたモノを入手した。
↓胸の側はシンプルデザインだと思った。
↓伏見稲荷大社に着想を得たかのような、「京都的?」な画を使っている。
↓これも胸の側はスッキリしている。
↓他店では赤は余り使わないらしい。赤い地に楽器を弾く女性だ。
↓こちらも胸の側はシンプルである。
京都で「新たな御気に入り」が入手可能となった。それが何やら嬉しい。
平等院…宇治…(2024.12.30)
京都タワーを見上げる…(2024.12.30)
<青春18きっぷ> 12月26日‐12月30日 (2024.12.30)
新しいルールの<青春18きっぷ>を入手して使用した。自動改札機を潜るようになっていて、「1日乗車券」のような感じだ。それを5日間使う。
↓12月30日迄使った状態の<青春18きっぷ>だ。自動改札を潜るが、それはそれとして駅で「下車印」を御願いしていた。
乗車した経過を振り返っておく。
12月26日
札幌・新千歳空港
浜松町・秋葉原・飯田橋
飯田橋・秋葉原・鶯谷
鶯谷・東京
東京・御徒町
御徒町・鶯谷
12月27日
鶯谷・神田・国分寺・国立
国立・豊田
豊田・大月
大月・甲府
甲府・小淵沢・松本
12月28日
松本・奈良井
奈良井・塩尻
塩尻・松本
12月29日
松本・塩尻
塩尻・中津川
中津川・名古屋
(名古屋・米原=新幹線)
米原・彦根
12月30日
彦根・京都
京都・宇治
宇治・京都
↓こういうのも「オプション」にしてしまった訳だ。
キツい程度に乗車するのでもなく、寧ろ「自然体」で利用していた。「甲州街道から中山道に入って、江戸(東京)から京都」という感じだったと思う。
時にはこういう旅が好い。
↓12月30日迄使った状態の<青春18きっぷ>だ。自動改札を潜るが、それはそれとして駅で「下車印」を御願いしていた。
乗車した経過を振り返っておく。
12月26日
札幌・新千歳空港
浜松町・秋葉原・飯田橋
飯田橋・秋葉原・鶯谷
鶯谷・東京
東京・御徒町
御徒町・鶯谷
12月27日
鶯谷・神田・国分寺・国立
国立・豊田
豊田・大月
大月・甲府
甲府・小淵沢・松本
12月28日
松本・奈良井
奈良井・塩尻
塩尻・松本
12月29日
松本・塩尻
塩尻・中津川
中津川・名古屋
(名古屋・米原=新幹線)
米原・彦根
12月30日
彦根・京都
京都・宇治
宇治・京都
↓こういうのも「オプション」にしてしまった訳だ。
キツい程度に乗車するのでもなく、寧ろ「自然体」で利用していた。「甲州街道から中山道に入って、江戸(東京)から京都」という感じだったと思う。
時にはこういう旅が好い。
京都タワーを見上げる…(2023.12.28)
鴨川デルタ…(2023.12.28)
出町柳駅の周辺を動き廻り、遅めな昼食を愉しみ、そこから移動しようとしていた。
↓眼に留まった光景だ。賀茂川と高野川の合流地点の三角地帯というような辺りである。
↑川に何となく人々が集まって、各々に身体を動かす、寛ぐというような具合に過ごしている。
所謂「鴨川デルタ」である。京都府立鴨川公園の一部ということだが、1990年代位に辺りの一部の学生等の間で「デルタ」という「三角州」を意味する呼び方が起こり、アニメ化されてヒットした小説作品の作中人物が使った用語ということで人口に膾炙するようになったと言われているようだ。古い時代には「糺河原」(ただすがわら)というような呼び方―近くの下賀茂神社の辺りに「糺の森」(ただすのもり)という場所も在る―が在って、比較的近年でも辺りの人達は単に「三角州」と称するような感じだったようだ。
↓1993年に設置されたという飛び石を伝っている人達の姿が覗く。この時は天の雲の感じ、光の加減が少し面白かった。
↓眼に留まった光景だ。賀茂川と高野川の合流地点の三角地帯というような辺りである。
