横浜駅に出て京急の列車に乗込むと、何か呆気ないような感じで、直ぐに京急川崎駅に着く。
↓こういう案内表示に従って歩く…
↑ふと思った。「大師線」は「たいしせん」ではなく「だいしせん」と“濁点”が入らなければならないということに、看板のアルファベットを視て気付いた。最近は「弘法大師」が「こうぼうだいし」と“濁点”と思うようになっているが、長いこと「たいし」だと思っていた。然程、拘ることもないのかもしれないが…
↓「大師線のりば」に直ぐ辿り着いた。川崎市は154万人を擁する大都市であるが、何か「静かな地方の街の鉄道路線…」というような風情が漂うと思った。
↓4輌編成の列車は、何か可愛らしい感じもした。
こういうような感じの列車が、大師線を行き交い、起点の京急川崎で折り返す運行が多いように見受けられた。正直…「川崎大師を訪ねよう…」という契機が無ければ、この列車には巡り合わなかったと思う。こんな出逢いも少し愉しい。
<ワールドポーターズ>…(2022.08.05)
神奈川県庁舎…(2022.08.05)
「多少早目?」と思いながらも夕食を済ませ、然程の目的意識も無く、少し辺りを歩き廻った。
↓偶々、何やら重厚な感じの大きな建物に行き当たった…
これは神奈川県庁舎だ…1928(昭和3)年に竣工したそうだ…
↓屋上部の塔が綺麗に見える角度の辺りは通らなかったが…何か酷く重厚だった。
今般、横浜で面白い建物の眺めを求めて長く歩き廻るということはしなかった。多少、体力を消耗する夏季の故か?何か、何処かへ出掛ける都度に「“次”が在るなら…」というのが頭の隅に浮かんでしまう…
↓偶々、何やら重厚な感じの大きな建物に行き当たった…
これは神奈川県庁舎だ…1928(昭和3)年に竣工したそうだ…
↓屋上部の塔が綺麗に見える角度の辺りは通らなかったが…何か酷く重厚だった。
今般、横浜で面白い建物の眺めを求めて長く歩き廻るということはしなかった。多少、体力を消耗する夏季の故か?何か、何処かへ出掛ける都度に「“次”が在るなら…」というのが頭の隅に浮かんでしまう…
宵…:桜木町駅(2022.08.05)
時計…:桜木町駅(2022.08.05)
川崎大師…(2022.08.06)
「興味を抱いた場所」ということであれば幾らでも在ろうが、その何れもが直ぐに訪ねられるという訳でもない。更に、交通手段等の制約で、興味とは裏腹に訪ね悪い状況も生じ易いというものだ。
そんなことを思うのだが、他方に「興味を抱いた場所」で「交通手段等も不便ではない」という場所であっても、意外に訪ねる機会を設け損なってしまったままに時日が長く経過する場合も少なくはない。
↓「意外に訪ねる機会を設け損なってしまったまま」の一つに漸く至った!
桜木町駅から横浜駅に出て、京急の列車で京急川崎駅に向かい、乗換えて川崎大師駅に着き、一寸歩けば川崎大師(かわさきだいし)に至る。単純に訪問機会を設け損なっていた…
↓こういう「仲見世」というような場所を抜けて境内に入って行くようになっている。
↓なかなかに立派な門が迎えてくれる。
↑扁額に「金剛山」と在る。「金剛山金乗院平間寺」(こんごうさん きんじょういん へいけんじ)というのが「川崎大師」の正式名称であるという。
この門に“仁王様”こと金剛力士は見受けられない。代わりに…
↓増長天…
↓護国天…
↓広目天…
↓多聞天…
というように“四天王”に護られている門となっていた。「門に四天王」というと高野山で見掛けた例を思い出した。因みに、川崎大師は真言宗智山派の寺である。
↓境内には色々なモノが見受けられた…
↓大本堂へ歩を進めた…
↓なかなかに貫禄が在る…
↓「弘法大師」と大書された大きな提灯も提げられていた。
↓川崎大師は古くからよく知られ、江戸時代にはこの場所を目印に挙げる道標まで在ったそうだ。河川や道路の改修で道標を撤去することになった際、川崎大師が引き取ったそうだ。道標は1663(寛文3)年に登場したモノと観られるようだ。
↓不動堂にも立ち寄った。
↓更に薬師殿にも寄った。
弘法大師を崇信していた人が、42歳の厄年に厄除けの祈願を続けていたところ、夢枕に立った高僧の示唆で、弘法大師像を見出し、それを祀るようになったことが川崎大師の起源と伝えられている。
↓時代を超えて受け継がれる「厄除け大師」に纏わる信心が発露する場…少し以前から興味を抱いていて、なかなか訪問機会が設けられなかった。今般はその機会を設けられた。そのことを大いに喜びたい。
そんなことを思うのだが、他方に「興味を抱いた場所」で「交通手段等も不便ではない」という場所であっても、意外に訪ねる機会を設け損なってしまったままに時日が長く経過する場合も少なくはない。
↓「意外に訪ねる機会を設け損なってしまったまま」の一つに漸く至った!
