雑感と回顧と…(2025.01.25)

足元が凍るような道路を慎重な足取りで進み、拙宅の近隣で「冷蔵庫替り」と戯れに呼ぶ御店に立寄って飲物を求め、拙宅に至って冷えた居室でストーブを点け、飲物を飲んで寛ぐ。

こういうような「当たり前なこと」を随分と久々にやっている。

1月は6日から7日に掛けての僅かな時間を拙宅の居室で過ごしたが、結局は他所で閉じ籠る羽目に陥った。急遽「療養」ということになってしまったのだ。普通、月が改まってからというのは“平日”が在って普通の活動をして、やがて“休業日”となって、そういうようなことで時間が過ぎる。が、この1月に関しては「療養」ということで病院に閉じ籠り、1月の日常が消失したかのようになってしまっている。漸く出て来て、帰宅したという次第だ。

左の下肢、脹脛の辺りが酷く腫れてしまった。やがて腫れた箇所が潰れたようにもなり、何か左脚が傷だらけのようになってしまった。歩くには歩けるが、やや腫れぼったい足を引き摺るような感じでもあり、全般に少し痛いので「足を傷めた?」と傍目に見えるような様子だった。歩く距離、速さ、共に日頃の半分やそれ以下というような感じになってしまい、フットワークが好くない様子だった。

それでも「普通の“平日”」を過ごそうとは試みた。が、「ややキツい…」と感じたので皮膚科のクリニックで手当てでも受けようと思い付き、一寸立寄った。そうしたところ「直ぐに本格的な治療が必要!入院になる!」という話しになった。そこで入院を受け付ける病院との連絡調整ということになって「必ず直ぐに行って下さい」ということになった。

結果、「流石に酷い状態…」というのから薬効が在って恢復出来た。傷が深い箇所に関して、薬を塗布するなどしてケアして、暫く経って通院というような、「一寸、程度が重めな負傷」という程度の雰囲気で落ち着いた。酷く安堵している。

「療養」ということになれば、必ず「空隙」というような時間が1日の中に発生する。それを見越してノートパソコンを持込んで、趣味の写真の整理に興じたという場面も在った。殊に、今般は「随意に過ごす時間」を設けて出掛けたという際の写真が多く在り、未整理のモノも多く混じっていた。そういうことに少しずつ取組むというのが心地好いということになる。

写真を撮れば、とりあえずウェブギャラリーに入れておく。それを後から眺めるというような感じになる。

「随意に過ごす時間」と称して他地域に出るような場合、出先の宿の居室等で素早く写真をウェブギャラリーに入れるようなことを順次手掛ける。そこから写真を利用し、ブログを綴る。ブログはモノクロ写真のモノが中心となっている。

ブログに関しては、出先に在る段階で既に「殊に強く記憶に残る」、「これは広く伝えたい」というような写真に纏わる記事を綴って順次公開する。やがて後から順次ウェブギャラリーを眺め、様々な画に纏わる記事を綴る。

こういう様子で「思い付くまま」という調子で記事を綴るので、何処かへ出た際の時系列に写真や記事が公開されるというのでもない。ランダムなのだが、少し時間が経つと、何処かへ出た際の全容のようなモノが何となく判るようにはなる。独自な妙な流儀かもしれないが、こういうような調子でブログを続けて、少し長く経ったかもしれない。

2024年から2025年という年末年始も、時間を設けて随意に過ごした。途中でコンディションが好くないという感じにはなってしまったが、それはそれとして「可能な範囲で出来るように」と過ごしていて、好きな写真も撮った。

今般は「東京に上陸し、東京で動き回る」ということを少し暫く振りにしていたかもしれない。そんな中で好い感じの画も色々と撮ったように思う。が、それはそれとして国立のスターバックスコーヒーでの経験は忘れ難い。色々な境遇の人が各々に在って、可能な範囲で出来るように仕事をして、結果として助け合って生きているというような、各々が可能な範囲で出来るように、自信と矜持を持って生きるというようなことが体現されているという様子に触れたのだった。

その東京を発って、中央線の列車で個人的に縁薄かった山梨県の甲府に立寄りながら長野県に至り、松本や奈良井で過ごしたというのも好い経験であったと思う。

更に兵庫県大阪府京都府と少し馴染んだ辺りで、ややフットワークが悪い中ながらも気儘に過ごすことが叶ったのは好かったと思っている。

こういう様子を、「療養」の中の「空隙」というような時間で振り返っていた。

日頃は、例えば「3分」というような距離は躊躇無く歩いて往復するのだが、今月はそういう程度の距離さえ歩かない情況の日が続いた。体力が減退していると思う。週末を無理が無い程度に過ごし、来週から「通常化」を図りたいと思う。

顛末…(2025.01.08)

傷めていた左脚に関して、1月7日に医院で受診した。ダメージが大きく、少し手間を掛けた治療が必要ということになった。

前日は昼から夕刻にバタバタとしたが、暫し入院だ。

北上…「どうしようもないわたしが歩いてゐる」=運行日誌(2025.01.05-06)

北海道内の氷点下5℃を割り込むような外気は、他地域とは少し違うのかもしれない。今般、松本や住所としては塩尻市内に相当する旧中山道の宿場で動いた中、早朝に0℃を挟むような感じを経験した。その感じとの名状し悪い差異に気付いた気がするのだ。

「雪の木曽路」という風情の想い出を胸に関西に入り、半ば住人でもあるかのように寛いではいた。が、今般は急に左脚に不具合が生じ、何やらフットワークは悪かった。それでも可能な範囲で出来るように歩いた。全く「どうしようもないわたしが歩いてゐる」というような気分なのだ。

「歩いてゐる」というのは、歩く意図で歩き続けている。が、「歩いてゐる」と言えば、その意図と無関係にとりあえず歩くということにも通じる。そしてその辺りが曖昧になり、考え続けているようでいて、既に考えることを止めているような感じで「どうしようもないわたしが歩いてゐる」というのが自身の境地かもしれない。

或る時出逢った、托鉢行の中で生きたという句人が詠んだ「どうしようもないわたしが歩いてゐる」である。最近では「極々勝手な自己流解釈」まで傾けている。

時に「どうしようもないわたしが歩いてゐる」という程度に自身の姿を見詰め、色々な想いを胸に随意に歩き廻る時間を設けるのは大切なのだと思う。今般、とりあえずそういう時間を設けられたことは幸いとしたい。色々なことは追って綴ろうと思う。

札幌からゆったりと旭川へ動き、何となくのんびりとした。そして寝たり起きたりで朝を迎えている。曇天と見受けられるが「普通の冬の日」という様子だ。ゆっくり支度をし、遅れないように旭川駅へ向かい、稚内へ向かう。

北へ…=運行日誌(2025.01.04)

札幌の馴染んだ宿に入った。

可も不可も無い。是も非も無い。「行動」(オペラ―ツィア)が在るばかりだ。直ちに休むばかりだ。

尼崎から神戸で、空路を利用して新千歳空港、やがて札幌へ移動だ。

尼崎は好天で、ギリギリに宿から出た。何かゆったりとしてしまう。半ば棲むように滞在した宿だった。

空港へ出る迄の間、多少興味深い時間でも過ごしたかったが、何やら色々と要領を得ない感じで、やや不如意に無為な時間が流れてしまったかもしれない。少しばかり御機嫌が傾かないでもない。

程々の天気の中、何れは体調等も少々整えて、機嫌を直して空路の関西も悪くなかろうというようなことを思った。

本当に直ぐに休もうと思っている。明日の細かい事柄は明日の時点で決めるというような感じだ。

「復路」へ…=運行日誌(2025.01.03)

前日に思い付いたのは、最近何年間も使っている手帳の「2025年」を入手していなかったことだった。そして取扱店が前日からオープンしていうとも知った。「手帳を買いに…」と思い付き、朝から京都に出ることにした。

「手帳を買いに…」と思い付いたというだけの理由で、本当に京都へ一寸出てしまうというようなことをする、「暫し“市民”でもあるかのように暮す」という路線である。今般は上手く12月31日から1月3日で宿泊を抑えて在ったのだ。滞在中は非常に融通も利くような感じの滞在が出来る方式だ。

何時の間にか尼崎駅と往来する大阪梅田駅等、一部が「帰宅経路」というような感触になってしまっている。専ら大阪へ出る、大阪の先の京都へ出るという様子で神戸側には行かなかった。明日はそちらへ出る。

思う以上にフットワークは重かった。然程動いていないかもしれない。それでも種々の見聞や思索は在る。それらは何れ綴ろうと思う。今宵は旅が明らかに「復路」へ変わっていくような空気を感じる。

深夜に…=運行日誌(2025.01.02)

