↓宇品を歩き廻って見掛けた…往年の駅の看板を意識したようなデザインで、中に辺りの歴史を紹介するような情報が書き込まれている…
広島駅と宇品駅との間に鉄路が在って、貨物、旅客の各種列車が、年代毎に運行または休止を繰り返していて、やがて完全に廃止されて道路として整備されたという経過が在る。その「鉄路の痕跡?」が感じられるような道路の一隅に、この「しもたんな」という看板は在った。
輸送、物流という分野で大きな存在感を示し、そして普通の道路網の一部になったという経過…色々な地域で見受けられる例だとも思うが、広島でそういう場所に出くわしたのは非常に興味深かった…
<株式会社 広島東洋カープ 宇品クリーニング工場>…(2021.12.23)
広島で「宇品」と言うと、古くから「港や倉庫や工場や、周辺の色々なモノや…」というイメージなのだと思う。そんな辺りを歩き廻ってみた…
↓何か「工場?倉庫?」という建物が眼に留まった…
↓「何の建物?」と敷地入口辺りの表示を視ると<株式会社 広島東洋カープ 宇品クリーニング工場>と在った…
↑勿論、用等は無いのでインターフォンは押さないが…こうやって、さり気なく関係施設が佇んでいるという様子に「市民球団」というようなことも感じる…
プロ野球の広島カープの選手や監督コーチが来ているユニフォームや、その他の必要なモノに関してクリーニングをしている場所だった!?一寸驚いた…
地元のスポーツ観戦好きな方達の中で、あの広島カープに関してはチーム愛称の「Carp」が前面に出るのが当然であるようである。が、自身としては彼らが他チームの本拠地に乗込む場面で着用するユニフォームの「Hiroshima」と本拠地都市の名が記されたユニフォームの感じが何となく好いように思う。宇品で偶々見掛けた工場で、その「Hiroshima」というロゴの赤のユニフォームも含めて、奮戦を続ける選手や監督コーチが着用するモノを綺麗な状態に整えている訳である。
何か…「街の最も重要な場所の一つ」をフラフラ歩きながら眺めてしまったというような感でもある…
↓何か「工場?倉庫?」という建物が眼に留まった…
↓「何の建物?」と敷地入口辺りの表示を視ると<株式会社 広島東洋カープ 宇品クリーニング工場>と在った…
↑勿論、用等は無いのでインターフォンは押さないが…こうやって、さり気なく関係施設が佇んでいるという様子に「市民球団」というようなことも感じる…
プロ野球の広島カープの選手や監督コーチが来ているユニフォームや、その他の必要なモノに関してクリーニングをしている場所だった!?一寸驚いた…
地元のスポーツ観戦好きな方達の中で、あの広島カープに関してはチーム愛称の「Carp」が前面に出るのが当然であるようである。が、自身としては彼らが他チームの本拠地に乗込む場面で着用するユニフォームの「Hiroshima」と本拠地都市の名が記されたユニフォームの感じが何となく好いように思う。宇品で偶々見掛けた工場で、その「Hiroshima」というロゴの赤のユニフォームも含めて、奮戦を続ける選手や監督コーチが着用するモノを綺麗な状態に整えている訳である。
何か…「街の最も重要な場所の一つ」をフラフラ歩きながら眺めてしまったというような感でもある…
早朝のショーウィンドー…:広島(2021.12.23)
<海色の歴史回廊 くれ>…(2021.12.22)
↓呉駅の辺りで見掛けた…
↑往年の海軍工廠に源を有するモノ等、様々な造船所が在る呉だ。船を象徴するような大きなスクリューを「街の中のオブジェ」というように配するというのは面白いと思う。
時々思う。稚内の近海で活躍している船の中にも、暮れから然程遠くないような、瀬戸内海地域の造船業が盛んな地域で建造された船が多々在る筈だ。北海道内には、広島県辺りから移り住んだ人達が開いたとされるような地域も見受けられるが、そういう古いことに留まらず、現在でも「存外に強い御縁?」ということになるのではないか?少し前には、プロ野球の<日本シリーズ>で広島を本拠地にするカープが北海道のファイターズと対戦するということが在って、広島県方面の皆さんが多く北海道に上陸したということもあったようだが…そういうことも含めた、地域間の交流がもっと在っても好いような気がする。
こういう「オブジェ?」というような、「何となく撮った写真」が、少し時間を経ると酷く愛おしくなってしまうものだ。
↑往年の海軍工廠に源を有するモノ等、様々な造船所が在る呉だ。船を象徴するような大きなスクリューを「街の中のオブジェ」というように配するというのは面白いと思う。
時々思う。稚内の近海で活躍している船の中にも、暮れから然程遠くないような、瀬戸内海地域の造船業が盛んな地域で建造された船が多々在る筈だ。北海道内には、広島県辺りから移り住んだ人達が開いたとされるような地域も見受けられるが、そういう古いことに留まらず、現在でも「存外に強い御縁?」ということになるのではないか?少し前には、プロ野球の<日本シリーズ>で広島を本拠地にするカープが北海道のファイターズと対戦するということが在って、広島県方面の皆さんが多く北海道に上陸したということもあったようだが…そういうことも含めた、地域間の交流がもっと在っても好いような気がする。
こういう「オブジェ?」というような、「何となく撮った写真」が、少し時間を経ると酷く愛おしくなってしまうものだ。
<海軍さんの珈琲>:昴珈琲店:呉(2021.12.22)
早朝の岡山駅で列車に乗込み、広島駅を目指したのだったが、敢えて車窓を愉しみながら呉線を経由して呉に立寄った。
辿り着いた呉で街を漫然と歩き始めた。港と共に起り、発展したというような感の、独特な雰囲気を帯びた街だと思うのだが、「冬の好天の日」という感じで、温かく快適とは行かないものの「歩き廻っても汗ばまない感じ」というのが好ましいかもしれないという程度に思いながら歩いた。
↓こんな様子に出くわした。地元の信用金庫の本店と見受けられる建物や、様々な商店や、何かのオフィスのビルが在るような一画だ…
↑「海軍さん」が酷く目立つ…
「アレを売っている店…」と一定程度知られていて、店側でもそれを少し前面に押し出したいというような様子…“看板商品”と謂う訳だが、<海軍さんの珈琲>はここの店の正しく“看板商品”となっている。
↓商店街の角の、かなり目立つ場所に「海軍さん」が“看板商品”として掲出されている。
現在では珈琲豆を焙煎したモノを中心に売っている会社、店舗ということになる昴珈琲店であるが、1950年代に店を興した頃には喫茶店も営業していたという。その喫茶店で「あの戦艦<大和>では凄く美味い珈琲が飲まれていたそうだ…」という話しになって、「戦艦<大和>で飲まれた?如何いう珈琲か?」と再現してみようということになったのだそうだ。
“海軍”と言えば、軍艦の中や港の施設で洋食に着想を得た料理を全国各地から入隊して働いていた将兵に供していて、そういう料理が全国各地に拡がったというようなことを聞いた記憶が在る。そんな流れかもしれないが、古くは海軍士官が国外に研修に出るような話しも多々在ったようで、そういう経験もした人達が洋酒や珈琲や紅茶を嗜む習慣を持ち込んで、将兵の間に受継がれていたというようなことも在ったのかもしれない。かなり高級な幹部となる“提督”と呼ばれた人達から、新米の水兵まで大勢が乗務したという大きな戦艦の中なら、色々と美味い料理や飲物が在ったかもしれない…そういうように素朴に思う。
昴珈琲店では「<大和>を擁した海軍が、如何いう珈琲豆を入手していたのか?」というようなことや、「1940年代の焙煎?」というようなことを色々と推定し、呉の街では多く見受けられたという海軍経験者に試飲願う等して「こういう感じ!」というモノに行き当たったのだという。それが<海軍さんの珈琲>だという。
↓昴珈琲店に入ってみた。<海軍さんの珈琲>も含めて、多様なブレンドを手掛けているようだ。
商店街の角の目立つ場所で、文字どおりに“看板商品”として掲出されている<海軍さんの珈琲>を求めてみようと思い立ち、御店の方に御願いした。自身、拙宅の居室で頂く珈琲は“豆”で求め、それを使う分だけ挽いてハンドドリップで淹れる。そこで“豆”の状態で<海軍さんの珈琲>を求めてみたかった訳だ。
↓珈琲豆を計量してパッキングするのを待つ間、用意して在ったブレンド珈琲を勧めて頂いた。これもなかなかに好い感じだった。
↓呉の店で「真空パック」となった<海軍さんの珈琲>だ。確りと拙宅に送り込み、大事に保管した訳だ。
↓使い易いように豆を容器に開けた。「1940年代の焙煎?」と再現を試みたということになるのであろうが、「キツい焙煎」というように見受けられる。或いは?1930年代に起こった焙煎の感じを受継ぐという<大阪ストロング>に通じるかもしれない。が、だからと言って<大阪ストロング>のように「極端?」とも思い悪い。
恐らく…海軍の軍艦の中で珈琲が嗜まれたとするなら、手で回して豆を挽く道具で適当に挽いて、それをハンドドリップで淹れてというように頂いたのだと推定する。そういうことで、普段はグラインダーで18秒挽いているとした場合、敢えて14秒にしてみるというような細かい工夫で、少し粗目に挽く。焙煎がキツい関係上、余り細かく挽くと「渋い??」となってしまうかもしれない。そんなことを思えば、包の中に「細かく挽き過ぎると渋味が強くなり過ぎる場合が在る」と「粗目な挽き方が好い」という旨のアドバイスが書かれた紙片も入っていた。
そんな訳で試してみたのだが、これが好みに合った。香ばしく苦いという感じの奥に珈琲の味の幾つかの要素が滲むというような感じだと思う。なるほど「戦艦<大和>のような軍艦の中で嗜まれた珈琲?」という具合だ。恐らく、1930年代辺りのキツい焙煎の傾向の影響で、ややキツい焙煎であったと思われるのが、1940年代前半の傾向であろう。が…この位の時代には、珈琲豆は余り広く出回らなかったということでもあったとも思う…
何れにしても、遠い時代の人達が嗜んだかもしれない味に想いを巡らせ、ゆったりと好みの飲物を頂いて寛ぐというのは好い。そして、この珈琲を入手した呉の店も想い出深い場所となった。
※珈琲豆の写真は稚内の拙宅で撮っているが、呉の店の想い出という内容でもなる訳で、記事は「広島県」のカテゴリに分類する。
辿り着いた呉で街を漫然と歩き始めた。港と共に起り、発展したというような感の、独特な雰囲気を帯びた街だと思うのだが、「冬の好天の日」という感じで、温かく快適とは行かないものの「歩き廻っても汗ばまない感じ」というのが好ましいかもしれないという程度に思いながら歩いた。
↓こんな様子に出くわした。地元の信用金庫の本店と見受けられる建物や、様々な商店や、何かのオフィスのビルが在るような一画だ…
↑「海軍さん」が酷く目立つ…
「アレを売っている店…」と一定程度知られていて、店側でもそれを少し前面に押し出したいというような様子…“看板商品”と謂う訳だが、<海軍さんの珈琲>はここの店の正しく“看板商品”となっている。
↓商店街の角の、かなり目立つ場所に「海軍さん」が“看板商品”として掲出されている。
