霧の下の街…:ウラジオストク空港周辺(2018.04.16)

S7航空のA320が離陸すると、間も無く霧を突き抜け、明るく高い空に上昇し始めた…機窓から覗く「下界」は霧に覆われていた…

↓こういう具合に、一面が霧で、一部の背が高い建物や構造物が霧の層から少々抜き出ている感だ…
'S7 3209' on 16-04-2018 (4)

ウラジオストク空港は、海辺に在る街の中心部から40km以上内陸に入った辺りである。「ウラジオストク市」の管轄区域を少しだけ出る…眼下の街が何と呼ばれる場所なのかはよく判らないが…深い霧の中で、人々が朝の一時を過ごしていたことであろう…

ウラジオストク空港の駐機場:機窓から…(2018.04.16)

深い霧に包まれていたウラジオストク空港で、予定どおりに搭乗の案内が在って、ボーディングブリッジから機内に入り、所定の座席に着いた…

離陸へ向けて、飛行機―S7航空のA320―はボーディングブリッジからゆっくりと離れ、駐機場脇の通路を動き始めた…

↓空港のビルも、待機中の飛行機も、深い霧に包まれている…
VVO in early morning on 16-04-2018 (10)
↑荷物を動かしているらしい車輛の灯りが妙に目立つ…しかも車輛は、ロシアの作業車輛に見受けられる「本来はトラクター?」という感じの型である…

↓尾翼にロシア国旗風なリボン…多分<アエロフロート>の少し大き目な飛行機だ…
VVO in early morning on 16-04-2018 (11)
↑モスクワ等との間を往来しているモノと想像したが…こんな距離で、この種の飛行機を視る機会は少ない…

↓大きな飛行機も、奥のビルも、本当に霧に包まれている…
VVO in early morning on 16-04-2018 (12)

↓ボーディングブリッジを使わない、小型の飛行機は、建物から少し離れた辺りに集められていた…
VVO in early morning on 16-04-2018 (14)

早朝は深い霧だったが…この日は後からなかなかの好天に恵まれたというようにも聞く…

霧の空港に送り出されたが…またウラジオストクを訪ねてみたいものだ…

ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵像(2018.04.15)

「街を見下ろす高台」とでも言えば、大概は一寸特別な感がしないでもないのだが…ウラジオストクに関しては、「街を見下ろす高台」に該当する箇所が非常に多い…

その数在る「街を見下ろす高台」の中、「代表的な場所」となるケーブルカーの上側の乗降場辺りから、「坂を下りながら、街を見下ろす型になる」というようなエリアを歩いて、極短いウラジオストク滞在の中で「何となく馴染みになったエリア」へ移動していた…

↓こういう銅像が立っている場所に行き当たった…
Vladivostok on 15-04-2018 (43)

↓<X100F>ではやや画を纏め悪い高さに立つ像で、<P7700>の望遠を駆使した…
15-04-2018 (P7700) (22)

この像はニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵(Николай Николаевич Муравьёв-Амурский)(1809-1881)の像である。

本来の姓は「ムラヴィヨフ」なのだが、その功績によって「アムールスキー伯爵」という称号を贈られた。故に「ムラヴィヨフ=アムールスキー」として知られている。

軍人として経歴を重ね、1841年に陸軍少将となるが、1847年に38歳という異例の若さで東シベリア総督に任じられた。

東シベリア総督として、アムール川流域での権益の確立に努力を傾けた。サハリンを紹介したことで知られるネヴェリスコイは、このムラヴィヨフ総督の指示の下でサハリンや、その後のアムール川流域の調査を行っていることになる…

1860年に今日の沿海地方に相当する地域をロシア領とするに至り、ウラジオストクを拓くこととなった…そういう縁で、ウラジオストクに銅像が在る訳だ…

ムラヴィヨフ総督には、実は来日経過が在る…1859年に来日し、日露両国の話し合いが纏まらずに「雑居」という曖昧な型になっていたサハリンの領土権に関する事案で、江戸幕府に対して「ロシア領!」と申し入れたが、江戸幕府にその主張が退けられた…(この事案は、1875年に榎本武揚が代表として交渉を纏めた条約で解決が図られた…榎本武揚の名が出たが、サンクトペテルブルグでの役目を終えた彼はシベリアを陸路で横断し、ウラジオストクから船に乗って帰国している…)

その後、ムラヴィヨフ=アムールスキーは1861年に東シベリア総督を辞し、1868年にパリへ移住した。そして1881年にパリで他界している…

↓自身の号令の下に拓かれ始めた街を望む型で像が立っている訳だが…どんな想いが彼の中に?そんなことを考えながら、この像を眺めていた…
15-04-2018 (P7700) (23)

霧の立ち込むウラジオストク空港の早朝(2018.04.16)

未だ暗い早朝のウラジオストク空港に着いてみると、辺りは深い霧に包まれていた…

そういう中ではあったが、順調に搭乗手続きや保安検査を経て、搭乗待合に入った…

↓利用予定の飛行機は視え悪い位置ではあったが…駐機場の様子を窓から眺めていた…
VVO in early morning on 16-04-2018 (6)
↑夜遅くに着いたと見受けられる機体が色々と待機している様子が視えた…

滑走路の向こうの遠景…霧で視えない…こういう状態でも、普通に各便は離陸していた…

ウラジオストク市章(2018.04.14)

↓ウラジオストクの市章のレリーフを見付けた…
Vladivostok 14-04-2018 (64)
↑1880年代から「虎」の市章が用いられているようである、背後に港を象徴する錨を組み合わせるモノや、そうではないモノ等、幾分のバリエーションは見受けられるようだ…

この市章は<軍事功労都市>という、2010年11月4日付の大統領令に関するモニュメントに貼り付いていたモノだ。何となく気に入ったので、写真に収めた…

古くは、虎が家畜を襲うようなことも在ったというが、虎は「地域のシンボル」とされている。所謂「アムールトラ」というモノである。「シベリアン・タイガー」というように呼ぶ場合もあるかもしれない。ロシア語では「ウスリースキー・ティーグル」(ウスリートラ)と呼ぶことが多いのだろうか…大きな雄の個体で、体長が3mで体重が300kgという次元になるという。トラの仲間では「世界最大級」であるそうだが、推定で500頭前後しか棲息していないのだという…

