↓萩城跡の一隅に、こんな像が在る…
↑何となく、礼装に身を包んだという感がする、身分が高い武士という趣きだ…
これは毛利輝元(1553-1625)の像だ…
毛利輝元は、かの毛利元就の孫である。毛利元就の後、毛利家を継いだ人物だ。
毛利輝元は毛利家の版図が最大限に拡大した頃の当主だった。広島城を築いて本拠地としていた。やがて関ヶ原の戦いに敗れて長門、周防の大名として幕藩体制の下に入るのだが、萩の城を築いて毛利家の本拠地とすることになった。そういう経過で、城と城下町の礎を築いたということでこの城跡に像が据えられるようになったようだ…
↓萩城の跡に、毛利輝元は静かに座っている…
こういうような銅像…眺めるのが意外に好きだ…
伊藤博文の米国土産…:萩・菊屋家…(2019.06.03)
建物の内部…:萩・菊屋家…(2019.06.03)
「本陣」…:萩・菊屋家…(2019.06.03)
江戸時代以来の建物が残る場所が多いとされる萩に在って、一際そうした古いモノが残る場所の一つが<菊屋家>だと思う…
↓建物の一隅にこういう場所が在る…
↑「商家」ということではあるが、そういうようにも思い悪い、なかなかに立派な設えの部屋だ…そして縁側の向こうの庭も感じが好い…
萩の毛利家御用達ということで色々な事業に携わったという商家だった菊屋…身分が在る人達が萩に滞在する場合に利用する「本陣」と称する宿泊所が屋敷の一部に設えられていたのだという…その「本陣」の部屋である…
↓部屋の前の庭を覗いてみた…こういうようになっていた…
↑真中辺りの大きく平らな石に、身分が在る客が利用した駕籠を置いたというような話しも在るようだ…
こういう古くからのモノが多く残る場所…訪ねて興味深い訳だが、記憶に残り、多少の時間を経ても写真を引っ張り出してみたくなる…
↓建物の一隅にこういう場所が在る…
↑「商家」ということではあるが、そういうようにも思い悪い、なかなかに立派な設えの部屋だ…そして縁側の向こうの庭も感じが好い…
萩の毛利家御用達ということで色々な事業に携わったという商家だった菊屋…身分が在る人達が萩に滞在する場合に利用する「本陣」と称する宿泊所が屋敷の一部に設えられていたのだという…その「本陣」の部屋である…
↓部屋の前の庭を覗いてみた…こういうようになっていた…
↑真中辺りの大きく平らな石に、身分が在る客が利用した駕籠を置いたというような話しも在るようだ…
こういう古くからのモノが多く残る場所…訪ねて興味深い訳だが、記憶に残り、多少の時間を経ても写真を引っ張り出してみたくなる…
夏蜜柑…:萩(2019.06.03)
↓萩の<萩博物館>辺りで視掛けた…夏蜜柑である…
↑自身は「北海道の人間」で、「実を付けている柑橘類の木」というモノとやや縁が薄く、視ると酷く感心してしまう…
古くから、萩では庭に夏蜜柑を植えて観賞用に、或いは果実の自家消費ということが行われた例は在るらしい…1876(明治9)年…生活の術を失うこととなってしまった士族のために、空地のようになってしまっていた武家屋敷の用地等を利用し、夏蜜柑を広く栽培することが始められたのだという。爾来、「古い屋敷の塀と夏蜜柑」というのが、萩を代表するような光景になって行ったのだという。
夏蜜柑の生産は色々と浮き沈みが在って近年に至っているようだが…最近では「萩のシンボル」というようなことになって生産が続く他方、色々とデザートなどにも利用されているようだ。萩を訪ねた折り<夏みかんソフト>というアイスクリームを頂いてみたということも在った…
こうした柑橘が実を付ける木が在る光景…好い感じだ!
↑自身は「北海道の人間」で、「実を付けている柑橘類の木」というモノとやや縁が薄く、視ると酷く感心してしまう…
古くから、萩では庭に夏蜜柑を植えて観賞用に、或いは果実の自家消費ということが行われた例は在るらしい…1876(明治9)年…生活の術を失うこととなってしまった士族のために、空地のようになってしまっていた武家屋敷の用地等を利用し、夏蜜柑を広く栽培することが始められたのだという。爾来、「古い屋敷の塀と夏蜜柑」というのが、萩を代表するような光景になって行ったのだという。
夏蜜柑の生産は色々と浮き沈みが在って近年に至っているようだが…最近では「萩のシンボル」というようなことになって生産が続く他方、色々とデザートなどにも利用されているようだ。萩を訪ねた折り<夏みかんソフト>というアイスクリームを頂いてみたということも在った…
こうした柑橘が実を付ける木が在る光景…好い感じだ!