現在では珈琲豆を焙煎したモノを中心に売っている会社、店舗ということになる昴珈琲店であるが、1950年代に店を興した頃には喫茶店も営業していたという。その喫茶店で「あの戦艦<大和>では凄く美味い珈琲が飲まれていたそうだ…」という話しになって、「戦艦<大和>で飲まれた?如何いう珈琲か?」と再現してみようということになったのだそうだ。
“海軍”と言えば、軍艦の中や港の施設で洋食に着想を得た料理を全国各地から入隊して働いていた将兵に供していて、そういう料理が全国各地に拡がったというようなことを聞いた記憶が在る。そんな流れかもしれないが、古くは海軍士官が国外に研修に出るような話しも多々在ったようで、そういう経験もした人達が洋酒や珈琲や紅茶を嗜む習慣を持ち込んで、将兵の間に受継がれていたというようなことも在ったのかもしれない。かなり高級な幹部となる“提督”と呼ばれた人達から、新米の水兵まで大勢が乗務したという大きな戦艦の中なら、色々と美味い料理や飲物が在ったかもしれない…そういうように素朴に思う。
昴珈琲店では「<大和>を擁した海軍が、如何いう珈琲豆を入手していたのか?」というようなことや、「1940年代の焙煎?」というようなことを色々と推定し、呉の街では多く見受けられたという海軍経験者に試飲願う等して「こういう感じ!」というモノに行き当たったのだという。それが<海軍さんの珈琲>だという。
↓昴珈琲店に入ってみた。<海軍さんの珈琲>も含めて、多様なブレンドを手掛けているようだ。
商店街の角の目立つ場所で、文字どおりに“看板商品”として掲出されている<海軍さんの珈琲>を求めてみようと思い立ち、御店の方に御願いした。自身、拙宅の居室で頂く珈琲は“豆”で求め、それを使う分だけ挽いてハンドドリップで淹れる。そこで“豆”の状態で<海軍さんの珈琲>を求めてみたかった訳だ。
↓珈琲豆を計量してパッキングするのを待つ間、用意して在ったブレンド珈琲を勧めて頂いた。これもなかなかに好い感じだった。
↓呉の店で「真空パック」となった<海軍さんの珈琲>だ。確りと拙宅に送り込み、大事に保管した訳だ。
↓使い易いように豆を容器に開けた。「1940年代の焙煎?」と再現を試みたということになるのであろうが、「キツい焙煎」というように見受けられる。或いは?1930年代に起こった焙煎の感じを受継ぐという<大阪ストロング>に通じるかもしれない。が、だからと言って<大阪ストロング>のように「極端?」とも思い悪い。
恐らく…海軍の軍艦の中で珈琲が嗜まれたとするなら、手で回して豆を挽く道具で適当に挽いて、それをハンドドリップで淹れてというように頂いたのだと推定する。そういうことで、普段はグラインダーで18秒挽いているとした場合、敢えて14秒にしてみるというような細かい工夫で、少し粗目に挽く。焙煎がキツい関係上、余り細かく挽くと「渋い??」となってしまうかもしれない。そんなことを思えば、包の中に「細かく挽き過ぎると渋味が強くなり過ぎる場合が在る」と「粗目な挽き方が好い」という旨のアドバイスが書かれた紙片も入っていた。
そんな訳で試してみたのだが、これが好みに合った。香ばしく苦いという感じの奥に珈琲の味の幾つかの要素が滲むというような感じだと思う。なるほど「戦艦<大和>のような軍艦の中で嗜まれた珈琲?」という具合だ。恐らく、1930年代辺りのキツい焙煎の傾向の影響で、ややキツい焙煎であったと思われるのが、1940年代前半の傾向であろう。が…この位の時代には、珈琲豆は余り広く出回らなかったということでもあったとも思う…
何れにしても、遠い時代の人達が嗜んだかもしれない味に想いを巡らせ、ゆったりと好みの飲物を頂いて寛ぐというのは好い。そして、この珈琲を入手した呉の店も想い出深い場所となった。
※珈琲豆の写真は稚内の拙宅で撮っているが、呉の店の想い出という内容でもなる訳で、記事は「広島県」のカテゴリに分類する。
<広島海上ビル>…(2021.12.23)
↓朝の光を受け、様々な種類の船が停泊または航行という風情…瀬戸内海に開かれた港を擁する広島という街の個性が滲む光景であると思う。こんな様子を眺めるのも好いものだ…
路面電車の広島港停留所の近くに客船が発着していることは知られている訳だが、その辺りの他にももう少し輸送規模が小さな旅客航路の発着や、色々な用途で船で動き回る関係者が出入りする、或いは海上保安や消防というような官公署関係で船を用いるという場合も在って、広島の宇品辺りでは「何となく思う」という以上に多くの船と船の利用者や関係者が動き回っているようだ。そんな様子に少し触れた訳である。
↓旅客が出入りする他、関係の事業所の事務所等が入居しているらしいビルが在った。<広島海上ビル>と称するようだ。
↓建物内に“売店”が設けられている…
↓何か「訳も無く懐かしく感じる…」という感の売店が在った…
↓階段も年季が入っている…
↓牛乳…パン…清酒…売店の取扱品か?何か酷く味わい深い感だ…
↓近くの島江の連絡船が発着していて、その日の最後の便が出た後の夜間は建物を閉め、朝にまた開けることになっているという告知が在った…
こういうような「海辺」を散策するのも好いものだ…何か「かなり古い映画」という世界の中に迷い込んだかのような、少し不思議な気分になった…
路面電車の広島港停留所の近くに客船が発着していることは知られている訳だが、その辺りの他にももう少し輸送規模が小さな旅客航路の発着や、色々な用途で船で動き回る関係者が出入りする、或いは海上保安や消防というような官公署関係で船を用いるという場合も在って、広島の宇品辺りでは「何となく思う」という以上に多くの船と船の利用者や関係者が動き回っているようだ。そんな様子に少し触れた訳である。
↓旅客が出入りする他、関係の事業所の事務所等が入居しているらしいビルが在った。<広島海上ビル>と称するようだ。
↓建物内に“売店”が設けられている…
↓何か「訳も無く懐かしく感じる…」という感の売店が在った…
↓階段も年季が入っている…
↓牛乳…パン…清酒…売店の取扱品か?何か酷く味わい深い感だ…
↓近くの島江の連絡船が発着していて、その日の最後の便が出た後の夜間は建物を閉め、朝にまた開けることになっているという告知が在った…
こういうような「海辺」を散策するのも好いものだ…何か「かなり古い映画」という世界の中に迷い込んだかのような、少し不思議な気分になった…
「広島陸軍糧秣支廠倉庫」の一部であった壁…(2021.12.23)
路面電車の広島港停留所を訪れ、興味深い経過が在る車輛を眺める等したのだったが、落ち合った友人に御案内願い、辺りの「宇品」という地区を歩き廻ってみることとした。
↓こういう重厚な煉瓦造の壁に出くわした。
↓こんな具合に「建物の一部」を“記念碑”というようにして敢えて残しているのだ。
↓この「建物の一部」を残している壁の謂れを説くプレートが在った。
広島の宇品は、陸軍が物資輸送等を行う場合の拠点になっていた。明治期以降、陸軍が管轄する各種の倉庫等の施設が多く建てられた。画の壁は、そうした施設の一つで「糧秣支廠倉庫」というモノだった。将兵の食糧や軍馬の飼料を保管するというような用途で用いられたのだという。
当然ながら原爆投下当時にも在った倉庫だが、爆心地辺りから4.5kmと離れていたので、被害は軽微なものに留まったのだという。戦後は長く民間倉庫として利用され、1997年に辺りの道路を整備した際、建物の一部を記念碑ということにしたのだそうだ。
↓こんな壁が在る訳だが、壁の前には鉄道が敷設されていたという。その鉄道が敷設されていたような場所が、現在では道路になっているのだ。
鉄道が敷設されていたような場所が道路になっているという例は方々に在ると思う。が、そこに嘗て在った建物が戦禍の記憶を伝えているというのは、例が限られると思う。何か貴重なモノを拝見した。
↓こういう重厚な煉瓦造の壁に出くわした。
↓こんな具合に「建物の一部」を“記念碑”というようにして敢えて残しているのだ。
↓この「建物の一部」を残している壁の謂れを説くプレートが在った。
広島の宇品は、陸軍が物資輸送等を行う場合の拠点になっていた。明治期以降、陸軍が管轄する各種の倉庫等の施設が多く建てられた。画の壁は、そうした施設の一つで「糧秣支廠倉庫」というモノだった。将兵の食糧や軍馬の飼料を保管するというような用途で用いられたのだという。
当然ながら原爆投下当時にも在った倉庫だが、爆心地辺りから4.5kmと離れていたので、被害は軽微なものに留まったのだという。戦後は長く民間倉庫として利用され、1997年に辺りの道路を整備した際、建物の一部を記念碑ということにしたのだそうだ。
↓こんな壁が在る訳だが、壁の前には鉄道が敷設されていたという。その鉄道が敷設されていたような場所が、現在では道路になっているのだ。
鉄道が敷設されていたような場所が道路になっているという例は方々に在ると思う。が、そこに嘗て在った建物が戦禍の記憶を伝えているというのは、例が限られると思う。何か貴重なモノを拝見した。
広島港停留所…:広島の路面電車(2021.12.23)
↓朝から「路面電車を眺めるべく、広島港停留所を一寸目指して…」ということにして、到達前に道草もしながら、何やら辿り着いた…
↑京都に登場し、広島に移ったという経過の1900形…今般は見掛ける機会も多く、何度か乗車もした…
↓広島港停留所は、新旧の色々な型の車輛が発着する。朝の時間帯は、少し旧い車輛の登場も増えるらしい。
↓天候が好く、明るさが増す中、何やら光が凄く眩しかった。そして射し込む光による造形というような様子も見受けられた…
↑野球の広島東洋カープのマークがラッピングされている車輛が視えるが、広島で活動する各競技、各リーグのチームのマーク等をラッピングした車輛が見受けられる…そういう感じは好きだ。
この場所は「是非、再訪したい!」という感じの場所だ…
↑京都に登場し、広島に移ったという経過の1900形…今般は見掛ける機会も多く、何度か乗車もした…
↓広島港停留所は、新旧の色々な型の車輛が発着する。朝の時間帯は、少し旧い車輛の登場も増えるらしい。
↓天候が好く、明るさが増す中、何やら光が凄く眩しかった。そして射し込む光による造形というような様子も見受けられた…
↑野球の広島東洋カープのマークがラッピングされている車輛が視えるが、広島で活動する各競技、各リーグのチームのマーク等をラッピングした車輛が見受けられる…そういう感じは好きだ。
この場所は「是非、再訪したい!」という感じの場所だ…
広電本社周辺…(2021.12.23)
広電本社の辺りには、古くからの路面電車の車庫も在るが、創業の時代からの歴史の舞台となった場所でもあるようだ。
「広電」という略称で親しまれる広島電鉄は「広島電気軌道」という名で創業した。1912(大正元)年に電車の運行を始めた頃に発電所を設けた。
その「広島電気軌道火力発電所」と称した建物が残っている。煉瓦造の2棟を組み合わせたような感である。完全に各々が独立した棟ということではなく、一部の壁が繋がっているらしい。一方に発電機が、他方に発電用ボイラーが収められていたのだという。
↓こういう建物が現在でも在る…
↑1934年に至り、発電所は廃されたが、建物は変電所と倉庫として活用されるようになった。「千田町変電所」ということになる。画の奥側、発電機が収められていた側が変電所となり、手前側が発電用ボイラーが収められていた側が倉庫となった。
