初めて利用した旭川空港から、何度も利用していながら「少し久し振り?」という気もする羽田空港に到着した。
空港から街へ出るには色々な方法が在るが、とりあえず地階に下りる…
↓こんな看板を眼に留める…
長い間、羽田空港では京急の列車を利用するというのが専らになっていた。が、嘗ては京急が羽田空港に至っておらず、専らモノレールだった。思い付いて、また街での移動の関係上も悪くないのでモノレールを久し振りに利用してみることにした。
↓改札口を潜って、乗場に出ると既にモノレールは待機中だった…
結局、少し独特な方式で走ってはいるが、他所の様々な列車と乗車感覚は余り変わらない。
↓乗車直後は空いていたので、車内の感じを一寸写真に収めた。
↑ロングシートとクロスシートが色々と組み合わさっているが、「空港と街との連絡」という役目を負っている関係上、「少し大きな荷物を置くような場所」に配慮されているのが好いと思った。
車窓の景色が少し新鮮だと思いながら乗車したが、途中からなかなかに混み合い、空港との連絡に留まらない地域の交通機関としての活躍を知って興味深かった。
勝鬨橋…(2022.05.08)
↓早朝に大江戸線の勝どき駅に到り、出口へ…
↑とりあえず階段を上れば「勝どき駅前」という交差点で、左へ進むと勝鬨橋に至るということが何となく判った…
↓その勝鬨橋に難無く至った…
↓近付けば、なかなかに大きい…
↓河岸に下りて様子を眺めてみた…
↑全長が246mで幅が22mであるという。隅田川の河口部に近い辺りの橋だ。
日露戦争後、築地と月島とを結ぶ「勝鬨の渡し」が設けられた。やがて交通量の増加を踏まえて架橋計画が持上り、1933(昭和8)年に着工し、1940(昭和15)年に竣工している。
大型船の航行を可能とするため、橋は「可動橋」であり、船が通る時には通行を停めて橋が開いて船が通過するようになっていた。更に路面電車の軌道まで敷設されていて、実際に橋上を路面電車が運行していた。
車輛の交通量が増える中、「可動橋」としての機能は停止している。また路面電車も運行しなくなっている。
↓橋を歩いて渡ってみた…「可動橋」であった時代の、機器を管理、操作する場所と見受けられるモノが在る…
↓構造物の下を潜ると、反対側にも似たようなモノが在る…
↓振り返ってみる…画の奥側が勝どきで、手前側は築地だ…
↓こういう1930年代頃のモノ…何やら美しい…
この勝鬨橋は1940年頃、「皇紀2600年」というようなことや「(幻の)東京五輪」という盛り上りの中で登場したモノであるようだ。
資料館も設けられている勝鬨橋だが、そんな場所が開館する遥か以前の早朝に訪ねたので、資料館は見られなかったが…
↓以前から関心が在った場所で、立寄る機会を設けられて好かった…
↑とりあえず階段を上れば「勝どき駅前」という交差点で、左へ進むと勝鬨橋に至るということが何となく判った…
↓その勝鬨橋に難無く至った…
↓近付けば、なかなかに大きい…
↓河岸に下りて様子を眺めてみた…
↑全長が246mで幅が22mであるという。隅田川の河口部に近い辺りの橋だ。
日露戦争後、築地と月島とを結ぶ「勝鬨の渡し」が設けられた。やがて交通量の増加を踏まえて架橋計画が持上り、1933(昭和8)年に着工し、1940(昭和15)年に竣工している。
大型船の航行を可能とするため、橋は「可動橋」であり、船が通る時には通行を停めて橋が開いて船が通過するようになっていた。更に路面電車の軌道まで敷設されていて、実際に橋上を路面電車が運行していた。
車輛の交通量が増える中、「可動橋」としての機能は停止している。また路面電車も運行しなくなっている。
↓橋を歩いて渡ってみた…「可動橋」であった時代の、機器を管理、操作する場所と見受けられるモノが在る…
↓構造物の下を潜ると、反対側にも似たようなモノが在る…
↓振り返ってみる…画の奥側が勝どきで、手前側は築地だ…
↓こういう1930年代頃のモノ…何やら美しい…
この勝鬨橋は1940年頃、「皇紀2600年」というようなことや「(幻の)東京五輪」という盛り上りの中で登場したモノであるようだ。
資料館も設けられている勝鬨橋だが、そんな場所が開館する遥か以前の早朝に訪ねたので、資料館は見られなかったが…
↓以前から関心が在った場所で、立寄る機会を設けられて好かった…
吾妻橋…(2022.05.08)
↓「浅草辺りの光景」として或る程度知られている様子であるように思う…或いは、国内の遠い地域や外国で「東京…」とでも聞けば思い浮かべる様子の一つかもしれない…
↑吾妻橋の浅草側からの眺めだ。
↓佇んで写真を撮った場所が台東区で、特徴的な大きな建物等が視えている対岸側は墨田区であるそうだ…
↓河岸に下りてみると、向こう側の駒形橋も視えた…
↓現在の吾妻橋は1931(昭和6)年に竣工したモノだ。関東大震災で傷んだ橋を架け直したのである。
↑延長が150mで幅は20mということだ…
↓こういう、少し古風な外観の橋梁を訪ねて歩き廻るようなことをしてみるのも、東京での存外に愉しい過ごし方かもしれない等と思いながら吾妻橋を眺めた…
↑吾妻橋の浅草側からの眺めだ。
↓佇んで写真を撮った場所が台東区で、特徴的な大きな建物等が視えている対岸側は墨田区であるそうだ…
↓河岸に下りてみると、向こう側の駒形橋も視えた…
↓現在の吾妻橋は1931(昭和6)年に竣工したモノだ。関東大震災で傷んだ橋を架け直したのである。
↑延長が150mで幅は20mということだ…
↓こういう、少し古風な外観の橋梁を訪ねて歩き廻るようなことをしてみるのも、東京での存外に愉しい過ごし方かもしれない等と思いながら吾妻橋を眺めた…
GODZILLA ゴジラ…:歌舞伎町:新宿(2022.05.08)
夜行バスに乗車するまでの間、新宿界隈を散策してみようということになった…
JR新宿駅南側から歩き始め、西側を経て東側へ、歌舞伎町の界隈に至った。
旧い記憶に在るような歌舞伎町の界隈ではあるが、随分と御無沙汰しており、少し「知らない場所…」という感じがしないでもなかった。
↓こういう場所に出くわした…
↑「ゴジラが居る…」と多少驚いた…
↓ゴジラは映画館が入っているビルの辺りに居るのだが、偶々ながら「ウルトラマン」のバナーが建物に下がっていて、少し笑った…
このゴジラが居る辺りの感じは、「記憶に在るようで、まるで知らない…」という気がする場所だった…
JR新宿駅南側から歩き始め、西側を経て東側へ、歌舞伎町の界隈に至った。
旧い記憶に在るような歌舞伎町の界隈ではあるが、随分と御無沙汰しており、少し「知らない場所…」という感じがしないでもなかった。
↓こういう場所に出くわした…
↑「ゴジラが居る…」と多少驚いた…
↓ゴジラは映画館が入っているビルの辺りに居るのだが、偶々ながら「ウルトラマン」のバナーが建物に下がっていて、少し笑った…
このゴジラが居る辺りの感じは、「記憶に在るようで、まるで知らない…」という気がする場所だった…
書斎…:<吉村昭記念文学館>:<ゆいの森あらかわ>(2022.05.08)
↓夥しい書籍等が積上げられた書棚が林立するかのような部屋が再現されている…
↓「読むべき…」を集めて読み込み、自分なりの「取材の旅」も重ねて作品を綴ったという作家、吉村昭の部屋を再現した場所を訪ねることが叶った。
吉村昭の作品は色々と、大変に興味深く読んでいる。その吉村昭の記念館に関して知ったのは極最近だった。
↓荒川区の施設の一隅に、「施設の常設的展示スペース」という雰囲気で設置されているのが<吉村昭記念文学館>である。
吉村昭は現在の荒川区ということになる場所で生まれ育っている。少年時代の事等を何かに綴っていて、現在の荒川区である郷里を愛していたということも知られている。
数々の作品で、吉村昭は高名な作家となった。荒川区では「地元出身の高名な作家のことを紹介する展示施設」という話しが持ち上がり、吉村昭本人に伝えたが御本人は「自身のことに関連して、公的資金で施設など…」と固辞したのだという。
それでも荒川区の側としては、地元に所縁の吉村昭に関して事績や人物を伝える場を設けたいという想いを抱き続けて来た。話し合いが続く中、吉村昭としては「図書館のような施設の中に展示コーナーを設けるというような感じであれば、活動経過や作品等を御紹介頂くことで構わない」と応諾したそうだ。
↓そこで荒川区の図書館も含めた複合的な文化施設である<ゆいの森あらかわ>が登場する際に<吉村昭記念文学館>が設けられることとなったのだ。
↓入口にこういう具合に<吉村昭記念文学館>の案内が在る訳だ。