“サリャンカ”=美味いロシアのスープ… (2017.04.15)

滞在2日目の「宿での休憩を挟み、朝、日中、夕方と3回で歩く」という展開の“3回目”…宿から<ポクロフスキー司教座聖堂>へ向かった後に坂道を下りて、「宿から然程遠くない辺りで適当に夕食を摂って…」という考えだった…

そして入ったのは、「1923年創業」を謳う、建物の地下に入っているロシア料理のレストランだった…

方々からの来訪者を多く迎えているウラジオストクに在って、店はウラジオストク駅と<中央広場>との間というような位置に在り、「ロシアの街の老舗でロシア料理」と外国人の来店も多いと見受けられる。英語や写真が色々と入ったメニュー表が備えられていた…

そういうメニュー表を何となく眺めて…「“ロシア料理”ということでコレが!しかも“老舗”というから…きっと美味い筈…」と考えて頼んだメニューが在る…

↓コレだ!
Vladivostok on 15-04-2018 (91)
↑ロシア語で、「スープを頂く」ことは「飲む」ではなく「食べる」である。その「食べるスープ」という表現が似合う一皿…“サリャンカ”である。

“サリャンカ”は、肉や野菜、殊にピクルスが入り、色々な調味料が入って少し濃い味がする…酸味、辛味、塩気と様々な味が混然となっていて、具材の肉や野菜を「ドンドン食べる」という感じになる…この店では「肉の“サリャンカ”」と「魚の“サリャンカ”」とが在ったが、私は「肉」を選んだのだった…

“サリャンカ”は、18世紀頃からロシアの貴族達の間で「ウクライナ由来の料理」が流行り始めた中で拡がったと考えられている料理らしい…「18世紀頃から」ということで、「比較的新しい」というように言われているようだ…

所謂「ロシア料理」と呼ばれる様々なモノの中…「殊更に美味いモノ」の一つとして「覚えておくべきモノ」ではないかと、私自身は考えている…と言っても、日本国内の所謂「ロシア料理の店」というような場所では「圧倒的な知名度」の故に「“ボルシチ”ばかりが売れる」というのも見受けられるらしいが…それはそれとして、“サリャンカ”は美味い!!

ここでは、脇に添えられたサワークリームを「少し多い?」とも思える程度に入れて、ガツガツと頂いた…たった一回頂いたに過ぎないのだが…何となく「忘れ難い味」という感だ…

<生神女昇天寺院>(2018.04.14)

ウラジオストクのスヴェトランスカヤ通を歩いた…「視える筈?」の巨大な橋が、深い霧や雨で視え悪い中、橋の方角へ進んでいた…

「随分近くに来たが…かなり視えない…」と「橋が視えずに少し残念…」という位に思っている時…鐘の音が聞こえた…「正教の教会?!」と思えば…

↓鐘楼を備えた教会が在った!
Vladivostok 14-04-2018 (33)

スヴェトランスカヤ通は「海岸に沿って延びている大通」というイメージだが、そこと交差する道路の多くは丘陵状の地形に沿った坂道だ。この教会も少し小高くなった辺りに建っていて、スヴェトランスカヤ通から階段で敷地に上がるような感じになっている。

↓上がってみると、掲出された看板に「Храм Успения Божией Матери」 と教会の名前が読める…
Vladivostok 14-04-2018 (35)
↑とりあえず…<生神女昇天寺院>としたが…この教会のウェブサイトも在って、その伝統が紹介されている…

1861年6月、<ウスペンスキー聖堂>という教会が「ウラジオストクで初めてのロシア正教の教会」として開かれた…この<生神女昇天寺院>は、その「ウラジオストクで初めてのロシア正教の教会」の流れを汲むのだそうだ…

<ウスペンスキー聖堂>は正教の活動の拠点として発展して行くのだが、1938年に破壊されてしまった。

1997年頃から「再建」の動きが起こり、2001年に現在の<生神女昇天寺院>が登場しているようだ…

↓なかなかに趣きが在る感じだ…
Vladivostok 14-04-2018 (36)

↓建物の横に、少し人が集まることも出来るような広場的な場所が在り、そこから建物全景を眺めた…
Vladivostok 14-04-2018 (37)
↑「華やかで大きな…」ということでもない建物だ…様子を眺めていれば、存外に人の出入りは見受けられ、何か「地域の協会として親しまれている」という雰囲気も伺えた…

ウラジオストクはロシア艦隊の拠点となることが構想されたと同時に、「極東の富」を利用する交易港を擁する街として歩んだ…「最初の民間人住民」とされるような交易商が居を構え、「これからいろいろな人達が住み、往来するように…」という時期に、早速に教会が登場した…嘗てはそれが「当然」だったのかもしれない…例えば…「箱館のロシア領事館」が登場したのは、ウラジオストクが拓かれる少し前という時期だが、そこにもロシア正教の聖職者がやって来ている…少数の関係者のために「必要!!」とされた訳だ…(箱館に関しては、日本に正教がもたらされる切っ掛けになって行ったのだが…)

1990年代のロシアは「ポストソ連」とでも呼ぶべき「ゴチャゴチャした」感じであった…そういう状況から抜け出して新たな歩みを始める中、「街が歩み始めた原点へ…」と、「極東の富」を利用する交易港を擁する街が志向され、ソ連時代の「イデオロギー?」か何かで排されたような「ロシア人の伝統的な心の拠所」のようなモノの「復旧」が志向されたのかもしれない…

<ポクロフスキー司教座聖堂>の再建が志向された頃と、<ウスペンスキー聖堂>の再建が志向された頃とに大きな差は無い…が、後者は現在の<生神女昇天寺院>という形で「より早く登場」することが出来た訳だ…或いは、用地の都合等が在って、現在の形で計画したということなのかもしれないが…