そして1945年8月6日に被爆してしまう。爆心から1.9km程度という。屋根が吹き飛んで建物の中に被害が生じたというが、建物の倒壊は免れた。しかしこの辺りでは多くの人達が犠牲になってしまった。
路面電車の運行の関係では廿日市変電所が被害を免れたということが在って、8月9日には単線折り返し方式で極一部の区間ながらも電車は走り始めたという。
この千田町変電所に関しては、変電所として使われ続けていて、倉庫であった部分は事務所になっているのだという。
↓この「1912年頃の煉瓦造の建物」という風を色濃く残しているのが事務所になっている部分であるようだ…
↑この建物は貴重な「被爆建物」ということにもなる…
↓この千田町変電所の傍に古くからの車庫である「千田車庫」が在る訳だ…」
↓辺りには、その名も「広電本社前」という路面電車の停留所が設えられている…
↓停留所で電車に乗ってみることにした…
↓広電西広島へ行ってみることとした…
ほんの少し「雰囲気」に触れただけだとも思うが、この広電本社の周辺というのもなかなかに好いと思った…
「広電」という略称で親しまれる広島電鉄は「広島電気軌道」という名で創業した。1912(大正元)年に電車の運行を始めた頃に発電所を設けた。
その「広島電気軌道火力発電所」と称した建物が残っている。煉瓦造の2棟を組み合わせたような感である。完全に各々が独立した棟ということではなく、一部の壁が繋がっているらしい。一方に発電機が、他方に発電用ボイラーが収められていたのだという。
↓こういう建物が現在でも在る…
↑1934年に至り、発電所は廃されたが、建物は変電所と倉庫として活用されるようになった。「千田町変電所」ということになる。画の奥側、発電機が収められていた側が変電所となり、手前側が発電用ボイラーが収められていた側が倉庫となった。
そして1945年8月6日に被爆してしまう。爆心から1.9km程度という。屋根が吹き飛んで建物の中に被害が生じたというが、建物の倒壊は免れた。しかしこの辺りでは多くの人達が犠牲になってしまった。
路面電車の運行の関係では廿日市変電所が被害を免れたということが在って、8月9日には単線折り返し方式で極一部の区間ながらも電車は走り始めたという。
この千田町変電所に関しては、変電所として使われ続けていて、倉庫であった部分は事務所になっているのだという。
↓この「1912年頃の煉瓦造の建物」という風を色濃く残しているのが事務所になっている部分であるようだ…
↑この建物は貴重な「被爆建物」ということにもなる…
↓この千田町変電所の傍に古くからの車庫である「千田車庫」が在る訳だ…」
↓辺りには、その名も「広電本社前」という路面電車の停留所が設えられている…
↓停留所で電車に乗ってみることにした…
↓広電西広島へ行ってみることとした…
ほんの少し「雰囲気」に触れただけだとも思うが、この広電本社の周辺というのもなかなかに好いと思った…
広島駅にて…(2021.12.24)
広島駅を正面に遠望するような辺りに到り、地下の通路に入ってみた…
↓そうするとこういうような場所に到った…
↑何やら色々と矢印は在るが…とりあえず「列車に乗る場所」に近付こうとした…
↓工事中で勝手が違う感の広島駅だが、在来線の改札口に通じる辺り、新幹線のエリアにも入ることが出来るという場所の感じは「記憶に在る広島駅の中」という様子だった…
↓新幹線の列車の案内を眺めてみた…
↑鹿児島中央駅からやって来て、新大阪駅を目指す<みずほ>という列車の運行が近い…
↓券売機で券を求め、その<みずほ>に乗車することにした…
↓ホーム扉の辺りに「乗車位置案内」が掲出されている。編成が長い新幹線の列車である。事前にこの種の案内を頼りに、乗車すべき位置で列車を待つべきだと思う。
↑九州新幹線を走る<みずほ>は8輛編成での運行だ。今般は7号車に乗る…
↓<のぞみ>とは色合いが少し異なる<みずほ>の車輛が広島駅に到着である…
↓西日本と九州とを往来する新幹線の列車の指定席は「2列+2列」の仕様で、シートがゆったりだ…
↓着席すれば、眼前に車内御案内だ…
↓こういう具合に、車内御案内が出ている箇所はテーブルになる…
↓荷物は棚に上げて置く…
↓車内にはこういうコーナーも在る…
広島で<みずほ>に乗れば、岡山、新神戸と一寸停車で、あっという間に新大阪駅に着いてしまう。「しまう」と表現したが、速い車輛で停車駅が少ない列車なので「呆気ない…」という程で新大阪に着く。何か久し振りにこういう列車で旅をしてみたという感じだ…
↓そうするとこういうような場所に到った…
↑何やら色々と矢印は在るが…とりあえず「列車に乗る場所」に近付こうとした…
↓工事中で勝手が違う感の広島駅だが、在来線の改札口に通じる辺り、新幹線のエリアにも入ることが出来るという場所の感じは「記憶に在る広島駅の中」という様子だった…
↓新幹線の列車の案内を眺めてみた…
↑鹿児島中央駅からやって来て、新大阪駅を目指す<みずほ>という列車の運行が近い…
↓券売機で券を求め、その<みずほ>に乗車することにした…
↓ホーム扉の辺りに「乗車位置案内」が掲出されている。編成が長い新幹線の列車である。事前にこの種の案内を頼りに、乗車すべき位置で列車を待つべきだと思う。
↑九州新幹線を走る<みずほ>は8輛編成での運行だ。今般は7号車に乗る…
↓<のぞみ>とは色合いが少し異なる<みずほ>の車輛が広島駅に到着である…
↓西日本と九州とを往来する新幹線の列車の指定席は「2列+2列」の仕様で、シートがゆったりだ…
↓着席すれば、眼前に車内御案内だ…
↓こういう具合に、車内御案内が出ている箇所はテーブルになる…
↓荷物は棚に上げて置く…
↓車内にはこういうコーナーも在る…
広島で<みずほ>に乗れば、岡山、新神戸と一寸停車で、あっという間に新大阪駅に着いてしまう。「しまう」と表現したが、速い車輛で停車駅が少ない列車なので「呆気ない…」という程で新大阪に着く。何か久し振りにこういう列車で旅をしてみたという感じだ…
駅前大橋の辺りの案内看板…:広島(2021.12.24)
↓この種の案内看板…出先では存外に御世話になる場合が在る。
↑広島駅を望むような辺りでは、川が交差しているような様相の箇所に幾つか橋が架かっている。駅の真正面のような場所の橋は「駅前大橋」という呼称だったのだと判った。「何やら色々と橋が…あの幅が広い橋…」という程度に認識していた。
こういう「あそこはこう呼ばれる…」というようなことを、街から離れようかという段階になって知る…妙なタイミングであるが、「何れ、今覚えたここを訪ねて、また来なさい…」という御導きなのかもしれない。
↓直ぐ傍には、広島の歴史を紡いだ「西国街道」というモノに関する説明の看板も在った。
↑「様々な時代の人々が各々に行き交った筈の街道」というイメージのオブジェが看板の上方に掲げられているのが酷く好い…
駅前大橋の辺りの案内看板を視ながら、進行中の工事が竣工すると大きく様子も変わる筈だと思った。工事中な感じを視て酷く驚いた…様子が変わった後か、変わる前なのかは判らない。が、より一層「想い出多い街」となった広島に関しては「きっとまた…」と思いながら広島駅へ歩を進めたのだった。
↑広島駅を望むような辺りでは、川が交差しているような様相の箇所に幾つか橋が架かっている。駅の真正面のような場所の橋は「駅前大橋」という呼称だったのだと判った。「何やら色々と橋が…あの幅が広い橋…」という程度に認識していた。
こういう「あそこはこう呼ばれる…」というようなことを、街から離れようかという段階になって知る…妙なタイミングであるが、「何れ、今覚えたここを訪ねて、また来なさい…」という御導きなのかもしれない。
↓直ぐ傍には、広島の歴史を紡いだ「西国街道」というモノに関する説明の看板も在った。
↑「様々な時代の人々が各々に行き交った筈の街道」というイメージのオブジェが看板の上方に掲げられているのが酷く好い…
駅前大橋の辺りの案内看板を視ながら、進行中の工事が竣工すると大きく様子も変わる筈だと思った。工事中な感じを視て酷く驚いた…様子が変わった後か、変わる前なのかは判らない。が、より一層「想い出多い街」となった広島に関しては「きっとまた…」と思いながら広島駅へ歩を進めたのだった。
女学院前停留所周辺:白島線…:広島の路面電車(2021.12.23)
未だ暗かった早朝から精力的に動いた一日だった。暗くなってしまう前に宿に入って一息入れていたが、「軽く食事?または居室で摘まむモノを求める?」という程度の考えで散策に出てみた。
広島の街中は路面電車の軌道が色々と敷設されている訳だが…
↓宿から少しだけ歩くと「これは?視ていない…そして電車にも乗車していない?」という軌道と、乗降停車または信号停車の車輛を見掛けた…
↓停留所は「女学院前」というらしい。
↑聞けば、近くに在る学校に因む命名で、1952年に開設された停留所ということだった。停留所名の由来になった学校の他にも教育機関は近くに幾つか立地していて、官公庁関係の建物も近いようだ。
↓暫し様子を眺めてしまった…1900形、京都から広島へ移って来た経過の車輛が現れた。この型に何度か乗車する機会も在ったが、存外に気に入っている…
この女学院前停留所を擁する路線は「白島線」(はくしません)と呼ばれるそうだ。女学院前の手前に八丁堀停留所が在って起点になっている。そして4つ先の白島停留所まで、1.2km程度という短い路線だ。路線は1912(大正元)年に広島城の旧外堀を埋め立てて整備された道の上を通る路線として開業したという。1945(昭和20)年8月の戦禍で不通となって、1952(昭和27)年に現在の位置で全線復旧となっている。
↓基本的に、運行されている電車は八丁堀・白島間を折り返し運転を繰り返しながら往復しているということのようだ。が、一部は他の路線に乗入れというようにもなっているようだ。一見した感じ、その他路線への乗り入れは限られた便数になっているようでもあった。
↓こんな様子を眺めながら歩いていると…
直ぐに八丁堀、更に胡町というような辺りに到ってしまった。そして少し歩いて宿に引揚げたのだった。
広島の路面電車…そして路面電車で街を巡ってみるということ…マダマダ愉しめそうだと思った…
広島の街中は路面電車の軌道が色々と敷設されている訳だが…
↓宿から少しだけ歩くと「これは?視ていない…そして電車にも乗車していない?」という軌道と、乗降停車または信号停車の車輛を見掛けた…
↓停留所は「女学院前」というらしい。
↑聞けば、近くに在る学校に因む命名で、1952年に開設された停留所ということだった。停留所名の由来になった学校の他にも教育機関は近くに幾つか立地していて、官公庁関係の建物も近いようだ。
↓暫し様子を眺めてしまった…1900形、京都から広島へ移って来た経過の車輛が現れた。この型に何度か乗車する機会も在ったが、存外に気に入っている…
この女学院前停留所を擁する路線は「白島線」(はくしません)と呼ばれるそうだ。女学院前の手前に八丁堀停留所が在って起点になっている。そして4つ先の白島停留所まで、1.2km程度という短い路線だ。路線は1912(大正元)年に広島城の旧外堀を埋め立てて整備された道の上を通る路線として開業したという。1945(昭和20)年8月の戦禍で不通となって、1952(昭和27)年に現在の位置で全線復旧となっている。