桜木町駅から横浜駅に出て、京急の列車で京急川崎駅に向かい、乗換えて川崎大師駅に着き、一寸歩けば川崎大師(かわさきだいし)に至る。単純に訪問機会を設け損なっていた…
↓こういう「仲見世」というような場所を抜けて境内に入って行くようになっている。
↓なかなかに立派な門が迎えてくれる。
↑扁額に「金剛山」と在る。「金剛山金乗院平間寺」(こんごうさん きんじょういん へいけんじ)というのが「川崎大師」の正式名称であるという。
この門に“仁王様”こと金剛力士は見受けられない。代わりに…
↓増長天…
↓護国天…
↓広目天…
↓多聞天…
というように“四天王”に護られている門となっていた。「門に四天王」というと高野山で見掛けた例を思い出した。因みに、川崎大師は真言宗智山派の寺である。
↓境内には色々なモノが見受けられた…
↓大本堂へ歩を進めた…
↓なかなかに貫禄が在る…
↓「弘法大師」と大書された大きな提灯も提げられていた。
↓川崎大師は古くからよく知られ、江戸時代にはこの場所を目印に挙げる道標まで在ったそうだ。河川や道路の改修で道標を撤去することになった際、川崎大師が引き取ったそうだ。道標は1663(寛文3)年に登場したモノと観られるようだ。
↓不動堂にも立ち寄った。
↓更に薬師殿にも寄った。
弘法大師を崇信していた人が、42歳の厄年に厄除けの祈願を続けていたところ、夢枕に立った高僧の示唆で、弘法大師像を見出し、それを祀るようになったことが川崎大師の起源と伝えられている。
↓時代を超えて受け継がれる「厄除け大師」に纏わる信心が発露する場…少し以前から興味を抱いていて、なかなか訪問機会が設けられなかった。今般はその機会を設けられた。そのことを大いに喜びたい。
建長寺…(2022.08.05)
↓門に掛かった額に「山福巨」と在る。これは「巨福山」(こふくさん)と読む。
↓鎌倉時代の末頃に起こり、室町時代に普及したということか?代表的な禅寺を「五山」と呼ぶような事が起こった。鎌倉の禅寺としては「五山第一」に挙げられる建長寺だ。
↑北鎌倉駅の傍から、鎌倉の街へ向かう方向に15分弱も歩けば建長寺には至る。
↓三門はかなり大きく見える。
↑高さは30mに近いという話しだ…
↓正式には巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)と称している。「建長興国禅寺」と門の額に在る。
↑明確に「禅寺」と号したということでは、「日本国内初の事例?」とも目されているそうだ。
建長寺については、建設準備等を始めた時期として1249(建長元)年説と1251(建長3)年説とが在るようだが、1253(建長5)年に落慶供養が行われている。何れにしても「建長」は元号に因む名だ。
北条時頼が、大陸から来日していた禅僧、蘭渓道隆を招聘して開山(最初の住職)とした経過が在るという。
↓柏槇(びゃくしん)という木が顕著時の境内に在る。かなり大きい。
↓開山の蘭渓道隆が植えたとも伝えられる柏槇(びゃくしん)である。幹の直径が6.5mにも及び、高さは13m程であるという。
↓仏殿には本尊の地蔵菩薩が祀られている。古くは刑場であって、地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という寺が在った場所に開かれた関係であるという。
↑江戸時代、芝の増上寺で建物を建替えた際、旧い建物をこの建長寺に移築し、それがこの仏殿となっているのだという。
↓仏殿に並んで法堂(はっとう)が在る。
↑複数の堂が三門から概ね一直線に連なる、創建時の中国大陸で人気が高かったらしい様式になっている伽藍だ。
↓法堂の中、天井には『雲龍図』が描かれている。
↓迫力の在る画だと思い、暫し眺めた。
↑京都の建仁寺で『双龍図』を観たことが在ったが、同じ画家の作品であるようだ。
↓そして唐門である。
↓これも江戸時代に移築されたモノであるというが、修復が完成したということで、実に美しい仕上がりで、暫し見入っていた。
↓巨大な梵鐘も建長寺では知られているモノであるそうだ。
この梵鐘を巡って、面白い挿話が紹介されていた。
「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」
1895(明治28)年の夏目漱石の句であるという。夏目漱石と親交が在った正岡子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、この句を参照したのではないかという話しも在るようだ。