「休業期間」であるが、少し行動様式を変えて気分転換を図る。そういうのも悪くない。

早朝から動くことをしていない。居室で悠然と過ごし、昼の13時近くから動き始めた。個人的には、連泊をしている最中とて、少し珍しいかもしれない。

大阪難波に出て御好み焼を頂き、通天閣を望む辺り等を散策した。歩き廻って少々疲れて、何とか梅田に動いて、梅田から阪神電車で宿へ戻った。

宿へ戻って、居眠りに及んでしまった。そして深夜に一寸起き出した。そんな場合も在るであろう。

「大阪の暁」…=運行日誌(2025.01.01)

12月31日は尼崎の宿でゆっくりとしていて、何時の間にか休んでいた。そして気付くと既に日付が改まっていた。平然と2025年1月1日を迎えてしまっていた。

その後、日出時刻に先駆けて動き始めた。尼崎から大阪梅田へ出て、大阪梅田から十三へ出た。

十三の辺り、橋梁、河、対岸のビル群というような様子が見えう辺りに、近隣の人達なのか、少し離れた辺りの人達も交じるのか、随分と集まっていた。建物の角度等の条件が在って、朝陽そのものは見え悪かった。が、朝陽の光が辺りを染める様子が見えた。「大阪の暁!」と力が入った。

その足で京都方面に出た。人の多さに逡巡しながらも八坂神社で御参りした。

御参りの後、京都では久し振りということになる<HRC Kyoto>に寄って酒食を愉しんだ。

そういうことでまた尼崎へ引揚げて寛いで居る。とりあえずそういう様子だ。

尼崎…=運行日誌(2024.12.31)

宿の居室での「何時でも御休み頂いて構わない」という状況である。実は部屋着に替える以前に居眠りに陥っていて、起き出したのだ。

朝は起き出してから動き出す迄に、やや時間を要するような雰囲気になっている。今般の旅を始めた頃のように「早朝から動く」という程の何かが在るのでもないのだ。そういうのも悪くはないであろう。8時を少し過ぎた頃に宿で提供の朝食を頂き、食後にも居室で些か寛いだ。

結局、規定のチェックアウトタイムである午前10時を目安に宿から出たのだった。

京都から大阪へ移動し、翌早朝に眺めてみるような場所を下見していた。そこから阪神尼崎である。

そして阪神尼崎駅前の宿に入った。北海道へ引揚げる日の朝迄の借り住まいだ。

時間を設けて随意に動こうとして、本当に随意に動いてしまっている。そしてそんな時間の中に在ることが有難い。

京都…=運行日誌(2024.12.30)

前日は彦根に着いて、宿に入った後は動かずにゆっくりと過ごしていた。早目に休んで調子を整えた。

朝は宿の朝食を普通に摂った。サラダと少々のおかずである。そういう調子が好いのだと思っている。

彦根から京都に出た。京都では少しだけ身軽になって宇治を往復した。

暗くなる前に京都の宿に入ったが、居眠りに陥って、暗くなってしまっていた。そこから起き出して多少動いた。

東京や甲府から松本を経て京都に到った。概ね中山道を経ての移動だ。こういうのも悪くない。

彦根=運行日誌(2024.12.29)

東京に上陸し、神戸から北海道へ引揚げるというように考えていた。そこで新しいルールで5日間連続という感じの<青春18きっぷ>を使いながら「東から西」と動き、彦根に至った。宿の居室で寛いでいる。「何時でも御休み頂いて結構です」という様子に早々としてしまった。

夜行バスで札幌に着いて新千歳空港に行った時も朝食は摂っていない。鶯谷の宿でも朝食提供前に出発だ。松本の第1夜の後も朝食提供以前から動いた。塩尻で朝食ということになっている食事を10時前に摂ったが。朝食は大切だと思うのだが、朝食らしい朝食を摂らないような感じも多いかもしれない。

そういうことで、松本第2夜の後は宿の朝食をゆっくり摂った。松本第2夜は、真っ暗になる前から眠ってしまってはいたが。そして早朝の5時台に起き出した。そういう流れで、早朝から動いても構わなかったが、7時55分の列車から始めようと思い立ったのだ。

松本駅から塩尻駅へ移動し、塩尻駅で乗換て中津川駅まで移動した。中津川駅から名古屋駅迄移動し、名古屋駅で確りと昼食も愉しんだ。

そこからなのだが、名古屋駅で名古屋・米原の自由席の新幹線の券を求め、新幹線で米原に一気に動いた。そして米原から彦根である。直ぐだった。

彦根の宿は古くからの街、歩いた先に彦根城が見える辺りが在るのではない、彦根駅の逆側に在った。「近隣に御店?」という感じなのだが、少し先にロードサイド型のコンビニが見えたので、そこで買物をしてから宿に入った。

松本から名古屋、名古屋・米原の新幹線、米原から彦根と存外に動いた。意外に寒かった。

色々な見聞等は順次綴って行きたい。とりあえず彦根の宿で休む。

眠った…=運行日誌(2024.12.28)

松本に連泊している。

「何時でも随意に御休み頂いて結構です」という状態になって、宿の居室で寛いで居たが、日付が改まった少し後迄起きて居た。気分が昂揚していたのであろう。

やがて午前5時台に起き出し、6時頃から動いた。奈良井を往復した。旧中山道の宿場町だ。雪が交り、凄く雰囲気が在った。

そこから塩尻に寄って朝食を愉しみ、以降は松本に引揚げて松本城や旧開智学校を訪ねた。

午後3時前に宿に戻ったが、宿で眠ってしまった。そして迎えた早朝という様子になっている。

これからは如何しようか?

松本…=運行日誌(2024.12.27)

松本の宿に在る。居室で「何時でも御随意に御休み頂いて結構です」という状況である。

多分、午後7時半頃に眠ってしまっていたと思う。日付が変わる前に眼が醒めた。そして、眠る、起きるが断続して早朝に至ったという様子であった。5時頃に起き出した。

6時過ぎには宿を去り、鶯谷駅から移動を始めた。

鶯谷→神田→国分寺→国立

国立駅のビルに入っている<スターバックスコーヒー>は、意思疎通に手話を用いる場合も在るという、聞くことが少し苦手な人達が多く働く御店なのだという。そういう場所が登場したと聞いて以来、一度立寄ってみたかった。

聞くことが少し苦手な人達については、一口に言えない程度に、各々の人の各々の状態というようなものが在る。故に、例えば店舗に3人のスタッフの様子が見えても、各々に感じが違う。互いに手話で意思疎通をしている様子は伺える。普通に発話する方、発話がやや苦手と見受けられる方、声が出ない方という様子だ。

それでも用意のメニュー表、御店で提供する飲物のサイズ、店内用のマグカップか持ち帰り用の容器か自身のタンブラーに入れて持ち出すかという提供方法と、「選択肢を示す。選択する。選択を確認してモノを提供する」という事柄を纏めた表が示され、何等の不便も無く珈琲を求めて店内で愉しんだ。声が出ない様子の方が対応して下さったが、素晴らしい笑顔で、自信と矜持を持って珈琲を飲んでみようと立寄った自信を迎えてくれた。

色々な境遇の人が各々に在って、可能な範囲で出来るように仕事をして、結果として助け合って生きているというようなことなのだと思う。別段に<スターバックスコーヒー>に強い関心を寄せているという程でもないが、あの国立の御店は「若い人が個人経営しているカフェ」というように感じる程度に、凄く感じが好く居心地も好かったので、機会が在ればまた寄りたい感じだ。

国立→豊田→大月→甲府

甲府の武田神社を訪ねた。往路はタクシーで行ってしまい、武田神社に御参りして場の雰囲気も愉しみ、甲府駅迄ゆっくりと歩いた。

武田神社というのは「甲斐国府中、甲府とする」として現在の甲府の基礎を築いた武田信虎、その息子の武田信玄、その後継者の武田勝頼と3代に亘って居館としていた場所が、大正時代に神社になったのだという。甲斐を本拠地に隣国の信濃を奪い、駿河の一部等にも進出した大大名となった武田家の本拠地周辺となる、甲府駅と武田神社とを結ぶ道路に近い辺りは、武田家の盛衰というような事柄が絡まる物語で名前を聞くような重臣達が邸を構えていたような場所になる。

武田信玄の本拠地だった街というようなことに想いを巡らせながら過ごした。

甲府→小淵沢→松本

そして松本に至った。街中の宿に入って一息入れた後、松本城を眺めに行った。

暗くなって行くような時間帯に松本城を眺めたが、何やらプロジェクションマッピングをやると判った。40分位であったと思うが、それの開始を黙って佇んで待った。真正面のような好い場所に陣取ったのだ。流石に少々冷えて来るような中、絢爛なプロジェクションマッピングが始まり、見入った。

