225系電車…:彦根駅(2024.12.30)

彦根駅で乗場に出て列車を待った。

↓程無く列車が現れた。
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↑2010年に初登場し、2024年に至る迄順次製造が続いていた225系電車である。

↓停車に向けて減速する。
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↓停車駅の少ない新快速だ。
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↓これに乗車し、とりあえず京都駅へ移動することとした。
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今般、JR西日本の新快速への乗車はこの機会だけだったと思う。機会が在れば、この新快速ももっと利用機会を設けたい感だ。
posted by Charlie at 16:01Comment(0)滋賀県

居室等…:<東横イン彦根駅東口>(2024.12.29)

松本の宿に2泊した後に西へ移動した。そして彦根駅東口に至った。

↓辺りは、古くからの経過が在る街というよりも、何か新しめな大きな建物が点在する新興地域という風情だった。
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↓歩き廻って、少し離れた辺りの御店に入り、宿の居室で飲むモノ等を求めた。そして何やら辺りを睥睨するかのような建物の宿に入った。
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↓居室は見慣れた感じだ。
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↓初めての施設でありながらも、何か「既視感」のようなモノを覚える様子だ。
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↓こういうような居室でゆったりとするのが、他地域へ出た場合の自身の定番である。
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この辺りに至って、少しフットワークが悪くならざるを得ないコンディションに陥ってしまっていた。そういう訳で、彦根は歩き廻らず、この居室で寛いで居た。そういう意味で「やや変わった行動」という感じで、この宿は記憶に少し残る。
posted by Charlie at 14:22Comment(0)滋賀県

彦根駅東口…(2024.12.29)

「西へ向けて…」ということで移動していて、彦根に宿を求めて休むことにした。その求めた宿が彦根駅の「東口」ということであった。

このブログに写真は無いが、ブログを始めた2016年よりも随分と以前に何度か彦根には立寄った経過が在る。そういう中で「東口」という表現に余り馴染が無かった。

↓そんなことを思いながら辿り着いた彦根駅の「東口」である。
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↑初めて辿り着いた辺りということになる。

「東口」というのは、城下町の趣が漂うような辺り、或いは彦根城そのものへ通じる辺りとは逆の側になる。何か「新興地域の新しい鉄道駅」という風情になっていると思った。

過去に訪ねた経過が在る辺りの中にも「よく判らない」は色々と存在するということになる。
posted by Charlie at 14:05Comment(0)滋賀県

米原駅…新幹線…(2024.12.24)

↓米原駅だ。新幹線のホームである。
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↓名古屋駅で思わず入手して使った切符の故にここに在る。
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↓新幹線各駅に停車しながら新大阪駅へ向かう列車だった。名古屋で列車に駆け込むと、岐阜羽島駅、米原駅と然程の時間は要さない。
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↓佇んで居れば列車は動き始めていた。
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↓列車を見送り、自身も移動を続けた。
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振り返ると、今般は思い付きでこの名古屋・米原間で乗車した以外で新幹線の列車は利用しなかった。そんな場合も在るであろう。
posted by Charlie at 14:23Comment(0)滋賀県

新紙幣3種…(2024.12.30)

↓彦根の宿で何となく財布の中身を観た。
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↑新しい1万円紙幣、5千円紙幣、千円紙幣が勢揃いした。これまで、こういう事が無かったので、写真に新紙幣を撮ってみた。
posted by Charlie at 04:25Comment(0)滋賀県

湖西線の車窓…(2023.12.28)

敦賀駅で列車に乗って京都駅を目指した。

京都と北陸地方とを鉄路で結ぶ経路としては、琵琶湖の東側を通る経路が賑やかであると思う。滋賀県内の名を聞く機会がより多い街(=駅)が連なっている感だ。列車本数も多い。これに対して琵琶湖の西側は、比叡山の麓に相当するような場所を通るのだが、列車本数がやや少ない感じの湖西線という経路が在る。敦賀・京都間の場合、琵琶湖の東側を通ると120㎞程度だが、湖西線経由は95㎞程度だ。距離が短いので湖西線経由は速い。

そういう理屈も在るのだが、敦賀駅で列車に乗ろうとした際、普通列車は湖西線経由のモノで、東側へ出るなら乗換が必要であった。滋賀県内の道草を想わないでもなかったが、敦賀が面白く、少しゆっくりしていたので、宿を求めた京都に早く動いておこうとしたのだった。

↓ゆったりと、然程混み合うでもない列車内で過ごし、車窓を眺めていた。因みに…こういう画を視易い程度に「真直ぐ」で撮るのは存外に難しいかもしれない…巧く撮れた画が在って、一寸引っ張り出してみた。
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↑冬なので何かが植えられている様子でもないが、水田または畑と思われる用地が拡がる場所が続いているという車窓だった。駅の間近には建物が見えるのだが、大型施設や高層建築は近くに見えない感じだった。

実は滋賀県は文化財が多い県だ。湖西線の沿線にも色々な文物が在るのだと思う。何時かゆっくりと訪ねたいと思う。
posted by Charlie at 03:49Comment(0)滋賀県

桜…:大崎寺:海津大崎(2023.04.03)

船で海津大崎に到った。何か団体旅行と見受けられる皆さんが坂道、または階段を上がり始めた。少しずらそうと湖岸でぼんやりして、少し遅れて階段のようになっている辺りをゆっくりと上った。

↓眼下で光る湖水面を背後に桜が咲いている様子が見受けられた。
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↓桜の花が溢れているような、複雑な枝の感じが面白い。
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↓見事な様子を見入ってしまった。
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↓湖岸の高台には大崎寺(おおさきじ)が在る。真言宗智山派の寺で、秘仏の千手観音が御本尊であるという。それに因んで「大崎観音」とも呼び習わされるという。
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↓寺の建物全般の感じは地形の制約で眺め悪いと思った。が、建物の直ぐ脇で桜が咲き誇る感じは凄かった。
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↓寺を参拝し、琵琶湖の桜と巡り合って愉しい一時を過ごすことが叶ったことに関して感謝の意を表した。
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琵琶湖の北西側に相当する地域であるが、個人的には余り知らない面も在る。今般、好い形で巡り合えたと思う。
posted by Charlie at 06:31Comment(0)滋賀県