それにしても、この教会の鐘の音…深い霧に煙る海岸部に、スヴェトランスカヤ通を行き交う車輛の走行音に負けじと鳴り響いていたが…何か強く心に残った…「旅行ガイド」的な情報では、余り取り上げられていない場所のようにも思うのだが…「古くからの人々の心の拠所を取り戻そう…」というような感で、「地区で最初の境界の流れ」を意図して建てられた、何となく親しみ易く、「正教関係の建物らしい」というような美しさが在る教会…記憶に残る…

<ポクロフスキー司教座聖堂>(2018.04.15)

ウラジオストク空港からウラジオストク駅へのバスによる移動の中、「酷く大きなロシア正教のモノと見受けられる教会」が視えて気になっていた…

滞在2日目の「宿での休憩を挟み、朝、日中、夕方と3回で歩く」という展開の“3回目”で、気になった大きな教会を目指した…

駅前のアレウツカヤ通を行き、スヴェトランスカヤ通に入り、<中央広場>が視える辺りのオケアンスキー通の上り坂を行く…坂の上に大きな教会が視える…

↓交通量が多目な辺りの道路に地下通路が設けられていて、そこを通り抜けて地上に出ると、大きな建物が間近に視えた…
Vladivostok on 15-04-2018 (72)

↓入口辺りに、「2004年から2007年に再建」の旨が入ったプレートが在る…
Vladivostok on 15-04-2018 (76)
↑<ポクロフスキー司教座聖堂>と呼び習わされている教会だ…破壊されてしまった経過が在るモノだが、見事に再建されたという訳だ…

↓“クーポル”を組み合わせた、独特な様式が面白い…
Vladivostok on 15-04-2018 (77)

↓やや雲が多い中、輝く屋根が独特な存在感を示していた…
Vladivostok on 15-04-2018 (83)

蒸気機関車 <Еа3306>:早朝のウラジオストク駅にて… (2018.04.15)

前日は朝からユジノサハリンスク空港に向かって飛行機に乗り、昼過ぎに着いたウラジオストクでは、必ずしも「散策日和…」でもない中で歩き回り、何時の間にか宿で休んでいて、結局早起きしてしまった…

↓前日の「深い霧」のような状況が暗い早朝にも続いていた…ひっそりと静まった感のウラジオストク駅が視える…
Vladivostok Station in early morning 15-04-2018 (1)
↑後で判ったのだが、駅舎正面に掲げられている<ВЛАДИВОСТОК>(ウラジオストク)のサインは、本来は「光っている」のだが、既に消灯されていた…

駅舎の奥の方、船が発着するターミナルの看板は未だ灯りが入っている。更に奥の巨大な橋梁だが、暗さに加えて霧のために殆ど視えない。辛うじて橋梁上の街灯の灯りが「微かな点線」のように視えている…

盛んに列車が発着しているでもない早朝、恐らく確りと警備されているであろう駅舎に入ることは躊躇われ、アッサリ諦めたが、奥の客船のターミナル側へ通じる歩道橋は自由に出入り出来た。

↓その歩道橋から、貫録が在る蒸気機関車が広いホームに展示されている様子が視えた…
Vladivostok Station in early morning 15-04-2018 (2)

↓歩道橋からホームに降りることが出来た…大きな蒸気機関車を眺めた…
Vladivostok Station in early morning 15-04-2018 (3)

↓第2次大戦期の沿海地方に於ける鉄道関係者の功績を讃える意味を込め、往時の代表的な機関車を展示しているということのようだ…
Vladivostok Station in early morning 15-04-2018 (4)

↓ランプを点した状態での静態保存展示…なかなかに好い!
Vladivostok Station in early morning 15-04-2018 (5)

蒸気機関車は<Е>(イェー)と呼ばれる形式で、製造年次や仕様の違いで、<Е>の後に小さなアルファベットが付される。この車輛は<А>である。「小さな字」を手書き以外で巧く表記出来ないので、便宜的に<Еа>としたが…この機関車は3306号機だ…1943年頃のモノらしい…

↓「1520mm」と幅が広い軌道のソ連・ロシアの鉄道で使用する機関車…それも恐らくは様々な車輛を組み合わせた長大な編成の列車を牽引する機関車なので、非常に大きく迫力が在る…
Vladivostok Station in early morning 15-04-2018 (7)

↓「旅客列車の高速化」を意図した型に見受けられる巨大な動輪ではなく、「パワー重視」な動輪であると見受けられる…
Vladivostok Station in early morning 15-04-2018 (8)

↓辺りの「立入禁止」のテープが鬱陶しいが…こういうことでもしなければ、この運転台によじ登る人が絶えないことであろう…
Vladivostok Station in early morning 15-04-2018 (9)

↓一定の敬意を払われて、行き交う「後輩」の車輛や、興味深げに近付く旅客の目線を受け、ゆったりと余生を送っている感な蒸気機関車だ…
Vladivostok Station in early morning 15-04-2018 (11)

第2次大戦期には、ソ連の鉄道は兵員や物資の輸送でかなり重要な役目をになったのだというが、こういう型の機関車が各地を巡っていた訳だ…

ウラジオストク都心部の案内標識(2018.04.15)

↓早朝に辺りを歩いた際に気付いて写真に収めてみた…
Vladivostok on 15-04-2018 (7)
↑多分これは「歩行者向け」を意図した標識だと思った。掲出されている高さや文字の大きさからである…

上から…鉄道駅、マリーナ、博物館、客船ターミナル、アートギャラリーが記され、「↑」で方向が示されている。ロシア語と英語の文字…そして最も目立つのは“ピクトグラム”的なモノである…

ウラジオストクには色々な国や地域からの来訪者が入り込んでいる様子が、極短い滞在期間で歩き回っただけでも伺えたが…この種の案内はロシア語と英語とで、色々とゴチャゴチャ書いてはいない…好いと思った…

自身では全然使わないが…「↑」の横に「バーコード」が在る…これをスマートフォン等の端末に読み込ませると、ネットで当該箇所の情報でも出て来るのだろうか?こんなモノが入っていることから、比較的近年に設置された標識と想像出来る…