その他、色々な見聞や思ったことは何れゆっくりと綴ろうと思う。鶯谷を発って、国立、甲府に寄って松本に至ったということを記憶に確かに留めるのがこの「運行日誌」と称するモノの役目でもあるのだ。

鶯谷…=運行日誌(2024.12.25-26)

鶯谷に宿を求めた。東京に上陸して、一寸一息入れようと宿を探した際、鶯谷の宿が手頃であると思ったのだ。

鶯谷駅は、最近でこそ出来たばかりで開発途上で乗降客が凄く少ない高輪ゲートウェイ駅が在るのだが、それを除くと山手線の駅で最も乗降客が少ないということになる。4万人台と聞く。それでも鶯谷駅の乗降客は、例えば稚内市の人口より多い。

久し振りに東京の宿で「何時でも休んでくださって結構」という様子になって、やや早目な時間帯から寛いで居る。

夜行のバスへ乗り込もうと、ゆっくりと居室で準備をしていた。準備を始める前にゆったりと夕食を摂っていた。そういう関係なのか、何か酷く眠い感じであった。居室で眠ってしまって、バスに乗り損なうというような状況は避けたい。少し気が張った状態で、居室で過ごしていた。

稚内では、一日を通じて降雪は少なく、拙宅の出入口前等も「新たに積もった雪を除ける」というようなことはしなかった。時季としては非常に穏やかと言えるかもしれない。気温は氷点下2℃や3℃というような様子だった。バスにの乗ろうとした頃、多少雪が降っていたが、乗車してしまうととりあえず深く眠ってしまった。

かなり深く眠って、一度御手洗を使用した。中が酷く暑かった。そうやって札幌に無事に着いた。

今般、新しいルールの<青春18きっぷ>を求めた。12月26日から5日間連続で利用可能だ。

札幌・新千歳空港
浜松町・秋葉原・飯田橋
飯田橋・秋葉原・鶯谷
鶯谷・東京
東京・御徒町
御徒町・鶯谷

というような調子で<青春18きっぷ>を使っていた。

新千歳空港では温泉で朝ぶろを愉しんだ。そして、夜行バスでの移動後に、辿り着いた東京で存外に歩いた。結局、ややエネルギーを多く費やした。

ゆっくり休み、明朝からは少し精力的に動きたい感じだ。

前夜…(2024.12.24)

12月の第3旬ともなると「フェイドアウト…」という気分が強まる。時間を設けて随意に過ごしながら、年が暮れて行き、新たな年がやって来るのを迎えたいというようなことを思う。

例年、そういう気分に沿った行動を選択する。12月下旬から1月初旬迄の期間に時間を設けて随意に過ごすというようにするのだ。今年もそういうことにしたのだったが、「スタート」が近年の中では「やや遅い?」という感じだ。

昨年のことを思い出していた。

昨年は、稚内から旭川へ列車で移動し、旭川空港へ出て飛行機に乗ろうというようなことを考えた。が、利用しようとした列車が運休となってしまった。「大雪の影響により」ということだった。昨年の12月は「一気に夥しい雪が降る」という様子が見受けられたのであった。

列車運休を受け、急遽手配したのは夜行のバスだった。深夜に走って朝の札幌に着くというバスが運行されている。何とか切符が1枚在って、それを求めて乗車した。そして朝の札幌に到着後、列車で旭川に移動し、旭川で一息入れてから、予定どおりに旭川空港へ向かって予定のフライトを利用した。

その「札幌を巡って旭川に出る」という道中、頭の中に或る考え方が巡っていた。夜行バスで札幌まで出るのであれば、そのまま新千歳空港に行くと、午前中のフライトを利用可能な筈で、午後の早い時間帯には到着地域に在るという状況だということだった。

その時のアイディアが何時迄も頭の隅に残っていた。そういう訳で、それを実践しようと思い立ち、夜行バスの切符と午前中の航空券とを用意してみたのだった。

用意したモノを使うのが待ち遠しいと暫くの間思っていたのだが、いよいよその前日ということになった。少しだけ気分が昂揚しているかもしれない。

誰にでも、常々思っているような“行動原理”或いは“活動原則”とでも呼ぶべき考え方が在るのだと思う。自身の場合は「可能な範囲で出来るように」ということであるような気がしている。年末に「フェイドアウト…」という気分で、年始迄に時間を設けて随意に過ごすというようなことを、俗に「休暇取得」と「休暇時の活動」と言うのだと思う。「休暇取得」や「休暇時の活動」というようなことにかんしても、「可能な範囲で出来るように」という程度に考えている。

「自 X月X日 至 X月X日」という、時間を設けることが可能な期間は自ずと定まってしまうと思うのだが、この期間で時間を設けるというような事柄が「可能な範囲で」ということに他ならないのだと思う。そしてその範囲で、色々と思い描きながら随意に動く。それは「出来るように」という以上でも以下でもない。

「随意に過ごす」と言っても、多種多様な内容が考えられると思う。自身の場合は、専ら「何処か他地域へ出て、気が向くように徘徊する」ということ、俗に「気儘な旅」という営為に他ならない。

年末近くというのは、「今日、ここに無事に在る」というようなことに感謝したいという感が少し募るような気がする。そういう中なので、「多少、勝手知った(つもりになっている)他所」、「やや見覚えが在る程度の他所」、「知らない土地」と様々な場所を随意に動き回ってみたい気分も増す。何処か、他所の地域で歩き廻ると、「こんな場所で自身は生きている」というような念が多少強まる。そういう念を強く感じて確かめてみたいと、漫然と思うのだ。

「気儘な旅」ということで出掛ける場合、最初に思い描いた様子と、実際の様子とが乖離するということも珍しくはない。出先で予定を随時立てながらゆったりと進んで行くからである。今般もそういうような感じ、「第X日に辿り着いた街の宿で、翌朝の事と翌日に辿り着く辺りを検討して決める」という方式を採ろうとしている。

多分、今般は「やや見覚えが在る程度の他所」で知らなかった文物に触れるようなことと、「知らない土地」を通り抜けて様々な文物に触れながら移動するというようなことが混然と組み合わさるような様子になるのだと思う。そして年末年始に関して、各地で天候が余り好くない場合も在るらしいので、少しだけ慎重を期しながら動く感じになるような気もする。

何れにしても期待が膨らむ状態である。

帰着…=運行日誌(2024.05.14)

拙宅の居室で寛いで居る。

前日は、岩見沢駅からの列車で旭川駅に到着後、宿へ引揚げずに街へ出て、少し馴染んだ御店に立寄って食事を愉しんでから宿へ向かった。直ぐに眠気が強くなり、何やら深く眠った。

眼が開けば未だ午前3時台だった。結局そのまま起きて居た。そういうのも「休日らしい」というものだ。やがて窓の外が明るくなって来た。前々日の曇天、前日の雨交りに対して好天だ。朝に散策には出なかったが、明るい窓を眺めながら、居室でゆっくり過ごすのも一興というものだ。

「宿で朝食を頂く」というのは特殊なことではない。が、1泊した翌日も、そのまた翌日も「午前6時前行動開始」で、6時半から供される朝食は頂いていない。よくやるように、朝の特急列車で稚内へ引揚げる段取りなので、これもまたよくやるように、宿の朝食をゆっくり頂いた。朝食を供するホールが余り広くないので、「御弁当」な方式で、居室に持ち帰って頂くということも出来るようになっている。今回はその方式だった。

やがてゆっくりと旭川駅に向かい、列車に乗り込んだ。車中では、何となく居眠りも交じった。一部の駅での到着や発車の様子の記憶が曖昧だ。深めに居眠りをしてしまったのであろう。

無事に着いた稚内は15℃程度であったが、風は多少冷たかった。拙宅へ引揚げる道すがら、御近所の御店に道草で昼食を摂った。

なかなかに充実した数日間であった。時にはこういうのも悪くない。数々の見聞等は、順次綴るようにしたい。

手短に…=運行日誌(2024.05.13)

結局、土曜日、日曜日に続いて月曜日も歩き廻った。累計で存外な距離である。

前日の午後から夜は風が強い様子だった。12階に在る宿の居室では、夜間に強風の音が少し聞こえていた。

前日は曇天で、天候は下り坂な傾向であるようだった。そういう中で深く眠った。典型的な「早寝早起き」である。早朝、雲が覆寝な戸外を窓から伺ったが、道路面が湿っている様子だった。それはそれとして、朝から動き回ることとした。

早朝、旭川駅から岩見沢駅へ列車で移動した。岩見沢駅では少し待ち時間も在った。そういう中で更に列車に乗って栗山駅へ向かった。

栗山では小林酒造を訪ねてみたかった。雨に濡れながら、道を間違えた場面も在ったが、無事に着いた。

やがて栗山の市街で喫茶店に入り、昼食を摂り、居合わせた方や御店の方と言葉を交わし、少し寛いだ。

栗山から岩見沢へ列車に乗ろうとしたが、その前に路線バスが現れたので乗ってみた。あのバスは寧ろ、岩見沢市内で賑わう感じのバスだった。列車の方が安価で速い。バスも、必ずしも本数は多くない。