吉村昭の作品は色々と読んでいるのだが、様々な作品を巡って方々へ取材旅行に出た経過というような展示が興味深かった。そして、時季毎にテーマを設けた展示を行うようにしているようだが、現在は『大黒屋光太夫』という作品を巡る事柄の展示であった。大変に興味深く読んだ作品に纏わることで、また作品の主人公となっている大黒屋光太夫に関することも興味深い訳で、大変に愉しく展示を拝見した。
都電の「荒川2丁目」停留所の直ぐ傍に設けられた施設だ。ここを偶々知って、思い付いて訪ねる機会を設けられたというのは大変に幸いだった…
↓「読むべき…」を集めて読み込み、自分なりの「取材の旅」も重ねて作品を綴ったという作家、吉村昭の部屋を再現した場所を訪ねることが叶った。
吉村昭の作品は色々と、大変に興味深く読んでいる。その吉村昭の記念館に関して知ったのは極最近だった。
↓荒川区の施設の一隅に、「施設の常設的展示スペース」という雰囲気で設置されているのが<吉村昭記念文学館>である。
吉村昭は現在の荒川区ということになる場所で生まれ育っている。少年時代の事等を何かに綴っていて、現在の荒川区である郷里を愛していたということも知られている。
数々の作品で、吉村昭は高名な作家となった。荒川区では「地元出身の高名な作家のことを紹介する展示施設」という話しが持ち上がり、吉村昭本人に伝えたが御本人は「自身のことに関連して、公的資金で施設など…」と固辞したのだという。
それでも荒川区の側としては、地元に所縁の吉村昭に関して事績や人物を伝える場を設けたいという想いを抱き続けて来た。話し合いが続く中、吉村昭としては「図書館のような施設の中に展示コーナーを設けるというような感じであれば、活動経過や作品等を御紹介頂くことで構わない」と応諾したそうだ。
↓そこで荒川区の図書館も含めた複合的な文化施設である<ゆいの森あらかわ>が登場する際に<吉村昭記念文学館>が設けられることとなったのだ。
↓入口にこういう具合に<吉村昭記念文学館>の案内が在る訳だ。
吉村昭の作品は色々と読んでいるのだが、様々な作品を巡って方々へ取材旅行に出た経過というような展示が興味深かった。そして、時季毎にテーマを設けた展示を行うようにしているようだが、現在は『大黒屋光太夫』という作品を巡る事柄の展示であった。大変に興味深く読んだ作品に纏わることで、また作品の主人公となっている大黒屋光太夫に関することも興味深い訳で、大変に愉しく展示を拝見した。
都電の「荒川2丁目」停留所の直ぐ傍に設けられた施設だ。ここを偶々知って、思い付いて訪ねる機会を設けられたというのは大変に幸いだった…
浅草寺…(2022.05.08)
大江戸線の蔵前駅に近い宿から「浅草寺→」と標識が歩道に在ったことに気付き、好天に誘われて歩いてみた。
↓15分まで掛からなかった気がする…この非常に有名な門の辺りに到った…
↓日曜日の午前中ではあったが、未だ「朝」という感じな時間帯だったかもしれない。仲見世では開店前も散見する他方、そこそこに人が集まり始めていた感だった。
↓雷門が視えるような辺りを通ったことは何度も在るように思うが、浅草寺の境内を訪ねた記憶が薄い。訪ねてみようと思った…
↓何か好天な中で酷く好い趣だと誘われたという気がした浅草寺だった…
浅草寺は、相当に古くからの信心を踏まえ、武蔵国に下った貴族が伽藍を起し、江戸時代までに様々な人達の庇護を受け、江戸時代の途中からは法親王(輪王寺宮)を代々の山主に迎えていた上野の寛永寺の傘下に入ったのだという。そして周辺は庶民文化が花開く繁華な地ともなって行く。明治期以降の色々な経過も在って、現在でも東京を代表する寺の一つかもしれない。
↓五重塔を仰ぎ見た…
↓御参りもした…
↓影向堂(ようごうどう)で御朱印も御願いしたが、そこからの眺めが気に入った。
「定番」な感じの場所とは言え、意外に「そう言えば?」という程度に、余り確り寄っていないという例は在るように思う。思い付いて立寄るのも存外に好い…
↓15分まで掛からなかった気がする…この非常に有名な門の辺りに到った…
↓日曜日の午前中ではあったが、未だ「朝」という感じな時間帯だったかもしれない。仲見世では開店前も散見する他方、そこそこに人が集まり始めていた感だった。
↓雷門が視えるような辺りを通ったことは何度も在るように思うが、浅草寺の境内を訪ねた記憶が薄い。訪ねてみようと思った…
↓何か好天な中で酷く好い趣だと誘われたという気がした浅草寺だった…
浅草寺は、相当に古くからの信心を踏まえ、武蔵国に下った貴族が伽藍を起し、江戸時代までに様々な人達の庇護を受け、江戸時代の途中からは法親王(輪王寺宮)を代々の山主に迎えていた上野の寛永寺の傘下に入ったのだという。そして周辺は庶民文化が花開く繁華な地ともなって行く。明治期以降の色々な経過も在って、現在でも東京を代表する寺の一つかもしれない。
↓五重塔を仰ぎ見た…
↓御参りもした…
↓影向堂(ようごうどう)で御朱印も御願いしたが、そこからの眺めが気に入った。
「定番」な感じの場所とは言え、意外に「そう言えば?」という程度に、余り確り寄っていないという例は在るように思う。思い付いて立寄るのも存外に好い…
<BANDAI>…(2022.05.08)
大江戸線の蔵前駅に近い宿に滞在し、所用の前に道草をする等しながら動き始めることにした。
天候も好く、ジーンズ穿きに「チェルニャーシカ」と呼び習わされるボーダー柄の長袖Tシャツというような服装で程好い感じだった。
歩き始めれば「駒形」という住所であった。
↓ビルに掲出された看板に眼が留まった…
↑<BANDAI>…「模型や玩具の<バンダイ>!?」と思い至った。本社等がこの辺りだったか…
↓歩を進めればこういう具合で、ショールームのようなモノが視えて、戸外に様々なキャラクターが配置されている。
様々なキャラクターが置かれていた。
↓自身として、最も注目したのはこれだ!
↓往年の『仮面ライダー』だ…所謂“新1号ライダー”の感じを再現したほぼ等身大のモノが在った。
↓期せずして彼に出くわしたことが、何やら酷く嬉しかった…
天候も好く、ジーンズ穿きに「チェルニャーシカ」と呼び習わされるボーダー柄の長袖Tシャツというような服装で程好い感じだった。
歩き始めれば「駒形」という住所であった。
↓ビルに掲出された看板に眼が留まった…
↑<BANDAI>…「模型や玩具の<バンダイ>!?」と思い至った。本社等がこの辺りだったか…
↓歩を進めればこういう具合で、ショールームのようなモノが視えて、戸外に様々なキャラクターが配置されている。
様々なキャラクターが置かれていた。
↓自身として、最も注目したのはこれだ!
↓往年の『仮面ライダー』だ…所謂“新1号ライダー”の感じを再現したほぼ等身大のモノが在った。
↓期せずして彼に出くわしたことが、何やら酷く嬉しかった…
築地本願寺…(2022.05.08)
「起き出したので散策」というような発想や行動の様式は、出先に在っても変わるものでもない。
始発の地下鉄で蔵前駅から勝どき駅へ向かい、勝鬨橋を渡って築地に至った。
↓親鸞聖人の像が据えられている場所に至った。
↑各地を遍歴した経過が在る訳で、旅の姿という様子を思わせた。
↓本堂が視える。大きい!
↓何とも名状し難い独特な外観に見入ってしまう…
本願寺は1617年に創建されたというが、1657年の<明暦の大火>で焼失してしまう。そして与えられたのが現在地で「築地」という地名の由来でもある沿岸部の埋立―「土地を築く」ということだ…―が進められて堂宇も築かれた。
その江戸時代から受継がれた建物等は1923年の関東大震災で焼失した。そこで再建を図り、1934年に現在の本堂が竣工して現在に至っているそうだ。
↓アジア各地の建築、仏教伝来の道筋の国々の建築というようなことを顧みながら工夫された建物がこの本堂だ。
↑何か不思議な魅力が溢れている建物であると思った。
自身は専門家でも研究家でもないが、浄土真宗の寺院では本堂がやや大きい場合が多い気がする。恐らく、多くの人達が集まる場面が多い傾向が在るのであろう。
↓建物外観は常時観られるようになっている。
↓こういう看板も眼に留まった…
↓朝の光に独特な形状の本堂が浮かぶ様は見事だった。再訪してみたいと思わせるものが在った。東京に無縁であった訳でもないのだが、初めてこの建物を眺めたのだった…
始発の地下鉄で蔵前駅から勝どき駅へ向かい、勝鬨橋を渡って築地に至った。
↓親鸞聖人の像が据えられている場所に至った。
↑各地を遍歴した経過が在る訳で、旅の姿という様子を思わせた。
↓本堂が視える。大きい!