こういう「来訪者を迎える工夫」は何処の国や地域でも、各々に色々と取組んでいるようだ…

<Золотая Бочка>(ザラタヤ ボチカ)=ロシアのビール (2018.04.15)

ウラジオストクで、「1923年創業」を謳う、建物の地階に在るロシア料理店に入った。夕食を愉しんだ訳だ…存外に小さな、少し味わいのある店内だった…

席に案内され、料理を頼んだ際に「飲物?」ということになった…「ビールでも…」と言えば「ロシアのビール?」ということになり、「それが好い…」と応じると「<Золотая Бочка>(ザラタヤ ボチカ)は如何か?」となって「それを頼む!」ということになった…

↓適当に冷えた、好い状態のビールが出て来た!
Vladivostok on 15-04-2018 (87)
↑色が薄い、日本国内で広く親しまれているタイプにやや近い感じのビールで飲み易かった…

<Золотая Бочка>(ザラタヤ ボチカ)という名だが…「黄金の樽」というような意味になる…が…「ビールの銘柄の固有名詞」ということで、「ザラタヤ ボチカ」と記憶したい感だ…

「ロシア柔道の祖」の記念碑:ウラジオストク(2018.04.15)

↓海岸に沿った、緑地のように整備されている辺りに、不思議な像が在る…
Vladivostok on 15-04-2018 (28)
↑遠くから「鳥居」らしきモノが見えて「何なんだ?!」と近付いた。3人の人物…柔道着姿だ…

講道館柔道を学んだロシア人、ワシリー・オシチェプコフが嘉納治五郎から、嘉納治五郎の弟子の一人である苫米地英俊の立会いの下に黒帯を授けられている様子なのだということだ…このモニュメントは2016年9月に除幕したらしい…

ワシリー・オシチェプコフは1914年にウラジオストクで柔道場を開いたのだそうだが、それが「ロシアの柔道」の事始めらしい…そして体育大学の教員であったワシリー・オシチェプコフは、1920年代終わりから1930年代にかけて、柔道に着想を得た格闘技を考案した。サンボである…

ワシリー・オシチェプコフは日本の柔道に惹かれて、真摯にそれを学び、学んだことを教員として伝えようとしていただけなのだが…1937年10月、「粛清の時代」の波に呑まれ、「日本のスパイ」という妙な嫌疑で収監され、獄中で心臓発作のために他界してしまった…が、1957年に名誉回復はされている…

今や柔道は、寧ろ「JUDO」という位に世界中で親しまれている。ロシアにそれをもたらした人物が、初めて柔道場を開いたのが、様々な人やモノが行き交うウラジオストクであったというのは、少し面白い…

↓3人の人物像は、概ね等身大だ…ワシリー・オシチェプコフは、講道館に在っては「抜きん出て長身」であったのであろう…
Vladivostok on 15-04-2018 (29)

<アルセーニエフ記念沿海地方総合博物館>の建物:日没後の風情(2018.04.15)

↓夕食を愉しんだ後、戸外に出て「おぉっ!」と注目した…
Vladivostok on 15-04-2018 (98)
↑「角」を利用した美しい建物である…

非常に美しい建物だが、スヴェトランスカヤ通がアレウツカヤ通と交差する辺りで、双方共に交通量が多いことから、写真撮影にはやや不向きな感もする…

建物は<アルセーニエフ記念沿海地方総合博物館>として利用されている。沿海地方各地の多くの博物館が、この総合博物館の支所という扱いになっているらしいが、ここが本部であるのだという…

「沿海地方総合博物館」の前に在る「アルセーニエフ記念」だが…これはウラジーミル・クラウディエヴィチ・アルセーニエフ(Владимир Клавдиевич Арсеньев)(1872-1930)という、沿海地方の色々なことを広く紹介する功績が在った人物を記念している。往年の日ソ合作映画の『デルスウザーラ』に、このアルセーニエフをモデルとする劇中人物が在り、その役をソ連では非常に有名な俳優で、ロシア時代に入っても活躍を続けている、かのユーリー・ソローミンが演じていた…

そしてこの建物だが…1918年から1924年まで、横浜正金銀行の支店が入っていたそうだ…

「横浜正金銀行」?1879年に創設され、国外との取引に関連した業務を主に担っていた銀行だという…1946年まで活動を続け、当時新設された「東京銀行」に営業が譲渡されている。やがて「東京銀行」は1996年に三菱銀行と合併し、行名が何度か変わって、現在は「三菱UFJ銀行」となっている…

現在は博物館になっている建物に在ったという「横浜正金銀行」の活動は限定的な期間であったようだが、ウラジオストクから退いた後、関係業務はハルビン支店に引き継がれたのだそうだ…

↓街角の美しい建物に、様々な歴史の物語が…こういうのが愉しい!!
Vladivostok on 15-04-2018 (97)
↑「博物館」ということなのだが…或いは「建物そのもの」も、「博物館の大切な展示品」と言えるかもしれない…

ソ連時代の(?!)公衆電話(2018.04.14)

↓こういうモノ!?流石に、何処ででも視られるモノではない…
Vladivostok 14-04-2018 (54)
↑コインを投入口に入れて、ダイヤルを回して架電という方式…投入口には「2コペイカ」と在る…

学生時代に耳にした…ソ連では、公衆電話と言えば専ら「2コペイカ」のコインを使うモノなので、公衆電話を使う可能性が在る人はそのコインを常に大切に持ち歩くようにしていた…とか…

「凄いモノが…」と思ったが、ダイヤルの辺りに針金のようなモノが在って回らないようになっている…これは“記念碑”的になっているモノのようだ…

↓スヴェトランスカヤ通の、巨大な橋梁を見上げるような場所にこんなモノが在って、その中に「ソ連時代の(?!)公衆電話」が据えられていたのだ…
Vladivostok 14-04-2018 (53)
↑何気なく歩いていて、この「公衆電話ボックス」という「20世紀の遺物」のようなモノに気付いて驚いた…旧い型の公衆電話ボックスではあるが、現在のロシアで電話通信を担う<ロステレコム>社のマークが確り入っている。或いは、<ロステレコム>社で「電話の歴史を一寸紹介…」ということで設置しているのかもしれない…

こういう電話ボックスが実際に使用されている様子…「少し昔…」という設定のテレビドラマや映画の作中に、劇中人物が利用する場面が出る場合も在るという程度である…こんなモノは視掛けなくなって久しい…

流石にウラジオストク程度の、少し規模が大き目な街となると、色々なモノが“記念碑”的に伝えられていたりするものだ…そんなモノに出くわしながら、街を歩き廻る…非常に愉しいものだ!