岩見沢からは列車で旭川に引揚げた。旭川駅に着いて、その足で食事を摂ろうと街を歩いた。馴染んだ御店が営業していたので立寄った。ゆったりと食事を愉しんで宿に引揚げた。

そして「何時でも御休み頂いて構いません」という態勢で居る。今日の見聞等は、後で改めて綴ることとしたい。想った以上に充実した期間を過ごしているように思う。

「文学紀行」…?=運行日誌(2024.05.12)

「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢で寛いでいる。宿の居室に在る。簡単に綴っておきたい。

前日の宿の居室では、「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢で寛いだ。そして早目に休んでしまった。宿に入った後、別段に居室から出ていない。

そういう感じで深夜帯に目覚めた。少し長く眠っているので、速やかに再度眠るということも叶わず、暫く起きて居た。やがて眠気が射し、ベッドに横たわった。

そして早起きして午前6時台には既に動いていた。目指したのは上富良野だ。早朝の列車で向かい、昼に引揚げるという計画で動いた。

上富良野という場所は、明治時代後期からの入植の経過が在った後、「大正泥流」の甚大な被害が在り、そこから復興している。「開拓」を「2回」もやっているような面が在る。

そういう経過が判る資料館を訪ねたかった。上富良野駅から3km弱らしい。これを歩いて往復した。

更に上富良野神社を訪ね、古い役場の庁舎を模したという建物の郷土館を訪ねた。

郷土館では、「大正泥流」の日だった「5月24日」にその時代の物語を伝える紙芝居を上演するということで、関係者の皆さんがリハーサルをしていた。観て構わないということで、拝見した。興味深かった。関係者の皆さんも、「見知らぬ旅行中のおっちゃん」が約1名、真面目に聴いているという様子であれば「本番に向けたリハーサルとして好適」と考えて下さったようだ。

紙芝居にも話題が在った。「大正泥流」の頃、凄まじい破壊力の泥流で、鉄道の線路が「底から抉って持ち上げられた」というように破壊された。これを数百人の作業員による工事で、数日で列車が通れる程度に復旧したという。何やら凄い。この破壊された鉄路に関して、モノが郷土館にも展示されていた。郷土館の方とも言葉を交わし、なかなかに愉しかった。

結局、『泥流地帯』、『続 泥流地帯』を興味深く読み、それで覚えた興味を満たすという感じで上富良野を訪れた。或る種の「文学紀行」をしたということかもしれない。

往時、大切な輸送手段として、災害で「とんでもない状態」になったモノを懸命に復旧した歴史に触れた。少し複雑な想いが湧いた。近年は、災害で傷んだ鉄路がなかなか復旧せず、何やら廃線になっているという例が目立つような気がしたからだ。

その復旧の歴史が在る鉄路で旭川に引揚げて少しゆっくりしていた。やがて夕方、午後4時台に旭川駅へ足を運んで入場券で入った。<花たび そうや>が稚内から旭川に帰って来るのだ。今般、キハ54の2輛連結の前後にキハ40を連結ということだったのだが、旭川に向かう際に先頭になるキハ40が好い。嘗て、宗谷線にキハ261系ディーゼルカーの特急列車が登場する前に走っていた急行列車で使用されていた車輛の外観を再現したというモノである。これを観に行ったのだ。何か嬉しかった。嘗ての急行列車には、丸いヘッドマークが掲出されていたが、今般も<花たび そうや>の丸いヘッドマークが掲出されて「雰囲気満点」だった。

実は上富良野から引揚げた後、宿の居室に入った際に30分間程の居眠りに及んだ。そんな訳で、暗くなる前から宿で寛いで居る。今般の見聞等は順次綴りたい。

「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢なので、眠気が強まれば抗わずに休む。

「別宅」…?=運行日誌(2024.05.11)

「やや早い?」と思いながら、「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢に入った。8℃程度であった地元を発ち、点いた場所では20℃を超えていて、何やら汗もかいた。サウナを利用して、敢えて汗をかいた場面も在ったが、20℃を超える中で歩き廻り、自然に汗もかき、衣類も湿った。

「多少勝手知った(つもりになっている)他所」という感の旭川、更に勝手ながら「別宅」と呼ぶ程度に馴染んでいる宿の居室で寛いで居る。

早朝の列車に乗るべく、「寝坊」に注意喚起という様子ではあったと思うが、然程の問題もなく早目に起き出した。天候は下り坂ということらしいが、稚内の朝は「やや雲は多いが暗くもない」という様子であった。パタパタと支度して稚内駅へ向かった。

早朝の普通列車は空いていた。美深・名寄間で多少乗客が増えたが、そこまでは乗客は少なく、何か「敢えて車輛を借り上げて移動」ということでもしているかのような気分になった。

名寄では「キマロキ」を見学した。豪雪への対応ということで使っていた特殊な編成で、先頭に9600形蒸気機関車が在る。アレが凄く気に入っている。そしてマックレー車やロータリー車という作業車輛が在って、後尾にD51形蒸気機関車が在る。各車輛の頭文字を取って「キマロキ」なのだ。

そして普通列車で塩狩へ向かった。塩狩で初めて下車した。かの三浦綾子の記念館を観たかったのだ。

三浦夫妻は結婚後、最初に住んで居た借家を出ることになった。色々と考えて、思い切って家を建てた。その家の一部で三浦綾子は<三浦商店>という雑貨店を営んだ。その住宅兼店舗であった建物が解体された時、想い出多い家を惜しむ三浦夫妻の心情を汲み、有志が部材が残るように丁寧に解体して保管していた。そして、三浦綾子の最も知られた作品の一つである『塩狩峠』に所縁の塩狩駅の近くに移築した訳だ。旧宅部分と、資料展示等の部分とが組合さった建物だ。三浦綾子は懸賞小説の入選を契機に小説家デビューする。その懸賞小説の『氷点』や、『塩狩峠』等を執筆していたのが、塩狩駅の傍に移築された家であったことになる。これはなかなかに興味深かった。

やがて旭川に到り、宿に入る迄の時間は旭川の街を歩き廻っていた。名寄や塩狩で少々、そして旭川でやや多く歩いた。明日以降の予定も在るので、「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢で、眠気が強くなった際に抗わないようにしようと思う。

見聞に関しては、写真を多く撮っている訳だが、何れゆっくりと整理する。「自由!」といきなり張り切ったというような感じだ。

前夜に…(2024.05.10)

少し今年のこれまでを振り返ってみる。

2024年は出先で迎え、1月冒頭は出先から引揚げる道中という時間を過ごした。

2月には、旭川に寄道もしながら札幌へ所用に出るという機会が在った。

3月には、別段に他地域へ出掛けたということは無かった。他方で各地で催される松山隆宏公演が稚内へやって来たので愉しんだというような機会は在ったのだったが。

4月には、旭川に寄道もしながら札幌へ所用に出て、その際に小樽へ足を延ばすという機会が在った。

こうして振り返ると「一貫して気儘に過ごす」ということ、巷間では寧ろ「旅行」というように言われる事柄という程でもないのかもしれないが、そこそこに他地域との間を往来しているような気もする。

「札幌へ所用」というのは、所謂「公私の別」ということでは「私」に該当する事柄だ。故に、特段に遠慮も会釈も無く、少しばかり時間を設けて、随意に過ごすようにもしている。

所用で他地域に出て、出た際に少しばかりの時間も設けて気儘に過ごすという時間も少し位は生じる。随分と以前からそういうのは変わらないかもしれないが、2019年頃から「私」に該当する事柄で他地域へ出る場面が増えた。逆に「公私の別」で「公」に該当する事柄で他地域へ出る場面は、殆ど見受けられなくなった。

2022年から2023年に掛けては、「私」に該当する事柄の中、少しばかり御縁が出来た地域へ「半ば所用」という様子で出る場合も在った。そういう「半ば所用」がとりあえず無くなっても、今度は「一貫して気儘に過ごす」ということで当該地域へ足を運んでみるような場合も在る。

想い起すと、4月初めに桜を愛でるべく出掛けてみたいというようなことも思ったが、以前から決まっている所用の予定も在ったので諦めてしまったということが在った。

更に5月に入り、連休という中で出掛けてみようかと思わないでもなかったが、交通機関や宿泊施設が混み合っているというような感じなので、アッサリと諦めた。地元は、5月冒頭に好天で会ったのだが、何やら酷く寒々しい感じになり、結局は拙宅の居室に半ば引き籠るかのような過ごし方に終始した。