↓何とも名状し難い独特な外観に見入ってしまう…
本願寺は1617年に創建されたというが、1657年の<明暦の大火>で焼失してしまう。そして与えられたのが現在地で「築地」という地名の由来でもある沿岸部の埋立―「土地を築く」ということだ…―が進められて堂宇も築かれた。
その江戸時代から受継がれた建物等は1923年の関東大震災で焼失した。そこで再建を図り、1934年に現在の本堂が竣工して現在に至っているそうだ。
↓アジア各地の建築、仏教伝来の道筋の国々の建築というようなことを顧みながら工夫された建物がこの本堂だ。
↑何か不思議な魅力が溢れている建物であると思った。
自身は専門家でも研究家でもないが、浄土真宗の寺院では本堂がやや大きい場合が多い気がする。恐らく、多くの人達が集まる場面が多い傾向が在るのであろう。
↓建物外観は常時観られるようになっている。
↓こういう看板も眼に留まった…
↓朝の光に独特な形状の本堂が浮かぶ様は見事だった。再訪してみたいと思わせるものが在った。東京に無縁であった訳でもないのだが、初めてこの建物を眺めたのだった…
東京スカイツリーを遠望する…(2022.05.08)
台東区浅草1丁目1番1号…(2022.05.08)
「具体的に所用で動くまでに多少の時間的なゆとり」という中で、細かい計画と無縁に辺りをフラフラとするというような、「無為な営み」と言われてしまいそうな振舞が存外に好きである。
正しく「好天に誘われて…」という程度のことで、滞在した宿から「徒歩圏内」と知って浅草寺を目指し、界隈を歩き廻った。
↓「好い趣…」と眺め入ってしまった…
↓<神谷バー>という老舗が知られるが、「浅草1丁目1番1号」という住所なのだそうだ。
好天の日曜日、午前中の少し早めな頃に辺りを動いていた。多少、人が出て来た感じではあったが、各種の店の中には未だ開いていない場所も目立った。この<神谷バー>も未だだった。敢えて開店を待つまでもなく、何となく移動した…
正しく「好天に誘われて…」という程度のことで、滞在した宿から「徒歩圏内」と知って浅草寺を目指し、界隈を歩き廻った。
↓「好い趣…」と眺め入ってしまった…
↓<神谷バー>という老舗が知られるが、「浅草1丁目1番1号」という住所なのだそうだ。
好天の日曜日、午前中の少し早めな頃に辺りを動いていた。多少、人が出て来た感じではあったが、各種の店の中には未だ開いていない場所も目立った。この<神谷バー>も未だだった。敢えて開店を待つまでもなく、何となく移動した…
<グランドリーム>号…(2022.05.08)
新宿のバスターミナル(バスタ新宿)で乗車予定のバスを待つと驚く。
案内放送に戸惑う。「X時Y分発、A行〇〇号、B行〇〇号、C行〇〇号…」という調子なのだ。同じ時刻に様々な方面へのバスが同時に発車するようになっている。同じ行先でも「経由する場所が違う」というようなこと、運行会社が違うということで「X時Y分発、A行〇〇号、A行△△号…」というのまで在った。流石に「大東京のターミナル!」という感だ。注意深く案内放送を聴く他に、発券窓口が在る待合所に掲出される「乗場案内」を確りと真面目に視なければならないと思う。
↓確りと真面目に視て確かめた乗場で待機したが、乗車するバスが静かに現れた。
↓夜行の都市間バスに投入すべく準備された車輛だと思う。<グランドリーム>号と名付けられている。
↑自身で券は用意し、「3列シート」で同行者と並ぶ指定席ということにしてはいた。その券を同行者に見せると「“2階”?何だろう?」と言い出した。自身、全く気にしていなかったが、確かに“2階”と在った。現れたバスは、なるほど“2階建て”になっていた…
今般乗車のバスは、京都駅を経て奈良駅へ向かうということだった。京都駅まで乗車した。
案内放送に戸惑う。「X時Y分発、A行〇〇号、B行〇〇号、C行〇〇号…」という調子なのだ。同じ時刻に様々な方面へのバスが同時に発車するようになっている。同じ行先でも「経由する場所が違う」というようなこと、運行会社が違うということで「X時Y分発、A行〇〇号、A行△△号…」というのまで在った。流石に「大東京のターミナル!」という感だ。注意深く案内放送を聴く他に、発券窓口が在る待合所に掲出される「乗場案内」を確りと真面目に視なければならないと思う。
↓確りと真面目に視て確かめた乗場で待機したが、乗車するバスが静かに現れた。
↓夜行の都市間バスに投入すべく準備された車輛だと思う。<グランドリーム>号と名付けられている。
↑自身で券は用意し、「3列シート」で同行者と並ぶ指定席ということにしてはいた。その券を同行者に見せると「“2階”?何だろう?」と言い出した。自身、全く気にしていなかったが、確かに“2階”と在った。現れたバスは、なるほど“2階建て”になっていた…
今般乗車のバスは、京都駅を経て奈良駅へ向かうということだった。京都駅まで乗車した。
新宿駅南口:髙橋一輝―サックス奏者 カテリーナ と邂逅…(2022.05.08)
新宿駅南口の少し広い歩道は、ストリートライブを試みるミュージシャンが多く現れる場所だと思う。この新宿駅南口の<バスタ新宿>でバスに乗車する段取りということになって、或る方を御案内した。
御案内した方はサックス奏者である。遠い国の御出身で、隣国との間を往来しながら活動していたのだが、昨今は事情が在ってそれもままならない。そこで御本人の過去に少しばかり縁が在った遠い国で「新たな可能性」を模索しようとしている。「徒手空拳」で何とかしようとしているので、自身としては古いと言えば古い縁により支援をしようとした訳だ。
「事情」の故に異様な遠回りでこの国に着き、いきなり別な「事情」に伴う「隔離」という羽目で、漸く「解放」になった日だった。「隔離」という羽目で、目指すこととした場所を目指して移動に関する段取りが組み立て悪くなっていて、そういう中で<バスタ新宿>でバスに乗車する段取りを整えた。
「一別以来!」と成田空港―具体的な場所の特定に手間取ったが、何とか見出し、待ち受けて迎えることが叶った…―で再会し、嵩張るモノをロッカーに預けるという程度にして、乗車するバスを待つという話しになった。そこでバスターミナルの<バスタ新宿>の近くへ足を運ぶと、力強い歌声が魅力の髙橋一輝が、熱心なファンや歌声に惹かれた人達に見守られながら熱唱していた。自身でも「何か好い歌だ…」と思っていたが、御案内した友人でもあるサックス奏者のカタリーナは些か心を動かされたようでもあった。
「嵩張るモノをロッカーに預けるという程度にして辺りを一寸歩き廻るなどして…」ということにしたのだったが、友人は大事にしている愛用の楽器を収めたケースと手近な貴重品を容れたハンドバッグという持ち物で<バスタ新宿>から再度外に出た。
歌声がなかなかに魅力的な髙橋一輝は少しずつ灯りが目立ち始めた新宿駅南口で熱唱を続けていた。
「一寸、聴きましょう…」と友人は髙橋一輝の熱唱に聴き入る。自身としても場に留まって熱唱を聴くことに異存は無い。実際、時に強く、一部に柔らかい感じの歌唱も混じる調子は心地好いと思った。何やら「好い感じの若いシンガーと出くわして、なかなかに好かった…」と思っていると、友人は何やら手持ちの楽器のケースを開いて演奏の準備をしようとしている。「どないするのや?」という感じなのだが、心惹かれた魅力溢れるシンガーのバックで演奏して盛り立てたいと言い出したのだ。
「何かややこしい話しに?」と危惧したが、友人は「訳が判らない位の大昔から、音楽家というのは、こういうように何となく盛り上がっている場所で歌舞音曲を担って生きて来た存在だ。自身もそういう音楽家の端くれだ…」と酷く張り切っている。
↓自在に演奏可能な状態になった友人は、熱唱する髙橋一輝の脇で「専属バンドのメンバーが盛り上げる」というようなノリで、即興で初めて付き合うような楽曲の間奏を担った。