↓多少暑い―鎌倉より以前の旅程の中での「危険…」と言われる水準は免れてはいたが…―という中、余り積極的に歩き過ぎるのもキツいので、もう少し観る余地を残しながら建長寺を辞去した。
建長寺もまた、学生時代に何度か立寄った場所で、今般は久々に訪れることが叶って善かった。「銀杏散るなり…」というような時季に再訪するような機会が在れば、非常に好いかもしれないというようなことを思っていた…
↓鎌倉時代の末頃に起こり、室町時代に普及したということか?代表的な禅寺を「五山」と呼ぶような事が起こった。鎌倉の禅寺としては「五山第一」に挙げられる建長寺だ。
↑北鎌倉駅の傍から、鎌倉の街へ向かう方向に15分弱も歩けば建長寺には至る。
↓三門はかなり大きく見える。
↑高さは30mに近いという話しだ…
↓正式には巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)と称している。「建長興国禅寺」と門の額に在る。
↑明確に「禅寺」と号したということでは、「日本国内初の事例?」とも目されているそうだ。
建長寺については、建設準備等を始めた時期として1249(建長元)年説と1251(建長3)年説とが在るようだが、1253(建長5)年に落慶供養が行われている。何れにしても「建長」は元号に因む名だ。
北条時頼が、大陸から来日していた禅僧、蘭渓道隆を招聘して開山(最初の住職)とした経過が在るという。
↓柏槇(びゃくしん)という木が顕著時の境内に在る。かなり大きい。
↓開山の蘭渓道隆が植えたとも伝えられる柏槇(びゃくしん)である。幹の直径が6.5mにも及び、高さは13m程であるという。
↓仏殿には本尊の地蔵菩薩が祀られている。古くは刑場であって、地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という寺が在った場所に開かれた関係であるという。
↑江戸時代、芝の増上寺で建物を建替えた際、旧い建物をこの建長寺に移築し、それがこの仏殿となっているのだという。
↓仏殿に並んで法堂(はっとう)が在る。
↑複数の堂が三門から概ね一直線に連なる、創建時の中国大陸で人気が高かったらしい様式になっている伽藍だ。
↓法堂の中、天井には『雲龍図』が描かれている。
↓迫力の在る画だと思い、暫し眺めた。
↑京都の建仁寺で『双龍図』を観たことが在ったが、同じ画家の作品であるようだ。
↓そして唐門である。
↓これも江戸時代に移築されたモノであるというが、修復が完成したということで、実に美しい仕上がりで、暫し見入っていた。
↓巨大な梵鐘も建長寺では知られているモノであるそうだ。
この梵鐘を巡って、面白い挿話が紹介されていた。
「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」
1895(明治28)年の夏目漱石の句であるという。夏目漱石と親交が在った正岡子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、この句を参照したのではないかという話しも在るようだ。
↓多少暑い―鎌倉より以前の旅程の中での「危険…」と言われる水準は免れてはいたが…―という中、余り積極的に歩き過ぎるのもキツいので、もう少し観る余地を残しながら建長寺を辞去した。
建長寺もまた、学生時代に何度か立寄った場所で、今般は久々に訪れることが叶って善かった。「銀杏散るなり…」というような時季に再訪するような機会が在れば、非常に好いかもしれないというようなことを思っていた…
円覚寺…(2022.08.05)
北鎌倉駅の「眼前!!」というような位置に円覚寺は在る…
余りにも「眼前!!」なので驚くが、恐らくは鉄道を建設した頃に、円覚寺の用地の一部を使用するということで、寺側と建設側とで申し合わせたか何かなのであろう…
↓そんな「余計な想像…」もしながら円覚寺に歩み寄った…立派な門だ。
↑後背が山で、坂道のような地形も見受けられる場所に開かれた禅寺である…
↓階段を上がると、この立派な門に迎えられる。
↓「瑞鹿山円覚興聖禅寺」(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)が公式名称ということで、門の扁額をよくみると「円覚興聖禅寺」と在る。
↓境内に踏み入れば「仏殿」と呼ばれる、主要な御堂の一つに出くわす。