そういう中、通常に日曜日と月曜日の休業日に加えて火曜日が都合による臨時休業日ということになった。巷では特段に連休でも何でもない期間だ。思い付いたのは、土曜日を随意に過ごすことが出来るようにすると、「所謂“連休”の1週間後に、“連休”と同等な時間を設けることが叶う」ということになる。

こうした情況が生じたのであれば、その「所謂“連休”の1週間後に、“連休”と同等な時間を設ける」を実践してみたくなる。

「何かをする」ということに関連して、「時間が在れば」、「機会が在れば」というようなことをよく言うと思う。文字どおりに「時間が在れば」、「機会が在れば」という事情も在るのかもしれないのだが、結局“時間”や“機会”は「設けるべき」なモノだ。その辺に“時間”や“機会”が転がっている筈もない。自ら積極的に見出す筋合いなのだと思う。

今般は「一貫して気儘に過ごす」という“時間”や“機会”について、「所謂“連休”の1週間後に、“連休”と同等な時間を設ける」ことが叶う情況になったことから、それを掴んでみることとした。

他地域へ出掛けて「気儘に過ごす」という営為は、巷間では寧ろ「旅行」というように言われるのだと思う。が、自身の勝手な理解の中では、「旅行」の中には「随意に過ごす訳にも行かない場合」も混じっていると観る。

所謂“出張”というモノは、公式には「業務旅行」、「公務旅行」というような言い方になるのだと思う。日頃の仕事の場所から離れた場所に出掛けて仕事をするということに関して、「旅行命令」というような書類が或る筈で、そこから「旅費支給・精算」というような事務が発生するのが普通である筈だ。

自身が「他地域へ出掛けて気儘に過ごす」というように表現する営為は、そうしたモノとは明らかに異なる。全く「随意」に動き廻って構わないのである。今般の場合、「土曜日から火曜日迄」という期間、可能な限りに遠くへ出るのも、然程でもない辺りに出てゆったりするのでも、随意に決めて構わず、極端な話し「西へ向かおうと出発して、不意に東へ向かってしまう」という俄かな転進さえ差し支えないのだ。「儂は“ふりぃ”じゃけん!」とか「自らを由とする。自由!それがFree!」というような、何本も観ている幕末期を背景とする物語の映画やドラマで劇中人物達が叫んだ台詞を思い出す。

偶々という感じでもあるが、「自由に創る時間」というモノを掴み獲ることが叶った感で、何か凄く昂っている。

興福寺の金剛力士像の御朱印帳…(2023.12.25)

↓奈良の興福寺の<国宝館>に金剛力士像が在る。その像の画が入った御朱印帳が在る。
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↓裏の表紙にも画が入っている。
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↓興福寺で御朱印帳を求め、早速使い始めたのだった。
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↓直接に寺を訪ねた時のこと、そしてその前後の様々な事も合わせて、御朱印を眺めると思い出すことが出来ると思う。
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↓奈良や京都の後、川崎大師こと平間寺を訪ねたということが在った。
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↓川崎大師では計3箇所の御朱印を頂いた。
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↓東京の高野山別院、暫く感覚が開いて京都の蘆山寺を訪ねて参拝している。
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↓蘆山寺は、最近のテレビドラマで取上げられている紫式部に所縁の場所とされていて、最近は注目されているらしい。
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↓2023年4月に立寄っている長浜や京都の想い出が蘇る御朱印だ。
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↓旭川でも寺を訪ねてみた。
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↓幾つか御朱印を集めることになった。
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↓年に何度も立寄っている旭川で寺に親しむというのも好いかもしれない。
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↓そして川越である。
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↓末尾に弘法大師の画が入ったモノということになった。
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御朱印は寺を訪ねた証、記録であり、見れば訪ねた想い出が蘇るというモノである。大切にしたい感だ。

大山祇神社の御朱印帳…(2024.01.01)

↓御朱印帳が在る。
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愛媛県の大山祇神社を訪ねた際に入手した御朱印帳だ。以来、神社の御朱印をこの御朱印に御願いし続けた。

大山祇神社で御朱印を頂いた後、これをバッグの隅に入れて方々を歩き、神社で御朱印を頂くということを続けた。
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↓直接御朱印帳に押印、貴重という他、用意の用紙を貼るという方式も在る。
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↓名古屋で御朱印を頂いた後、間隔が開いて奈良県に立寄ったという様子だ。
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↓見開きで用紙を貼るというようになっていたのが大神神社だった。
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↓岡山県や広島県でも御朱印を御願いした。
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↓かの織田信長を祀る建勲神社は見開きの御朱印ということだった。
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↓日付が在る頃の旅を懐かしく思い出す一助になるのも、御朱印帳の好さかもしれない。
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↓1月の旭川から8月の京都と間隔が開いている。
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↓関東方面に立寄った経過が在った年だ。
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↓2022(令和4)年末に関西に出た時の御朱印だ。
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↓右の頁は2022(令和4)年末だが、左の頁は2023(令和5)年になっている。
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↓実は御朱印帳はこの裏から開いても使用可能なのである。
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↓その裏から開く形でも使い続けた。
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↓礼文や美瑛と北海道内でも御朱印を頂いていた。
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↓旭川に小樽だ。
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↓旭川の上川神社の後、大宮の氷川神社で、御朱印を書いて頂いた神職の方が北海道所縁で言葉を交わしたという想い出も在った。御縁を感じた。
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↓川越でも何箇所か神社を訪ねて御参りした。
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↓富山の岩瀬に敦賀と年末の北陸を巡るということも在った。
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↓やがて北陸から京都に入って何箇所かの神社に御参りした。
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↓護王神社は再訪した。
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↓清明神社は後から用紙を貼った。
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↓大阪天満宮と難波神社で御朱印帳の頁が全て埋まった。
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自身、寺院用と神社用で2冊の御朱印帳を使い分けている。今般、神社用が表面のみではなく裏面も全て埋まった。社寺の御朱印を頂くというのも、「生かされている。何かに感謝の意を表しなければ…」という感を抱いた頃、2018年頃に始めたことである。この「大山祇神社の御朱印帳」は2020年の暑い時季に四国を訪ねた際に入手の御朱印帳で、2023年末まで4年間使い続けたということになる。御朱印帳は大切に保管する。が、御朱印を頂きながら各地を訪ねた想い出は、モノでもないかもしれないが、自身の中で大切に保ち続けたい感だ。12月31日迄に全ての頁を使い、1月1日に改めて見直して、振り返りながら各ページを写真に収めたということになる。

宿の居室…:各地の<東横イン>(2023.12.24-2024.01.03)

↓列車の運休で回り道を強いられながらも。旭川から東京へ飛んで、そこから久々の「首都圏の電車」で到った大宮で滞在した宿だ。<大宮駅東口>である。
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↓見慣れた感じのデスクだ。
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↓<富山駅新幹線口2>という場所だが、本当に“既視感”が強い。
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↓凄く見慣れた感じだ。
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↓移動を続け、辿り着いた敦賀である。
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↓<敦賀駅前>での居室だ。
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↓京都へ移動して、辿り着いた部屋だ。
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↓こういうような「何時もの如く」というのは悪くないと思う。
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↓<大阪天神橋筋六丁目>である。
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↓そして<あべの天王寺>だ。
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↓デスクの辺りも見慣れた感じだ。
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↑細かいことを言えば、ここのベッドとデスクの間の照明の感じが他所と少しだけ違った…

↓<札幌駅北口>である。
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↓デスクの辺りも「例のとおり」である。
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↓この<旭川駅東口>
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↓ここでもデスク辺りの感じは他所と変わらない。
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こういう「何処の街でも殆ど同じ」に強く意を配ったようなチェーンのホテルであるが、何処か他地域を訪ねようとすれば、凄く便利だ。結果的に、12月末から1月冒頭迄、このチェーンの宿を渡り歩いたかのようでもある。これはこれで好いのだが…北海道内、首都圏。北陸、関西圏と「何処でも同じ」の有難さに心動かされ、こういうような記事も起こしてしまう…「だから?」という話しだとも思うが…

そして帰着…=運行日誌(2024.01.04)

稚内の拙宅の居室に在る。とりあえず暖房を点けたが、温まるまでに些かの時間も要することであろう。

朝、旭川では早目に眼を覚まし、何となく起きて居た。そして予定どおりに、通り道のコンビニで車中向けの飲物等を持てめてから旭川駅へ向かい、待機していた列車に乗った。6時3分に旭川駅を出て北上する普通列車だ。<青春18きっぷ>が利用可能である。名寄迄は2輛なので、旭川駅ではその状態だ。そして名寄以遠は1輛での運行となる。

車中では眠ってしまっていた時間が長かった。何やら気付くと名寄の手前だった。名寄では2輛目を切り離した。それから1輛になった列車は更に進んだ。気付いたのは天塩中川駅の手前の駅に続くような辺りだった。そこで…エゾシカと接触である。ぶつかってしまったエゾシカを避けるという作業を乗務員(運転士)と、他に乗っていた鉄道関係者で懸命にやっていた。