↓既に一定のファンが在って、ストリートライブに駆け付ける人達が一定数在るようだが、外国人のサックス奏者が不意に現れて、熱唱を盛り立てようと熱演してしまっている状況は、驚きと喝采とで迎えられた。
↓何やら面倒な事も在るのかもしれないと思ったが、色々な曲折を経ながらシンガーとして可能なように活動をしている髙橋一輝としては、仔細は全く不明な「乱入…」ながらも、一定以上の技量の在る演奏家が御自身のライブを盛り立ててくれたということを凄く歓んでいるようだった。
サックス奏者の友人は、「その辺を普通に動き回って差支えない」ということになった「第1日」に、なかなかに素敵なシンガーに出くわし、押し掛けるかのように傍らで演奏したことが酷く嬉しかったとしていた。勿論、長い移動を開始して、「隔離」という羽目になって、愛用の楽器は音を出せない状態を強いられたのであろうから…
即興で楽曲に合わせた暑い演奏を披露するサックス奏者が「乱入…」という感じで現れた中、髙橋一輝は酷く驚きながらも、非常に気持ち好く歌うことが叶ったと驚きながら喜んでいる。そして彼を見守る人達も、不意に現れたそれなりに巧い演奏家に戸惑うと同時に、凄く歓んでいる様子が伺えたとしている。
この時の様子の写真は些か在るのだが…「初対面」という者同士でも、音楽を軸を「あの日は好かったな…」という「好感の環」が拡がるのは善いことだ。
御案内した方はサックス奏者である。遠い国の御出身で、隣国との間を往来しながら活動していたのだが、昨今は事情が在ってそれもままならない。そこで御本人の過去に少しばかり縁が在った遠い国で「新たな可能性」を模索しようとしている。「徒手空拳」で何とかしようとしているので、自身としては古いと言えば古い縁により支援をしようとした訳だ。
「事情」の故に異様な遠回りでこの国に着き、いきなり別な「事情」に伴う「隔離」という羽目で、漸く「解放」になった日だった。「隔離」という羽目で、目指すこととした場所を目指して移動に関する段取りが組み立て悪くなっていて、そういう中で<バスタ新宿>でバスに乗車する段取りを整えた。
「一別以来!」と成田空港―具体的な場所の特定に手間取ったが、何とか見出し、待ち受けて迎えることが叶った…―で再会し、嵩張るモノをロッカーに預けるという程度にして、乗車するバスを待つという話しになった。そこでバスターミナルの<バスタ新宿>の近くへ足を運ぶと、力強い歌声が魅力の髙橋一輝が、熱心なファンや歌声に惹かれた人達に見守られながら熱唱していた。自身でも「何か好い歌だ…」と思っていたが、御案内した友人でもあるサックス奏者のカタリーナは些か心を動かされたようでもあった。
「嵩張るモノをロッカーに預けるという程度にして辺りを一寸歩き廻るなどして…」ということにしたのだったが、友人は大事にしている愛用の楽器を収めたケースと手近な貴重品を容れたハンドバッグという持ち物で<バスタ新宿>から再度外に出た。
歌声がなかなかに魅力的な髙橋一輝は少しずつ灯りが目立ち始めた新宿駅南口で熱唱を続けていた。
「一寸、聴きましょう…」と友人は髙橋一輝の熱唱に聴き入る。自身としても場に留まって熱唱を聴くことに異存は無い。実際、時に強く、一部に柔らかい感じの歌唱も混じる調子は心地好いと思った。何やら「好い感じの若いシンガーと出くわして、なかなかに好かった…」と思っていると、友人は何やら手持ちの楽器のケースを開いて演奏の準備をしようとしている。「どないするのや?」という感じなのだが、心惹かれた魅力溢れるシンガーのバックで演奏して盛り立てたいと言い出したのだ。
「何かややこしい話しに?」と危惧したが、友人は「訳が判らない位の大昔から、音楽家というのは、こういうように何となく盛り上がっている場所で歌舞音曲を担って生きて来た存在だ。自身もそういう音楽家の端くれだ…」と酷く張り切っている。
↓自在に演奏可能な状態になった友人は、熱唱する髙橋一輝の脇で「専属バンドのメンバーが盛り上げる」というようなノリで、即興で初めて付き合うような楽曲の間奏を担った。
↓既に一定のファンが在って、ストリートライブに駆け付ける人達が一定数在るようだが、外国人のサックス奏者が不意に現れて、熱唱を盛り立てようと熱演してしまっている状況は、驚きと喝采とで迎えられた。
↓何やら面倒な事も在るのかもしれないと思ったが、色々な曲折を経ながらシンガーとして可能なように活動をしている髙橋一輝としては、仔細は全く不明な「乱入…」ながらも、一定以上の技量の在る演奏家が御自身のライブを盛り立ててくれたということを凄く歓んでいるようだった。
サックス奏者の友人は、「その辺を普通に動き回って差支えない」ということになった「第1日」に、なかなかに素敵なシンガーに出くわし、押し掛けるかのように傍らで演奏したことが酷く嬉しかったとしていた。勿論、長い移動を開始して、「隔離」という羽目になって、愛用の楽器は音を出せない状態を強いられたのであろうから…
即興で楽曲に合わせた暑い演奏を披露するサックス奏者が「乱入…」という感じで現れた中、髙橋一輝は酷く驚きながらも、非常に気持ち好く歌うことが叶ったと驚きながら喜んでいる。そして彼を見守る人達も、不意に現れたそれなりに巧い演奏家に戸惑うと同時に、凄く歓んでいる様子が伺えたとしている。
この時の様子の写真は些か在るのだが…「初対面」という者同士でも、音楽を軸を「あの日は好かったな…」という「好感の環」が拡がるのは善いことだ。
蔵前駅―大江戸線(2022.05.08)
出先では、必ずしも早寝ではない場合も在るのだが、それでも早起きしてしまった。
↓戸外に出てみた…
↑先行していた浅草線の蔵前駅と、大江戸線の蔵前駅は地下の通路では結ばれていないようで、互いに離れている。その大江戸線の蔵前駅が滞在している場所に近かった。
「12号線」という仮称のような名称で1991年に部分開業し、2000年に現在のような路線になって「大江戸線」となった。路線図を視ると「環状線」のように見えるが、実は「6」のような形に軌道が敷設され、JRの山手線のように「廻り続ける」という列車運行となっているのでもない。都庁前駅で折り返す、或いは環から放射状に延びる形になっている区間に出入りするというような形になっている。何回か利用してよく判ったが、「何方から廻っても〇〇駅に着く」という程でもない訳だ。
古く「江戸」の範囲とされた、江戸時代の地図で「朱引き」とされている範囲を食み出した箇所も含んで運行されているが、「江戸の範囲を囲むような」ということで「大江戸線」ということにしたらしい。
↓始発列車が発着する少し前のような時間帯に大江戸線の蔵前駅に入った。
↑「東京辺りの流儀」では、乗換駅は殆どの場合に駅名を統一している。浅草線の蔵前駅が在ったから、ここは蔵前駅になったのであろう。多分、ずうっと前の建設構想の時点では「厩橋駅」という程度の呼称だったと思う。「関西辺りの流儀」であれば、そういうようになったかもしれない?そういう余計な事も思った…
↓都営地下鉄の、この乗場に掲出されている案内が判り易い。目指したい駅へ進む列車が着く場所が明確になる。
↓列車が現れた…
↓「日曜日の早朝」であり、車内はかなり空いていた…
「休日の早起き」で一部に地下鉄を利用する移動も交えて散策に出るというのも面白い。
↓戸外に出てみた…
↑先行していた浅草線の蔵前駅と、大江戸線の蔵前駅は地下の通路では結ばれていないようで、互いに離れている。その大江戸線の蔵前駅が滞在している場所に近かった。
「12号線」という仮称のような名称で1991年に部分開業し、2000年に現在のような路線になって「大江戸線」となった。路線図を視ると「環状線」のように見えるが、実は「6」のような形に軌道が敷設され、JRの山手線のように「廻り続ける」という列車運行となっているのでもない。都庁前駅で折り返す、或いは環から放射状に延びる形になっている区間に出入りするというような形になっている。何回か利用してよく判ったが、「何方から廻っても〇〇駅に着く」という程でもない訳だ。