琵琶湖の桜:「花見船 長浜‐海津大崎」=<リオグランデ>…(2023.04.03)

↓長浜港に船が着いた。
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↓「花見船」と銘打った遊覧船となる。桜の名所である海津大崎との間を往復する。
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↓長浜から海津大崎は1時間程度の航行となる。
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↑船上に在る時の感覚としては「波静かな日の離島航路の船」というのと余り差が無いような気もした。

↓海津大崎の辺りに至る。湖岸に延長4㎞程度に亘って桜が植えられている。これが見事だ。
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↓甲板に出て、沿岸の様子に見入ってしまった。
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↓折よく満開の時季にここを訪ねることが叶った。
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↓湖上に若干の船が行き交い、沿岸の道路にも車輌が多く出ているようだ。
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↓湖岸の地形の変化や、辺りの他の木々との組合せで、桜の見え方が面白いと思った。
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↓やがて船は海津大崎に到り、30分間程度の上陸となる。
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↓上陸後、また乗船して海津大崎を発った。名残が惜しいと桜を些か眺める。
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↓後方に竹生島を望みながら船は長浜港へ向かった。
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↓船の出入口の辺りにプレートが在った。明治時代に活動した琵琶湖の船大工に起源を有する造船所が在って、そこで生まれた船のようだ。
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船で琵琶湖を走るのは、何か不思議な感じだ。殆ど「海」のようだ。そして沿岸の桜である。非常に好かった!
posted by Charlie at 16:56Comment(0)滋賀県

夕刻の長浜駅にて…(2023.04.03)

船で琵琶湖を遊覧し、下船後に足早に歩いて長浜駅に移動した。何か駐車場を通り抜けて、公園の端から歩道に出るような“近道”も多用して、思った以上に早く長浜駅に到った。

↓長浜駅は橋上駅で、入口からエスカレータで上るようになっている。その入口辺りに大きな画だ。
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↑長浜は豊臣秀吉(当時は“羽柴秀吉”を名乗ったと思われるが…)が初めて「城持ち」となって、城と城下町を整備したことを契機に発展したとされている。そういうことで、城下というイメージと、豊臣秀吉像を組合わせた画だ。

↓京都駅の方向へ向かう新快速が待機中だった。
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↑行先を視ると、京都から大阪、更に神戸や姫路を通って至るような駅の名が掲げられているが、何か列車が少し短いような気もした。

この列車は長浜駅から米原駅迄は各駅に停まりながら進み、米原駅で待機中の列車と連結され、米原から先は12輌で運行の新快速となる。「12輌で運行の新快速」ということなら、関西では少し見慣れた感じになる。

↓京都駅までこの列車で移動した。米原駅で少し長く停まる時間も合わせて、1時間15分程度であった…
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この日の長浜を離れるのが名残惜しかったのと同時に、「好い街に好い感じで出逢った」というような嬉しさが在った。
posted by Charlie at 00:40Comment(0)滋賀県

旧長浜駅…(2023.04.03)

好天に恵まれ、琵琶湖を渡る風がやや冷たかったものの、桜が見事であった長浜は「忘れ難い街」ということになった。

↓その長浜で出逢った建物だ。
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↑1882(明治15)年の建築で、当時の長浜駅なのだという。現在の長浜駅とは場所が少しだけ違うのだが…

「1882(明治15)年」というのは、各地で輸送網の要となる鉄道の敷設が図られ、盛んな活動が見受けられたような時期に相当する。日本海側と大阪等とを結ぼうということで、敦賀から長浜へ鉄道が敷設され、長浜・大津間の琵琶湖上を連絡船で結ぶ形で輸送が行われ始めたのだという。「最初の北陸線」というようなことになるのであろう。この旧長浜駅は、その当時に英国流の設計で、経費を抑えての建築ということでコンクリートで造った建物なのだという。

辺りの鉄道敷設の進展に伴って色々と事情が変わり、この旧長浜駅が駅舎として利用された期間は通算で7年程であったという。長く倉庫になっていたようだ。1958(昭和33)年に「現存する駅舎建築では最古」と鉄道記念物ということになった。以1882(明治15)年降、1980年代頃から資料館等として活用されて現在に至っているようだ。

↓辺りに桜も植えられ、何か凄く雰囲気が好かった。
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↓桜の花弁が散り、辺りに花弁を敷いたようになっている様子も見受けられた。
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↓桜と明治時代の建物との組合せが秀逸だ。
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今般、旧長浜駅で時間を割いてゆっくりと見学をしたのでもない。が、この場所の様子は、何か忘れ難いものとなった。
posted by Charlie at 11:14Comment(0)滋賀県

長浜駅前…(2023.04.03)

京都駅の一つ先、山科駅から列車で米原駅へ移動した。長浜駅へ向かう列車の接続が悪く、思い切ってタクシーで長浜港へ移動した。遊覧船に乗船したかった。

乗船する段取りが整い、乗船迄に間が在るので、辺りを散策して昼食も愉しんだ。その後、「復路は列車で…」ということで、散策の続きを兼ねて「長浜駅の場所を確かめておこう」と歩を進めた。

↓長浜駅前だ…
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↑桜が艶やかで、この日の荒天と相俟って、何か晴れやかな気分で様子を見入っていた。

↓非常に好い状態の桜が観られた…
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友人と出掛ける相談の中、何やら話しが二転三転して長浜に至った。友人はこの滋賀県の北寄りな辺りは初めてということだった。長浜には長く関心が在ったが、立寄る機会を設けられずに居たので、自身も初めての訪問であった。その初めての訪問で、長浜が「忘れ難い場所」という感になったのは大変に幸いである。思い付いて何処かを訪ねると、こういう「幸い」が発生する。それが好い。
posted by Charlie at 01:44Comment(0)滋賀県

Одуванчики(アドゥヴァンチキ)…:タンポポ…(2023.04.03)

実は、米原駅から長浜港へ移動する際、列車の運行間隔が開いてしまう時間帯だったので、タクシーで移動していた。長浜の様子が余り判らない中で友人と連れ立った歩き廻っていた。「あちら側が公園や、駅へ続くような辺りの筈で…」と歩を進めた時、友人が足を停めた。