↓基本的に、運行されている電車は八丁堀・白島間を折り返し運転を繰り返しながら往復しているということのようだ。が、一部は他の路線に乗入れというようにもなっているようだ。一見した感じ、その他路線への乗り入れは限られた便数になっているようでもあった。
↓こんな様子を眺めながら歩いていると…
直ぐに八丁堀、更に胡町というような辺りに到ってしまった。そして少し歩いて宿に引揚げたのだった。
広島の路面電車…そして路面電車で街を巡ってみるということ…マダマダ愉しめそうだと思った…
<5006>&<5010>…:広電西広島:広島の路面電車(2021.12.23)
<582>…:広電西広島:広島の路面電車(2021.12.23)
↓「美しい…」と思わず見入ってしまった…
↓頭の中で考えていた、その時の「移動のプラン」というようなものは「如何でも構わない、その辺に沈んで無くなってくれて構わない程度のモノ」という感じで、「如何でも構わないが、眼前の様子が美しい…」と夢中になってしまっていた…
↓神戸の路面電車が廃止されてしまい、広島で車輛を譲り受け、その車輛が広島を走って50年ということのようだ…
↑近年の乗降し易い車輛の中でこの種の古くからの車輛も元気に動いている路面電車…何やら酷く愛おしくなる存在だ…
↓何となく眺めていれば、発車時刻に至ったようで、何時の間にか静かに出発した…その出発した様子を見送った…
広島という街に関しては、別段に予定という程のことを組むのでもなく、路面電車の1日乗車券を確保して、漫然と1日を過ごそうとするだけで「酷く愉しい!!!」という1日を過ごせるような気がする。そんな「公共輸送機関で漫然と動き回って、漫然と過ごして然程のこともないような街」というのは「あらまほしき都市」という程度に個人的には思う。
↓頭の中で考えていた、その時の「移動のプラン」というようなものは「如何でも構わない、その辺に沈んで無くなってくれて構わない程度のモノ」という感じで、「如何でも構わないが、眼前の様子が美しい…」と夢中になってしまっていた…
↓神戸の路面電車が廃止されてしまい、広島で車輛を譲り受け、その車輛が広島を走って50年ということのようだ…
↑近年の乗降し易い車輛の中でこの種の古くからの車輛も元気に動いている路面電車…何やら酷く愛おしくなる存在だ…
↓何となく眺めていれば、発車時刻に至ったようで、何時の間にか静かに出発した…その出発した様子を見送った…
広島という街に関しては、別段に予定という程のことを組むのでもなく、路面電車の1日乗車券を確保して、漫然と1日を過ごそうとするだけで「酷く愉しい!!!」という1日を過ごせるような気がする。そんな「公共輸送機関で漫然と動き回って、漫然と過ごして然程のこともないような街」というのは「あらまほしき都市」という程度に個人的には思う。
地御前神社:廿日市市内(2021.12.23)
↓古色蒼然という感ながらも、壮麗な神社というようなことを想わせる…
↑盛んな列車の往来が見受けられるJRの軌道と広島電鉄の軌道が交差して生じる「三角州?」というような微妙な位置に、古い社が佇んでいる…
辺りの鎮守たる大歳神社以上に建物も大きく、他地域の人達の間でも知名度が高いらしいという地御前神社にも立寄ってみた。
↓何か…壮麗な神社建築が年月を重ねるだけ重ねて、行き着いた様子…というような気がした場所だった…
↓古くから海上輸送が盛んな瀬戸内海で、洋上交通の安寧を願うというような厳島神社が在り、厳島神社の対岸にもこの地御前神社が設けられていた訳だ。そして辺りの海域は戦国時代の合戦の舞台にもなっている…
↑様々なことを想起しながら、辺りを散策してみた…
↓これは明治時代の国道開削の功労を伝える記念碑らしい…この辺りは古い時代から変わらない交通の要衝であった訳で、近代史が伝える様々な開発の足跡も見受けられる訳だ。、
↓軍の将官にして爵位を得て首相経験も在るという人物の揮毫による石碑が在る…その事実だけで「何やら凄く由緒が深い場所」と感じるに足るような気がした…
実は…「歩き廻って汗もかき悪い」とか「相対的に静か」とか「宿を求めようという場合に取り易い」ということで、更に場合によって利用する<青春18きっぷ>の期間ということで12月後半に時間を設けて旅に出ることを好むのだが…この地御前神社の辺りは「桜の時季が好い??」というように思った。実現が簡単でもない場合も多いのだが、何やら「桜の時季に広島県を目指す?」というような余計なことを、引揚げてしまった後に地御前神社の写真を視て思い出している…
↑盛んな列車の往来が見受けられるJRの軌道と広島電鉄の軌道が交差して生じる「三角州?」というような微妙な位置に、古い社が佇んでいる…
辺りの鎮守たる大歳神社以上に建物も大きく、他地域の人達の間でも知名度が高いらしいという地御前神社にも立寄ってみた。
↓何か…壮麗な神社建築が年月を重ねるだけ重ねて、行き着いた様子…というような気がした場所だった…
↓古くから海上輸送が盛んな瀬戸内海で、洋上交通の安寧を願うというような厳島神社が在り、厳島神社の対岸にもこの地御前神社が設けられていた訳だ。そして辺りの海域は戦国時代の合戦の舞台にもなっている…
↑様々なことを想起しながら、辺りを散策してみた…
↓これは明治時代の国道開削の功労を伝える記念碑らしい…この辺りは古い時代から変わらない交通の要衝であった訳で、近代史が伝える様々な開発の足跡も見受けられる訳だ。、
↓軍の将官にして爵位を得て首相経験も在るという人物の揮毫による石碑が在る…その事実だけで「何やら凄く由緒が深い場所」と感じるに足るような気がした…
実は…「歩き廻って汗もかき悪い」とか「相対的に静か」とか「宿を求めようという場合に取り易い」ということで、更に場合によって利用する<青春18きっぷ>の期間ということで12月後半に時間を設けて旅に出ることを好むのだが…この地御前神社の辺りは「桜の時季が好い??」というように思った。実現が簡単でもない場合も多いのだが、何やら「桜の時季に広島県を目指す?」というような余計なことを、引揚げてしまった後に地御前神社の写真を視て思い出している…
大歳神社:地御前:廿日市市内(2021.12.23)
↓一段高くなった辺りの様子が気になった…
↓神社だ…ここは<大歳神社>(おおとしじんじゃ)という…
↓宮司さんが在って、地域の社しして普通に活動が展開されている神社でもある。
宮司さんが折良く現れたので言葉も交わした。地御前の地では<地御前神社>が少し知られている。宮島、厳島神社の対岸ということで古くは大きな存在感を示した神社だが、現在は厳島神社の管理下に在るという以上でも以下でもない。対して<大歳神社>は、地御前の村の鎮守として起こって現在に受継がれているという神社であるのだという。
そんな「辺りの村の鎮守…」という大歳神社に立寄ったこと、宮司さんと言葉を交わして御朱印も頂いたのだが、何か「土地との好い出遭いが叶った…」というような気分になった。
↓神社だ…ここは<大歳神社>(おおとしじんじゃ)という…
↓宮司さんが在って、地域の社しして普通に活動が展開されている神社でもある。
宮司さんが折良く現れたので言葉も交わした。地御前の地では<地御前神社>が少し知られている。宮島、厳島神社の対岸ということで古くは大きな存在感を示した神社だが、現在は厳島神社の管理下に在るという以上でも以下でもない。対して<大歳神社>は、地御前の村の鎮守として起こって現在に受継がれているという神社であるのだという。
そんな「辺りの村の鎮守…」という大歳神社に立寄ったこと、宮司さんと言葉を交わして御朱印も頂いたのだが、何か「土地との好い出遭いが叶った…」というような気分になった。
<天井松>:西向寺:地御前:廿日市市内(2021.12.23)
掲出されたマップを見て、広島電鉄やJRの軌道や駅と、辺りの様々なモノの位置関係を何となく把握し、辺りを歩き始めてみた。
↓街の寺というような風ではあり、酷く大きな訳でもないが、端正な門が在ると思った。浄土真宗の寺らしい。
↓何気なく門に近付き、門の中を伺って驚いた…見事に枝を拡げた松…枝を支柱で支えている様子だ…
↓松の枝が「天井」という様相…これを<天井松>と呼んでいるらしい…
↓何やら暫し足を停めて見入ってしまった…
特段に事前に期することもなく、何やら「おっ!?」と驚くモノに出くわしたという感じだ…一寸面白かった…
↓街の寺というような風ではあり、酷く大きな訳でもないが、端正な門が在ると思った。浄土真宗の寺らしい。
↓何気なく門に近付き、門の中を伺って驚いた…見事に枝を拡げた松…枝を支柱で支えている様子だ…
↓松の枝が「天井」という様相…これを<天井松>と呼んでいるらしい…
↓何やら暫し足を停めて見入ってしまった…
特段に事前に期することもなく、何やら「おっ!?」と驚くモノに出くわしたという感じだ…一寸面白かった…
<地御前史跡マップ>:廿日市市内(2021.12.23)
西広島から先、広島の街を走っていた路面電車がそのまま「何処の地方でも見掛けるような鉄道路線」の中に乗入れ、宮島口まで走っている。
その宮島口の少し東寄り、西広島からの電車に乗って訪ねれば「宮島口の手前」というような感じになると思うが地御前という地区が在る。
↓これがその地御前の、来訪者等に向けたマップである。電車を下りて、何となく歩き始めた辺りで出くわした。
宮島口、船で島に亘っての厳島神社という「超有名!」ということになる場所には立ち寄った経過が在る。が、その宮島口から遠くないような辺りというのはよく知らない。「面白い建物が見受けられるような場所が…」と友人の助言を頂き、一寸訪ねてみたのだ。
西広島から宮島口の区間、広島の街を走っている連接方式の路面電車が、「普通」な地方の鉄道の軌道という場所に乗入れている。何か「一帯で特別な存在感の大きな街の端側、隣接する幾つかの街とを結んでいるような鉄道の沿線」という風情が漂っていた。
廿日市市…これは広島市の西側で、商工業地域の廿日市が広島との往来が盛んになって発展した中、辺りの小さな町が年を追って合併して現在の範囲になっているということのようだ。“廿日市”としては最も古くからの流れを汲む辺りの他に、宮島も含めた様々なモノが在る場所ということになっていて、広島市内等への交通も便利な所謂“ベッドタウン”というような性質も色濃く帯びているらしい。
そんな廿日市市の一隅、地御前を少し歩いてみたのは、何となく愉しい想い出だ。
地御前は、有名な宮島口の手前のような、やや東に寄った辺りで、広島周辺以外の他地域の人達の間ではマイナーな感じながら、こんな「マップ」が出来る程度に色々なモノが在るということなようだ。こういう様子を、「様々な建物が建築中だった“新興住宅地!!”という場所そのもの…」で幼少期を過ごした自身は「酷く羨ましいような感じが…」と思ってしまう。
その宮島口の少し東寄り、西広島からの電車に乗って訪ねれば「宮島口の手前」というような感じになると思うが地御前という地区が在る。
↓これがその地御前の、来訪者等に向けたマップである。電車を下りて、何となく歩き始めた辺りで出くわした。