多分15分近く遅れて幌延駅に着いたと思うが、幌延駅での長い停車時間が短くなり、幌延を定刻に発車すると、稚内にも定刻の12時7分頃に到着した。途中、天候が好かったので車窓は美しかった。

拙宅へ戻れば、玄関前に驚く程の雪が積もっていたのでもなかった。幸いだった。少しばかりという雪を除けた。そこから、直ぐ傍の店でラーメンを頂き、以降は居室で寛ぐという具合である。

今般、随意に過ごす時間を設けられたことは好かった。見聞に関しては追って綴って行く。こうした過ごし方が出来たことに感謝したい。

「休業期間」の中で“休業”という感…=運行日誌(2024.01.03)

馴染んでいる旭川の宿の居室に在って、「何時でも御休み頂いて結構」という態勢に入って寛いで居る。「帰国」で「北上」という展開の最中である。

前夜の札幌の宿では、起きて居たいだけ起きて居て、眠くなれば眠れば好いというような意識で過ごした。結果的に些か夜更かしになった。そして深く眠ったと思う。一度、眼を開けて御手洗を使用したが、その後も直ぐに眠った。最近の様子を顧みる中では「少しゆっくり…」という朝だった。

そういう程度に感じたが、それでも朝7時半前には、居室に出しているモノを片付けて、何時でも出発出来るというような様子になった。とは言え、ゆっくりと旭川に向かうという予定の日で、文字どおりに「のんびり」で全く構わない。宿の朝食を摂った後は、居室でゆったりと、拙宅の居室で時間が在る時のように寛いで過ごすこととした。

気になって羽田空港のフライト情報の出発便を見れば、多分、機材繰り等で不都合が在ったと見受けられる欠航が散見するが、朝早くからの多くの便が普通に「搭乗手続き中」、「搭乗中」、「出発済み」となっている。昨夕のような混乱は収束し始めていると見受けられる。勿論、昨夕の事故現場の始末等は未だ続くであろう。朝食会場のテレビで流れたニュースでも、事故に纏わる解説等が在った。

加えて北陸での地震の件も気になる。1月1日に大被害が生じているが、殊に被害状況が大きかった石川県では余震が今朝も見受けられた様子だ。それも朝食会場のテレビで流れたニュースで取上げられていた。

気懸りな話題が続いている最中、自身の手近な辺りの事柄も気になる。JR北海道の列車運行情報では、何らの問題も伝えられていない。各列車は普通に運行されているようである。また気象情報も、何となく曇天というのが今日、明日の各地の予報である。平穏であることに深く感謝したい感だ。

結果的に午前10時台の列車で札幌から岩見沢へ向かい、岩見沢で午前11時台の列車に乗り、午後1時前には旭川に着いた。凄く順調だった。12月24日には岩見沢の周辺で大雪による踏切の不具合が生じていたが、そういう様子は全く無い。岩見沢で乗換の列車迄に間が在り、駅前に一寸だけ出てみたが「雪の少なさ」に少し驚いた程だった。

旭川に到り、昼食を摂り、書店を覗いて、ファストフード店で一息入れ、やがて宿でチェックインを受け付ける時間帯に入ったので直ぐに宿に入って一息入れた。夕刻は、思い付いて出た。馴染んだ御店で夕食を愉しんだ。そして宿へ引揚げている。

結局、休業期間は精力的に行動している。そういうことだったので、「期間中の“休業”」というようなことにしていたかもしれない。「起きて居たいだけ起きて居て、眠くなれば眠れば好い」ということであるとは思うが、明朝は早起きで動く予定にしている。

「北上」へ…=運行日誌(2024.01.02)

札幌の宿の居室に在る。札幌に何軒か在る馴染んだ宿の一つで、札幌駅に近い施設だ。夕刻6時台に発って、夜8時台に着くフライトを利用したので、列車で夜9時台に札幌駅に着き、そこから直ぐにチェックイン出来るという場所だ。「予定どおり」に動いている。何か、少し暫く振りに積雪している歩道―富山県、石川県、福井県と言った北陸地方に立寄っているが、彼の地で「雪の歩道」を歩いた場面は無かった。多少の雪は視たが…―を歩く場面も交えて宿に至った。後は「御随意に御休み頂いて構いません」という態勢になって、「安着」と称して缶のハイボールを傾けて寛いで居る。

北上の途に就く朝は、深めに眠った後にスッキリと迎えたと思う。

前日夜、箱に詰めて細々したモノを自宅に宛てて送った。前日、宿に入る前に梅田のヨドバシカメラのビルに入っているユニクロで見付けたリュックサックを求めていた。さり気なくそれにモノを詰め替え、バッグも箱に詰めて送った。モノを送り出して、容量に余裕が生じて軽くなったバッグとリュックサックという、身軽な様子で動き回る。最初から身軽でもあるのだが。

動き回っている身軽な様子に関しては、旅行中というよりも、その辺に用事を足しに出ているというような雰囲気だと思う。方々で旅行用トランク、ホイールが付いたキャリーケースを使っている人達に多く出くわした。中には「あの中?何が入っているのだろう??」という程度に大きなモノを持つ方も在った。自身はそういうような様子ではない。立寄る、滞在する各地域に、例えば住んで居たとして、休日等に思い付きでその辺を動き回っているという風情だと思う。そういうような調子で、稚内から札幌へ夜行バスで移動し、到着直後に列車で旭川へ移動し、旭川空港から羽田空港へ飛び、大宮に滞在して川越を訪ねてから大宮に戻って、新幹線の列車で富山を訪ねて滞在し、以降は金沢、福井を経て敦賀に至って滞在、更に京都、大阪である。

今般は、そういうようにして通り過ぎた地域の一つである石川県等で地震災害が発生したということが伝わっている。御見舞い申し上げるという他無い。本当に「何日か前に通った…」という場所での出来事というのは、災害の方に触れた際の驚きがより大きく、気持ちも曇るものだ。

列車で移動しているので、災害に関連する運行の様子も気に懸る。北陸方面は地震の頃から運転見合わせで、北陸方面との往来が盛んな一部の地域でも広く運行の変更や遅延が生じているらしい。大阪の街から山陽路へ向かうような辺りは、朝早くの時点で特段に影響は生じていない様子が伺えた。それを利用で、神戸空港へ入る迄の時間を過ごすということにした。

実際、身軽を好いことに、コインロッカーも無いような赤穂線の坂越駅まで朝から移動し、坂越で一寸した遠足である。好天に恵まれ、景色が好かった。そして興味深い歴史を感じた。列車本数も少な目なので、午後1時台の列車で神戸に移動した。少しばかり馴染んでいるとも言い得る神戸を散策した。こういう兵庫県に御邪魔しての見聞は、何れゆっくり綴りたい。

午後6時頃、神戸空港の搭乗待合室に入っていた。既に保安検査を終えていて、搭乗の案内を待つばかりだった。そこに妙な話しである。「羽田空港で火災」というようなことである。神戸空港に在っても、大幅な遅延や、羽田空港から向かってくる筈の機材が到着出来ずに結構という状況が生じ得るという“第一報”がアナウンスされていた。

地震のフライトは無事に神戸空港から新千歳空港へ飛んだ。定刻での運航と呼べる範囲だった。が、飛行機を下りる際に「羽田空港閉鎖のため、飛行機に積まれた荷物を急遽下ろす都合が生じ、到着の手荷物受取が混み合っていますから、留まらずに速やかに退出して頂くよう御協力願います」という案内が在った。

なるほど空港も駅も列車も混み合っていた。羽田空港との間を往来する各航空会社の便の他、機材繰りが困難になって他の地域とを往来する便も動かなくなったようだった。夕刻の話しで、とりあえず札幌市内や近郊に滞在する宿を求める人が在ったようだ。羽田空港の様子が判らない中、明日以降も如何いうような様子になるか、とりあえず不明だ。しかも、1月3日というのは人が動いて飛行機等は混み合っている時季だ。

多少「異様?」な様子に触れ、宿に入ってノートパソコンを取出してネットのニュースを視た。午後5時55分頃、新千歳空港から到着して空港内を動いていた旅客機と、出発しようとしていた海上保安庁の飛行機とが衝突してしまったというのだ。飛行機が火を噴いて大炎上で、旅客機側の乗客や乗員は全員が脱出できたが、海上保安庁機の乗員に死者が生じてしまったようだ。前日の地震を受けた救援活動の関係で、羽田空港に在る飛行機で新潟へ向かい、必要な物資を空輸しようとしていたようだ。亡くなってしまった方達に哀悼の意を表したい。ところで、直接の事故現場以外の羽田空港の滑走路は既に運用が再開されたそうだ。今夕の混乱が早く収束することを願うばかりだ。他方、羽田空港に色々な事が集中し過ぎて、事故でも在れば混乱が直ぐに拡がり、深まってしまうというような事柄にも、個人的には想いが及んだ。