日没後…:レーニン像の背中とウラジオストク駅舎(2018.04.15)

俄雨が交じったような時間帯も在ったが、早朝の霧が日中には晴れ、「曇時々晴れ」という感の一日だった…結果的に「3回に分けて」という感で動き廻った…

ゆったりと夕食を愉しみ始めた辺りには未だ明るかったが…「1923年創業」を謳うロシア料理の店での食事に満足し、外に出る頃には陽が落ちてしまって、暗くなっていた…

↓自身にとっては、空港からのバスが到着した辺りという訳で「初めて下立ったウラジオストクの街中…」ということになるのだが、この辺りの景色が気に入った…
Vladivostok on 15-04-2018 (103)
↑酷く早い時間帯に空港へ発つので、こういう具合に眺めるのは「今般の滞在で最後の機会」となった…

レーニンの背中…駅舎…<ВЛАДИВОСТОК>の文字は、早朝には電飾が消えていたが、暗くなった少し後の時間帯には輝いている…更に、駅の背後にはあの巨大な橋梁の上に据えられた街灯の光が“点線”を形成している…

↓やや退いた感じの眺めだ…
Vladivostok on 15-04-2018 (100)

今般、極短い期間ながらウラジオストクに滞在し、「最初から最後まで」という感で付き合ったのがこの光景…強く記憶に残る…また何度でも出くわしたい光景である…

A.I.ソルジェニーツィン像(2018.04.15)

↓「何処かで視た顔…」と足を停めた…
Vladivostok on 15-04-2018 (25)
↑「等身大」とすれば、モデルの人物は「かなり大柄」ということになるであろう…そんな大きさの像だ…

↓何か「遠い未来を見詰める」かのような、「深い想い」が籠ったような目線を感じさせる…
Vladivostok on 15-04-2018 (24)
↑背後にはロシア海軍の艦艇も見受けられるのだが、海を背に佇んでいる像だ…

像のモデルは…アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニーツィン(Александр Исаевич Солженицын)(1918-2008)である…

ソルジェニーツィンは、『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』が話題となり、1970年にノーベル文学賞を贈られた作家である。が…1974年に「ソ連の市民権を剥奪し、国外へ追放」ということになってしまう…(因みに「ソ連の市民権を剥奪し、国外へ追放」というのは、1929年にかのトロツキーに対して取られた措置が在って、ソルジェニーツィンの例はそれ以来だったようだ…)

ソルジェニーツィンは、ドイツやスイスで暮らした後に米国へ移り、主に米国を拠点としていた…そういう状態は1994年まで続く…

↓ソルジェニーツィンは海を背に、歩を進めようとしている…
Vladivostok on 15-04-2018 (23)
↑これは…「上陸」というイメージだ…

「ソ連の市民権を剥奪し、国外へ追放」という措置が取り消され、「ロシアの市民権」を取り戻したソルジェニーツィンは、ウラジオストクからロシアに帰還し、シベリア鉄道で各地を巡ったのだという…

ウラジオストクのソルジェニーツィン像は、「帰還した作家が上陸」ということを記念するモノであるようだ…

来訪者が或る程度多い感じの、海岸の緑地に設けられた像だが…注目している人は見受けられなかった…私は「あのソルジェニーツィン…」と、なかなかよく出来た像を見入っていたのだった…

<С-56>(S-56)(2018.04.15)

ウラジオストク都心部の大きな広場の傍に在る海沿いの道を進むと、都市緑地として整備された一画に行き当たる…

↓陸に揚げられた型で、巨大な<黄金橋>を背景に船が鎮座している…
'S-56'at Vladivostok 15-04-2018 (1)
↑やや「変わった形?」な船だが…これはソ連軍の昔の潜水艦で<С-56>(S-56)という…

“С”(エス)は「Средняя」(スリェドニャヤ)から来ているそうで、「中型の」というようなことであろう。1939年に進水し、第2次大戦期に活動、1955年に退役している。1975年から、金角湾を望む場所に揚げられて、展示されている。辺りは第2次大戦の戦没者を記念する広場が設けられている…

↓延長は77mに及ぶということで、なかなかに細長く大きい…
'S-56'at Vladivostok 15-04-2018 (2)

第2次大戦期の潜水艦?これは「常時、海中に在る」というような近年のモノとはイメージがことなる。殆どの時間は洋上を航行していて、作戦行動や攻撃から逃れるという限られた場面で海中に潜航することになっていたのが、第2次大戦期の潜水艦である…

↓洋上で戦闘に及ぶことも在る訳で、こういうような艦砲が据えられている訳である…
'S-56'at Vladivostok 15-04-2018 (16)
↑近年の潜水艦は、「艦の上で乗員が動く」ことが殆ど想定されていないが、第2次大戦期の潜水艦は細長い甲板が設えられていて、こういう艦砲を操作するような場面も在ったようだ…

↓<С-56>は博物館になっていて、中に入ることが出来る…そして入場料の100ルーブルに加えて、50ルーブル払うと、写真撮影も許可になる…(ロシアの博物館では「在る」パターンのようだ…)
'S-56'at Vladivostok 15-04-2018 (6)
↑流石に、潜水艦の艦内は狭隘だ…