吉田松陰の旧宅と<松下村塾>:萩(2019.06.03)
東萩駅に列車で辿り着き、駅の中に観光案内所が在ったので地図を頂き、早速に辺りを歩き始めた。
<松陰神社>が東萩駅に近い…辺りは、江戸時代には城下町をちょっと外れた村だった場所だ…
↓これは吉田松陰が地元に戻されて、外出禁止ということになって「幽囚」という状況で住んでいたという家である…
↑御本人の父親の家であったそうだ…
↓それほど広いとも思えない家だが、当時の住宅はこういうような感じだったのであろう…
↓日中が開いていて、外から屋内の様子を伺うことが出来る…
吉田松陰はこの旧宅で学問を講じた訳だが、なかなかに魅力的な教育者で、広く門戸を開いて学ぶ意欲が在る者を迎えていたことから、集まる人達で手狭な状態になってしまった…
↓手狭になってしまったことを受けて、直ぐ横に建物を建てた…その建物が<松下村塾>となったのだ…
↓最近読んだ小説で<松下村塾>が登場するので、少し興味を覚えたのだった…
>>『風の如く』
<松陰神社>が東萩駅に近い…辺りは、江戸時代には城下町をちょっと外れた村だった場所だ…
↓これは吉田松陰が地元に戻されて、外出禁止ということになって「幽囚」という状況で住んでいたという家である…
↑御本人の父親の家であったそうだ…
↓それほど広いとも思えない家だが、当時の住宅はこういうような感じだったのであろう…
↓日中が開いていて、外から屋内の様子を伺うことが出来る…
吉田松陰はこの旧宅で学問を講じた訳だが、なかなかに魅力的な教育者で、広く門戸を開いて学ぶ意欲が在る者を迎えていたことから、集まる人達で手狭な状態になってしまった…
↓手狭になってしまったことを受けて、直ぐ横に建物を建てた…その建物が<松下村塾>となったのだ…
↓最近読んだ小説で<松下村塾>が登場するので、少し興味を覚えたのだった…
>>『風の如く』
松陰神社:萩(2019.06.03)
1890(明治23)年に、吉田松陰の門下であった人達等、所縁の在る人達が傷んでいた<松下村塾>の建物を補修した際、吉田松陰を祀る祠を設けたのだという。その祠に祈る人達も多く在った中、1907(明治40)年に「私的な祠ではなく、公の神社に」ということで山口県に創建の旨が請願された。そして登場したのが<松陰神社>である。
↓境内の入口である…
↓社殿の手前だ…
↓社殿は、1940年代前半に新たなモノを建てて遷座を計画したものの戦時の状況でそれが実現せず、戦後になって更に新しい社殿に手を入れて1956(昭和31)年に遷座したのだという。それが現在のこの社殿だ…
↑多くの皆さんの強い想いを受けたような、なかなかに立派な社殿だった…
↓社殿の脇に据えられた狛犬が、少し重厚な感じだった…
この場所…吉田松陰の、地元での「巨大な存在感」を実感させてくれる場所だった…
↓境内の入口である…
↓社殿の手前だ…
↓社殿は、1940年代前半に新たなモノを建てて遷座を計画したものの戦時の状況でそれが実現せず、戦後になって更に新しい社殿に手を入れて1956(昭和31)年に遷座したのだという。それが現在のこの社殿だ…
↑多くの皆さんの強い想いを受けたような、なかなかに立派な社殿だった…
↓社殿の脇に据えられた狛犬が、少し重厚な感じだった…
この場所…吉田松陰の、地元での「巨大な存在感」を実感させてくれる場所だった…
<山県有朋 公>の像:萩(2019.06.03)
↓騎乗姿の軍人…なかなかに立派な像が在った…
↓かの山県有朋の像だった…
↓彼もまた「総理大臣経験者」ということになる…