2024年に改まって早々に、大きな災害に少し驚く事故と「波乱含み」かもしれない。そんな中、自身はとりあえず「予定どおり」に動いているような感だが、「生かされている」、「平穏にここに在る」という様子であることを深く感謝したい感だ。明日も「北上」が続く。

考えようによっては贅沢に過ぎる時間を過ごしている…=運行日誌(2024.01.01)

未だ大阪に在る。<あべのハルカス>と<通天閣>との間の地域で、寧ろ<通天閣>に寄っている辺りの宿に滞在している。居室で寛ぎ、「何時でも御休み頂いて結構」という態勢に入っている。

2023年12月31日は「早朝コース」でサウナを利用という辺りから動いて、相対的に静かであるような、一部に賑わっているような、そんな大阪の街で何となく過ごした。存外に体力を使ったのかもしれない。或いは、精力的に動く期間、通常の何倍も歩き廻ってしまうような暮らしを続けている形になっているので、多少長く眠る必要が在ったかもしれない。

夕方、宿に近い辺りで食事を摂ろうと、回転寿司の御店を訪ねて食事を愉しんだ。そこから引揚げ、何時の間にか深く眠った。気付いた時、腕時計のカレンダーは「MON1」になっていた。2024年1月1日だ。日付が改まると同時に、年が改まった。

振り返ると、もっと若かった頃には年末に時間を設けて他所に出て、年が改まった辺り迄を出先で過ごし、そこから引揚げるというようなことを繰り返したような気がする。そういうことからやや遠ざかり、何時の間にか年末に出先に在っても、年が改まる辺りに札幌の「居候所」と呼んでいた“親父殿”の家を訪れ、そこでゆっくりとする、札幌の街を歩くというような過ごし方をするようになっていた。昨年の12月以降、「居候所」に気兼ねなく立寄るような様子でもなくなって、今季は「出先で一寸過ごす?」と考えたのだ。

何かが特別なのでもなく、「普通に休業中」という様子で、加えて「他地域に滞在中」という様子で過ごしているが、年末は連泊で宿を取り悪かったので、天神橋筋六丁目駅傍の宿から動物園前駅傍の宿に移った。以前に利用している<通天閣>が見上げられそうな場所の宿ではない。あそこは取れなかった。少し近い辺りに同じチェーンの宿が在ったのである。

天神橋筋六丁目駅から動物園前駅へ移動し、モノをロッカーに預け―数が少ないので直ぐに塞がる。最後の1つが開いていて、それを利用した…―て、少し動いた。地下鉄の1日券は、休日には620円となる。これは使える!天王寺界隈を散策し、梅田に出て食事を愉しむ等し、動物園前駅にやって来て午後3時台に宿に入った。

午後4時10分頃だった。宿の居室で寛いで居れば「あれ?」と首を傾げた。不自然に揺らいだのだ。最初は「気の所為?」というのか、少し草臥れて強めな眠気が沸き起こって頭がフラりとしているというような気がしないでもなかった。が、どうやらそういうことでもない。地震が在ったらしいとネットのニュースで見た。やがて「自身が発生しました。エレベータの仕様は御控え下さい」と館内放送だ。と言って、避難誘導というのでもない。5分程で「自身が収まりました。エレベータは御利用頂けます」と館内放送だ。

「揺れ」と言えば、近年では、2018年に出先の札幌で経験している。実家に居候の形で停めて頂き、翌朝に用事で動くという話しだったのだが、未だ眠っていた早朝に「身体を揺す振られている??」というように感じた。寝過ごしていて、見かねた“親父殿”が「おい!遅れる!?」と起しに現れたのかという程度のことを思わないでもなかった。が、実際にやや大きく揺れていたのだった。あの時は、地震そのものよりも、事後の北海道内の殆ど全域というような超広域停電という様相で、それの方が大変だったと思う。

今般、そういうのは全くなく、大阪は至って平穏だ。元日なので、休業という場所が寧ろ目立つ。が、一部に「正月休みに人が出る」という場所が見受けられ、そういう場所だけが妙に賑やかという様子である。今般、<通天閣>や<あべのハルカス>が在る光景を眺めたかった。そういうのを確り眺めた。見聞等は何れブログに綴りたい。

明日は北上の途に就く。関東、北陸、関西と動き回った。関西に入ってからは、新たな場所を訪ねてみるというようなことは殆どしていない。詳しく知らなかった大阪天満宮を訪ねるということは在ったが…明日は空港へ向かう経路で早目に動き、更に進む等して、新しい場所に出会うようなこともして、そしてフライトに間に合うようにしたいものだ。

「打ち止め」という感…=運行日誌(2023.12.31)

天神橋筋6丁目の宿の居室に在る。日頃から気儘に暮しているとは思っているが、更なる気儘を求めて、随意に過ごす時間というようなモノを設けて、方々を巡っている。回り道を強いられるような様子ながら、当初の思惑どおりに旭川から東京へ飛び、以降は大宮や川越、富山、敦賀というように、これまで縁が薄かった街で過ごし、そこから京都に入り、大阪に至ったのである。

眠ければ眠り、起きて居たいのであれば起きて居れば善い。特段に遠慮や配意が要るのでもない。それが「休日」というモノである。正しくそういう要領で天神橋筋6丁目の宿の居室に在って夜を明かした。深く長く眠ったような、短く深く眠ったような、何やら判らない感じで暗い早朝に至ったのだった。出先では「よく在る」ということかもしれない。

朝5時台に戸外に出た。歩いて片道15分弱だと思う。大阪駅に近い地区に<大東洋>というよく知られたサウナが在る。ここへ足を運んだ。サウナは好い。ゆっくりしたと思う。朝7時台にゆっくりと宿へ引揚げ、そのまま宿で供される朝食を摂った。

思い付きで街を散策した。地下鉄の1日券は、土日祝日ということで620円と殊更に安価であった。これを主に使い、地下鉄以外は普通にICOCAを利用することにした訳だ。

地下鉄とモノレールとを乗り継いで万博記念公園迄足を運び、かの<太陽の塔>を眺めたかったが、公園が休園で近付けず、少し遠くから見るだけで終始してしまった。

やがて大正に出て<タグボート大正>を訪ねたが、以前に立寄った御店等が、訪ねた時には開いていなかった。何か食事を摂るのは諦めて辺りを歩いていて、難波へのバスを見付けて乗車してみた。

難波の辺りでお好み焼き、ソバが入ったモダン焼きを頂いた。そこから御堂筋を歩いた。三津寺という場所で参拝し、やがて難波神社に至って、そこでも参拝した。難波神社の辺り迄歩いてしまうと、地下鉄は本町駅が近い。そして本町駅に到ったが、思い付いたのは、東寄りの堺筋本町駅に行って堺筋線の列車を利用すると、乗換え無しで天神橋筋六丁目駅に着くということだった。そして東西に拡がる「船場センタービル」を眺めながら東へ進み、堺筋本町駅に到った。

天神橋筋六丁目駅に着いて、宿の居室に入ったが、居眠りに陥った。気付くと夕刻5時近かった。何となく戸外へ出た。少し静かな感じで、休んでいる御店が目立つ様子だった。回転寿司店が営業中であるのを見付けて、そこで夕食を摂った。そして宿へ引揚げている。

このまま宿の居室で寛ぐということにする。「何となく過ぎてしまった」という1年だったというような気がしている。前年は12月に色々と在って、12月31日には出先から引揚げてえ稚内の拙宅に在った。今年は出先に未だ残っているという訳だ。そういう差異は在るが、この時季に「大過なく過ごした日々」に感謝し、「生かされている」とでもいうようなことに感謝し、日々少しなりとも心豊かに暮らしてみたいという想いを新たにするという辺りに差異は無い。

自身の場合、拙宅の居室も、出先の宿の居室も「何ら変わりは無い」ということになるかもしれない。何れにしても1人で悠然と過ごすのだから。逆に言えば、他に選択の余地も無いのだが。

とりあえず2023年は「打ち止め」という感じになった…

少しだけ馴染んだ“天六”…=運行日誌(2023.12.30)

「何時でも御休み頂いて結構」という態勢に入っている。宿で使える部屋着に着替えて居室に在る。こうなると、出るには着替えなければならない。故に、居室で「何時でも御休み頂いて結構」ということになる訳だ。

今年の4月、大阪の天神橋筋6丁目の宿を利用した経過が在った。今般、神戸空港から「帰国」の前に大阪や京都で滞在するということを考えた。空いていた宿の中、この天神橋筋6丁目の宿を択んだ。4月に利用した際に、色々な意味で以後ことが好かった。あの時は、滞在期間中に京都を往復するというようなことをして、“北”へ引揚げる途に就く日に姫路を訪れていた。