↑川に何となく人々が集まって、各々に身体を動かす、寛ぐというような具合に過ごしている。
所謂「鴨川デルタ」である。京都府立鴨川公園の一部ということだが、1990年代位に辺りの一部の学生等の間で「デルタ」という「三角州」を意味する呼び方が起こり、アニメ化されてヒットした小説作品の作中人物が使った用語ということで人口に膾炙するようになったと言われているようだ。古い時代には「糺河原」(ただすがわら)というような呼び方―近くの下賀茂神社の辺りに「糺の森」(ただすのもり)という場所も在る―が在って、比較的近年でも辺りの人達は単に「三角州」と称するような感じだったようだ。
↓1993年に設置されたという飛び石を伝っている人達の姿が覗く。この時は天の雲の感じ、光の加減が少し面白かった。
新風館…(2023.12.29)
↓何か、少し古くからの歴史を誇る大学か何かの建物を想わせる雰囲気だ。
↓南北に延びる烏丸通と東西に延びる御池通が交差する辺りの地下鉄の烏丸御池駅から少し南側、御池通と三条通との間辺りというような場所に建っている建物だ。
この建物は1926年に竣工し、1931年に増築されたという「京都中央電話局」である。「電話局」の名のとおり電話交換業務が行われる場所であったそうだ。やがてNTTの前身である電電公社が利用していた。その後、改築されて<新風館>という商業施設となり、2001年から2016年迄営業した。2020年に再度の改築で、商業施設として開業して現在に至っている。
↓地下2階、地上7階で高さは31mも在るそうだ。
↓「中庭」というような設えの場所も在って、面白い場所だ。
現在は各種の小売店やカフェ、そしてホテルが入っている。京都では何度か立寄っている。少し雰囲気が好い場所だ。
↓南北に延びる烏丸通と東西に延びる御池通が交差する辺りの地下鉄の烏丸御池駅から少し南側、御池通と三条通との間辺りというような場所に建っている建物だ。
この建物は1926年に竣工し、1931年に増築されたという「京都中央電話局」である。「電話局」の名のとおり電話交換業務が行われる場所であったそうだ。やがてNTTの前身である電電公社が利用していた。その後、改築されて<新風館>という商業施設となり、2001年から2016年迄営業した。2020年に再度の改築で、商業施設として開業して現在に至っている。
↓地下2階、地上7階で高さは31mも在るそうだ。
↓「中庭」というような設えの場所も在って、面白い場所だ。
現在は各種の小売店やカフェ、そしてホテルが入っている。京都では何度か立寄っている。少し雰囲気が好い場所だ。
烏丸御池駅…(2023.12.29)
↓地下鉄駅の通路というモノは、何処であっても独特な“雰囲気”が在る。
↑京都の街を行き交う地下鉄は烏丸線と東西線との2路線だが、両路線が交差する乗換駅が烏丸御池駅だ。
↓「埋蔵文化財」について紹介している銘板が在った。
↑長い歴史を経ていて、様々なモノが土中に埋まっているという京都だ。「地下鉄工事」となると、そういう埋まっているモノの中に混じる「文化財」の調査が必要で、なかなかに苦労が多かったらしい。
何となく思ったのは、「埋蔵文化財」そのものも大切だが、「発掘調査のようなことをしながら工事を進めた地下鉄」という「歴史」が興味深い。何処の地域でも、地下を掘れば意外なモノが出て来る場合は多かろうが、京都は格別であるように思える。
各地でこういう様子に触れるのも興味深い。
↑京都の街を行き交う地下鉄は烏丸線と東西線との2路線だが、両路線が交差する乗換駅が烏丸御池駅だ。
↓「埋蔵文化財」について紹介している銘板が在った。
↑長い歴史を経ていて、様々なモノが土中に埋まっているという京都だ。「地下鉄工事」となると、そういう埋まっているモノの中に混じる「文化財」の調査が必要で、なかなかに苦労が多かったらしい。