↓友人は「Одуванчики(アドゥヴァンチキ)!」と少し声を上げ、姿勢を低くしてそれを眺めた。タンポポのことである。
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友人は幼少期、または少し長じてからも、春に戸外を駆け回って、タンポポを愛でるようなことを好んでいて、タンポポを見掛けると酷く懐かしく嬉しい気持ちになるのだという。止むを得ずに故郷を離れているというような事情も在る友人である。子ども時代を懐かしみ、道端の花を愛でる様が、何か少し眩しかった。

そんなことも記憶に留めようと、自身もこのタンポポを写真に収めておいた。
posted by Charlie at 09:50Comment(0)滋賀県

明治山旌忠塔:長浜港の傍…(2023.04.03)

↓長浜港の近くで桜が美しい場所に出くわした。
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↑神社のような、公園のような、何か独特な雰囲気が在った。

長浜港から遊覧船に乗船するということで、友人と連れ立って長浜に辿り着いた。乗船希望が叶ったが、乗船迄に間が在るので辺りを散策することにして、長浜港から歩を進めて程無く出くわした場所だ。

↓奥の方が少し小高くなっている。
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↓何か記念碑のようなモノが小高くなった箇所に在る。
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↓少し凝った書体で揮毫したモノを利用して造った碑だ。「旌忠」という字であるらしい。
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「旌忠」は「せいちゅう」と読む。「国家に対する忠義を顕彰する」という意味だという。

↓1923(大正12)年に碑を建立した旨が在るが、併せて「旌忠」が「乃木将軍遺墨」とも在る。「旌忠」の揮毫は乃木希典が遺したモノを採用したというのだ。
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現在、この辺りは公園や宿泊施設等が在って、普通な場所であるが、大正時代位には湖に半島のように突き出した地形であったという。そういう様が日露戦争の激戦地である旅順を想起させるということで、日露戦争を始めとする戦争での戦死者を顕彰する碑に、激戦の指揮を執った乃木将軍の遺墨を使おうとしたのではないかと考えられているらしい。

↓辺りは桜に彩られ、敷地の出入口に鳥居も据えられている。
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↑鳥居は1936(昭和11)年に建立されているようだ。旌忠塔を中心に、神社に準じるような、戦死将兵を祀る空間というような位置づけが為されたのだろうか。

独特な雰囲気、そして華麗な桜で、何か記憶に残る場所となった。
posted by Charlie at 09:34Comment(0)滋賀県

桜…:長浜城周辺の豊公園にて(2023.04.03)

京都駅や山科駅を起点とすれば、大津駅の方へ進んで琵琶湖東岸に延びる軌道を進む列車に乗って滋賀県内を北上し続け、岐阜県方面への軌道が伸びる米原駅を経て、更に進んだ辺りが「湖北地方」と呼び習わされる辺りであるようだ。その湖北地方の街の代表的な駅が長浜駅ということになる。

長浜は、かの豊臣秀吉(未だ“羽柴秀吉”と名乗っていた頃だが…)が城と城下町を築いた経過が知られる街だ。豊臣秀吉は主君であった織田信長の“長”の字に因んで当時の「今浜」という地名を「長浜」に改めたらしい。その名が現在に至って受継がれているということになる。後に“天下人”となる豊臣秀吉が、初めて「城持ち大名」ということになったのが長浜であった。

長浜城は後に地震で傷んでしまうような経過も経て、江戸時代の政策で城の数が減らされて行く中で、城としては廃止される。が、辺りは水陸の交通の要衝として一定の存在感を保ち続けたようだ。明治期以降も、鉄道駅が設けられるというようなことで、一定の存在感を示していたようだ。

現在、この長浜には琵琶湖を行き交う遊覧船が行き交う港が在る。その遊覧船に乗ってみようと長浜にやって来たが、船に乗る迄に少し時間が生じた。琵琶湖を渡る風がやや冷たい場面も在ったが、好天に恵まれた中、少し辺りを散策することにした。

↓桜が素晴らしい公園に行き当たった…
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↑今季は「開花や満開の時季が例年以上に早い」という様子だった。が、この長浜では見事な様子だった。

↓嘗て長浜城であった辺りで、その天守閣を再現している。その辺りを豊臣秀吉に因んで<豊公園>(ほうこうえん)と呼んでいて、桜が多く植えられている。
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↓見事に花が咲く桜に囲まれるように、城の建物というのは実に美しい。
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聞けば、戦国時代の末期に石垣や壮麗な建物の城が築かれるようになり、江戸時代にも受継がれたが、往時は城に盛んに桜を植えたという訳でもなかったらしい。明治期以降に、城の場所が公的施設の用地として、街の公演として利用されるようになって以降に、好んで桜が植えられるようになったらしい。

↓色々なことが思い浮かぶが、それはそれとして、眼前の桜は素晴らしい…
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↓咲き誇る桜と、城の建物というのは酷く好い。
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↓少し強めな風に桜の花弁が散る「花吹雪」のような様子も些か見受けられた。
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生の花卉を扱う花屋で、花を冷蔵庫に入れて保管している例が在ると思う。花が長持ちするのだという。長浜辺りは、琵琶湖を渡る冷たい風の故に、近隣の地域よりも気温がやや低い。故に開花が少しだけ遅いが、同時に咲いた花が周辺の地域よりも「長持ち?」という傾向が在るらしい。

↓初めて訪ねてみた長浜だが、色々な意味合いで「忘れ難い…」ということになった。他所が「盛りを少し過ぎた?」というような様子の桜を確り観て愉しむことも叶ったのだ。
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posted by Charlie at 00:00Comment(0)滋賀県

焼鯖そうめん…:長浜(2023.04.03)

長浜で琵琶湖を往く遊覧船に乗船することとなったが、船が出る迄に時間が在り、辺りを散策していた。琵琶湖を渡る風が時々冷たかったものの、天候には恵まれていた中、豊公園、要するに長浜城の周辺の琵琶湖岸だが、その辺りの桜が好い感じで凄く心地好かった。

そして「昼食?」ということになった。豊公園へ歩いた時に「食事を供する御店?」と見受けられる建物を視ていたので、そちらに足を運んだ。

↓地元の長浜辺り、「湖北地方」に伝わる郷土料理も含め、様々な食事を供する御店だ。
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↑「焼鯖そうめん」なるモノが酷く気になった…