艦内には、この艦の沿革等を紹介する「普通の展示」も見受けられるのだが…それ以上に「艦そのもの!」が「大変に貴重な展示」である…

入口は艦尾の側で、艦首側へドンドン進む。第2次大戦期の潜水艦…「水圧に耐える」、「損害を受けた際への備え」ということで、頑丈な隔壁で艦内が区画分けされ、「他の区画」への通路は狭い…

↓恐らく「指揮所」であった場所であろう…潜望鏡が在る…
'S-56'at Vladivostok 15-04-2018 (8)
↑潜望鏡は機能していないようで、恐らく艦橋部から甲板へ出られる階段が現役時代はこの辺りに在ったのだと想像したが、それは撤去されていた…

↓艦首の魚雷発射管が据えられた辺りへの通路だ…
'S-56'at Vladivostok 15-04-2018 (9)
↑乗員の寝台も在ったようで、「上がらないで下さい!!」の貼り紙も見受けられた…

↓大きな魚雷、乗員の寝台、4本の魚雷発射管…なかなかの迫力だ…
'S-56'at Vladivostok 15-04-2018 (10)

↓「2番管に装填!」という感じに展示されている…
'S-56'at Vladivostok 15-04-2018 (11)

↓魚雷発射管の蓋は、レニングラードの工場を示すと見受けられる語が確りと鋳造されている…
'S-56'at Vladivostok 15-04-2018 (12)

何れにしても…第2次大戦期の潜水艦というのは…なかなかに大変な乗物だったことが判る…以前に楽しんだ『Uボート』という映画に出て来る潜水艦に一寸似ている…殆ど同じ時期の艦なので、それも当然なのだが…

↓こんな時代の潜水艦の「中」まで視られるような事例…余り思い当たらない…そういう意味でも、大変に興味深く見学した!
'S-56'at Vladivostok 15-04-2018 (18)

ウラジオストクを訪ねるということで「あれ!!」と覚えていたこの潜水艦…出会うことが叶って好かった…

ヤコヴ・ラザレヴィチ・セミョーノフ(Яков Лазаревич СЕМЕНОВ)=「ウラジオストク最初の住人」の胸像(2018.04.14)

ウラジオストク空港からウラジオストク駅へ向かうバスは、アレウツカヤ通という道路を進んで駅前の「レーニン像の下辺りの降車場」に着いたのだが、道中の車窓を視ていると、沿道に一寸した食事が摂れそうな店が色々と見受けられた。

レーニン像の辺りから予約した宿を探しながら歩き、存外にアッサリと宿が見付かった。「チェックインにはやや早い?」と思えたが、普通に受付けてくれた…部屋も感じが好く、とりあえず嵩張るモノを置いて一息入れ、直ぐに街へ出た…

とりあえず、レーニン像を目印にしてアレウツカヤ通という道路を歩き始めた…

↓何か非常に「渋い…」感じの胸像に直ぐ出くわした…「型に填まったつまらないイメージ」との誹りは免れ悪いかもしれないが、「如何にも昔のロシアの、多少地位が在った人物?」というような風貌だ…他方で「物々しい昔の軍服」のような衣装でもない…
Vladivostok 14-04-2018 (8)
↑やや古めかしい集合住宅的な高層建築の前に、やや地味な感じで据えられた胸像である…

↓胸像の台座にプレートが据えられ、この人物の紹介が在る…
Vladivostok 14-04-2018 (7)
↑「ウラジオストク最初の住人にして企業家、名誉市民のヤコヴ・ラザレヴィチ・セミョーノフ」と在る…

少し気になったので調べてみた…

ヤコヴ・ラザレヴィチ・セミョーノフ(1831-1913)は交易商であり、1861年にウラジオストクに居を構えて事業を軌道に乗せて行くという人物だというが、軍人や官吏以外の“民間人”としてウラジオストクに居を構えた最初の例と伝えられているのだそうだ…

1861年と言えば、ウラジオストクの街が「拓かれ始めたばかり」な時期に相当する。そんな頃から、清国との交易に携わる、漁業への投資を行う等の事業を手掛ける。殊に、申告で需要が在る昆布を調達して送り出すという事業が大きな成果を挙げたらしい…そして1913年、82歳にして他界するが、それまでの半世紀程の間、ヤコヴ・ラザレヴィチ・セミョーノフはウラジオストクに在って活動していたということだ…

↓胸像から少し離れるが…<中央広場>の少し先、スヴェトランスカヤ通沿いの緑地の隅に、ヤコヴ・ラザレヴィチ・セミョーノフの名が刻まれたプレートが在った…
Vladivostok 14-04-2018 (57)
↑1860年代から1870年代に掛けて、彼の家が建っていたと伝わる場所なのだそうだ…

ウラジオストクには様々な“貌”(かお)が在る…軍港の街、工業の街、学術活動の街、文化活動の街と色々だが、草創期から港湾を「入口」に拓けた街であることから「交易の街」でもあるのだ…ソ連時代には“軍港”が前面に出ていて、“交易”に関しては近在の別な港にその機能を譲っていたような側面が在ったようだが、現在では国内外の様々な地域との物流拠点にもなって“交易”という貌を取り戻している…そのウラジオストクの貌の一つを創ろうとした人物…それがこの「最初の住民」たるヤコヴ・ラザレヴィチ・セミョーノフかもしれない…

「とりあえず昼食…」とフラフラと「初めて!!」な街の中を歩き始め、街の歴史上、なかなかに大切な役目を担った人物を記念する胸像に出くわした訳である。

ウラジオストクのケーブルカー(2018.04.14)

ウラジオストクは、陸地が深く切れ込んだ湾が組み合わさったような場所の、丘陵上の複雑な地形の上に築かれた都市だ…坂道が多い…上りも下りも交ざり合って道路が交差していて、何やら「迷い易い…」感でもある…

このウラジオストクが一望出来る高台の辺りまで「ケーブルカーに乗車して上ることが出来る」と聞いていた…

ウラジオストク滞在の初日…「やや遅い昼食の序でに…」と雨交じりな街を夕刻まで歩いたのだったが…「何となく…」で下側の乗降場に行き当たった!!