↑本尊の宝冠釈迦如来像が安置されている。廬舎那仏のような感じなのだが、「宝冠」を被っているという特徴的な姿をした仏像だ。
↓仏殿の内部、天井には<白龍図>という画が在る。
↓禅寺であるので、座禅を行う会場ということになっている場所も設えられていた。「選仏場」と呼ばれる。
北条時宗(1251-1284)の発願で1281(弘安4)年から建立が始まった円覚寺である。翌1582(弘安5)年には無学祖元(仏光国師)を開山(初代住持)に迎えて開堂供養を催行している。
鎌倉では、大陸から招聘した禅僧の蘭渓道隆が敬愛されて活躍していたが、1278(弘安元)年に他界してしまった。そこで蘭渓道隆に所縁の建長寺の僧が大陸へ渡り、招聘したのが無学祖元であるという。
円覚寺は、寧ろ北条家の私的な寺という色彩が強かったようだが、次第に声望や権威が高まったという経過が在るようだ。
↓円覚寺に関しては、小学生の頃に東京方面を訪ねてみた折りに初めて立寄り、大学生になって東京に住んだ頃にも何度か訪ねている。「雰囲気」が何となく気に入っている場所だ…
今般、御無沙汰してしまっていたこの場所を訪ねてみることが叶い、凄く好かったと振り返っている。
余りにも「眼前!!」なので驚くが、恐らくは鉄道を建設した頃に、円覚寺の用地の一部を使用するということで、寺側と建設側とで申し合わせたか何かなのであろう…
↓そんな「余計な想像…」もしながら円覚寺に歩み寄った…立派な門だ。
↑後背が山で、坂道のような地形も見受けられる場所に開かれた禅寺である…
↓階段を上がると、この立派な門に迎えられる。
↓「瑞鹿山円覚興聖禅寺」(ずいろくさんえんがくこうしょうぜんじ)が公式名称ということで、門の扁額をよくみると「円覚興聖禅寺」と在る。
↓境内に踏み入れば「仏殿」と呼ばれる、主要な御堂の一つに出くわす。
↑本尊の宝冠釈迦如来像が安置されている。廬舎那仏のような感じなのだが、「宝冠」を被っているという特徴的な姿をした仏像だ。
↓仏殿の内部、天井には<白龍図>という画が在る。
↓禅寺であるので、座禅を行う会場ということになっている場所も設えられていた。「選仏場」と呼ばれる。
北条時宗(1251-1284)の発願で1281(弘安4)年から建立が始まった円覚寺である。翌1582(弘安5)年には無学祖元(仏光国師)を開山(初代住持)に迎えて開堂供養を催行している。
鎌倉では、大陸から招聘した禅僧の蘭渓道隆が敬愛されて活躍していたが、1278(弘安元)年に他界してしまった。そこで蘭渓道隆に所縁の建長寺の僧が大陸へ渡り、招聘したのが無学祖元であるという。
円覚寺は、寧ろ北条家の私的な寺という色彩が強かったようだが、次第に声望や権威が高まったという経過が在るようだ。
↓円覚寺に関しては、小学生の頃に東京方面を訪ねてみた折りに初めて立寄り、大学生になって東京に住んだ頃にも何度か訪ねている。「雰囲気」が何となく気に入っている場所だ…
今般、御無沙汰してしまっていたこの場所を訪ねてみることが叶い、凄く好かったと振り返っている。
「一円相」(いちえんそう)…:建長寺の売店で求めたTシャツ(2022.08.05)
↓鎌倉の建長寺を訪ねた折に眼に留まり、思わず求めてしまったTシャツだ。
「〇」は「円相」(えんそう)というモノだ。禅に関係する書画であるという。図形の丸(円形)を一筆で描くのだということだ。。「一円相(いちえんそう)」、「円相図(えんそうず)」とも呼ばれるというが、建長寺では「一円相」(いちえんそう)と呼んでいた。
建長寺では「無限の宇宙」、「無の心境」というようにこの「一円相」について説いているようだ。円形で象徴される何か?これは観る者の解釈に委ねられるという性質であるらしい。
↓Tシャツの背中側にはこういう文字も入っている。
↓更に袖にも文字が入っている。
何やら「外国からの来訪者が好んで求める土産」という感もするが、自身も本州方面に入れば“異人”のような感は否定出来ないので、こういうモノを敢えて求めるのも一興だ。加えて、夏季の旅行では想定以上にTシャツ等が汚れてしまうので、実用面でこういうモノを求めること自体が有意義なのだが…
早速に旭川から着用だ。「無限の宇宙」、「無の心境」という、「一円相」が象徴する境地というのが好いかもしれない…
「〇」は「円相」(えんそう)というモノだ。禅に関係する書画であるという。図形の丸(円形)を一筆で描くのだということだ。。「一円相(いちえんそう)」、「円相図(えんそうず)」とも呼ばれるというが、建長寺では「一円相」(いちえんそう)と呼んでいた。