この山県有朋に関しては、京都で彼が使っていたという別荘の跡―自身の家と、意外に風流人だった彼が“こだわり”で設えた庭、そして元老であった彼を訪ねる人を迎えた接客用の小さな洋館が在る…―に立寄ったことが在った…
萩は、過去に活躍した人物を多く輩出している経過が在る…そういう関係で「人物の像」が多い街であるような気がした。
↓かの山県有朋の像だった…
↓彼もまた「総理大臣経験者」ということになる…
この山県有朋に関しては、京都で彼が使っていたという別荘の跡―自身の家と、意外に風流人だった彼が“こだわり”で設えた庭、そして元老であった彼を訪ねる人を迎えた接客用の小さな洋館が在る…―に立寄ったことが在った…
萩は、過去に活躍した人物を多く輩出している経過が在る…そういう関係で「人物の像」が多い街であるような気がした。
<久坂玄瑞進撃像>:萩(2019.06.03)
↓「戦の支度」という様子の像である…
↑「進め!」と号令を掛けているような感じだ…
これは…吉田松陰の「憂国の激情」とでもいうようなモノを受継いだ“後継者”という存在感で、彼の妹の夫となったことから“義弟”であった久坂玄瑞の像だ…
像は<蛤御門の変>の際に、長州勢の一翼を率いて戦闘に臨んだ場面をイメージしたのであろう…
↓こういう具合に佇んでいる…
久坂玄瑞は、思想家、政治家であって…軍事行動の指揮官という感でもなかったのかもしれないが…<蛤御門の変>の際、討死してしまっている…
↓萩への訪問を「後押し」する結果となった、最近読了した小説がこちらである…
>>『風の如く』
↑「進め!」と号令を掛けているような感じだ…
これは…吉田松陰の「憂国の激情」とでもいうようなモノを受継いだ“後継者”という存在感で、彼の妹の夫となったことから“義弟”であった久坂玄瑞の像だ…
像は<蛤御門の変>の際に、長州勢の一翼を率いて戦闘に臨んだ場面をイメージしたのであろう…
↓こういう具合に佇んでいる…
久坂玄瑞は、思想家、政治家であって…軍事行動の指揮官という感でもなかったのかもしれないが…<蛤御門の変>の際、討死してしまっている…
↓萩への訪問を「後押し」する結果となった、最近読了した小説がこちらである…
>>『風の如く』
<高杉晋作立志像>:萩(2019.06.03)
↓凛々しい青年武士という感の像である…
「毛利家御用達」で有力だったという商人、菊屋が店と邸宅を構えていたという辺り、<菊屋横丁>に在った家で生まれ育ったという高杉晋作をイメージした像だ…
↓こういう具合に広場に佇んでいる…
「激動の時代を豪快に駆け抜けた」というイメージの高杉晋作…人気が高い史上の人物であるようだ…
東萩駅に到着した後…松陰神社から<菊屋横丁>まで歩いたが…吉田松陰を慕って<松下村塾>を訪ねていたという高杉晋作が帰宅するような時に歩いたかもしれない経路を歩いてみたことになる…「静か(!?)」な萩の街は、「本当に江戸時代位の街路が殆どそのまま舗装道路化?」というような場所だった…
↓萩への訪問を「後押し」する結果となった、最近読了した小説がこちらである…
>>『風の如く』
「毛利家御用達」で有力だったという商人、菊屋が店と邸宅を構えていたという辺り、<菊屋横丁>に在った家で生まれ育ったという高杉晋作をイメージした像だ…
↓こういう具合に広場に佇んでいる…
「激動の時代を豪快に駆け抜けた」というイメージの高杉晋作…人気が高い史上の人物であるようだ…