宮島口、船で島に亘っての厳島神社という「超有名!」ということになる場所には立ち寄った経過が在る。が、その宮島口から遠くないような辺りというのはよく知らない。「面白い建物が見受けられるような場所が…」と友人の助言を頂き、一寸訪ねてみたのだ。
西広島から宮島口の区間、広島の街を走っている連接方式の路面電車が、「普通」な地方の鉄道の軌道という場所に乗入れている。何か「一帯で特別な存在感の大きな街の端側、隣接する幾つかの街とを結んでいるような鉄道の沿線」という風情が漂っていた。
廿日市市…これは広島市の西側で、商工業地域の廿日市が広島との往来が盛んになって発展した中、辺りの小さな町が年を追って合併して現在の範囲になっているということのようだ。“廿日市”としては最も古くからの流れを汲む辺りの他に、宮島も含めた様々なモノが在る場所ということになっていて、広島市内等への交通も便利な所謂“ベッドタウン”というような性質も色濃く帯びているらしい。
そんな廿日市市の一隅、地御前を少し歩いてみたのは、何となく愉しい想い出だ。
地御前は、有名な宮島口の手前のような、やや東に寄った辺りで、広島周辺以外の他地域の人達の間ではマイナーな感じながら、こんな「マップ」が出来る程度に色々なモノが在るということなようだ。こういう様子を、「様々な建物が建築中だった“新興住宅地!!”という場所そのもの…」で幼少期を過ごした自身は「酷く羨ましいような感じが…」と思ってしまう。
八丁堀⇔胡町⇔銀山町…各停留所を望む:広島の路面電車(2021.12.23)
“跨線橋”のような様相を呈している歩道橋に上って路面電車を眺めると面白いというようなことを広島で会った友人との話しで話題にした。すると「そういうことなら…」と友人が教えてくれた。胡町(えびすちょう)停留所の辺りに歩道橋が在り、長めな直線の区間に多くの車輛が行き交う様が視られるということだった。
路面電車の1日乗車券を手に早朝から動き回っていたが、午後に至って宿へ引揚げようとしていた。友人と話題にした胡町停留所は宿から然程遠くないので、その胡町停留所まで路面電車で移動した。
↓胡町停留所に近い歩道橋に上ってみた…
↑奥に八丁堀停留所が視えて、手前に胡町停留所が視えている。その軌道を路面電車が行き交っている。
「これは面白い!」と暫し見入った…
↓広島の場合、昨今の「低床型」の車輛が相対的に早く導入されているので「近年の車輛」という感じの車輛だけでも様々な種類が在って、現在では軌道上で見掛ける車輛の中で割合も高まっている。そういう様々な車輛が行き交う様子が面白かった。
歩道橋上で一寸振り返った…
↓銀山町(かなやまちょう)停留所が視えた…
↑各種車輛や歩行者が行き交う路上に軌道が敷設されている「路面電車らしい」という雰囲気が見受けられた…
胡町停留所に近い歩道橋の上に佇むと、八丁堀、胡町、銀山町の各停留所を結ぶ区間の様子が一望出来る。各停留所間の距離は然程遠くはないと思う。言葉を換えると、これらの停留所の何れかで路面電車に乗り降りすると訪ね易いというような場所が多々在る訳だ。実際、自身で滞在した宿が該当する。最初に「八丁堀停留所が近い…」と覚えたが、胡町も銀山町も利用し易い。各停留所と宿との間を歩いて要する時間に大差は無い…
↓この銀山町の側も面白いと思った。
↓銀山町の側から、佇んでいた歩道橋の側に車輛が進んでいる…
↓歩道橋の下を潜った車輛は、胡町の側へ、更に八丁堀へ進む…
何か「程好く交通が賑わう午後の一時」というような様子を眺めたのだった。こんな様子…また眺めに行きたいというような気がする…
今般はこういうような様子に親しむ機会が設けられたことが非常に好かった。
路面電車の1日乗車券を手に早朝から動き回っていたが、午後に至って宿へ引揚げようとしていた。友人と話題にした胡町停留所は宿から然程遠くないので、その胡町停留所まで路面電車で移動した。
↓胡町停留所に近い歩道橋に上ってみた…
↑奥に八丁堀停留所が視えて、手前に胡町停留所が視えている。その軌道を路面電車が行き交っている。
「これは面白い!」と暫し見入った…
↓広島の場合、昨今の「低床型」の車輛が相対的に早く導入されているので「近年の車輛」という感じの車輛だけでも様々な種類が在って、現在では軌道上で見掛ける車輛の中で割合も高まっている。そういう様々な車輛が行き交う様子が面白かった。
歩道橋上で一寸振り返った…
↓銀山町(かなやまちょう)停留所が視えた…
↑各種車輛や歩行者が行き交う路上に軌道が敷設されている「路面電車らしい」という雰囲気が見受けられた…
胡町停留所に近い歩道橋の上に佇むと、八丁堀、胡町、銀山町の各停留所を結ぶ区間の様子が一望出来る。各停留所間の距離は然程遠くはないと思う。言葉を換えると、これらの停留所の何れかで路面電車に乗り降りすると訪ね易いというような場所が多々在る訳だ。実際、自身で滞在した宿が該当する。最初に「八丁堀停留所が近い…」と覚えたが、胡町も銀山町も利用し易い。各停留所と宿との間を歩いて要する時間に大差は無い…
↓この銀山町の側も面白いと思った。
↓銀山町の側から、佇んでいた歩道橋の側に車輛が進んでいる…
↓歩道橋の下を潜った車輛は、胡町の側へ、更に八丁堀へ進む…
何か「程好く交通が賑わう午後の一時」というような様子を眺めたのだった。こんな様子…また眺めに行きたいというような気がする…
今般はこういうような様子に親しむ機会が設けられたことが非常に好かった。
<1015>&<1016>&<352>…:鷹野橋停留所付近…:広島の路面電車(2021.12.23)
路面電車の軌道を跨ぐように歩道橋が設けられている場合が在る。そういう場所に上ると、路面電車を愉しく眺められる場合が在る。
朝、広島港停留所を目指して路面電車に乗っていて、窓から様子を視ていた中、途中の鷹野橋停留所近辺で、カーブを描く軌道の傍に、それを跨ぐような歩道橋が設けられていることに気付いた。
午後…広島港・広電西広島という運行の電車であるので、広電西広島側から乗車し、その鷹野橋停留所へ移動し、歩道橋に上ってみた…
↓新しい<1015>がカーブを描く軌道で、連接車体を折り曲げるように進んでいる。年季が入っている<352>が後続している。
↓逆側の軌道に<1016>が現れた。
↓<1016>と<352>とが擦違う。
↓<1016>が遠ざかり、<352>がカーブを描く軌道に近付く。
↓向きを変えてカーブの先を視た。最初に視た<1015>が未だ視えていて、<352>が後続して鷹野橋停留所に停車した。
何か「路面電車を観た!」というように強く感じ入る光景だ。「如何にも!」という感の「最近の車輛」と「年季の入った車輛」とが同じ軌道で運行中である様子は面白い。
朝、広島港停留所を目指して路面電車に乗っていて、窓から様子を視ていた中、途中の鷹野橋停留所近辺で、カーブを描く軌道の傍に、それを跨ぐような歩道橋が設けられていることに気付いた。
午後…広島港・広電西広島という運行の電車であるので、広電西広島側から乗車し、その鷹野橋停留所へ移動し、歩道橋に上ってみた…
↓新しい<1015>がカーブを描く軌道で、連接車体を折り曲げるように進んでいる。年季が入っている<352>が後続している。
↓逆側の軌道に<1016>が現れた。
↓<1016>と<352>とが擦違う。
↓<1016>が遠ざかり、<352>がカーブを描く軌道に近付く。
↓向きを変えてカーブの先を視た。最初に視た<1015>が未だ視えていて、<352>が後続して鷹野橋停留所に停車した。
何か「路面電車を観た!」というように強く感じ入る光景だ。「如何にも!」という感の「最近の車輛」と「年季の入った車輛」とが同じ軌道で運行中である様子は面白い。
<1913>&<1017>…:中電前停留所:広島の路面電車(2021.12.23)
前日から確保していた路面電車の1日乗車券を手に早朝の街へ出た。滞在した宿から然程遠くない辺りの八丁堀停留所を“振り出し”に動き始めた。
↓右側の<1913>が停留所に現れ、「乗ってみたい!」と行先を確認せずに乗車し、「一寸…行先が違った…」と中電前停留所で下車してみた場面だ…
↑左側の軌道では<1017>が運行中だ。
↓乗客の乗降が済んで、<1913>は少し前進した。
↑古くは京都市内で動いていた経過が在るという年季が入った<1913>と、「近年の車輛」という雰囲気が色濃い<1017>とが並ぶ様子が面白い…
↓停留所の隅から、青信号だったので素早く道路を渡り、振り返った眺めだ…
↑未だ暗い街で、路面電車の周辺は少し明るい…停留所には風雨を少し除けるアクリルの壁のようなモノが据えられている場合が多く、そこに運行中の電車が透ける…何か「広島の街らしい…」と感じる光景だ。
路面電車が走っている街でも、かなり限られた区域で運行されている場合が在って、そういう場合には「全然乗らない…」ということも多いかもしれない。対して広島は、随分と広い範囲に軌道が敷設されていて、路面電車がかなり活躍しているように視える。そういう広島では、停留所の様子に「街らしい…」というモノを感じるのだ。
↓右側の<1913>が停留所に現れ、「乗ってみたい!」と行先を確認せずに乗車し、「一寸…行先が違った…」と中電前停留所で下車してみた場面だ…
↑左側の軌道では<1017>が運行中だ。
↓乗客の乗降が済んで、<1913>は少し前進した。
↑古くは京都市内で動いていた経過が在るという年季が入った<1913>と、「近年の車輛」という雰囲気が色濃い<1017>とが並ぶ様子が面白い…
↓停留所の隅から、青信号だったので素早く道路を渡り、振り返った眺めだ…
↑未だ暗い街で、路面電車の周辺は少し明るい…停留所には風雨を少し除けるアクリルの壁のようなモノが据えられている場合が多く、そこに運行中の電車が透ける…何か「広島の街らしい…」と感じる光景だ。
路面電車が走っている街でも、かなり限られた区域で運行されている場合が在って、そういう場合には「全然乗らない…」ということも多いかもしれない。対して広島は、随分と広い範囲に軌道が敷設されていて、路面電車がかなり活躍しているように視える。そういう広島では、停留所の様子に「街らしい…」というモノを感じるのだ。
公衆電話ボックス…2台並んでいる…:早朝の広島(2021.12.23)
早朝の白神社(しらかみしゃ)…:広島(2021.12.23)
朝、未だ暗い感じの時間帯から街に出てみた。前日時点で路面電車の1日乗車券も確保済で、朝早くから動き回ることに何らの不都合も無い…
↓こんな辺りに辿り着いた…
↑整備されたかなり幅が広い通が在って、大きなビルも立ち並ぶ中、何か酷く小さく感じられる神社が視えた。灯りが洩れ、朝の神事が催されているのか、太鼓の音も聞こえていた…
↓白神社(しらかみしゃ)という、現在の広島の礎になる城下町が築かれるようになる以前からの経過を有する神社である。
↑原爆の爆心地から600メートル程度であるという。「その日」には、地下に保管していたモノを除き、建物等は悉く損なわれてしまったという。そして約10年を経て現在の建物等が建ったということだ。