↓その「焼鯖そうめん」を御願いすると、こういうモノが供された。
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↑鯖を焼き、それを煮込み、煮た時の出汁も合わせてそうめんに和えるというモノだ。これが凄く美味い!焼鯖は、日本海側の魚が京都等に運ばれる通り道になるこの地方ではポピュラーなモノだと思われる。それを使う訳だ。「タレを点けながら頂く」というそうめんの感じではない。何か「或る種のパスタ料理?」というような気もした。

↓序に琵琶湖の幸、ビワマスの造りを摘んだ。美味い刺身だった。
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↓遊覧船が発着する港と鉄道駅とを往来するような道路に面して在る御店だった。
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事前に情報が在ったのでも無いのだが、訪ねた先の名物に出くわし、それが凄く美味かったことは記憶に残る。
posted by Charlie at 17:41Comment(0)滋賀県

“海”のような“湖”と桜と…:長浜(2023.04.03)

↓「海…」という程度に感じながら眺めた琵琶湖である。
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↓古くは大きな湖を「海」とも呼んだらしいというような事も思い出しながら記事を読んだ。
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↓この琵琶湖の海岸に桜の木が在って、花の盛りという感だった。そして湖を渡る風に、花弁が少し散っていた。
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↓地面は芝生になっているようだ。芝生は然程伸びてもいない感では在った。
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「忘れ難い景色」というモノと出くわした長浜であったが、この「湖岸で海のような感じに見えていた辺りに桜」というのも、そうした景色の一つだ。
posted by Charlie at 03:24Comment(0)滋賀県

道標…:草津宿(2022.08.03)

↓この辺りが、「草津宿」の中心的な辺りであったと考えられるそうだ。大きな道標が残り、文化財になっている。
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↑立派な燈籠が据えられ、常夜燈という様相だ。(この燈籠の部分は何度も修理、交換されているようだ…)左が中山道で美濃へ向かう道、右が東海道で伊勢へ向かう道ということである…

東海道に関しては、三重県内の桑名に立寄ったことが在った。正しく伊勢である。

草津から“右”へ進んだ旅人は、関や桑名を通り、桑名からは船を使うか、時代が下って利用頻度が高まった陸路で現在の名古屋市内を経て、更に東へ向かったということなのであろう。

この1本の標柱が、何やら酷く面白いと思い、暫し眺めてしまった。道路の端のような場所ではあったが…
posted by Charlie at 18:53Comment(0)滋賀県

草津宿本陣…(2022.08.03)

所謂「旧街道」というモノは江戸時代に整い、沿道の宿場町等も江戸時代を通じて栄えたのである。

「旧街道」で最も知名度が高いのは、恐らくは東海道か中山道であると思われる。何れも江戸と京とを結ぶのだが、太平洋側を通る東海道に対し、内陸部を通るのが中山道だ。

その東海道と中山道とが合流または分岐する場所が在る。草津宿だ。現在は滋賀県草津市であり、京都駅から列車に乗れば北東側へ走って直ぐだ。

↓草津駅の前にこういう標柱が据えられている。
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↑「左 中山道」ということだ。

↓眼を転ずると「右 東海道」というようになっている。
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この駅前の標柱だが、高架になっていて、人が行き交う広場的な設えの場所に据えられていた。「東海道と中山道が交差した草津」というイメージで据えられているのであろうと思った。

↓高架を下りると、直ぐにこういうような「本陣」を案内する標柱に出くわす。
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↓標柱は幾つか据えられているので、素直に辿って行けば「本陣」に至る。
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旧街道は、江戸時代を通じてモノや人の往来に利用された訳だが、それが発展していった事情の一つに「参勤交代」が在った。各地の大名が、各々の知行地を江戸とを往来し、知行地と江戸の屋敷に隔年で住むという仕組みである。当時の大名は行列を組んで街道を進んで、江戸を目指すか、各々の知行地を目指すかという旅をした。当然、途中の宿場町に宿泊しなければならない。その大名等の宿泊に用いられた場所を「本陣」と称した訳だ。

↓これが草津宿の本陣である。
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草津宿には2件の本陣が在ったそうだ。その中、1軒は建物が綺麗に残っていて、公開されているのだ。

↓中を見学させて頂くこととした。
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↑なかなか広い建物だと思った。

本陣というのは、宿場町の豊かな家の所有する建物を利用する例が多かったようだ。そして、本陣という“宿泊事業”で利潤が得られるという程でもなかったそうだ。

↓利用する人達の要望に合わせて、部屋の仕切りを色々と変えながら利用した様子が伺える。
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↓宿泊する一行の中で、身分が高い人達が入るような場所であるらしい。少し高く設えられているという。
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大名行列のような一行の場合、一行の人員規模は様々であった訳だが、本陣は概ね大名その人と上席の随行者、身分の高い人達の手近な事を手掛けるような人達が入る場所であったように見受けられる。

↓所謂“チャンバラ”な時代劇ドラマで主人公が悪漢達と闘う場所のような…そういう江戸時代の少し広い屋敷の部屋という風情だ。
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↓最も奥まった辺りに、一行の最上位の人物が居室として使う場所が設えられていた。
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↓これが浴室だという…湯を張る桶が、壁際でもない部屋の真中のような場所に敢えて据えられている。入浴中に襲撃を受け悪いようにということらしい。この桶の周辺には、入浴時の介助をする人や警護の人が入ることにもなる。4人や5人で入っても違和感が無いような広さの部屋だ。
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↓大人数が利用する場所に特徴的な、大きな台所も確り在った。
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何かで聞いたような気がするが、大名行列というようなモノは、「日出前から日没後」というような感じで1日に40㎞やそれ以上をずうっと歩くことを何日間も続けるモノなのだそうだ。「〇〇と江戸との間はXX日」という標準的な行程が在って、それに沿って動こうとしていたようだ。それ故、この本陣のような場所に入っても、長く逗留するのでもなかったのであろう。

草津宿に関しては、東海道も中山道も通じていることから、江戸と京またはそれより西の地域とを往来した経過が在る、少し知られた史上の人物達の記録が随分と多く在るようだ。各地の大名行列の他、幕府の公用ということで旅した人達や、江戸等へ嫁いだ公家の姫様というような人達の本陣での宿泊例も在るようだ。そんな様々な人達が在ったであろう場所の感じを愉しんだ。