東萩駅に到着した後…松陰神社から<菊屋横丁>まで歩いたが…吉田松陰を慕って<松下村塾>を訪ねていたという高杉晋作が帰宅するような時に歩いたかもしれない経路を歩いてみたことになる…「静か(!?)」な萩の街は、「本当に江戸時代位の街路が殆どそのまま舗装道路化?」というような場所だった…
↓萩への訪問を「後押し」する結果となった、最近読了した小説がこちらである…
>>『風の如く』
天守閣跡…:萩城(指月城)跡(2019.06.03)
↓「天守閣跡」という場所を眺めに行ってみた…
↓「多少汗ばむ…」という程度の好天だった…
↓脇の方からはこういう具合に見える…
毛利家は中国地方で最大の勢力を誇る大大名だった…思えば…現在の岡山県や鳥取県より西の本州西端部は、かなり広く毛利家の傘下だった訳だ…これが、江戸幕府によって「防長」と呼ばれる長門と周防の知行地だけが認められ、その本拠地として萩に城が築かれた訳だ…
↓近くに残っている、重臣のモノだった長屋に「嘗ての萩城」の模型と明治初期と見受けられる古写真が飾られていた…
指月山周辺の敷地に石垣を築き、城が攻められた時の防衛拠点を山上に設け、他方で敷地に様々な建物を建てている。天守閣も、現在の石垣だけの“跡”の場所に確り建っていた訳だ…
戦国時代末期の「大大名」の頃を想えば、萩城は「かなり縮小」ということになるのだろうが…それでもなかなかに壮大だったように思える…
この種の跡地…ここのような「街の、一寸訪ねられるような場所」に在るのが好ましい…
↓「多少汗ばむ…」という程度の好天だった…
↓脇の方からはこういう具合に見える…
毛利家は中国地方で最大の勢力を誇る大大名だった…思えば…現在の岡山県や鳥取県より西の本州西端部は、かなり広く毛利家の傘下だった訳だ…これが、江戸幕府によって「防長」と呼ばれる長門と周防の知行地だけが認められ、その本拠地として萩に城が築かれた訳だ…
↓近くに残っている、重臣のモノだった長屋に「嘗ての萩城」の模型と明治初期と見受けられる古写真が飾られていた…
指月山周辺の敷地に石垣を築き、城が攻められた時の防衛拠点を山上に設け、他方で敷地に様々な建物を建てている。天守閣も、現在の石垣だけの“跡”の場所に確り建っていた訳だ…
戦国時代末期の「大大名」の頃を想えば、萩城は「かなり縮小」ということになるのだろうが…それでもなかなかに壮大だったように思える…
この種の跡地…ここのような「街の、一寸訪ねられるような場所」に在るのが好ましい…
朝の岩国駅(2018.11.25)
↓広島駅から乗車していた列車…岩国駅に到着すると、直ぐに折り返し運転で広島方面へ向かうことになるようだ…乗務を離れようとしている乗務員と、これから出発する乗務員とが列車の脇に居る…
↓現在となっては「古典的な外観」と言いたくなるような、“国鉄時代”からの車輛である115系電車…山陽地方のイメージカラーになっているらしい黄色の単色塗装という外観…これが意外に好きだ!
未だ暗い中で岩国へ向かっていたが…岩国では「明るくなり始めた…」というような按配で、空の感じも何となく微妙だ…
或いは、この路線も新しい車輛の比率が少しずつ高まるのだと思われるが…この「古典的な外観」の車輛も走り続けて欲しいような気がする…或いは、「中身は最新の装備で、外観は昔風な車輛」というようなモノは造ることが出来ないのだろうかと、勝手に思うことも在る…
↓現在となっては「古典的な外観」と言いたくなるような、“国鉄時代”からの車輛である115系電車…山陽地方のイメージカラーになっているらしい黄色の単色塗装という外観…これが意外に好きだ!