城下町が築かれるようになる以前、辺りは海であって、船が行き交う際の目印になる岩礁が在ったという。それに白い紙を貼って判り易い目印にしたというのだが、それが転じて「白神(しろかみ)さん」ということになったようだ。城下町が築かれた後には神社が建ち、辺りの寺とも繋がるような、少し大きな神社になっていたようだ。
そういう古い経過を有し、「その日」も潜り抜けた社なのだが、本当に整備されたかなり幅が広い通や大きなビルの視える辺りの、この佇まいには何か心惹かれる感じが在った。明るくなった後に改めて訪ねてみようかとも思ったが果たせなかった。が、未だ静かながらも、地方最大の都市なりの交通量も在る街中で、古色蒼然というようにも視える小さな社から灯りや太鼓の音が洩れる、何やら名状し悪い「雰囲気」を味わうことになったのは好かった…
↓こんな辺りに辿り着いた…
↑整備されたかなり幅が広い通が在って、大きなビルも立ち並ぶ中、何か酷く小さく感じられる神社が視えた。灯りが洩れ、朝の神事が催されているのか、太鼓の音も聞こえていた…
↓白神社(しらかみしゃ)という、現在の広島の礎になる城下町が築かれるようになる以前からの経過を有する神社である。
↑原爆の爆心地から600メートル程度であるという。「その日」には、地下に保管していたモノを除き、建物等は悉く損なわれてしまったという。そして約10年を経て現在の建物等が建ったということだ。
城下町が築かれるようになる以前、辺りは海であって、船が行き交う際の目印になる岩礁が在ったという。それに白い紙を貼って判り易い目印にしたというのだが、それが転じて「白神(しろかみ)さん」ということになったようだ。城下町が築かれた後には神社が建ち、辺りの寺とも繋がるような、少し大きな神社になっていたようだ。
そういう古い経過を有し、「その日」も潜り抜けた社なのだが、本当に整備されたかなり幅が広い通や大きなビルの視える辺りの、この佇まいには何か心惹かれる感じが在った。明るくなった後に改めて訪ねてみようかとも思ったが果たせなかった。が、未だ静かながらも、地方最大の都市なりの交通量も在る街中で、古色蒼然というようにも視える小さな社から灯りや太鼓の音が洩れる、何やら名状し悪い「雰囲気」を味わうことになったのは好かった…
<アレイからすこじま>にて…:呉(2021.12.22)
「立寄った記憶」は在る他方で「辺りの呼称は??」というような場合が「存外に多い?」という気がすることも在る。
「こういうモノが在って、こういう場所を通って辿り着いて…」というような次元のことをかなり漠然と覚えている。忘れてしまうのでもない。が、「あそこは何と呼ぶのだ?!」という場合が生じてしまう。
「東側(関西や途中の岡山等)から広島へ向かう?敢えて呉を廻って?」というようなことを思い付いた時、以前に呉に立ち寄った際の「こういうモノが在って、こういう場所を通って辿り着いて…」というような次元のことを幾分思い出した。そして「あそこは何と呼ぶのだ?!」という場合が見事に生じた。
呉は海上自衛隊の艦艇が利用する港で、様々な種類の艦艇が在る。潜水艦まで在る。潜水艦というのは非常に独特な形をしていて、街には潜水艦のことを紹介する海上自衛隊の史料館まで在るのだが、現在活動している潜水艦が呉を拠点にしているので、それが停泊する様子が視える場所が在る。以前に呉に立寄った時、その潜水艦が視える場所に寄った覚えが在る。それを思い出したのは好いが、「あそこは何と呼ぶのだ?!」ということになってしまった。
「潜水艦が停泊している様子が視える」というのは、「非常に特徴的な景色」ということになる訳で、呉に関する様々な情報を調べると直ぐに場所は判った。呉で視られるような次元で「潜水艦が停泊している様子が視える」というような例は、国内外に広く類例を求め悪いという程度に「特徴的な景色」ということにもなるらしい。
<アレイからすこじま>という緑地を目指せば善いのだ。整備された緑地でその「非常に特徴的な景色」を愉しむことが叶うのだ。
「アレイ」とは英語の「alley」で「小路」という程の意味だ。「からすこじま」とは辺りに在った「烏小島」という島に因むのだという。周囲が40mという小さな「烏小島」は、大正時代に魚雷発射訓練場を設けようとした時に埋め立ててしまっていて、現在は無いということだ。
この<アレイからすこじま>を目指そうと、呉駅辺りから歩き始めて思い違いで妙な方向に歩いて、また呉駅へ戻って再出発で辿り着くというような余計なこともしてしまったが、それでも辿り着いた時には少し嬉しかった。
↓潜水艦が停泊している様子が視えた…
↓水上を往来する艦艇も見受けられるが、艦体の大部分が海中に沈んでいる潜水艦が視えているのは興味深い…
↓潜水艦も少し纏まった数が並んでいるという様子は、何やら独特で面白い…
↓潜水艦は、水圧の強い海底を航行するのに好適な形という、「機能美を突き詰めた」というような形状であるのが面白いと思う…
↓古くは魚雷を動かすために用いられたというクレーンが在る…現在では“オブジェ”という感ではあるが…
↓暫し、こういう様子を見入っていた…
この<アレイからすこじま>…強く記憶に留め、きっとまた訪ねてみたい…
「こういうモノが在って、こういう場所を通って辿り着いて…」というような次元のことをかなり漠然と覚えている。忘れてしまうのでもない。が、「あそこは何と呼ぶのだ?!」という場合が生じてしまう。
「東側(関西や途中の岡山等)から広島へ向かう?敢えて呉を廻って?」というようなことを思い付いた時、以前に呉に立ち寄った際の「こういうモノが在って、こういう場所を通って辿り着いて…」というような次元のことを幾分思い出した。そして「あそこは何と呼ぶのだ?!」という場合が見事に生じた。
呉は海上自衛隊の艦艇が利用する港で、様々な種類の艦艇が在る。潜水艦まで在る。潜水艦というのは非常に独特な形をしていて、街には潜水艦のことを紹介する海上自衛隊の史料館まで在るのだが、現在活動している潜水艦が呉を拠点にしているので、それが停泊する様子が視える場所が在る。以前に呉に立寄った時、その潜水艦が視える場所に寄った覚えが在る。それを思い出したのは好いが、「あそこは何と呼ぶのだ?!」ということになってしまった。
「潜水艦が停泊している様子が視える」というのは、「非常に特徴的な景色」ということになる訳で、呉に関する様々な情報を調べると直ぐに場所は判った。呉で視られるような次元で「潜水艦が停泊している様子が視える」というような例は、国内外に広く類例を求め悪いという程度に「特徴的な景色」ということにもなるらしい。
<アレイからすこじま>という緑地を目指せば善いのだ。整備された緑地でその「非常に特徴的な景色」を愉しむことが叶うのだ。
「アレイ」とは英語の「alley」で「小路」という程の意味だ。「からすこじま」とは辺りに在った「烏小島」という島に因むのだという。周囲が40mという小さな「烏小島」は、大正時代に魚雷発射訓練場を設けようとした時に埋め立ててしまっていて、現在は無いということだ。
この<アレイからすこじま>を目指そうと、呉駅辺りから歩き始めて思い違いで妙な方向に歩いて、また呉駅へ戻って再出発で辿り着くというような余計なこともしてしまったが、それでも辿り着いた時には少し嬉しかった。
↓潜水艦が停泊している様子が視えた…
↓水上を往来する艦艇も見受けられるが、艦体の大部分が海中に沈んでいる潜水艦が視えているのは興味深い…
↓潜水艦も少し纏まった数が並んでいるという様子は、何やら独特で面白い…
↓潜水艦は、水圧の強い海底を航行するのに好適な形という、「機能美を突き詰めた」というような形状であるのが面白いと思う…
↓古くは魚雷を動かすために用いられたというクレーンが在る…現在では“オブジェ”という感ではあるが…
↓暫し、こういう様子を見入っていた…
この<アレイからすこじま>…強く記憶に留め、きっとまた訪ねてみたい…
呉線の車窓を愉しんだ…(2021.12.22)
所謂“中国地方”というのは、本州という長大な島の南西部を占めていて、東西にやや広く拡がっている。その“中国地方”の瀬戸内海側で、やや西寄りな広島と、東寄りな岡山が「二大都市」というようなことになるのだと思う。
この広島と岡山との間を往来しようとするなら、幾つもの経路、幾つもの交通手段が在り得ると思う。所要時間も料金も様々であろう。今般、「岡山から広島へ」という移動を企図した。少し踏み込めば、奈良で過ごした後に広島を目指そうとしていたので「関西圏から広島へ」という移動をしたことになるのだが、奈良を発った早朝に神戸へ直通する列車に乗り込み、辿り着いた神戸で新幹線の駅まで歩いてしまったことから、何となく新幹線の列車に乗車してみたくなり、一気に広島入りでもなく岡山に寄り道ということにしてしまった。そういう訳で「岡山から広島へ」ということになった。
その「岡山から広島へ」ということであれば、手中に在った<青春18きっぷ>による移動―普通列車を乗り継いでの移動―を「し易い…」と見受けられる地域だと思った。地域によっては「利用を阻んでいる?!」と首を傾げたい程度に列車が少ない場合も在るが、岡山・広島間であれば幾つかの経路でドンドン乗り継いで、順調に移動し得ると観た。
そして思い付いたのは「久し振りな感じで呉に寄りながら広島に至る」という経路である。
岡山は様々な路線の結節点となっているが、最も列車本数が多いのは、概ね瀬戸内海に沿って東西に延びる山陽線であると思う。<青春18きっぷ>による移動―普通列車を乗り継いでの移動―についても、その山陽線の列車で西へ進めば広島は然程遠くもないように思う。が、敢えて「呉線」を経由してみることとした。
「呉線」というのは、広島県内の三原から海岸部を大きく回って呉を経て広島の手前の海田市(かいたいち)までの87㎞の区間を指すという。呉のやや東側の広辺りを発着している列車の多くは海田市から更に進み、広島へ至るような運行が多いので、広島までが「呉線」であるように感じないでもないのだが、路線の区分けとしては海田市までであるそうだ。
海田市と呉との間は1903(明治36)年に鉄道が開通している。呉が海軍工廠を要する重要な軍港として発展しようという中、広島との間を結ぶ交通の整備が急がれて開通したのであろう。東側の三原とを結ぶ部分は、1930(昭和5)年に部分開業で、1935(昭和10)年に呉までの全線が開通している。従って、現在の呉線は1935(昭和10)年以来の歴史を有するということになる。
岡山から西へ、山陽本線の普通列車を利用するとなれば、余り深く考えなくても駅まで行くと「西へ進む列車」には乗車可能だ。
↓こういうような山陽線を行き交う列車に岡山駅で乗車する…
↓早朝からその列車に乗って糸崎に至った。糸崎から広島方面へ向かう列車に乗換える…
↓隣の三原に到り、三原で呉線の列車に乗り換えて呉へ向かったのだった。
因みに…岡山で管轄している線区では古くからの車輛も見受けられるのだが、広島で管轄している線区では「近年の西日本の主力」に躍進した感じの227系電車が専らという感じになった昨今だ。227系電車は広島で初めて登場した後、各地の線区で古い車輛を置き換える際に採用されているという経過である。
この227系電車の列車に三原で乗り込み、呉を目指した…
↓進行方向左側に陣取ったのだったが…呉線の区間に入れば、車窓に海が視えた!