草津は2つの旧街道が出会う場であった訳だが、過ぎた日々と現在とが出くわすような感じも在るのかもしれないと思った。
posted by Charlie at 18:48Comment(0)滋賀県

<時の旅人>…:草津(2022.08.03)

京都・名古屋間に関して「道草をしながら普通列車で移動しよう」と思い立った。

京都駅で列車に乗り、とりあえず草津駅で下車した。

↓草津を歩き廻って、こんなモノに出くわした。
03-08-2022 XPro2 (25)

↓概ね等身大で、何かSF系の漫画やアニメに登場するサイボーグとかアンドロイドのような感じだ。
03-08-2022 XPro2 (27)

↓<時の旅人>と題されているオブジェで、2人の人物(?)が疾駆して交錯しているというような様子だ。
03-08-2022 XPro2 (23)

草津は東海道と中山道とが交錯している。両街道の分岐点とも合流点とも呼び得る場所だった。そういう色々な方向を行き交うモノが時間を超えて交わっているというイメージなのだろうか?1998年頃に登場したそうだ…

↓何やら面白いモノに出くわした…
03-08-2022 XPro2 (24)
posted by Charlie at 00:00Comment(0)滋賀県

石山寺:大津(2021.12.25)

高野山の宿坊でもある金剛三昧院に多宝塔が伝わる。鎌倉時代初期の建築であるという貴重なモノなのだが、これが北条政子の発願で建てられたのだという。

その話しに加えて聞いたのは、石山寺に「建築年代が明らかなモノとしては日本国内最古と見受けられる」という多宝塔が在って、それが北条政子の夫であった源頼朝の発願で建てられ、寄進されたという話しが在るということだった。話しを聞いた際、金剛三昧院の多宝塔の優美な女性的な感じに対し、石山寺のモノはもっとゴツゴツした男性的な感じかもしれないというようなお話しだった…何やら強く記憶に残った。

過去に立寄った記憶も在る石山寺ではあったが、この多宝塔の話しを聞いて酷く興味が沸いたのだ。

そんな切っ掛けで到った石山寺だった。京阪の石山寺駅に到って、何となく歩けば石山寺の門前には直ぐに至ってしまう。

↓全く初めてという感慨が沸くでもない…何度目かの訪問なのだが…石山寺の立派な門の辺りに辿り着いてしまった…
25-12-2021 X-Pro2 (110)

↓阿吽の金剛力士が護る門ではあるが、年末という時節柄“門松”も登場している。何か「殊更に歓迎して頂いている」というように勝手に感じてしまう面も在る…
25-12-2021 X-Pro2 (111)

↓「“年末のどさくさ”で何やら妙な動き?」と揶揄されそうではあるが、偶々年末時季に時間を設けられたことを幸いに動き回ったに過ぎない…こういう門松は、眺めて美しいとは思う…
25-12-2021 X-Pro2 (112)

こういう独特な風情の門辺りで微妙に感慨に耽り、何となく石山寺の中に入る…

↓「こういう様子」が「石山寺!」という感じなのだと思う…
25-12-2021 X-Pro2 (122)

「石山寺硅灰石」と称するようだが、<石山寺>という呼称の元祖になっている独特な石の山の辺りに伽藍を築いたという経過を強く感じさせる眺めが酷く好い…

↓「紫式部」というような…「酷く古い時代…」というようなことを思う語句も交るような古い時代を想起させる年代の故事を思い出す事柄が語られる本堂が佇んでいる…
25-12-2021 X-Pro2 (126)

↓本当に古くから様々な堂が並んでいて、多くの人々の信心の拠所のようになっている「大伽藍」となっていることを意識せざるを得ないような場所である…
25-12-2021 X-Pro2 (127)

それはそれとして…

↓「石山寺」を少し強く意識する契機となった多宝塔は、兎に角も酷く美しい…
25-12-2021 X-Pro2 (132)

↓この石山寺の美しい多宝塔の様子は、兎に角も記憶に留めたいような気がする…
25-12-2021 X-Pro2 (138)

↓何となく力も入った石山寺再訪という中、「6月生まれは運が好い時期なのかもしれない」という御話しを耳にした辺りは少し愉しかった…
25-12-2021 X-Pro2 (143)

有名な寺に関しては、訪ねてみる人の「各々の向き合い方」というのが夫々に在るのだと思う。自身が訪ねる場合も、そういうようなモノに些か余計な「粋がった奴の勝手な流儀…」が加わるというようなことのようにも思う。が、それはそれとして…

↓色々な事柄が在る有名寺院は、何となく訪ねてみる価値が高いというようには思う…
25-12-2021 X-Pro2 (147)

今般、「思い付いてかの“石山寺”を訪ねて尊い多宝塔を眺めてみて…」よいうようなことを勝手に思っているが、それはそれとして悪くないのかもしれない…
posted by Charlie at 06:24Comment(0)滋賀県

三井寺=天台寺門宗総本山 園城寺:大津(2021.12.25)

「“記憶に残る鉄道路線”の列車を駆使して沿線の名所を巡ってみる」という程度のことをするのは面白いと思う。

今般その“記憶に残る鉄道路線”ということで頭の隅に思い浮かべたのは、路面電車のような規格―実際、路面に軌道が敷設される併用軌道の区間も在るのだが…―と見える可愛らしい車輌を2輌連結した列車が行きかっている京阪の石山坂本線だった。概ね琵琶湖の南西側の岸に沿うように大津市内に軌道が敷設されていて、沿線には名所旧跡が多い。過去に何度か利用した経過が在って、独特な雰囲気を時々思い出す。

その石山坂本線の沿線で「駅名になる程度によく知られているらしい場所ながら、思い返すと訪ねてみた経過が無い…」ということで頭に浮かぶ場所が幾分在る。その一つが三井寺駅に近い三井寺だ。

↓三井寺駅からゆったりと歩いて、こういう看板が在る場所に到った…「三井寺に着いた!」と思ったのだったが…
25-12-2021 X-Pro2 (56)
↑三井寺は幾つもの霊場巡りに加わっている場所であることから、ピンポイントで三井寺の中に在るその場所を目指すという方も多い。そこでそういう人達が利用する出入口が設けられている。行き当たったのはそういう場所だった。