未だ暗い中で岩国へ向かっていたが…岩国では「明るくなり始めた…」というような按配で、空の感じも何となく微妙だ…
或いは、この路線も新しい車輛の比率が少しずつ高まるのだと思われるが…この「古典的な外観」の車輛も走り続けて欲しいような気がする…或いは、「中身は最新の装備で、外観は昔風な車輛」というようなモノは造ることが出来ないのだろうかと、勝手に思うことも在る…
時空に架かる橋…:錦帯橋(2018.11.25)
↓大きく弧を描いて、真ん中が盛り上がった橋が組み合わさる…「五橋」と呼ばれる場合も在るらしい錦帯橋…
↑日が高くなり始めたような時間帯に現地に至った…「光り輝くような世界へ架けられた橋」というようなことを思い浮かべた…
現在の場所の辺りに1673年に初めて橋が架かり、洪水で流失してしまったので1674年に再建された…それが「錦帯橋」として知られるようになり、1950年まで276年間も威容を保った…1953年に再建され、2002年と2004年に劣化した部分を修復している…
古式な木造の橋梁が、何世代にも渡って受け継がれている…時空を超えて川の両岸を結び続けている錦帯橋だ…
↓少し引くと、「連なるアーチ」という感じが判り易い…
↓朝早くの風情が好かった…
↓去り際に…逆側から眺めた…少し日が高くなった…
岩国駅・錦帯橋間のバスは、整理券を手に乗車すると…運転席脇の料金表に出る料金が最初の120円から細かく上がる…片道300円だった…
この錦帯橋が何となく頭に浮かび、「視に行くなら…広島辺りに陣取って…」と考え、ウラジオストクから成田に着いた直後に広島を目指したのだった…
↑日が高くなり始めたような時間帯に現地に至った…「光り輝くような世界へ架けられた橋」というようなことを思い浮かべた…
現在の場所の辺りに1673年に初めて橋が架かり、洪水で流失してしまったので1674年に再建された…それが「錦帯橋」として知られるようになり、1950年まで276年間も威容を保った…1953年に再建され、2002年と2004年に劣化した部分を修復している…
古式な木造の橋梁が、何世代にも渡って受け継がれている…時空を超えて川の両岸を結び続けている錦帯橋だ…
↓少し引くと、「連なるアーチ」という感じが判り易い…
↓朝早くの風情が好かった…
↓去り際に…逆側から眺めた…少し日が高くなった…
岩国駅・錦帯橋間のバスは、整理券を手に乗車すると…運転席脇の料金表に出る料金が最初の120円から細かく上がる…片道300円だった…
この錦帯橋が何となく頭に浮かび、「視に行くなら…広島辺りに陣取って…」と考え、ウラジオストクから成田に着いた直後に広島を目指したのだった…
柳井:町並み資料館(=旧周防銀行本店)(2016.11.24)
↓旧い町並みをよく留め、<白壁のまち>と呼ばれる山口県柳井市に、こんな建物が在る。
↑凄く趣深い感じがする建物だ…
1907(明治40)年に、当時の周防銀行の本店として建てられた建物で、2000(平成12)年に現在地に移築されたのだそうだ…
因みに…山口県では色々な銀行が起こり、廃業や合併等が色々と在って、現在では山口県を本拠とする地方銀行は山口銀行だけという状態で、画の建物を本店としていた“周防銀行”の後身ということになる銀行はよく判らなかった…多少、気になる感じだが…
山陽路をゆったりと普通列車で移動する旅を楽しんで、少し時日を経た…何やら妙にあちらの地域で触れた文物が懐かしいという感じがする昨今である…
↑凄く趣深い感じがする建物だ…
1907(明治40)年に、当時の周防銀行の本店として建てられた建物で、2000(平成12)年に現在地に移築されたのだそうだ…
因みに…山口県では色々な銀行が起こり、廃業や合併等が色々と在って、現在では山口県を本拠とする地方銀行は山口銀行だけという状態で、画の建物を本店としていた“周防銀行”の後身ということになる銀行はよく判らなかった…多少、気になる感じだが…
山陽路をゆったりと普通列車で移動する旅を楽しんで、少し時日を経た…何やら妙にあちらの地域で触れた文物が懐かしいという感じがする昨今である…
柳井のマンホール(2016.11.24)
殊に「滅多に行く訳でも…」という他所の地域では、何となく「足元のマンホール」に眼が向いて、足を停めて写真に撮ってしまうという場合が在る…
↓柳井で出くわしたマンホールである…
↑「白かべの町並み やないし」という文字が刻まれている…周防国に在って、瀬戸内海側の交易拠点だった柳井は、古い建物が集まった町並みが視られる街だ…
実はこれまで「山口県内」と言えば「下関を少々」という程度で、方々を歩いた訳でもなかった。今般、「山口県内」として柳井や岩国を歩き回る機会を設けることが出来た…在るか無いかも定かではない「次の機会」には、もう少し多くの場所に親しんでみたいものだ…この柳井のマンホールの画を視ていると、そんなことを考えてしまう…
↓柳井で出くわしたマンホールである…
↑「白かべの町並み やないし」という文字が刻まれている…周防国に在って、瀬戸内海側の交易拠点だった柳井は、古い建物が集まった町並みが視られる街だ…
実はこれまで「山口県内」と言えば「下関を少々」という程度で、方々を歩いた訳でもなかった。今般、「山口県内」として柳井や岩国を歩き回る機会を設けることが出来た…在るか無いかも定かではない「次の機会」には、もう少し多くの場所に親しんでみたいものだ…この柳井のマンホールの画を視ていると、そんなことを考えてしまう…
岩国:<五橋>(ごきょう)―清酒 紙カップ(2016.11.23)
↓岩国のコンビニで求めて、宿で頂いたカップの酒…
↑芳醇な感じと、スッキリした呑み易さが両立した、実に美味い酒であった…これを頂いて、岩国辺りに関して「日本酒の好い伝統を有している地域」であると、換言するなら「酒に煩い人が多い地域」であると思った…
カップに、岩国で眺めた麗しい錦帯橋のイラストが在って、それを視掛けて何やら非常に嬉しくなったということで求めてみた酒だったが…カップのイラストが好かっただけではない!!中身も好かったのだ!!