↓こういう具合に、ケーブルカーが待機していた…
Vladivostok 14-04-2018 (43)
↑何となく「少し懐かしい?」という風情が漂う車輛だ…

このケーブルカーは1962年から運行されているモノとのことだ。既に半世紀を超える歴史を有していることになる。

運転士は居ないが、乗務員は居て、乗務員に運賃を支払うと切符をくれる。片道14ルーブルだった…

↓乗務員に運賃を支払うと、こういう切符をくれる…酷く「味わい深い」感じの切符だと思う…今般、4月14日に往復し、4月15日に片道の利用で、何となく3枚の切符が集まった…こういうモノは、そのうちに紛失してしまうと思い、後から宿で写真に収めておいた…
Vladivostok on 15-04-2018 (106)
↑何か「古びた切手?」か何かのような大きさで、ザラザラした「巻紙」に刷られたモノを乗務員が「手で千切って」いる…ミシン目のようなモノが在るでもない…そして、「13ルーブル」の時代に刷られたモノが使われ続けていて、「14ルーブル」とスタンプを押している…(スタンプを押すのが意外に大変そうだ…)

↓軌道は真っ直ぐ上に延びるばかり…真中辺りに「擦違い」のための「複線」の区間が在る…
Vladivostok 14-04-2018 (45)

発車の合図に「ジーン!!」とベルが鳴ると、乗務員が入口扉を閉める…そして静かにケーブルカーが動き始める…下から乗車したが、上からのケーブルカーも同時に発車し、「複線」の場所で擦違う…

↓上に到着!
Vladivostok 14-04-2018 (46)
↑停車している車輛の背後の壁に<黄金橋>が視える画が…比較的近年に少し手を入れていることが伺える…(この日は深い霧や雨で、残念ながら<黄金橋>が高台から視えなかった…)

↓復路は他に乗り合わせた人も無かったので、車内の様子も写真に収めた…
Vladivostok 14-04-2018 (49)

当然ながら、丘陵状の地形に道路が在って、それを廻りながら高台へ上がる術も在るのだが…徒歩で動くには、このケーブルカーは大変に有難い存在だ…

何やら何処かの外国語で話しているグループも視掛けたが、来訪者に利用されているのみならず、地元住民にも親しまれている存在と見受けられる…

早朝のウラジオストク空港ビル(2018.04.16)

未だ…各方面への“始発”の便を利用するような人達が順次集まるような早朝…ウラジオストク空港へタクシーで到着した…往路のバスは「1時間と少々」だったが、復路のタクシーは「30分程」だった…

辺りは暗く、周辺は霧も深かった…

↓そういう中に忽然と浮かび上がるようなビルだ…
VVO in early morning on 16-04-2018 (2)
↑外壁は照明が当てられている…同時に館内も明るく、中の情況が広い硝子窓越しに暗闇に浮かんでいるような感だ…

或いは…明るい日中に視るよりも「見栄え」は好いかもしれない…ここへの到着は3回経験している…出発に関して、過去2回は「館内を動いて乗換」だった。このビルの前に街からやって来て、手続をして飛行機に搭乗というのは初めてだ…

この空港…適当な広さで使い易いような気がする…

ウラジオストクのケーブルカー(Фуникулёр)(フニクリョール):頂上側乗降場:普通な状態…(2018.04.15)

ウラジオストクを訪ねたら…巨大な<黄金橋>(ザラトイ モスト)を高台から眺めてみたいと、漠然と考えていた…それを目指して高台に上がってみて、「何も視えない…」という妙な状態を経験して…「視たい!!」という想いが強まった…

深い霧の一日が過ぎた…夜遅くは雪が交じったような気配も在った…空けて早朝は、霧が深い感じが未だ続いていた…

巨大な<黄金橋>(ザラトイ モスト)を眺めるのは、「(在るか、無いかは判らないが)次の機会?」と思っていた…早朝に、半ば迷いながら散策してから宿で一息入れ、街が動くような頃合いを見計らってまた歩き始めた…すると今度は、雨も交じらず、遠景も視える状況だった…

↓景色がよく視えるので、雰囲気が判る画にしようと、前日の位置から少しだけずれている場所で撮った。
Vladivostok on 15-04-2018 (40)
↑ケーブルカーの乗降場もハッキリ見える。眼下には深く陸地を切り込むようになっている金角湾が在って、沿岸に色々な船が停泊して造船会社関係のモノが視え、新旧様々な建物が複雑な地形の街に色々と並んでいて、遠くには煙を上げる何かの工場の煙突も判る…

「やや雲が多い…」という空だが…これだけ遠景が視えれば非常に好い…

この高台で、<黄金橋>(ザラトイ モスト)を眺めることも愉しみ、橋を眺める等しながら歩いて移動した…結局、ケーブルカーには初日の往復、第2日の登りと、計3回乗車したのだった…

ウラジオストクのケーブルカー(Фуникулёр)(フニクリョール):頂上側乗降場:深い霧…(2018.04.14)

雨交じりで、<黄金橋>(ザラトイ モスト)のような巨大構造物さえ「深い霧でよく視えない…」状態であったが…ケーブルカーを見付けたので高台に上がってみた…

↓こういう状態…
Vladivostok 14-04-2018 (48)
↑辛うじて、乗降場の建物と上に掲げられた看板、手前の道路を通過中の車輛は視えるが…景色は何も視えない…

こんな状況の中を歩き回り、こういう異様な状況を眺めたというのも…後になれば「想い出」というものだ…

結局…直ぐにケーブルカーで下に下りたのだった…

ニコライ2世の胸像:ウラジオストク(2018.04.15)

↓大聖堂の辺りに在った小さな胸像である…
at Vladivostok on 15-04-2018 (P7700) (1)
↑新し目なモノと見受けられる…

ニコライ2世は皇太子時代の1891年、日本を訪れた―<大津事件>が在った…―後にウラジオストクに立寄っている…

やや高い位置の小さ目な胸像で、P7700の望遠ズームで撮影した…

↓背後に…ソ連時代のレリーフが残るビルが視える角度も在った…
at Vladivostok on 15-04-2018 (P7700) (3)