↓そして造船所も視えた…
↓対岸の四国、愛媛県を本拠地とする会社の工場であったらしい…この辺り、広島県、愛媛県というような瀬戸内海辺りは造船業が盛んな地域でもあることを思い出した…
↓朝が遅い12月であるからだと思うのだが、何やら朝の光と海の風情が酷く好い感じだ…
↓海岸に迫るように集落が見受けられ、海には「養殖?牡蠣!?」というモノも視えるようになる…
↑「広島県」と言うと、殊にやや西寄りな辺りでは「牡蠣の養殖」が盛んであるという…
牡蠣の養殖だが、北海道の宗谷地方と少し縁が在る。
牡蠣の幼生は2週間程浮遊しているが、やがて岩場等に付着するようになる。養殖ではこの性質を利用する。幼生が浮遊している海中にホタテの貝殻を沈めると、幼生は貝殻に付着する。「採苗」と呼ばれるそうだ。
この「採苗」に用いるホタテの貝殻は北海道の宗谷地方から大量に供給されている。稚内港には、この用途で広島県へ送るための夥しい数の貝殻が袋に入って積まれているのが見受けられる場合も在るのだ。
↓やがて呉が近付く…
↓「いよいよ到着!」と列車の先頭側に歩を進めて、前方を少し眺めてしまった…
↓列車は呉駅に到着し、乗降が済んで、直ぐに行先である広島を目指して発車する…
ハッキリ言えば、岡山から広島へ普通列車で移動しようとする中、呉線経由は「遠回り」である。が、車窓を愉しんで、色々と面白い呉に寄ってみるということなら、積極的に「呉線経由」を択んでも好いような気がする。
今般、呉線を列車で移動したというのが酷く愉しかった…こうして写真を多数掲出して、記憶を強く留めたいと思った…
この広島と岡山との間を往来しようとするなら、幾つもの経路、幾つもの交通手段が在り得ると思う。所要時間も料金も様々であろう。今般、「岡山から広島へ」という移動を企図した。少し踏み込めば、奈良で過ごした後に広島を目指そうとしていたので「関西圏から広島へ」という移動をしたことになるのだが、奈良を発った早朝に神戸へ直通する列車に乗り込み、辿り着いた神戸で新幹線の駅まで歩いてしまったことから、何となく新幹線の列車に乗車してみたくなり、一気に広島入りでもなく岡山に寄り道ということにしてしまった。そういう訳で「岡山から広島へ」ということになった。
その「岡山から広島へ」ということであれば、手中に在った<青春18きっぷ>による移動―普通列車を乗り継いでの移動―を「し易い…」と見受けられる地域だと思った。地域によっては「利用を阻んでいる?!」と首を傾げたい程度に列車が少ない場合も在るが、岡山・広島間であれば幾つかの経路でドンドン乗り継いで、順調に移動し得ると観た。
そして思い付いたのは「久し振りな感じで呉に寄りながら広島に至る」という経路である。
岡山は様々な路線の結節点となっているが、最も列車本数が多いのは、概ね瀬戸内海に沿って東西に延びる山陽線であると思う。<青春18きっぷ>による移動―普通列車を乗り継いでの移動―についても、その山陽線の列車で西へ進めば広島は然程遠くもないように思う。が、敢えて「呉線」を経由してみることとした。
「呉線」というのは、広島県内の三原から海岸部を大きく回って呉を経て広島の手前の海田市(かいたいち)までの87㎞の区間を指すという。呉のやや東側の広辺りを発着している列車の多くは海田市から更に進み、広島へ至るような運行が多いので、広島までが「呉線」であるように感じないでもないのだが、路線の区分けとしては海田市までであるそうだ。
海田市と呉との間は1903(明治36)年に鉄道が開通している。呉が海軍工廠を要する重要な軍港として発展しようという中、広島との間を結ぶ交通の整備が急がれて開通したのであろう。東側の三原とを結ぶ部分は、1930(昭和5)年に部分開業で、1935(昭和10)年に呉までの全線が開通している。従って、現在の呉線は1935(昭和10)年以来の歴史を有するということになる。
岡山から西へ、山陽本線の普通列車を利用するとなれば、余り深く考えなくても駅まで行くと「西へ進む列車」には乗車可能だ。
↓こういうような山陽線を行き交う列車に岡山駅で乗車する…
↓早朝からその列車に乗って糸崎に至った。糸崎から広島方面へ向かう列車に乗換える…
↓隣の三原に到り、三原で呉線の列車に乗り換えて呉へ向かったのだった。
因みに…岡山で管轄している線区では古くからの車輛も見受けられるのだが、広島で管轄している線区では「近年の西日本の主力」に躍進した感じの227系電車が専らという感じになった昨今だ。227系電車は広島で初めて登場した後、各地の線区で古い車輛を置き換える際に採用されているという経過である。
この227系電車の列車に三原で乗り込み、呉を目指した…
↓進行方向左側に陣取ったのだったが…呉線の区間に入れば、車窓に海が視えた!
↓そして造船所も視えた…
↓対岸の四国、愛媛県を本拠地とする会社の工場であったらしい…この辺り、広島県、愛媛県というような瀬戸内海辺りは造船業が盛んな地域でもあることを思い出した…
↓朝が遅い12月であるからだと思うのだが、何やら朝の光と海の風情が酷く好い感じだ…
↓海岸に迫るように集落が見受けられ、海には「養殖?牡蠣!?」というモノも視えるようになる…
↑「広島県」と言うと、殊にやや西寄りな辺りでは「牡蠣の養殖」が盛んであるという…
牡蠣の養殖だが、北海道の宗谷地方と少し縁が在る。
牡蠣の幼生は2週間程浮遊しているが、やがて岩場等に付着するようになる。養殖ではこの性質を利用する。幼生が浮遊している海中にホタテの貝殻を沈めると、幼生は貝殻に付着する。「採苗」と呼ばれるそうだ。
この「採苗」に用いるホタテの貝殻は北海道の宗谷地方から大量に供給されている。稚内港には、この用途で広島県へ送るための夥しい数の貝殻が袋に入って積まれているのが見受けられる場合も在るのだ。
↓やがて呉が近付く…
↓「いよいよ到着!」と列車の先頭側に歩を進めて、前方を少し眺めてしまった…
↓列車は呉駅に到着し、乗降が済んで、直ぐに行先である広島を目指して発車する…
ハッキリ言えば、岡山から広島へ普通列車で移動しようとする中、呉線経由は「遠回り」である。が、車窓を愉しんで、色々と面白い呉に寄ってみるということなら、積極的に「呉線経由」を択んでも好いような気がする。
今般、呉線を列車で移動したというのが酷く愉しかった…こうして写真を多数掲出して、記憶を強く留めたいと思った…
旧 陸軍被服支廠…(2021.12.23)
↓住宅が並んでいて、その隙間にコンビニの店舗が見受けられるというような、何処の街にも在りそうな街並みの背後に、何やら酷く大きな煉瓦の壁が視えている…
↓こういうように大きな煉瓦の壁が在るのだが、それらには鉄の扉、それもやや歪んで上手く閉まらなくなってしまっている箇所も散見するような様子になっている。
↓これは広島に「昭和20年8月以前」から在った、言葉を換えると「被爆建物」ということになる代物だ…
↓1913年頃、大正に元号が切り替わって日が浅かった頃に登場した軍需工場で「陸軍被服支廠」と呼ばれるそうだ…
↓正直、普通に住宅地化しているような場所の一隅に、この種の非常に大きな歴史的建造物の壁が視えることに些か驚いた…
「被爆建物」というようなことで紹介され、敷地に入ることが出来ないようになっている関係で、何やら用地を管理している県庁の御担当を事前に訪ねてカギを拝借し、現場に立ち入った後にカギを返却というように紹介されてはいる。が、ここはそういう面倒な話しでもなく、何となく訪ねれば大規模な古びた煉瓦の壁が「その辺の大きな塀」というような具合に在るのだ…
↓爆心地からは2.7キロメートル程度であるというが、爆風で鉄の扉の一部が歪んでしまったという。
何棟も在る建物が、被爆者の臨時救護所として利用された経過も在るそうだが、戦後暫くは倉庫として利用され、やがて使用されなくなった後は「如何する?」ということになって年月が重ねられているらしい…
この種の建物に関心が在るということで、広島の友人と話していたところ「アレなら歩いて行く範囲だ…」と案内してくれた。大変に有難かったのだが、他方で「こういう様子!?」と少々驚いた…
保存するにしても耐震補強工事を施した上でのことになり、多大な費用が要る。取り壊すにしても、かなり堅牢な煉瓦造の大きな構造物を扱うので費用が酷く大きくなる。様々な面倒な事情も在るのだと思うが、こういう歴史的建造物は、何とかして一部でも永く伝えて頂きたいものだと強く思った…
↓こういうように大きな煉瓦の壁が在るのだが、それらには鉄の扉、それもやや歪んで上手く閉まらなくなってしまっている箇所も散見するような様子になっている。
↓これは広島に「昭和20年8月以前」から在った、言葉を換えると「被爆建物」ということになる代物だ…
↓1913年頃、大正に元号が切り替わって日が浅かった頃に登場した軍需工場で「陸軍被服支廠」と呼ばれるそうだ…
↓正直、普通に住宅地化しているような場所の一隅に、この種の非常に大きな歴史的建造物の壁が視えることに些か驚いた…
「被爆建物」というようなことで紹介され、敷地に入ることが出来ないようになっている関係で、何やら用地を管理している県庁の御担当を事前に訪ねてカギを拝借し、現場に立ち入った後にカギを返却というように紹介されてはいる。が、ここはそういう面倒な話しでもなく、何となく訪ねれば大規模な古びた煉瓦の壁が「その辺の大きな塀」というような具合に在るのだ…
↓爆心地からは2.7キロメートル程度であるというが、爆風で鉄の扉の一部が歪んでしまったという。
何棟も在る建物が、被爆者の臨時救護所として利用された経過も在るそうだが、戦後暫くは倉庫として利用され、やがて使用されなくなった後は「如何する?」ということになって年月が重ねられているらしい…
この種の建物に関心が在るということで、広島の友人と話していたところ「アレなら歩いて行く範囲だ…」と案内してくれた。大変に有難かったのだが、他方で「こういう様子!?」と少々驚いた…
保存するにしても耐震補強工事を施した上でのことになり、多大な費用が要る。取り壊すにしても、かなり堅牢な煉瓦造の大きな構造物を扱うので費用が酷く大きくなる。様々な面倒な事情も在るのだと思うが、こういう歴史的建造物は、何とかして一部でも永く伝えて頂きたいものだと強く思った…