岩国に滞在した夜が明け、朝早くにも「アンコール…」と称して頂いてしまった程だったが…これは本当に私の中で「思い出の銘酒」という存在になった…
旅から戻って…「あの<五橋>…」と時々思い出していたが…
↓手軽に取寄せられる術を見付けた!!
>>日本酒ショップ 五橋
早速この<日本酒ショップ 五橋>を利用し、「思い出の銘酒」となっている<五橋>のカップを少々纏めて入手した。
山口県辺りでは、やって来た客を迎えるのに「おいでませ!」と言うらしいが…正しくその「おいでませ!」で<五橋>を拙宅に迎えることが叶った…
こういう「後から取寄せたいモノ」に出逢うのも、旅の大切な要素かも知れない…
↑芳醇な感じと、スッキリした呑み易さが両立した、実に美味い酒であった…これを頂いて、岩国辺りに関して「日本酒の好い伝統を有している地域」であると、換言するなら「酒に煩い人が多い地域」であると思った…
カップに、岩国で眺めた麗しい錦帯橋のイラストが在って、それを視掛けて何やら非常に嬉しくなったということで求めてみた酒だったが…カップのイラストが好かっただけではない!!中身も好かったのだ!!
岩国に滞在した夜が明け、朝早くにも「アンコール…」と称して頂いてしまった程だったが…これは本当に私の中で「思い出の銘酒」という存在になった…
旅から戻って…「あの<五橋>…」と時々思い出していたが…
↓手軽に取寄せられる術を見付けた!!
>>日本酒ショップ 五橋
早速この<日本酒ショップ 五橋>を利用し、「思い出の銘酒」となっている<五橋>のカップを少々纏めて入手した。
山口県辺りでは、やって来た客を迎えるのに「おいでませ!」と言うらしいが…正しくその「おいでませ!」で<五橋>を拙宅に迎えることが叶った…
こういう「後から取寄せたいモノ」に出逢うのも、旅の大切な要素かも知れない…
新山口駅に待機中の「クモハ115+クモハ114」による2輛編成の列車(2016.11.24)
下関駅に待機中の415系電車(2016.11.24)
柳井:近世と近代の同居?(2016.11.24)
「駅から徒歩数分で愉しい散策路」という感じで、古くからの町並みが見受けられるような場所は嬉しい…山口県柳井市はそういう場所を擁している街だ…
↓こんな様子を視掛けた…
↑少し「不思議?」な気がして、暫し見入ってしまった…
柳井の場合、郷土土産の<金魚ちょうちん>を軒先に提げている様子が非常に目立つが、気になったのはそれではない…
奥の建物は江戸時代またはそれ以前の時代的だが、手前の建物には洋館的な設えが見受けられる…
この柳井は、周防国に在って“商業都市”として永く栄えた経過が在って、古い建物の町並みが伝えられているのだが…恐らく洋館的な設えは明治期以降に採り入れられたのであろう…こういう辺りに「時代の遷移」が色濃く反映されていて面白い…
↓こんな様子を視掛けた…
↑少し「不思議?」な気がして、暫し見入ってしまった…
柳井の場合、郷土土産の<金魚ちょうちん>を軒先に提げている様子が非常に目立つが、気になったのはそれではない…
奥の建物は江戸時代またはそれ以前の時代的だが、手前の建物には洋館的な設えが見受けられる…
この柳井は、周防国に在って“商業都市”として永く栄えた経過が在って、古い建物の町並みが伝えられているのだが…恐らく洋館的な設えは明治期以降に採り入れられたのであろう…こういう辺りに「時代の遷移」が色濃く反映されていて面白い…