↓「正面の出入口」というのを聴いて、そちらの側に廻り込んだ…
25-12-2021 X-Pro2 (57)
↑立派な門で、年始の準備で門松も飾られている…かの徳川家康が寄進した門であるという…

「三井寺」というのは通称だという。「園城寺」が正しい名であるという。実際、門の脇にも「園城寺」と刻まれた石が在る。

壬申の乱(672年 天智天皇の子である大友皇子と、弟である大海人皇子との争い)で敗れた大友皇子には遺児の大友与多王が在った。大友与多王は祖父たる天智天皇所持であったという弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立して父の菩提を弔うとした。大友皇子との争いを制した大海人皇子は天武天皇となっていたが、686年に大友与多王に寺の建立を許した。そして大友与多王が自身の「荘園城邑」(田畑や屋敷等の財産)を投げ打ってでも寺を建立しようとする志に感じ入った天武天皇は「園城寺」という寺号を与えた。

この園城寺の通称が「三井寺」になったのは「御井寺」が転じたからであるという。寺の辺り涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)という呼称が在って、これから「御井の寺」という通称が登場し、それが転じて「三井寺」になったのだという。

三井寺もまた古刹の例に漏れず、伽藍等が損なわれて再建されてというようなことが繰り返された経過を有している。故にこの「壬申の乱に敗れた皇子の遺児が…」という時代の創建に纏わる事柄を明確に伝える何かが在るということではない。が、三井寺が勢いを持つようになる時代よりも以前の、奈良時代前期と見受けられる旧い瓦等の出土も見受けられたということで、創建の伝承には史実も含まれている可能性が高いようだ。

↓門を潜ると、境内に数々の堂が並ぶ。門から近い辺りに釈迦堂が在った。
25-12-2021 X-Pro2 (61)

↓少しばかり歩を進めると、若干高くなった、半ば独立しているようにも視える少し大きな堂が在った。
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↓これが主要な堂ということになる金堂だ。
25-12-2021 X-Pro2 (69)

↓安土桃山時代の名建築ということになるようだ。
25-12-2021 X-Pro2 (75)

↓江戸時代初期の名工、左甚五郎が彫ったと伝わる龍が視える箇所も在った。
25-12-2021 X-Pro2 (74)

↓天台宗の様式を伝える堂ということであった。中の仏像も色々と在って面白かった。
25-12-2021 X-Pro2 (71)

古い起こりを有する三井寺または園城寺であるが、859年に円珍が入って以降、天台宗系の寺として発展することとなる。

天台宗の高僧で、唐で密教を学んだ経過もある円珍は園城寺を比叡山延暦寺の別院として住み、活動するようになった。そして866年に太政官からの公験(くげん)(=公式的な証明書)を得て、園城寺を顕教、密教に加えて修験道を兼学する場として行くのだ。

やがて天台宗はこの園城寺にあった円珍の流れと、少し前の世代の円仁の流れとに分派するような形になる。園城寺に拠る<寺門>と延暦寺に拠る<山門>という両派で、両派が争う歴史も繰り広げられる。

↓何か「文化財建築の広い展示場」というような境内だ…一切経堂という建物で、向こうに三重塔も視える。
25-12-2021 X-Pro2 (76)

↓「塔が視える」という様子は好きで、寺で出くわすと一寸見入ってしまう。
25-12-2021 X-Pro2 (79)

↓文化財建築を紹介する看板が多々在って、正直「どれが?」とよく判らなくなって来る。が、この「文化財建築の広い展示場」という感の場所で、「訪れた者に迫って来るような、重ねられた信仰や活動の時間」というモノが感じられる。
25-12-2021 X-Pro2 (85)

↓塔頭の微妙寺には黄不動、十一面観音、尊星王となかなかに興味深い仏画、仏像が祀られている。
25-12-2021 X-Pro2 (87)

↓天台宗の先人の石像や…
25-12-2021 X-Pro2 (89)

↓観音の石像というような様々なモノも戸外に見受けられた。
25-12-2021 X-Pro2 (92)

三井寺は想像した以上に広い場所で驚いた。大阪から京都へ移動し、大津に入って辿り着いた三井寺だったが、移動しながら漫然と思っていた以上に時間を費やし、ゆったりと拝観した。冬の好天という様子な中、様々な時代の建築や仏像や仏画を拝見したというのは、なかなかに好い時間だったと思う。
posted by Charlie at 07:06Comment(0)滋賀県

<708>:三井寺駅(2021.12.25)

琵琶湖の西南側に敷かれた軌道を可愛らしい電車が行き交う<石山坂本線>の様子が少し気に入っている…

↓三井寺駅だ…
25-12-2021 X-Pro2 (98)
↑この路線では、びわ湖浜大津駅以外の駅では、幾分の例外を除くと駅はこういうような風情の場所が多いように思う…

↓寧ろ「路面電車?」という風情の車輛が2輛連結で現れる…
25-12-2021 X-Pro2 (102)
↑実際、一部に道路の上を走る併用軌道の区間が見受けられる路線でもあるが…

↓何時の間にかこの路線でも、専ら「京阪の他の路線と同一の塗色」という車輛が行き交う感じになったと思う。
25-12-2021 X-Pro2 (104)
↑1992年から1993年に、古い車体を流用しながら製造されたモノであるという<700形>と呼ばれる電車だ…

今般、この味わい深い路線で電車に乗るという機会を設けられたことは非常に好かった…
posted by Charlie at 06:37Comment(0)滋賀県

柿の木…:石山寺駅周辺:大津(2021.12.25)

↓こんなモノを眼に留め、足が停まった。そしてカメラを向けた…
25-12-2021 X-Pro2 (108)
↑柿の木で、沢山の実が成っていた…

正直、北海道ではこういう具合に実が成る柿の木は見掛けないような気がする。他所の地域でこういうモノを見掛けると、思わず注目する…
posted by Charlie at 06:18Comment(0)滋賀県

丸型ポスト…:石山寺駅周辺:大津(2021.12.25)