古く「江戸」の範囲とされた、江戸時代の地図で「朱引き」とされている範囲を食み出した箇所も含んで運行されているが、「江戸の範囲を囲むような」ということで「大江戸線」ということにしたらしい。
↓始発列車が発着する少し前のような時間帯に大江戸線の蔵前駅に入った。
↑「東京辺りの流儀」では、乗換駅は殆どの場合に駅名を統一している。浅草線の蔵前駅が在ったから、ここは蔵前駅になったのであろう。多分、ずうっと前の建設構想の時点では「厩橋駅」という程度の呼称だったと思う。「関西辺りの流儀」であれば、そういうようになったかもしれない?そういう余計な事も思った…
↓都営地下鉄の、この乗場に掲出されている案内が判り易い。目指したい駅へ進む列車が着く場所が明確になる。
↓列車が現れた…
↓「日曜日の早朝」であり、車内はかなり空いていた…
「休日の早起き」で一部に地下鉄を利用する移動も交えて散策に出るというのも面白い。
厩橋…(2022.05.07)
一夜の宿を求めて施設を訪ねようとして地図を視た。地下鉄大江戸線の蔵前駅を出て、「厩橋」(うまやばし)の交差点を少し越えた辺りと判った。
その「厩橋」(うまやばし)の交差点を少し越えた辺りの宿にモノを置いて、所要を足して引揚げた際、この「厩橋」(うまやばし)が気になった。
↓近寄るとこういうような様子だった。美しい…
↓更に寄ってみて、隅田川の河岸側に歩を進めた…
↓美しい三連のアーチの橋だ。
この橋は関東大震災後の復興の中で架橋されたモノであるという。1926(大正15)年に着工で、1929(昭和4)年に竣工ということだ。
蔵前に在った、幕府の米蔵の米を輸送するための馬を保管する厩が在ったことから、「御厩河岸」(おんまいがし)と呼び習わされていた辺りの橋であったことから「厩橋」の称が登場したそうだ。
江戸時代には辺りで渡し舟を運航していたというが、明治時代に架橋された。最初の橋が鉄橋に改められ、その後は震災後の復興で現在のモノになったそうだ。
↓なかなかに好いモノに出くわした…
その「厩橋」(うまやばし)の交差点を少し越えた辺りの宿にモノを置いて、所要を足して引揚げた際、この「厩橋」(うまやばし)が気になった。
↓近寄るとこういうような様子だった。美しい…
↓更に寄ってみて、隅田川の河岸側に歩を進めた…
↓美しい三連のアーチの橋だ。
この橋は関東大震災後の復興の中で架橋されたモノであるという。1926(大正15)年に着工で、1929(昭和4)年に竣工ということだ。
蔵前に在った、幕府の米蔵の米を輸送するための馬を保管する厩が在ったことから、「御厩河岸」(おんまいがし)と呼び習わされていた辺りの橋であったことから「厩橋」の称が登場したそうだ。
江戸時代には辺りで渡し舟を運航していたというが、明治時代に架橋された。最初の橋が鉄橋に改められ、その後は震災後の復興で現在のモノになったそうだ。
↓なかなかに好いモノに出くわした…
都庁…(2022.05.07)
都庁前駅:都営地下鉄大江戸線…(2022.05.07)
滞在している宿の「最寄り」が大江戸線の蔵前駅だ。浅草線の駅は少し離れているので、飽くまでも大江戸線が好い。
新宿で翌日の段取りに関連する用事を足した後に引揚げようとした。大江戸線については都庁前駅という駅が在って、何やら便利そうだ。
現在のあの「巨大なビル」に関しては、竣工してオフィスが使われるようになってような時期、学生として「都民」であった経過も在り、また新宿区内に居たので辺りは「懐かしいエリア」ということにもなる。と言って、酷く御無沙汰しているので勝手も異なることは重々承知だ。
そういうように思いながら「近くに行けば、間違いなく仰ぎ見られる」という都庁を目印に辺りを歩きながら「都庁前駅は何処から入る?」と探した。
↓「Wi-Fi」というステッカーの在る公衆電話ボックスの辺りに、都営地下鉄の出入口が存在することを示すマークを見付けた。
↓辺りをキョロキョロしたが…駐車場か何かのようになっている場所の隅に出入口らしきモノが在った。
↓「妙な場所?」と個人的には思ったが、間違いなく普通な地下鉄の出入口だ。
↓都庁ビル地階の、旅券(パスポート)関係の窓口の出入口と都庁前駅が直結していた…
↓ホームへ下りてみれば、都庁前駅が起点のようになっているので、大きな環になっている路線を行く予定の列車が待機していた。
今般、何となく大江戸線が気に入ってしまった…それはそれとして、偶々出くわした都庁前駅の出入口が少し不思議だった…
新宿で翌日の段取りに関連する用事を足した後に引揚げようとした。大江戸線については都庁前駅という駅が在って、何やら便利そうだ。
現在のあの「巨大なビル」に関しては、竣工してオフィスが使われるようになってような時期、学生として「都民」であった経過も在り、また新宿区内に居たので辺りは「懐かしいエリア」ということにもなる。と言って、酷く御無沙汰しているので勝手も異なることは重々承知だ。
そういうように思いながら「近くに行けば、間違いなく仰ぎ見られる」という都庁を目印に辺りを歩きながら「都庁前駅は何処から入る?」と探した。
↓「Wi-Fi」というステッカーの在る公衆電話ボックスの辺りに、都営地下鉄の出入口が存在することを示すマークを見付けた。
↓辺りをキョロキョロしたが…駐車場か何かのようになっている場所の隅に出入口らしきモノが在った。
↓「妙な場所?」と個人的には思ったが、間違いなく普通な地下鉄の出入口だ。
↓都庁ビル地階の、旅券(パスポート)関係の窓口の出入口と都庁前駅が直結していた…
↓ホームへ下りてみれば、都庁前駅が起点のようになっているので、大きな環になっている路線を行く予定の列車が待機していた。
今般、何となく大江戸線が気に入ってしまった…それはそれとして、偶々出くわした都庁前駅の出入口が少し不思議だった…
都庁ビルの高層部分が覗く西新宿の鳩…(2022.05.07)
本州方面へ南下するというような場合に「敢えて目指すのでもない…」という行動に及ぶ場合が多く、近年は盛んに動き回っているのでもない東京に関して、戯れに「出入禁止?」と言う場合が在る。それは極端にしても、然程積極的に動き回っていない情況が何となく続く東京の中で、「都庁ビルの周辺」は、「前に歩き廻ったのは?何時だった?」という程度に御無沙汰している気がする。
記憶が確かなら…学生の頃に巨大な都庁のビルが竣工して、都庁がビルを本庁舎とするようになっていた。自身にとって全く初めてだった旅券(パスポート)は、確か都庁のビル内に設けられた窓口で手続を御願いした記憶が在る。
↓「かなり御無沙汰な眺め…」と視ていたが…何やら自身の他にも様子を眺めるかのように佇んでいた存在が…
↑鳩だ…一羽だけはぐれてしまったかのように…何やら都庁ビルが視える辺りの柵に居た。
自身も「勝手な思い」を胸に、一人はぐれたかのように南下してこの巨大なビルが視える辺りに佇んでいるが、この鳩には如何いう仔細が在ったのか?
因みに、大き目な建物が林立する東京では、広角ズームを装着した<X-Pro2>の使い心地が何となく好かった…
記憶が確かなら…学生の頃に巨大な都庁のビルが竣工して、都庁がビルを本庁舎とするようになっていた。自身にとって全く初めてだった旅券(パスポート)は、確か都庁のビル内に設けられた窓口で手続を御願いした記憶が在る。
↓「かなり御無沙汰な眺め…」と視ていたが…何やら自身の他にも様子を眺めるかのように佇んでいた存在が…
↑鳩だ…一羽だけはぐれてしまったかのように…何やら都庁ビルが視える辺りの柵に居た。
自身も「勝手な思い」を胸に、一人はぐれたかのように南下してこの巨大なビルが視える辺りに佇んでいるが、この鳩には如何いう仔細が在ったのか?