この胸像…余り紹介されていないような気もする…

帆船のグラフィティー:アレウツカヤ通(2018.04.15)

↓交通量の多い通に新旧様々な建物が在るのだが…壁に帆船の美しいグラフィティーが施された建物を見付けた…
Vladivostok in early evening 15-04-2018 (2)

↓画の右奥が西寄りに相当するようだ…
Vladivostok in early evening 15-04-2018 (3)
↑雲がやや多い中、傾いた陽が放つ光線が空を独特な状態にしている…そういう背景が好い…

何か…“帆船”という画の題材が凄く「港町らしい」感じで面白い…

<黄金橋>(Золотой мост)(ザラトイ モスト)(2018.04.15)

ウラジオストクの金角湾に架かる巨大な橋梁…その姿は「街の新しいシンボル」と言われているようなのだが…その姿が視たかった…

ウラジオストク入りした日…雨模様で深い霧のようになっている中…「霧の中に巨大なモノが見え隠れ…」という状態を期待したが…「全然視えない…」という有様に終始した…

総延長が2㎞に及び、海の上の部分が737mで、車輛等が通過する最高地点が60mで、構造物の最高地点が225mにもなるという…これはなかなかに大きい…それが霧に包まれて視えない状況が続いていた…

↓それが漸く視られた!!
'Золотой мост' at Vladivostok 15-04-2018 (5)
↑ケーブルカーで上る高台…訪ねても視えずに「空振り」だった翌日に、漸く視られた!!

↓多少、角度を変えながらゆっくり眺めた…
'Золотой мост' at Vladivostok 15-04-2018 (11)

↓更に、高台から下りながら眺めることもした…
'Золотой мост' at Vladivostok 15-04-2018 (14)

なるほど、これは「街の新しいシンボル」という感だ…永く往来がし悪かった場所が結ばれ、街の“動線”が変わってしまったことであろう…

今回の様子とは違う天候、異なる時間帯等、色々な条件でまた視てみたいものだ…

霧深い早朝:レーニン像の背中とウラジオストク駅舎(2018.04.15)

実質的に「初めてゆったり眺めたウラジオストクの風景」ということになる、レーニン像越しに視えるウラジオストク駅という景観が酷く気に入った…

空港からのバスで駅前に到着した際、下車する場所がレーニン像の直ぐ前で、レーニン像の背中側に坂を上がった道を進めば予約した宿への道筋だ…そんな理由で「ここにもレーニンが居た…」とも思いながら背中側に向かって行ったのだった…

↓早朝に一寸戸外へ散策に…こんな様子を眺めた…
foggy early morning at Vladivostok 15-04-2018 (3)
↑未だ灯りが随分と残る感じだが、駅舎の向こうに覗く筈である巨大な橋梁が深い霧で視えない…

↓もう少し退いた感じな画である…
foggy early morning at Vladivostok 15-04-2018 (1)

「雨が少々交じる」という按配…とりあえず継続中だ…

ウラジオストク空港に着いたS7のA320(2018.04.14)

↓雨交じりな駐機場に着いたA320…
Vladivostok AP on 14-04-2018 (1)
↑今回はボーディングブリッジが使用されず、外に出てバスに乗った。乗り込んだバスの扉辺りからの眺めだ…

「少し珍しい眺め?」と思ったが…程無くバスが動き始めた…或いは…「初めてウラジオストクで戸外の空気に触れた」という感だった場面だった…

ウラジーミル・ヴィソツキー像(2018.04.14)

ヴラジミール・セミョーノヴィチ・ヴィソツキー(Владимир Семёнович Высоцкий)…1938年1月25日生まれ…1980年7月25日逝去…ソ連時代の俳優、詩人、歌手…現代風に言えば「シンガーソングライターが俳優としての活動もしている」という感じがしないでもないのだが…

このヴィソツキーの歌…現在でも、不意にラジオから流れる場合が在る…或る意味で“クラシック”だ…功成り、名を成した他方、自身の中に満たされないモノも多かったのか?激しく駆け抜けたような人生を送った人物かもしれない…

↓ヴィソツキーが歌っている感じが、活き活きと再現されている感じの像だ…
Vladivostok 14-04-2018 (28)

↓一寸見入ってしまうものが在る…
Vladivostok 14-04-2018 (27)

↓概ね等身大の像だ…
Vladivostok 14-04-2018 (24)

↓こういう具合に設置されている…
Vladivostok 14-04-2018 (23)

ヴィソツキーは1971年にウラジオストクを訪れ、コンサートを催している。

↓像が在る場所から少し離れるが、当時の会場となった<プーシキン劇場>の脇に、ヴィソツキー公演の件を伝えるプレートが在った…
Vladivostok 14-04-2018 (52)

「何となく視たかった」という像に会うことが叶った…

ウラジオストク空港ビル外観(2018.04.14)

「到着」ということで「建物内を動き回った」のは「3回目」だが…

↓「3回目の到着」で「初めて!」こういう様子を眺めた…
Vladivostok AP on 14-04-2018 (2)
↑鏡のような硝子に辺りの様子が映っている他方、高い辺りは建物内の様子が透けている…何か「不思議な質感」のように視える…

画をクリックしてFlickr.comに在る画を開き、更に拡大すると…「密かに映り込んでいる撮影者」が判る…

とにかくも、無事にウラジオストクに入った訳だ…

機内のサンドイッチ:S7 565 (2018.02.22)

↓S7のフライトで、サンドイッチが配られる…
'S7 565' on 22-02-2018 (7)
↑何か、窓から射し込む光の関係で、妙にドラマチックに視えたサンドイッチ…

ウラジオストクから東京へのフライトで配られたサンドイッチだが…同じモノはユジノサハリンスクからウラジオストクへのフライトでも配られていた…

序でに言えば…11月に同じコースを利用した際にも、2つのフライトで同じサンドイッチが配られていた…何処かで一括して発注しているモノなのであろう…サンドイッチは、チキンと野菜が入ったモノで悪くない…