古刹の近くの静かな感じの場所だと思う。可愛らしい電車が発着する京阪の石山寺駅の辺りを歩いた。

↓辺りの景観にこの少し古風にも視える丸型ポストが似合う。
25-12-2021 X-Pro2 (107)
↑「〒郵政創業150年」というリボン状のステッカーが脇の方に貼られていた。そして正面に「日本郵便が取り扱う次のもののみを投かんしてください」というステッカーも在った。

「日本郵便が取り扱う次のもののみを投かんしてください」というのが少し気になった。「ポストへ!」と案内しているモノが例示されているステッカーで、特殊なモノとも思えない他方、余り見掛けないような気もした。そして「変わったモノを投函する人でも在るのか?何が入る??」と気になった。

さり気ないモノに出くわして、何やら妙なことを考えるというような場合も、時には在るかもしれない…

琵琶湖疎水…:三井寺駅周辺:大津(2021.12.25)

びわ湖浜大津駅を起点に、京阪の可愛らしい電車に乗って大津で動き回ってみた。

↓三井寺駅で下車して歩き始めるとこういう様子に出くわした…
25-12-2021 X-Pro2 (52)
↑「川」としては「少し過ぎる程度な直線?」というようにも思うのだが、古めかしい石積みも交った閘門という様子に目を瞠った…

これは「琵琶湖疎水」というモノである。

この琵琶湖疎水は大津から三井寺辺りを通って京都の蹴上の辺りまで延びている人工の水路である。1885(明治18)年に着工し、約5年を経て竣工した第1疎水、更に1912(明治45)年に第2疎水が完成しているという。

琵琶湖疎水は飲料水や農業用水として利用されたに留まらず、水運の経路として、更に水力発電にも利用されたのだという。この琵琶湖疎水の水力発電の電力で、京都では日本初の路面電車が運行されたとも聞く。

↓三井寺を訪ねてみた後、三井寺駅へ引揚げる際に琵琶湖疎水の一部と見受けられる場所を改めてみた。京都側で視られる辺りと、また雰囲気が少し違うのが面白い…
25-12-2021 X-Pro2 (97)
↑「時季」ということか?無図はやや少な目だ…

聞けば、琵琶湖疎水をボートで巡ってみるというツアーも存在するらしい…機会が在れば試してみたいものだ…

この琵琶湖疎水のような「近代の建設」というようなモノも、京都の周辺では存外に面白いかもしれないと思った…
posted by Charlie at 18:00Comment(0)滋賀県

びわ湖浜大津駅の周辺で…(2021.12.25)

4輛で運行の列車が併用軌道の区間、普通の自動車等も行き交う道路上に敷設された軌道を路面電車のように行き交っているような事例は、京阪京津線のびわ湖浜大津駅の辺り以外に類例を知らない。今般は興味深く乗車したのだが、全く初めてでもない。以前にも乗車していて、前方に陣取って視ていると面白いことは承知していた。

気になっていたのは「4輛の列車が路上(=併用軌道)を往来していると如何いうように見えるか?」ということである。

↓上栄町駅側へ進む列車は、こういう具合にびわ湖浜大津駅から「路上」に出て来る。
25-12-2021 X-Pro2 (158)

↓「4輛の列車」は珍しくもないモノだが、こういうように路上に現れると不思議だ…
25-12-2021 X-Pro2 (159)

今般、思い付いて敢えて時間を設けてびわ湖浜大津駅周辺で何本かの列車を眺めた…

↓駅が「2階」になっていて、道路と軌道とが視える箇所が在るので眺めてみた。
25-12-2021 X-Pro2 (180)

↓カーブの軌道を器用に進んでいるように見えた。
25-12-2021 X-Pro2 (181)

↓車輛はこの区間のことを顧慮して、他の形式よりも長さが短いようにも見える。
25-12-2021 X-Pro2 (183)

↓先頭側が直線区間に差し掛かったようだが、後尾側は未だカーブだ。
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↓行ってしまった…
25-12-2021 X-Pro2 (188)

↓駅はこういう具合になっている。よく在る「2階」という感じだ。
25-12-2021 X-Pro2 (190)

↓券売機の辺りも眺めた…
25-12-2021 X-Pro2 (191)

それにしてもこの京津線は見て面白い。そして「京都から隣の大津へ一寸…」ということなのだが、何やら「凄く遠くの変わった場所へ行ってみる」という場合に似たような興趣が沸く。
posted by Charlie at 03:18Comment(0)滋賀県

上栄町駅からびわ湖浜大津駅へ…(2021.12.25)

京都の地下鉄東西線に京阪の京津線の列車が乗り入れている。地下鉄東西線の列車は6輛で運行されているが、京津線の列車は4車輛だ。地下鉄東西線の東側で枝分かれしていて、京阪の4輛の列車はびわ湖浜大津駅へ向かう。

地下を通っていた列車が地上に出て、少し判り易い勾配を上り下りする場面や大きなカーブになっている箇所を抜けてびわ湖浜大津駅が近付く。

↓びわ湖浜大津駅へ向かう列車に乗り、手前の上栄町駅で空いていたので前方が視える辺りに陣取ってみた。
25-12-2021 X-Pro2 (23)
↑踏切が視えて、街中に入っていることが判る。

↓軌道がカーブを描いているのが判る。そしてカーブの箇所は舗装道路の上、併用軌道になっている。
25-12-2021 X-Pro2 (25)

↓併用軌道に乗り上げた。
25-12-2021 X-Pro2 (26)
↑列車はトンネルの中で「地下鉄の列車」として動いていて、地上に出た部分は「地方の街の私鉄路線の列車」となり、やがて「路面電車?!」という様相を呈する。

↓自動車も走る路上を4輛の列車が進んでいる。
25-12-2021 X-Pro2 (27)

↓逆方向、上栄町駅側へ進む列車とも擦違う。
25-12-2021 X-Pro2 (30)

↓路上で4輛の列車2本が擦違っている。
25-12-2021 X-Pro2 (31)

↓びわ湖浜大津駅へ向かう辺りのカーブが判るようになって来た。
25-12-2021 X-Pro2 (34)

↓カーブへ進入する。
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↓多少減速する感じになる。
25-12-2021 X-Pro2 (36)