因みに、大き目な建物が林立する東京では、広角ズームを装着した<X-Pro2>の使い心地が何となく好かった…
「鉄骨柱梁接合部(実物)」…(2020.12.26)
名古屋駅で<のぞみ>に乗車して、発車の際の「3分程遅れて発車しました…」を挽回して定刻で東京駅に着いた後、嵩張るモノを駅のロッカーに預けて駅周辺に出てみた…
夜に泊まる予定の宿の場所を確かめながら、東京駅八重洲口辺りからふらりと歩いた。天候もなかなかに好く、「そう言えば、こういう具合に東京の街中を歩くのも暫く振りだ…」と心地好く歩いていた…
↓東京の街中…時に「これは何?」というモノにも出くわすという感だ…
↑「不思議なオブジェ?」と思った…所謂“メガバンク”と呼ばれる大手銀行関係のビルの前だった…
所謂“メガバンク”は、長い間に様々な銀行が合併して現在に至っているのだが、現在このビルに入居している銀行の“前身の一つ”となる銀行が、1952年に現在地に本店ビルを建てたのだそうだ。そのビルの「鉄骨柱梁接合部」の実物―現在のビルになる前に解体されて、その際に部材を取り出して、一部を保管したのであろう…―をモニュメントにしたのだそうだ。1952年当時には中高層ビルとして「日本国内で初めて」であったという「鉄骨造全溶接」という工法が採用されたというようなことも在ったのだという。
こういうモニュメントという形であっても、「建築の歴史」という観点で意義深いと考えられる建物の記憶が語り継がれるというのは、存外に大切なことなのかもしれない…そんなことを思いながら、辺りを然程明確な意図も無いままに歩き廻った…
夜に泊まる予定の宿の場所を確かめながら、東京駅八重洲口辺りからふらりと歩いた。天候もなかなかに好く、「そう言えば、こういう具合に東京の街中を歩くのも暫く振りだ…」と心地好く歩いていた…
↓東京の街中…時に「これは何?」というモノにも出くわすという感だ…
↑「不思議なオブジェ?」と思った…所謂“メガバンク”と呼ばれる大手銀行関係のビルの前だった…
所謂“メガバンク”は、長い間に様々な銀行が合併して現在に至っているのだが、現在このビルに入居している銀行の“前身の一つ”となる銀行が、1952年に現在地に本店ビルを建てたのだそうだ。そのビルの「鉄骨柱梁接合部」の実物―現在のビルになる前に解体されて、その際に部材を取り出して、一部を保管したのであろう…―をモニュメントにしたのだそうだ。1952年当時には中高層ビルとして「日本国内で初めて」であったという「鉄骨造全溶接」という工法が採用されたというようなことも在ったのだという。
こういうモニュメントという形であっても、「建築の歴史」という観点で意義深いと考えられる建物の記憶が語り継がれるというのは、存外に大切なことなのかもしれない…そんなことを思いながら、辺りを然程明確な意図も無いままに歩き廻った…
<大隈講堂>…(2020.12.26)
↓視えている建物…正式には<早稲田大学大隈記念講堂>と言うそうだ。更にその早稲田大学の中では<21号館>とも呼んでいるようだが…とりあえず<大隈講堂>である。
銅像がよく知られている、大学の創始者である大隈重信逝去後、その功労を記念する建物の建設という話しが持ち上がった。方々からの寄付も受けて1926(大正15)年2月に着工し、1927(昭和2)年10月に竣工したのだという。
↓聞けば「東京都選定歴史的建造物」(1999年)、「重要文化財(建造物)」(2007年)という指定を受けたそうだが…この建物は何時でも「辺りのランドマーク」で「通り掛かれば仰ぎ見る」という存在だ…<大隈講堂>は、とりあえず<大隈講堂>だと思う…
↑少し高齢になっても元気であったという大隈重信は、「人間は本来、125歳までの寿命を有している。適当なる摂生を以てすれば、この天寿を全う出来る」とする『人生125歳説』というモノを吹聴していたという。それに因み、この講堂の時計塔は「125尺」(約37.8m)に設計されたのだそうだ…
時にはこういう建物の辺りを漫然と歩き、「通り掛かれば仰ぎ見る」という雰囲気を遠くなった記憶の底から引き揚げてみるというのも、悪くはないのかもしれない…
銅像がよく知られている、大学の創始者である大隈重信逝去後、その功労を記念する建物の建設という話しが持ち上がった。方々からの寄付も受けて1926(大正15)年2月に着工し、1927(昭和2)年10月に竣工したのだという。
↓聞けば「東京都選定歴史的建造物」(1999年)、「重要文化財(建造物)」(2007年)という指定を受けたそうだが…この建物は何時でも「辺りのランドマーク」で「通り掛かれば仰ぎ見る」という存在だ…<大隈講堂>は、とりあえず<大隈講堂>だと思う…
↑少し高齢になっても元気であったという大隈重信は、「人間は本来、125歳までの寿命を有している。適当なる摂生を以てすれば、この天寿を全う出来る」とする『人生125歳説』というモノを吹聴していたという。それに因み、この講堂の時計塔は「125尺」(約37.8m)に設計されたのだそうだ…
時にはこういう建物の辺りを漫然と歩き、「通り掛かれば仰ぎ見る」という雰囲気を遠くなった記憶の底から引き揚げてみるというのも、悪くはないのかもしれない…
<BOOKS RENAISSANCE>…(2020.12.26)
<はやぶさ>…:東京駅(2020.12.27)
↓初めて視るということでもない…何度も視ているが、視る都度に何となく驚く形だ…「暗い早朝に降り立った猛禽」というイメージだと思う…
↑E5系電車…東北新幹線で運用されている車輌だが、先頭車の形状は高速運転の実現に向けて工夫を重ねた結果であるという、非常に目立つ形になっている…
↓E5系電車にはこういうマークが描かれている…この車輌が登場した頃の「東日本大震災」という出来事を恐らく念頭に置いていると思う。“不死鳥”を想起させる画になっている。
↑「日本東北」(=TOHOKU JAPAN)の脇に「Tresureland」と在る。「宝物のような東北地方」とか「輝く宝石のようなモノが溢れている東北地方」というイメージか?そしてこの車輌は、その東北地方と首都圏とを結ぶ訳だ…
↓<はやぶさ>は「全席指定」とのことだ。自由席が連結されていても、最初から指定席を利用することを意図してはいたが…
↑「3列+2列」という座席配置の内装だ…
↓着替え等々を容れたトートバッグ、ノートパソコン等を容れたリュックサック、戸外で着る上着、愛用のキャップは荷物棚に載せた…
↓カメラや細々したモノを容れたバッグは何となく手元に置く…
↓ホームの自販機で車内用に飲物は求めた…
何となく発車時刻を席に座って待っていれば、何時の間にか列車は静かに発車した…早朝の新幹線で北上して青函トンネルも潜って北海道に上陸し、北海道内の列車に乗り換えて札幌へ向かう…自身としては2回目なのだが、意外に「気に入った経路」ということになった…
↑E5系電車…東北新幹線で運用されている車輌だが、先頭車の形状は高速運転の実現に向けて工夫を重ねた結果であるという、非常に目立つ形になっている…
↓E5系電車にはこういうマークが描かれている…この車輌が登場した頃の「東日本大震災」という出来事を恐らく念頭に置いていると思う。“不死鳥”を想起させる画になっている。
↑「日本東北」(=TOHOKU JAPAN)の脇に「Tresureland」と在る。「宝物のような東北地方」とか「輝く宝石のようなモノが溢れている東北地方」というイメージか?そしてこの車輌は、その東北地方と首都圏とを結ぶ訳だ…
↓<はやぶさ>は「全席指定」とのことだ。自由席が連結されていても、最初から指定席を利用することを意図してはいたが…
↑「3列+2列」という座席配置の内装だ…
↓着替え等々を容れたトートバッグ、ノートパソコン等を容れたリュックサック、戸外で着る上着、愛用のキャップは荷物棚に載せた…
↓カメラや細々したモノを容れたバッグは何となく手元に置く…
↓ホームの自販機で車内用に飲物は求めた…
何となく発車時刻を席に座って待っていれば、何時の間にか列車は静かに発車した…早朝の新幹線で北上して青函トンネルも潜って北海道に上陸し、北海道内の列車に乗り換えて札幌へ向かう…自身としては2回目なのだが、意外に「気に入った経路」ということになった…
東海道新幹線の列車…:東京駅(2020.12.26)
早朝の名古屋を発ち、列車の車窓を大いに愉しみながら午前中の間に、と言うより「“朝”の範疇?」というような時間帯に東京駅に辿り着いた…
↓列車を下りて、名古屋から乗車して来た車輌を何となく眺めた…
↑「他地域から東京駅へ列車で辿り着く」という感覚自体が、自身にとっては「少し特別?」だ。普段は「東京駅目掛けて列車で移動」という状況とは縁遠い感じであるからだ…
↓特段に急いでいたのでもないので、何となくホームで列車を眺めた。そんな「中途半端で僅かな間隙」が多少在る程度な動き方が好い…
↑「100km単位」の長距離を行き交う列車だが、何か「大都市の地下鉄や近郊電車?」というようなモノを思わせる頻度で列車が発着する東海道新幹線である。こういう具合に列車が並ぶ場面も多く見掛ける…
↓最近の東海道新幹線の主力になっている車輌であるN700系のシリーズも、先頭車の形状が少し特徴的だ…
時には、こういう具合に新幹線の列車で移動するのも愉しい感じだ…
↓列車を下りて、名古屋から乗車して来た車輌を何となく眺めた…
↑「他地域から東京駅へ列車で辿り着く」という感覚自体が、自身にとっては「少し特別?」だ。普段は「東京駅目掛けて列車で移動」という状況とは縁遠い感じであるからだ…