何となく思ったのは、「埋蔵文化財」そのものも大切だが、「発掘調査のようなことをしながら工事を進めた地下鉄」という「歴史」が興味深い。何処の地域でも、地下を掘れば意外なモノが出て来る場合は多かろうが、京都は格別であるように思える。
各地でこういう様子に触れるのも興味深い。
六孫王神社…(2023.12.29)
JRまたは近鉄の京都駅で昼食を愉しんだ後に戸外へ出れば、駅の南西寄りな辺りに在った。「JR京都駅」については、京都タワーが視易い側が北寄りで、反対側は南寄りだ。更にその南北の後に東西を考えるような感じだと個人的には思う。昼食を愉しんだ辺りは、近鉄の列車が発着するやや西寄りな辺りから地上に降りたような、少し西寄りな辺りであった。
↓その京都駅の南西寄りな辺りを少し西側へ進むとこういうようなモノに行き当たる。
↑「六孫王神社」は「ろくそんのうじんじゃ」と読む。
「六孫王」とは源経基(生年不詳―961年)という人物のことであるという。他界した時は45歳であったとも伝えられる。
源経基は清和天皇の第6皇子の子であり、皇族として「六孫王」と称していて、後に臣籍に下って源姓を賜って源経基と名乗ったのだという。源経基は、所謂「清和源氏」の始祖とされる。
↓鳥居や社殿が見える辺りに歩を進めた。
↓無事のここを訪ねられたことに感謝の意を評しながら参拝した。
↓清和源氏の始祖を祀った神社で、何か「強い力」というような何かを感じる場所でもあった。
↓参拝して御朱印を頂いた。右の頁である。
何か「“貴族”としての“武家”」という独自な存在感を示していた源氏の一族の根源を感じさせるような神社であると感じた。この種の場所に寄ってみるのは興味深いものだ。
↓その京都駅の南西寄りな辺りを少し西側へ進むとこういうようなモノに行き当たる。
↑「六孫王神社」は「ろくそんのうじんじゃ」と読む。
「六孫王」とは源経基(生年不詳―961年)という人物のことであるという。他界した時は45歳であったとも伝えられる。
源経基は清和天皇の第6皇子の子であり、皇族として「六孫王」と称していて、後に臣籍に下って源姓を賜って源経基と名乗ったのだという。源経基は、所謂「清和源氏」の始祖とされる。
↓鳥居や社殿が見える辺りに歩を進めた。
↓無事のここを訪ねられたことに感謝の意を評しながら参拝した。
↓清和源氏の始祖を祀った神社で、何か「強い力」というような何かを感じる場所でもあった。
↓参拝して御朱印を頂いた。右の頁である。
何か「“貴族”としての“武家”」という独自な存在感を示していた源氏の一族の根源を感じさせるような神社であると感じた。この種の場所に寄ってみるのは興味深いものだ。
粟田神社…(2023.12.29)
「京の七口」と呼ばれるモノが在る。厳格に定まっているのでもないが、京都と他地域とを結ぶ経路の出入口となっている場所を指し示す。“鞍馬口”、“大原口”、“荒神口”、“粟田口”、“竹田口”、“丹波口”、“長坂口”等がそうした場所として知られている。
“粟田口”は三条通に面していて、近世の東海道や中山道に通じる道筋であったのだが、古くから関も設けられていて「粟田口」という呼び方が在ったという。
↓その“粟田口”に粟田神社は在る。
↓青蓮院門跡に近い辺りに鎮座する神社ということにもなる。
↓石段と坂道を合わせたような場所を上って参拝する。
↓立派な御神馬も在る。
↓古くから「旅立ちの神」ともされるのが、この粟田神社であるらしい。
↓粟田神社と、辺りで活動した刀鍛冶に関する神社の御朱印を合わせて頂いた。
この粟田神社は、青蓮院を訪ねた際に「近くに少し大きな神社…」と気付いて立寄った場所だ。出くわして善かったと思う。社寺が多い地域では、こういう「半ば偶然の出会い」が多いように思うが、そういうのも好いと思う。