自身として「やや異例?」なのだが、前夜は宿の居室でテレビを点けた。『必殺!仕事人』の新作2時間ドラマを愉しんだという訳だ。あの種の時代モノは愉しい。「必殺!」の場合は、「時代劇ドラマ風なファンタジー」、「“時代劇”世界を借りた、制作時期、放映時の社会の風刺」という独特な要素も色濃い。所謂“考証”というようなことを如何こう言うのは野暮という感じだ。何本も作られているこのシリーズだが、前作で主要な劇中人物が斃れてしまっているので、新たな劇中人物が登場している。非常に好かったが、未だ新しいコンテンツなので、内容には踏み込まない。

そういうことをして普通に休み、やがて普通に迎えた朝だ。「予定」としては、「大阪の宿へ」ということが在るだけだ。色々と考えたが、京都の宿に関しては、少しゆっくりと過ごしてチェックアウトをすることにした。京都でまた動き回るでもなく、発つ迄はゆったりする。そういうことに決めた。

宿の朝食を頂いた後、少し外に出た。コンビニで、居室用の飲物を求めようとした。戸外は、多分3℃程度の少しだけ冷えた感じだ。この程度なら、少し長く戸外を歩く場合には多少温かくする方が賢明かもしれない。が、「四条通で横断歩道の信号待ちをしている間に動けてしまう」という程度で訪ねられるコンビニと宿との往復なら、半袖Tシャツの上にやや記事が厚い長袖シャツ
というような、屋内風な服装で出歩いても、個人的には抵抗感が薄い。

そして居室で寛ぐこと暫しで、9時半前に宿を出た。気に入っている阪急電車に乗り、淡路駅へ移動した。そして乗換で天神橋筋六丁目駅だ。京都・大阪間の往来で、少し気に入っている経路だ。それを利用して移動したというのは、何か「小さな満足」というようなモノが沸き起こる。

今般、天神橋筋六丁目駅のロッカーに荷物を預け、大阪天満宮を訪ねてみた。と言うよりも、少し迷いながら天神橋筋の辺りを徘徊し、串カツを摘んで寛ぐ場面も設けたという感じだった。「天神橋筋」、「天満」、「天満橋」という具合に、大阪天満宮に縁が在りそうな地名が幾つも在って何やら入り混じるかのように所在しているように、自身に眼には見えた。結局…天神橋筋六丁目駅から商店街の「6丁目」に入って、そのまま「5丁目…4丁目…3丁目…2丁目…」と進んで行けば、「1丁目」の辺りで大阪天満宮の正面へ続く道と交差している場所が在るのだ。途中にあるJR天満駅の界隈でグルグルとして妙な方向に出た。変な回り道で相当に歩いたが、他方で天満駅界隈で頂いた串カツが好かった。

そんなことをして、宿に入る時間には少し間が在ったが天神橋筋六丁目駅のロッカーから荷物を引き取り、駅前のビルに入っているネットカフェで1時間余り休んだ。そこから宿に入る訳である。

宿で一息入れた後、梅田まで日没頃の街を歩いた。梅田では御堂筋辺りや大阪駅辺りを訳も判らずに歩いて景色を少し愉しんだ。そして地下鉄の東梅田駅へ、あの“ダンジョン”(大迷路)と言われる地下通路を歩き廻って、地下鉄で天神橋筋六丁目駅へ動き、宿に引揚げた訳だ。大阪に関しては、複数回利用した宿が在る場所が何箇所か在って、そういう辺りに至ると、何やら安堵感が沸き起こる。最近、天神橋筋六丁目駅辺りもそういう場所になっている感だ。

明日??朝から夜まで“自由時間”で、何を如何するのか、全く考えていない。そのうちに何か思い付くのだろう。全く、宿の居室で缶のハイボールやペットボトルのアイスコーヒー(無糖)を啜りながら、ぼんやりとしている。

極々簡単に…=運行日誌(2023.12.29)

敦賀を歩き廻って、湖西線を経由する列車で京都に移動し、宿に入った後に一息入れ、夜は「想い出の御店」を訪ねることもした。そこから宿へ引揚げたのだが、深く長く眠ることが叶った。それでも「普通に早起き」かもしれない。そして、早起きで6時やその少し前に起き出すと、未だ窓の外が暗いので「深夜に御手洗を使う」という場面のような、変な気分になってしまう。

今日は青蓮院門跡、粟田神社、清明神社、護王神社、菅原院天満宮、六孫王神社と社寺を巡り、京都鉄道博物館を訪ねた。朝から「京都の休日」という感じだ。何やら充実したが、様々な見聞は後日ゆっくりと綴りたい。

ところで…特筆すべき事態が生じた。宿の居室でテレビを点けた。『必殺!仕事人』の新作2時間ドラマを愉しんでいる…

神戸空港から新千歳空港へ飛ぶ計画の「帰国」迄、ゆっくりと過ごすばかりだ。今日立寄った社寺の中、青蓮院門跡は「行こうとして機会を設けられなかった」ということで、敢えて機会を設けた。が、他は「流れ…」でフラフラと動いた。鉄道博物館に関しては、「今年最後の開館」と聞いての思い付きだ。

こんな過ごし方というのも、時には好いかもしれない…

前略 四条通から…=運行日誌(2023.12.28)

夕刻から、直ぐに休んでしまえそうな気がして、宿の居室に寛いでいた。が、何やら気分が昂揚して直ぐには寝入らなかった。が、眠ってしまうと、やや長く深く眠ったと思う。スッキリとした感じで眼を開け、起き出した。

宿の居室で寛ぎ、朝食も摂った。そのうちに窓から陽射しである。好い感じの朝だった。宿を出て、敦賀を少し散策することにした。これが存外に好かった。

敦賀では<ムぜウム>と称する展示施設が在って、ここでは孤児や難民がウラジオストクからの船で敦賀に上陸した際に、色々な人達が彼らの受け入れに協力したというような、敦賀で展開した物語を紹介していた。ロシア革命後の内戦で、保護者を喪った子ども達が在った件、第2次大戦が始まった頃の所謂「命のビザ」の件は承知していた。が、そういった支援が必要な事態に当時の日本の人達が関わり、殊に来日した彼らを最初に港で迎えることになった敦賀の人達の活動というようなことは、詳しくは知らなかった。大変に佳かった。

この<ムぜウム>を含めた何箇所かを見学する等しながら、かなり歩いた。やがて午後、敦賀駅で列車に乗った。あの駅では、名古屋へ行く特急列車、京都・大阪へ行く特急列車、京都へ至って大坂や神戸やその先の姫路迄という新快速の列車が毎時各々1本ずつ出るというような感じと見受けられた。

敦賀を出る新快速の列車は湖西線を経由する。滋賀県の主だった街は琵琶湖の東側に並んでいる。そちらを行き交う列車は本数も多い。他方、湖西線は琵琶湖の西側の路線で静かな地域だ。それでも京都やそこから先へ向かうのであれば、東側に比べて距離がより短い。言葉を換えると「速く先へ行ける」ということになる。故に一部の特急列車は、この湖西線を経由して京都へ向かうということも在ったようだ。

湖西線について、南側の一部は利用した経過を記憶しているが、北寄りな側は通り過ぎたことが少なくとも1回在ったというのに留まっている。そういう訳なので、湖西線を移動するというのは少し面白かった。

京都に着けば、京都駅のロッカーに荷物を預けて早速に動いた。

以前に稚内で出くわした京都の方―先方は旅行中でコインランドリーを利用しようとしていた。自身がそこに居合わせて言葉を交わしたという経過だった。―が今年の春に食事を摂る御店を開いたということが伝わっていた。「遅過ぎな昼食」ということでそこを訪ねた。そして再会を祝した。

そこから京都駅に動けば、直ぐに暗くなった。荷物を引き取って宿に移動だ。四条烏丸の何度も利用した経過が在る場所だ。チェックインして居室に入った。一息入れていたが、居室で飲むモノでも仕入れようと思い立った。同時に、昨年の12月に立寄ったミュージックバーを思い出し、訪ねてみた。御店の方達と再会を祝していた。

こうした経過も含め、様々な見聞は何れゆっくりと綴りたい。

実は「帰国」は、神戸空港から新千歳空港へのフライトを利用することを決めている。その前に大阪に滞在することは予定済みだった。京都は宿が取り悪い感じであったのだが、今日と明日とを押さえることが叶ったのだ。京都で何を如何するのか、実は何も決まっていない。明日の朝にでも考えよう。正しく「この街に在る蔵氏の中で何となく休日」という状況のようなものである。こういうのが好い…