↓特段に急いでいたのでもないので、何となくホームで列車を眺めた。そんな「中途半端で僅かな間隙」が多少在る程度な動き方が好い…
↑「100km単位」の長距離を行き交う列車だが、何か「大都市の地下鉄や近郊電車?」というようなモノを思わせる頻度で列車が発着する東海道新幹線である。こういう具合に列車が並ぶ場面も多く見掛ける…
↓最近の東海道新幹線の主力になっている車輌であるN700系のシリーズも、先頭車の形状が少し特徴的だ…
時には、こういう具合に新幹線の列車で移動するのも愉しい感じだ…
<ROPPONGI ROPPONGI>…(2020.12.26)
↓交差点の辺りに見えている高速道路に「ROPPONGI」の文字が入っていて、暗くなると電飾が点くようになっている…「ROPPONGI」というだけにしては「少し文字数が多目で長い?」と思ったが、<ROPPONGI ROPPONGI>と2回繰り返している…
↑「イマドキ…」な感じのタクシーが信号停車する「最近の様子」には違いないのだが…この六本木交差点の辺りの眺めが、何か「懐かしい…」というような気がしてしまう…
「六本木」という地名に関しては…「辺りに6本の松の木が立っていて目印になっていた」という説、「辺りに上杉家、朽木家、高木家、青木家、片桐家、一柳家と樹木に因む姓の大名屋敷が6つ在った=6本の木」という説が有力らしいが…何れにしても六本木辺りの事始めとなると、江戸時代の前半である17世紀、然程賑やかでもなかった辺りに寺が開かれ、門前町が形成されたことを契機に街が形成されて行ったということらしい…
今般、この六本木の辺りを「何年振りか??」という程度に久々に歩き廻った…そして意外に愉しかった…
↑「イマドキ…」な感じのタクシーが信号停車する「最近の様子」には違いないのだが…この六本木交差点の辺りの眺めが、何か「懐かしい…」というような気がしてしまう…
「六本木」という地名に関しては…「辺りに6本の松の木が立っていて目印になっていた」という説、「辺りに上杉家、朽木家、高木家、青木家、片桐家、一柳家と樹木に因む姓の大名屋敷が6つ在った=6本の木」という説が有力らしいが…何れにしても六本木辺りの事始めとなると、江戸時代の前半である17世紀、然程賑やかでもなかった辺りに寺が開かれ、門前町が形成されたことを契機に街が形成されて行ったということらしい…
今般、この六本木の辺りを「何年振りか??」という程度に久々に歩き廻った…そして意外に愉しかった…
神田明神…(2020.12.26)
↓御茶ノ水駅に至って辺りへ出てみると、神田明神が近くに在るということは、案内標識を視れば直ぐに判る…
だからと言って、漫然と矢印の側へ進んで、その神田明神に直ぐに辿り着くということでもない…存外に辺りをグルグルと歩き廻る羽目に陥った…「思い付きで動き回る」というのは、往々にしてそういうモノであるような気がする…
↓結局、御茶ノ水駅に至る前から動き回っていて乾いた喉を潤そうと水を求めたコンビニで、店番を担当していた方が「地元のおっちゃん」という風な方だったので「この近くですよね?」と話し掛け、一寸助言を頂いて神田明神に辿り着いたのだった…何か酷く嬉しかった…
↓境内へ進む辺りに神輿がケースに入った状態で展示されていた…神田明神の祭は名が通っているらしい…
↓灯りに浮かび上がる門の風情が好く、暫し見入ってしまった…
神社を訪ね、参拝して御朱印でも頂こうということであれば、日中によるべきだ…が、神田明神は「灯りに浮かび上がる風情が好い」と一寸聞いていたので、敢えて宿へ向かう前、陽が落ちた頃に立寄ってみたのだった…
神田明神は730年頃に創建された社を起こりとしているそうだ。江戸幕府が開かれた後には「江戸総鎮守」として幅広い層の信仰を集めた神社となって行った…
江戸時代後期の社殿が明治以降も受継がれていたというが、関東大震災でそれらが損なわれ、1934(昭和9)年に現在の鉄筋コンクリートの社殿が再建された。神田明神の周辺は戦禍で古い建物が随分と損なわれた経過が在るが、神田明神の社殿は何とか残ったのだという…
↓「初詣の支度が整った時期に入った年末」という感だったが…夜になっても参拝者が余り途切れないとうな感であった…
↓何か独特な風情が感じられる場所だった…
自身には、東京都内に住んでいた経過は在るが、この場所に立寄ったのは初めてであったと思う。他方、「最初で最後」ということにはならないと思いながらこの場を眺めた。好い風情で、一寸気に入ってしまった…
だからと言って、漫然と矢印の側へ進んで、その神田明神に直ぐに辿り着くということでもない…存外に辺りをグルグルと歩き廻る羽目に陥った…「思い付きで動き回る」というのは、往々にしてそういうモノであるような気がする…
↓結局、御茶ノ水駅に至る前から動き回っていて乾いた喉を潤そうと水を求めたコンビニで、店番を担当していた方が「地元のおっちゃん」という風な方だったので「この近くですよね?」と話し掛け、一寸助言を頂いて神田明神に辿り着いたのだった…何か酷く嬉しかった…
↓境内へ進む辺りに神輿がケースに入った状態で展示されていた…神田明神の祭は名が通っているらしい…
↓灯りに浮かび上がる門の風情が好く、暫し見入ってしまった…
神社を訪ね、参拝して御朱印でも頂こうということであれば、日中によるべきだ…が、神田明神は「灯りに浮かび上がる風情が好い」と一寸聞いていたので、敢えて宿へ向かう前、陽が落ちた頃に立寄ってみたのだった…
神田明神は730年頃に創建された社を起こりとしているそうだ。江戸幕府が開かれた後には「江戸総鎮守」として幅広い層の信仰を集めた神社となって行った…
江戸時代後期の社殿が明治以降も受継がれていたというが、関東大震災でそれらが損なわれ、1934(昭和9)年に現在の鉄筋コンクリートの社殿が再建された。神田明神の周辺は戦禍で古い建物が随分と損なわれた経過が在るが、神田明神の社殿は何とか残ったのだという…
↓「初詣の支度が整った時期に入った年末」という感だったが…夜になっても参拝者が余り途切れないとうな感であった…
↓何か独特な風情が感じられる場所だった…
自身には、東京都内に住んでいた経過は在るが、この場所に立寄ったのは初めてであったと思う。他方、「最初で最後」ということにはならないと思いながらこの場を眺めた。好い風情で、一寸気に入ってしまった…
<8901>:東池袋四丁目停留所:都電…(2020.12.26)
「東京で少しばかり時間が…」ということになれば、「一寸だけ寄ってみたい…」という辺りが頭の中に在った…少し「複雑な感じ?」で見詰めざるを得ない側面も否定し悪い懐かしいエリアを動き回った後に「そうだ!!」と思い出して都電に乗車してみた…
未だ真新しい感じもする車輛―2015年に登場したらしい…―に乗込み、見覚えが在るような、大きく変わって初めての場所と大差が無いような、色々と感じるモノが多い車窓を眺めながら、暫し「極短い都電の旅」を愉しみ、東池袋四丁目停留所で下車した…
↓「ここまで運んでくれてありがとう!」という気分で、何となく乗って来た<8901>を振り返った…
↓幅が広い道路を横断するような感じで軌道が敷設されているので、電車も「信号待ち」が生じる。いきなり停まった電車を何となく眺めた…
↓やがて<8901>は軌道を進み始めた…
こういう様子を眺めると、「思い付きで都電に乗って、沿線をフラフラとする一日というのも好さそうだ…」というようなことを考えないでもない…そういう想いを駆り立てるように、通り過ぎて行った電車の脇に「沿線御案内」という看板が出ていた…
都電が通っている辺り…何か「東京の今」が“過去”と“未来”の間でフラフラと揺れているような、微妙な場所をゆったりと電車が通り抜けているというような、何となく不思議な気分になる場所だと思った…
未だ真新しい感じもする車輛―2015年に登場したらしい…―に乗込み、見覚えが在るような、大きく変わって初めての場所と大差が無いような、色々と感じるモノが多い車窓を眺めながら、暫し「極短い都電の旅」を愉しみ、東池袋四丁目停留所で下車した…
↓「ここまで運んでくれてありがとう!」という気分で、何となく乗って来た<8901>を振り返った…
↓幅が広い道路を横断するような感じで軌道が敷設されているので、電車も「信号待ち」が生じる。いきなり停まった電車を何となく眺めた…
↓やがて<8901>は軌道を進み始めた…
こういう様子を眺めると、「思い付きで都電に乗って、沿線をフラフラとする一日というのも好さそうだ…」というようなことを考えないでもない…そういう想いを駆り立てるように、通り過ぎて行った電車の脇に「沿線御案内」という看板が出ていた…
都電が通っている辺り…何か「東京の今」が“過去”と“未来”の間でフラフラと揺れているような、微妙な場所をゆったりと電車が通り抜けているというような、何となく不思議な気分になる場所だと思った…
<8901>:早稲田停留所:都電…(2020.12.26)
聞けば、東京では現在の地下鉄路線やバス路線の多くが嘗ては“都電”の路線であったのだという。都内に網の目のように併用軌道や専用軌道が張巡らされて、電車が行き交っていたということになる。
その“都電”は、現在では<東京さくらトラム>という愛称を冠せられた荒川線が残るのみである。その起点・終着になっている早稲田停留所の辺りに至り、「一寸乗車してみよう…」と思い付いた…
↓停留所に着けば、折良く電車が待機中であったので近付いた…
