午前8時台に高野山の<奥之院>に到り、そこを歩き廻った。
杉の木立に射し込む朝の光が、自身にとっては鮮烈だった。「1200年以上も受継がれた信心」の「名状し悪い底辺」というようなモノ、「御入定」とされる弘法大師空海の魂が在るとされる「聖域」で、「偉大な弘法大師空海を慕う無数の人達の魂が渦巻く」というようなことを感じた。
その
感じたことは、既に旅の途次に綴っておいた。そしてそれを視ながら、「あの空間」、「あそこに在った時に考えたこと」を何度も振り返ってしまう。
↓「松前家墓所」というモノに出くわした。

松前家という大名家は、「知行地での米の生産量」を基礎とする「〇〇万石」ということで徴税などを行う権利を継承したということでもない。蝦夷地―現在の北海道と、周辺のサハリンや千島を漠然と含む場合も在った概念であるらしい…―での交易を行う権利を継承するという、少し変わった大名家であった。蝦夷地が幕府直轄ということになって、「〇万石相当」という代替の知行地を与えられた次期も在ったらしい。その少し変わった活動を生業とした松前家も、高野山の威光のようなモノに惹かれていたのかと思った。
↓「武田信玄 勝頼墓所」というモノに出くわした。

↓貫禄が在る石碑が眼に留まった…

武田信玄は仏門に帰依して“信玄”と号した。伝統的な仏教を高く評価したのだと思う。その魂がここに祀られている訳だ。
武田勝頼だが、武田信玄が制圧した信濃の旗頭に擁立されるべき立場から、実質的な後継者ということになった。長篠の戦で敗れ、やがて滅ぼされてしまったという経過を辿るが、なかなかに卓越した武将であったかもしれない。が、北条家や上杉家との関係で、打った手に色々とブレも在ったかもしれない。彼もまたここで祀られている。
これを視た時に直ぐ思った。恐らく、武田父子の遺骨や遺髪がここに埋められているということではないのであろうというようなことだ。神社に見受けられるように「魂を祀る」ということなのではないかと思った。
↓こちらは紀州徳川家の墓所だ…

高野山は寺院や教団を運営する財源として知行地のようなモノが与えられてはいた筈だが、それはそれとして辺りは紀伊国を知行地とした紀州徳川家の影響下だ。その歴代当主の魂もここに祀られている。
↓江戸時代には
錦帯橋の在る岩国を本拠地にした吉川家の墓所だ。

↓こちらは薩摩の島津家だ。

↓大名家として長く続かなかった堀尾家だが、堀尾吉晴は
松江城を築いて城下町を拓いた人物だ。

↓これは石田三成だ…

↓これは明智光秀だ…

この石田三成や明智光秀というような人物達に関しては、本当に「何方かが魂を祀った」としか思えない。
↓近代の人達の墓碑も多い。高野山を訪ねた際に利用した南海を創業したという方の墓碑だ。

↓幕末の物語に登場する二本松の丹羽家の墓碑だ。

↓安芸の浅野家の墓碑だ。

↓豊後の中川家の墓碑ということだが、一寸傷んでいる。こういうような感じのモノも多い。

↓こちらは島津家が奉納した、朝鮮の役での死者を弔うための墓碑ということのようだ。

↓近代の戦いの死者を弔う墓碑も在る。これはビルマ方面での戦いに関連するモノであるという。

↓ビルマ方面での戦いに関連するモノの傍には毛利家の墓碑だ。特段に関連性は無関係に、様々なモノが数え切れない程に在るのだ…

↓法然の墓碑も在った…

↓徳川家康の次男であった結城秀康は石廟に祀られていた。

↓この場所の環境を護ろうと努力を重ねている人達も大勢在るということも示唆されていた。

マダマダ様々なモノは在るであろう。ここは何か「離れ難い」というようなモノも感じたが、「何時か再訪!」とも強く思っている。