“粟田口”は三条通に面していて、近世の東海道や中山道に通じる道筋であったのだが、古くから関も設けられていて「粟田口」という呼び方が在ったという。
↓その“粟田口”に粟田神社は在る。
↓青蓮院門跡に近い辺りに鎮座する神社ということにもなる。
↓石段と坂道を合わせたような場所を上って参拝する。
↓立派な御神馬も在る。
↓古くから「旅立ちの神」ともされるのが、この粟田神社であるらしい。
↓粟田神社と、辺りで活動した刀鍛冶に関する神社の御朱印を合わせて頂いた。
この粟田神社は、青蓮院を訪ねた際に「近くに少し大きな神社…」と気付いて立寄った場所だ。出くわして善かったと思う。社寺が多い地域では、こういう「半ば偶然の出会い」が多いように思うが、そういうのも好いと思う。
青蓮院門跡…(2023.12.29)
何度か辺りを通り過ぎていて、訪ねてみた経過は無い。そういう場所が気になれば、何とか機会を設けて訪ねてみたくなる。
↓そういう訳で訪ねてみた場所だ。
「門跡」というのは、皇族や摂関家等の身分が非常に高い家の子弟が入って代表というような地位に就く寺を指し示す表現である。比叡山の中に在った僧房に起源を持つとされる青蓮院もそうした「門跡」の一つだ。
1150年頃に現在の場所で鳥羽上皇の祈願所の一つとしての位置を固めて「門跡」というようになって行ったようだ。時代が下って、1788(天明8)年に大きな火災が在った際、当時の後桜町上皇の仮の仙洞御所が青蓮院に置かれた経過が在り、地名に因んで「粟田御所」とも呼ばれているそうだ。因みに後桜町上皇は、2023年現在、「女性の天皇」の「最後の例」ということになるようだ。
↓こうした史跡をゆっくりと拝観する、参拝するというようなことは興味深いものだ。
↓建物の改修等も行われ、史跡を、貴重な旧い建物を後世に伝える努力が重ねられている。
↓写真撮影は原則的に認めていないという様子も伺える屋内を見学し、庭の側に出てみた。
↓この種の竹林は北海道では見受けられないので一寸注目する。
↓境内や辺りの楠は「青蓮院の楠」として少し知られている。
↓これはやや驚く。
↓鐘楼の鐘を随意に撞いて構わないことになっている。
実は殆ど開門と同時に青蓮院門跡に入った。施設管理の仕事に携わっている方が「お待たせしました…」と開門して、来訪者に声を掛けている。自身も話し掛けられたが、「中へ入られるなら鐘に注目して頂きたい。京都の数在る古刹で鐘を随意に撞いて構わないことになっている例は殆ど無い」と御紹介頂いた。「有難うございます!」と中に入って見学したが、なるほど、随意に撞いて構わないことになっている。
↓こういうように注意書きは在った。出鱈目に鐘を鳴らすものでもない…
自身が無事に京都へ至ってゆったりと過ごしていることに感謝の意を表しながら、仏の心で不穏な世界情勢が安定するようにというようなことを祈りながら、慎重に金を撞いてみた。大きな反響の音も響く様子を聞いて、手を合わせて祈った。
「青蓮院」という名に関しては、幕末の歴史に登場する中川宮が青蓮院に在って「青蓮院宮」とも呼ばれたというようなことが記憶に残っていて、場所に少し興味が在った。そういうことで、ここを訪ねられて善かったと思う。
地下鉄東山駅から近い、訪ね易い場所でもあるので、また訪ねてみたいというように思う。
↓そういう訳で訪ねてみた場所だ。
「門跡」というのは、皇族や摂関家等の身分が非常に高い家の子弟が入って代表というような地位に就く寺を指し示す表現である。比叡山の中に在った僧房に起源を持つとされる青蓮院もそうした「門跡」の一つだ。