<てつのくじら館>(Submarine Museum)=海上自衛隊呉史料館(2021.12.22)
↓呉を訪ね、JR呉駅の海側の方に進んで行くとこういうような様子が眼に留まる。「眼に留まる」というのではなく「必ず気付く」という程度に目立つ…
↓退役した「本物!」の潜水艦が地上に鎮座している場所だ…
↑<あきしお>という艦である。1985年に進水して1986年に就役、活動を続けていて、2004年に除籍となっている。2006年に準備中だった史料館に据えられたそうだ。
潜水艦や掃海艇の活動を軸に海上自衛隊の歴史や、呉と海上自衛隊との関係を紹介する史料館とすることを目指して設立されたのがこの施設で、「鋼鉄の鯨?」というような感の潜水艦に因んで<てつのくじら館>という愛称が冠せられたそうだ。
↓以前に一度立寄った記憶も在る。が、再訪してミュージアムショップで何やら買物もしてしまった。
海上自衛隊の潜水艦は色々な意味でかなり重要な役目を担っていると言われ、また艦のメカニズムも独特なのだが、その「本物!」に触れながら色々と学ぶことが叶うこの史料館は訪ねる価値が高い。呉には他にも魅力的な場所が幾つか在るとは思うが、自身としてはここを「一押し!」としたい…
↓退役した「本物!」の潜水艦が地上に鎮座している場所だ…
↑<あきしお>という艦である。1985年に進水して1986年に就役、活動を続けていて、2004年に除籍となっている。2006年に準備中だった史料館に据えられたそうだ。
潜水艦や掃海艇の活動を軸に海上自衛隊の歴史や、呉と海上自衛隊との関係を紹介する史料館とすることを目指して設立されたのがこの施設で、「鋼鉄の鯨?」というような感の潜水艦に因んで<てつのくじら館>という愛称が冠せられたそうだ。
↓以前に一度立寄った記憶も在る。が、再訪してミュージアムショップで何やら買物もしてしまった。
海上自衛隊の潜水艦は色々な意味でかなり重要な役目を担っていると言われ、また艦のメカニズムも独特なのだが、その「本物!」に触れながら色々と学ぶことが叶うこの史料館は訪ねる価値が高い。呉には他にも魅力的な場所が幾つか在るとは思うが、自身としてはここを「一押し!」としたい…
「海上自衛隊潜水艦教育隊」のパーカー…(2021.12.22)
出先で何気なく衣類を求めて使い始め、そのまま旅の途次で着用してしまって、何やら「以前からの気に入っているモノ」に似たような存在感を示す場合が在る。
↓胸にさり気なく海上自衛隊の潜水艦隊で用いる記章の画が入っているが、「自衛隊のグッズ」という雰囲気は薄い代物だ。普通の温かいパーカーだ。
↓背中には「SUBMARINE TRAINING CENTER」と、潜水艦に乗り組む隊員の訓練を行う「海上自衛隊潜水艦教育隊」を示す大きなマークが入っている。と言って、酷く派手な印象でもない。
自衛隊関係者向けの衣類は、結局のところ「使い易い」という実用本位で、そこに着用している関係者の所属や経歴を示唆するような記章やエンブレムや文字が入るというのが通例だと思う。このパーカーもそういう例に漏れない。
何か「ニュアンスが異なる様々な寒さ」という中で動き回っている状況だが、そういう具合な中で、この種の素朴な「温かいパーカー」という程のモノが酷く有難い。この記事を綴っている現在は京都に在って、北海道へ引揚げようとしているのだが、これを確り着用している。北海道内であっても、冬季等には好適なパーカーだ。そしてそれ以上に、「海上自衛隊潜水艦教育隊」を示す大きなマークが酷く好い…
↓胸にさり気なく海上自衛隊の潜水艦隊で用いる記章の画が入っているが、「自衛隊のグッズ」という雰囲気は薄い代物だ。普通の温かいパーカーだ。
↓背中には「SUBMARINE TRAINING CENTER」と、潜水艦に乗り組む隊員の訓練を行う「海上自衛隊潜水艦教育隊」を示す大きなマークが入っている。と言って、酷く派手な印象でもない。
自衛隊関係者向けの衣類は、結局のところ「使い易い」という実用本位で、そこに着用している関係者の所属や経歴を示唆するような記章やエンブレムや文字が入るというのが通例だと思う。このパーカーもそういう例に漏れない。
何か「ニュアンスが異なる様々な寒さ」という中で動き回っている状況だが、そういう具合な中で、この種の素朴な「温かいパーカー」という程のモノが酷く有難い。この記事を綴っている現在は京都に在って、北海道へ引揚げようとしているのだが、これを確り着用している。北海道内であっても、冬季等には好適なパーカーだ。そしてそれ以上に、「海上自衛隊潜水艦教育隊」を示す大きなマークが酷く好い…
<海自デジ迷彩マスク>…(2021.12.22)
出先で何気なく求めて使い始めたモノが「以前から普通に愛用中…」というモノのように酷く馴染む場合が在る。
↓呉で求めたモノである。
↑海上自衛隊では、蒼系の色でデジタル迷彩というパターンを作って、色々と使っているらしいのだが、その柄の記事を使って作ったというマスクが売られていた…
↓大き目なサイズのモノを入手したのだが、これが程好い大きさで使い心地は悪くない…
広島に入って以降、これを使っているが存外に具合が好い。自身の場合、「マスク着用そのもの」に関して、些か按配が悪いような気もしているのだが、程好いサイズの布のモノが相対的には使い易い。何日か前からの使用だが、既に随分以前から使用中のような感になっている。
↓呉で求めたモノである。
↑海上自衛隊では、蒼系の色でデジタル迷彩というパターンを作って、色々と使っているらしいのだが、その柄の記事を使って作ったというマスクが売られていた…
↓大き目なサイズのモノを入手したのだが、これが程好い大きさで使い心地は悪くない…
広島に入って以降、これを使っているが存外に具合が好い。自身の場合、「マスク着用そのもの」に関して、些か按配が悪いような気もしているのだが、程好いサイズの布のモノが相対的には使い易い。何日か前からの使用だが、既に随分以前から使用中のような感になっている。
<そば肉玉>:お好み焼き…:西広島にて…(2021.12.23)
早朝から精力的に動き回っていた中、広電西広島に辿り着いた。JR西広島駅の隣りでもある…所謂「昼食時間帯」に差し掛かろうかというような頃合いだった。
↓こんな店を眼に留め、入ってみた…
↓そしてこの「お好み焼き」を頂いてしまった。<そば肉玉>と号する。
概ね満席な状態がずうっと続いていた。食事を終えて帰った方が在れば即座に場所を片付け、そこに次の方が着席である。
大きな鉄板を駆使して、店の方が切れ間無くお好み焼きを作り続けている。途切れない来店客の分に加えて、店に取りに来て持ち帰るという人達の分までドンドン焼いている。
粘性が在るように見える溶いた粉を鉄板上に垂らして、円形にクレープ状なモノを作る。そこにキャベツとモヤシを載せ、天かすを載せて調味料を振る。肉も載せる。引っ繰り返し、もう一度引っ繰り返してそこに粉を少し垂らす。他方で“そば”を焼き、焼いている他のモノと組み合わせる。そして鉄板上に卵を割って、その上にそこまでの工程で出来ているモノを載せる。モノをへらで押して形を整える。そうすると上の画のような<そば肉玉>が出来上がる…作業は豪快で速い…精巧な機械で作るかのように、殆ど変わらない見た目のお好み焼きがドンドン出来る。時々“トッピング”で標準仕様以外のモノも混じるが、それにも確り対応している。「見事…」と何となく見入ってしまっていた。お好み焼きの作り方としては他所と変わらないと思うが、自身ではここまで凄いの作業の様子は視た記憶が無い…
↓カウンター席の眼前、鉄板になっている箇所に出て来るお好み焼きであるが、好みでマヨネーズやソースを点ける。そして小さなヘラで切って、小皿に取りながら頂く。
西広島駅前の、地元で長く親しまれているように見受けられた店だったが、焼いている様子が見事で驚きながら見ていた。そして大変に美味しく頂いた。840円という価格にも驚いた。満足度としては「倍位なら払っても構わない…」とさえ思った。これもまた「広島が誇る文化!」であると思った…さり気なくそういうモノに触れられて好かった。
↓こんな店を眼に留め、入ってみた…
↓そしてこの「お好み焼き」を頂いてしまった。<そば肉玉>と号する。
概ね満席な状態がずうっと続いていた。食事を終えて帰った方が在れば即座に場所を片付け、そこに次の方が着席である。
大きな鉄板を駆使して、店の方が切れ間無くお好み焼きを作り続けている。途切れない来店客の分に加えて、店に取りに来て持ち帰るという人達の分までドンドン焼いている。
粘性が在るように見える溶いた粉を鉄板上に垂らして、円形にクレープ状なモノを作る。そこにキャベツとモヤシを載せ、天かすを載せて調味料を振る。肉も載せる。引っ繰り返し、もう一度引っ繰り返してそこに粉を少し垂らす。他方で“そば”を焼き、焼いている他のモノと組み合わせる。そして鉄板上に卵を割って、その上にそこまでの工程で出来ているモノを載せる。モノをへらで押して形を整える。そうすると上の画のような<そば肉玉>が出来上がる…作業は豪快で速い…精巧な機械で作るかのように、殆ど変わらない見た目のお好み焼きがドンドン出来る。時々“トッピング”で標準仕様以外のモノも混じるが、それにも確り対応している。「見事…」と何となく見入ってしまっていた。お好み焼きの作り方としては他所と変わらないと思うが、自身ではここまで凄いの作業の様子は視た記憶が無い…
↓カウンター席の眼前、鉄板になっている箇所に出て来るお好み焼きであるが、好みでマヨネーズやソースを点ける。そして小さなヘラで切って、小皿に取りながら頂く。
西広島駅前の、地元で長く親しまれているように見受けられた店だったが、焼いている様子が見事で驚きながら見ていた。そして大変に美味しく頂いた。840円という価格にも驚いた。満足度としては「倍位なら払っても構わない…」とさえ思った。これもまた「広島が誇る文化!」であると思った…さり気なくそういうモノに触れられて好かった。