↓びわ湖浜大津駅の入口だ。琵琶湖に沿って伸びている石山坂本線の、併用軌道になっている部分も視えている。
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↓駅へゆっくりと進入した。
25-12-2021 X-Pro2 (41)

↓到着である…
25-12-2021 X-Pro2 (42)

この後、列車は待避線に入って待機し、また折り返しで運行される。

↓駅名の看板だ。
25-12-2021 X-Pro2 (43)
↑下部の隣駅が記されている。右側は京都の地下鉄東西線に乗り入れる京津線の上栄町駅と、琵琶湖沿岸に延びる石山坂本線の三井寺駅とが併記されている。

何度か利用した経過は在るが、何時も面白いと思う。
posted by Charlie at 02:45Comment(0)滋賀県

日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)(2019.04.03)

↓近江八幡の由緒在る神社…日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)である…
03-04-2019 Ohmi-Hachiman, Shiga pref (33)
↑拝殿から本殿の感じである…

↓神社の建物の、こういう感じで斜め横から視たディーテールが何となく好きだ…
03-04-2019 Ohmi-Hachiman, Shiga pref (34)

↓手水場の辺り…献酒の樽が積み上げられているのが視えた…
03-04-2019 Ohmi-Hachiman, Shiga pref (31)

↓門の感じも趣が在る…
03-04-2019 Ohmi-Hachiman, Shiga pref (29)

こういうような、「辺りでは代表的な…」という神社に一寸寄ってみるというのは、意外に好い…

<近江牛>の牛丼!?…に加えて少々…(2019.04.03)

奈良から京都へ出て、更に近江八幡へ…

近江八幡は…豊臣政権時代の城下町が礎になり、江戸時代には商人町として歩み、明治期以降にも辺りの中心的な街の一つとして歩んだ地域である…古くからの建物が残っているような、時代モノのテレビドラマ等の撮影に利用された経過さえ在るような地区も在って、一寸面白い訪問先だ…

その近江八幡で…何となくランチを頂くことにした…

↓メインはこれ!!
03-04-2019 Ohmi-Hachiman, Shiga pref (25)
↑「たかが…されど…」という感…これは牛丼だが、<近江牛>の細切れ肉を使っているモノだ…

↓和食の伝統を汲んだ、なかなかに旨い感じに煮込んだ牛肉が米飯の上に…「これは美味い!!」という按配だ…単に「材料が佳い」に留まらないのだ!!
03-04-2019 Ohmi-Hachiman, Shiga pref (24)
↑細かいが、近江八幡辺りの名産であるという赤いコンニャクで瓢箪型の飾りが添えられている…

↓赤身肉の握り寿司というモノも頂いた…
03-04-2019 Ohmi-Hachiman, Shiga pref (20)
↑ほんの少しだけ肉に加熱されていただろうか?赤身に適度な脂が溶けていた感じだった…

↓更にトロというモノも…
03-04-2019 Ohmi-Hachiman, Shiga pref (21)
↑こちらは「良質な脂身」を味わうという感じだった…

現在の滋賀県の版図…近江では古くから牛肉を食用にしていた経過が在って、江戸時代の記録にも出て来るらしい。滋養強壮のための特殊なモノで、身分の在る人達の一部が口にしたモノであったのかもしれないが…そして牛肉を食べることが普及一般化した明治期以降は、滋賀県内で肥育された牛の肉は評価が高く、<近江牛>の声望は高まった…

近江八幡は、滋賀県内の産物を他地域に送る場合に「ここから貨車に積み込んで…」という経過も色々と在ったらしいので、或いは「<近江牛>の声望を高める上で大事な役目を担っていた地域」ということになるのかもしれない…そんな地域で<近江牛>の料理を頂いた!

何となく…所謂“ブランド牛肉”を頂く機会が続いた…時には好い!!
posted by Charlie at 18:13Comment(0)滋賀県

<浅茅生>(あさぢを)(2019.02.26)

日吉大社を訪ね、何となく参道のベンチに腰を下ろして一息入れていると、土産や飲物を売っている店を見付けた。店内で一寸飲物を頂いて一息入れられるようになっていた…好天に恵まれ、戸外のベンチも悪くなかったが、少々飲物も頂きたかった…

店に近寄れば…「近江地酒」と掲出されていて、土産にする四合瓶が主体ながら、もう少し容量の少ない酒も売られていた。店のおばちゃんに「ここの酒…買い求めて、そこに座って頂くというのは…」と尋ねると「構いませんよ!」ということだった…

↓そして選んで求め、店内で頂くことにしたのがこれである…
26-02-2019 at Otsu, Shiga pref (49)

「近江地酒」ということで、滋賀県内の色々な地域の住所が各々の酒の“製造業者”を示すような箇所に見受けられた…この<浅茅生>(あさぢを)は、「大津市」という住所であったのを眼に留めた。居合わせた日吉大社の参道から「最も近く」で醸していることになる…

店のおばちゃんに「大津市内で造っている酒ですね?」と問えば、「大津の街中、賑やかな商店街の辺りに在る、かなり古くから酒造業をやっているという会社ですよ」と教えてくれた…

↓開けると…清酒らしい芳香が立ち上る…
26-02-2019 at Otsu, Shiga pref (50)
↑ラベルに「酒造り 三百三拾年」というように在る…調べると、この<浅茅生>(あさぢを)を手掛ける平井商店という会社は、1658(万治元)年に起こった酒造業者の後裔なのだという…

1658年から起算すると…既に330年以上経っていて…2018年で360年な筈だが…330年の時にこのラベルにしたということなのだろう…大津は古くから物流の要になる商業の盛んな街であったらしいから、酒造業者も色々と在ったことであろう…そういう業者の後裔が、大津の街中で頑張っているのだということだ…

この酒…味わいは?多少「濃い…」というように思えて、甘過ぎず、辛過ぎない、バランスが好いように思える酒だった…

それにしても…午前中からカップで清酒…何か非常に好い気分だった…この酒を常温で啜り、店のおばちゃんと一寸雑談に興じ、「さぁ!次へ!」と元気よく歩き出した…

最近は方々で、「土地の酒造会社による酒」をカップ等の少量で販売している例が多いように思う。そういうモノを見付けて、一寸頂いてみるというのが、旅の際には嬉しいものだ…
posted by Charlie at 00:41Comment(0)滋賀県