1150年頃に現在の場所で鳥羽上皇の祈願所の一つとしての位置を固めて「門跡」というようになって行ったようだ。時代が下って、1788(天明8)年に大きな火災が在った際、当時の後桜町上皇の仮の仙洞御所が青蓮院に置かれた経過が在り、地名に因んで「粟田御所」とも呼ばれているそうだ。因みに後桜町上皇は、2023年現在、「女性の天皇」の「最後の例」ということになるようだ。
↓こうした史跡をゆっくりと拝観する、参拝するというようなことは興味深いものだ。
↓建物の改修等も行われ、史跡を、貴重な旧い建物を後世に伝える努力が重ねられている。
↓写真撮影は原則的に認めていないという様子も伺える屋内を見学し、庭の側に出てみた。
↓この種の竹林は北海道では見受けられないので一寸注目する。
↓境内や辺りの楠は「青蓮院の楠」として少し知られている。
↓これはやや驚く。
↓鐘楼の鐘を随意に撞いて構わないことになっている。
実は殆ど開門と同時に青蓮院門跡に入った。施設管理の仕事に携わっている方が「お待たせしました…」と開門して、来訪者に声を掛けている。自身も話し掛けられたが、「中へ入られるなら鐘に注目して頂きたい。京都の数在る古刹で鐘を随意に撞いて構わないことになっている例は殆ど無い」と御紹介頂いた。「有難うございます!」と中に入って見学したが、なるほど、随意に撞いて構わないことになっている。
↓こういうように注意書きは在った。出鱈目に鐘を鳴らすものでもない…
自身が無事に京都へ至ってゆったりと過ごしていることに感謝の意を表しながら、仏の心で不穏な世界情勢が安定するようにというようなことを祈りながら、慎重に金を撞いてみた。大きな反響の音も響く様子を聞いて、手を合わせて祈った。
「青蓮院」という名に関しては、幕末の歴史に登場する中川宮が青蓮院に在って「青蓮院宮」とも呼ばれたというようなことが記憶に残っていて、場所に少し興味が在った。そういうことで、ここを訪ねられて善かったと思う。
地下鉄東山駅から近い、訪ね易い場所でもあるので、また訪ねてみたいというように思う。
七条大橋…(2023.12.28)
JRの京都駅に着いた後、京阪電車に乗ろうと七条へ向かった。
↓京阪電車の七条駅は地下だ。地下との間で出入りする階段の傍、川に大きな橋が架かっている。
↑1911(明治44)年着工で1913(大正2)年竣工の七条大橋である。
↓長さが82mで幅は18mであるという。嘗ては、この橋の上を路面電車が走っていたということだ。
↑早目に陽が傾く、この時季ならではの光が好い感じだと思った。
「コンクリート橋梁」としては、日本国内では早い時期に登場したモノと見受けられる。着工、竣工の当時の「最新」のモノである。「京都」というのは「時代毎の“最新”」が幾重にも折重なっている場所なのだと思う。こういう明治末期の橋梁もそうした事例の一つだと思う。
こういう橋梁を造る技術を応用し、稚内港北防波堤ドームが造られたという経過も聞くので、この橋梁を眺めるのは興味深い。京都に立寄って、時間が少し在ると、一寸眺めてみたくなる場所だ。
↓京阪電車の七条駅は地下だ。地下との間で出入りする階段の傍、川に大きな橋が架かっている。
↑1911(明治44)年着工で1913(大正2)年竣工の七条大橋である。
↓長さが82mで幅は18mであるという。嘗ては、この橋の上を路面電車が走っていたということだ。
↑早目に陽が傾く、この時季ならではの光が好い感じだと思った。
「コンクリート橋梁」としては、日本国内では早い時期に登場したモノと見受けられる。着工、竣工の当時の「最新」のモノである。「京都」というのは「時代毎の“最新”」が幾重にも折重なっている場所なのだと思う。こういう明治末期の橋梁もそうした事例の一つだと思う。
こういう橋梁を造る技術を応用し、稚内港北防波堤ドームが造られたという経過も聞くので、この橋梁を眺めるのは興味深い。京都に立寄って、時間が少し在ると、一寸眺めてみたくなる場所だ。