<8901>…2015(平成27)年に登場したという8900形の1輛だ。最初に登場した<8901>を含む2輛がオレンジ、次の2輛がブルー、次の2輛がローズピンク、次の2輛がイエローと各々に鮮やかな塗色が施されているのだそうだ。
都電は専用軌道の箇所が多く、「路面」になる併用軌道は割合が低いように見受けられる。乗降を行う場所は大半が専用軌道箇所辺りなので、乗降のためにホームのようなモノを確り設けられるので、近年方々で見受けられる工夫を凝らした“低床型”ということではなくても、特段に段差が無い状態で乗降は誰でも楽に出来るような感じになっている…
画は後尾側だが、乗車時には前の乗務員(運転士)が居る側から入り、その時点で運賃を支払う。“均一運賃”なので、それが合理的である訳だ。
未だ真新しい感じもする車輛に乗込み、見覚えが在るような、大きく変わって初めての場所と大差が無いような、色々と感じるモノが多い車窓を眺めながら、暫し「極短い都電の旅」を愉しんだ…
その“都電”は、現在では<東京さくらトラム>という愛称を冠せられた荒川線が残るのみである。その起点・終着になっている早稲田停留所の辺りに至り、「一寸乗車してみよう…」と思い付いた…
↓停留所に着けば、折良く電車が待機中であったので近付いた…
<8901>…2015(平成27)年に登場したという8900形の1輛だ。最初に登場した<8901>を含む2輛がオレンジ、次の2輛がブルー、次の2輛がローズピンク、次の2輛がイエローと各々に鮮やかな塗色が施されているのだそうだ。
都電は専用軌道の箇所が多く、「路面」になる併用軌道は割合が低いように見受けられる。乗降を行う場所は大半が専用軌道箇所辺りなので、乗降のためにホームのようなモノを確り設けられるので、近年方々で見受けられる工夫を凝らした“低床型”ということではなくても、特段に段差が無い状態で乗降は誰でも楽に出来るような感じになっている…
画は後尾側だが、乗車時には前の乗務員(運転士)が居る側から入り、その時点で運賃を支払う。“均一運賃”なので、それが合理的である訳だ。
未だ真新しい感じもする車輛に乗込み、見覚えが在るような、大きく変わって初めての場所と大差が無いような、色々と感じるモノが多い車窓を眺めながら、暫し「極短い都電の旅」を愉しんだ…
ゑびす像…:恵比寿駅(2020.12.26)
山手線の列車で池袋駅から恵比寿駅へ移動し、地下鉄日比谷線の列車に乗換えようとした…
「恵比寿駅の辺りというのも、馴染んだような、馴染んでいないようなという感だ…」と思いながら、駅構内の案内表示を視ながら地下鉄の出入口の側へ歩を進めた…
↓「あっ!?ビールのラベル?」と注目してしまった…
↓<ゑびす像>というモノらしい…
聞けば「西口の<ゑびす像>辺り」というのは、恵比寿駅辺りでは人気の待合せ場所でもあるらしい…
この恵比寿駅の辺りには1887(明治20)年に<日本麦酒醸造会社>の工場が登場したという。そこで2年後に製品が出来上がり、<惠比壽麦酒>または<ゑびすビール>と呼ばれたのだという。それが現在の<サッポロビール>のブランドである<ヱビスビール>となっている訳だ…
このビールを積み出す駅が設けられたのが恵比寿駅の起こりで、製品に因んで恵比寿駅と呼ばれた。やがて昭和に入って、辺りの町名に「恵比寿」が登場し、戦後の区画整理や住居表示にも受継がれたのだという…
辺りで製造していたモノに因む地名…少し意外な感じがしたが、「あっ!?ビールのラベル?」と直ぐ判る像というのが、何か酷く面白かった…
「恵比寿駅の辺りというのも、馴染んだような、馴染んでいないようなという感だ…」と思いながら、駅構内の案内表示を視ながら地下鉄の出入口の側へ歩を進めた…
↓「あっ!?ビールのラベル?」と注目してしまった…
↓<ゑびす像>というモノらしい…
聞けば「西口の<ゑびす像>辺り」というのは、恵比寿駅辺りでは人気の待合せ場所でもあるらしい…
この恵比寿駅の辺りには1887(明治20)年に<日本麦酒醸造会社>の工場が登場したという。そこで2年後に製品が出来上がり、<惠比壽麦酒>または<ゑびすビール>と呼ばれたのだという。それが現在の<サッポロビール>のブランドである<ヱビスビール>となっている訳だ…
このビールを積み出す駅が設けられたのが恵比寿駅の起こりで、製品に因んで恵比寿駅と呼ばれた。やがて昭和に入って、辺りの町名に「恵比寿」が登場し、戦後の区画整理や住居表示にも受継がれたのだという…
辺りで製造していたモノに因む地名…少し意外な感じがしたが、「あっ!?ビールのラベル?」と直ぐ判る像というのが、何か酷く面白かった…
東京タワーが視える…:六本木(2020.12.26)
E235系電車:山手線:池袋駅&恵比寿駅(2020.12.26)
↓既に数年を経ているらしいが、この新しい山手線の車輛を池袋駅で初めて視た…
↑池袋駅の山手線ホームでは「新宿・渋谷・品川方面」と“し”で始まる駅名が並んだ語呂が非常に好い案内が為されていると思うのだが…車輛の先頭にも「新宿・渋谷」と進む方向が判り易く掲出されるようになっている…
↓11輛の先頭、運転台の直ぐ後ろに乗車した…
↓車輛の幅に目立つ程に大きな差は無いような気もするのだが、このE235系電車の正面は窓の幅が目一杯に横に拡がって、広い視野が確保できるような様子に視えた…
↓池袋で行先表示に在った新宿・渋谷を通り越して恵比寿に着いて下車した。
↑こうして眺めると、正面が「タブレット端末」か何かのようだ…行先表示は「品川・東京」と切り替わっている…
E235系電車は山手線に初めて導入されたということだが、今後は他の路線で従前車輛と入れ替える場合に採用するということになっているようだ…
それにしても…このE235系電車を初めて視て、初めて乗車したが…東京は御無沙汰だった…
↑池袋駅の山手線ホームでは「新宿・渋谷・品川方面」と“し”で始まる駅名が並んだ語呂が非常に好い案内が為されていると思うのだが…車輛の先頭にも「新宿・渋谷」と進む方向が判り易く掲出されるようになっている…
↓11輛の先頭、運転台の直ぐ後ろに乗車した…
↓車輛の幅に目立つ程に大きな差は無いような気もするのだが、このE235系電車の正面は窓の幅が目一杯に横に拡がって、広い視野が確保できるような様子に視えた…
↓池袋で行先表示に在った新宿・渋谷を通り越して恵比寿に着いて下車した。
↑こうして眺めると、正面が「タブレット端末」か何かのようだ…行先表示は「品川・東京」と切り替わっている…
E235系電車は山手線に初めて導入されたということだが、今後は他の路線で従前車輛と入れ替える場合に採用するということになっているようだ…
それにしても…このE235系電車を初めて視て、初めて乗車したが…東京は御無沙汰だった…
「ウエストゲートパーク」…:池袋西口公園(2020.12.26)
「池袋駅の辺り」と言えば、記憶に残るのは東口側ばかりであったような気がする…
↓西口の側へ歩を進めた…
↓「ここだ…」と立ち尽くして景色を眺めてしまった…「ウエストゲートパーク」…池袋西口公園である…
『池袋ウエストゲートパーク』という長く続く小説のシリーズの傑作選に出くわし、なかなかに愉しいので文庫化されている作品をドンドン読んでしまったということが在った。そんな中、「東京を通り掛かって時間が在れば…」と「ウエストゲートパーク」に佇んでみたかったのだ…
文庫化されている小説作品では、現在の様子に公園が改修される工事をやっているという言及が出て来たと思うが、未だ様子が少し違う時期に作中の物語の一部がこの主人公達が「ウエストゲートパーク」と呼び習わす池袋西口公園で展開している…
↓公園に佇めば、大小幾つかのホールを擁するらしい<東京芸術劇場>の大きな建物が見える…
↑こういう施設を擁していることから、音楽や舞台芸術も含めた「アートの街」というようなことを豊島区が標榜しているようで、池袋西口公園も「屋外での催事の場」として使い易いように改修したようだ…
↓公園の広場の上に、屋根というのでもないが、大きな環が冠せられ、奥にステージ、脇にカフェなどが入る建物が設えられている…
↓「そうか…こういう場所の物語の小説だった訳だ…」と妙に納得した…
こういうような「読んだ小説の舞台」とされる地域に一寸寄るようなことが、存外に愉しいと思う…
↓西口の側へ歩を進めた…
↓「ここだ…」と立ち尽くして景色を眺めてしまった…「ウエストゲートパーク」…池袋西口公園である…
『池袋ウエストゲートパーク』という長く続く小説のシリーズの傑作選に出くわし、なかなかに愉しいので文庫化されている作品をドンドン読んでしまったということが在った。そんな中、「東京を通り掛かって時間が在れば…」と「ウエストゲートパーク」に佇んでみたかったのだ…
文庫化されている小説作品では、現在の様子に公園が改修される工事をやっているという言及が出て来たと思うが、未だ様子が少し違う時期に作中の物語の一部がこの主人公達が「ウエストゲートパーク」と呼び習わす池袋西口公園で展開している…
↓公園に佇めば、大小幾つかのホールを擁するらしい<東京芸術劇場>の大きな建物が見える…
↑こういう施設を擁していることから、音楽や舞台芸術も含めた「アートの街」というようなことを豊島区が標榜しているようで、池袋西口公園も「屋外での催事の場」として使い易いように改修したようだ…
↓公園の広場の上に、屋根というのでもないが、大きな環が冠せられ、奥にステージ、脇にカフェなどが入る建物が設えられている…
↓「そうか…こういう場所の物語の小説だった訳だ…」と妙に納得した…
こういうような「読んだ小説の舞台」とされる地域に一寸寄るようなことが、存外に愉しいと思う…