建長寺では「無限の宇宙」、「無の心境」というようにこの「一円相」について説いているようだ。円形で象徴される何か?これは観る者の解釈に委ねられるという性質であるらしい。
↓Tシャツの背中側にはこういう文字も入っている。
↓更に袖にも文字が入っている。
何やら「外国からの来訪者が好んで求める土産」という感もするが、自身も本州方面に入れば“異人”のような感は否定出来ないので、こういうモノを敢えて求めるのも一興だ。加えて、夏季の旅行では想定以上にTシャツ等が汚れてしまうので、実用面でこういうモノを求めること自体が有意義なのだが…
早速に旭川から着用だ。「無限の宇宙」、「無の心境」という、「一円相」が象徴する境地というのが好いかもしれない…
再訪…:<iL-CHIANTI Chelie>(イルキャンティ チェリエ):桜木町(2022.08.05)
桜木町の宿に連泊した。直ぐ傍の、強めな雨で動き悪かったという事情も手伝って立寄った御店での夕食がなかなかに好かった。
その夕食の際、「何を御願いしようか?」と考えて、「何れにしようか?」と迷って御願いしなかったモノが色々と在った。(以前であれば、強引に纏めて御願いして、纏めて頂くような真似を仕出かしていたと思う…)
↓その前日に「迷って、御願い出来なかった…」というモノを「頂いてみよう…」と前日に続いて立寄ってしまった。
↓こういう雰囲気の店内で、居心地も好い…
↓ハイボールを頂きながら、待つこと暫し…
↓チーズやアンチョビも入ったイタリアンサラダというモノを摘まんだ…
↓フラスコのようなボトルに入った「オリジナルドレッシング」の、色々と交じり合った味わいが凄く好かった…
↓そしてコレ!この不思議な外観…
↓「イカすみのスープスパゲッティ」である…“イカすみ”で真黒だが、その奥にトマトの酸味も交じって、ガーリックが効いたスープが物凄く美味い…
「イタリアン連投」という様相…時には凄く好い!必ずしも「御当地」ではないが、地元の皆さんで賑わっている様子な御店で、「横浜の桜木町で美味しい御店」として強く記憶に残った。或いは、出先で食事に立寄る場所というのは、こういう感じな場所が好いようにも思う。
その夕食の際、「何を御願いしようか?」と考えて、「何れにしようか?」と迷って御願いしなかったモノが色々と在った。(以前であれば、強引に纏めて御願いして、纏めて頂くような真似を仕出かしていたと思う…)
↓その前日に「迷って、御願い出来なかった…」というモノを「頂いてみよう…」と前日に続いて立寄ってしまった。
↓こういう雰囲気の店内で、居心地も好い…
↓ハイボールを頂きながら、待つこと暫し…
↓チーズやアンチョビも入ったイタリアンサラダというモノを摘まんだ…
↓フラスコのようなボトルに入った「オリジナルドレッシング」の、色々と交じり合った味わいが凄く好かった…
↓そしてコレ!この不思議な外観…
↓「イカすみのスープスパゲッティ」である…“イカすみ”で真黒だが、その奥にトマトの酸味も交じって、ガーリックが効いたスープが物凄く美味い…
「イタリアン連投」という様相…時には凄く好い!必ずしも「御当地」ではないが、地元の皆さんで賑わっている様子な御店で、「横浜の桜木町で美味しい御店」として強く記憶に残った。或いは、出先で食事に立寄る場所というのは、こういう感じな場所が好いようにも思う。
雨の夕べに夕食…:<iL-CHIANTI Chelie>(イルキャンティ チェリエ):桜木町(2022.08.04)
↓路面に強めな雨が跳ねているような按配で、何やら膝から下が濡れてしまうかのような按配だった。
↓宿の近所、建物の角を占めるような店舗の飾りに惹かれた…
↓夕食が未だだったので立寄ってみた。<キャンティ>というイタリア料理のチェーン店の一つだった。
↓何となくハイボールを頂きながら、料理の登場を待った…
↓シーザーサラダを摘まんだ…
↓「真夜中のスパゲッティ」と名付けられた、少し辛目でガーリックのよく効いた「スープパスタ」をゆっくりと頂いた…
↓頂く時にスープが撥ねる場合が在るので、衣服が汚れ悪いようにこういう紙のエプロンが出て来る…
↓「何を頂こうか…」と迷う程度に色々と供しているモノが在る御店で、何か強く記憶に残った…
↓宿の近所、建物の角を占めるような店舗の飾りに惹かれた…
↓夕食が未だだったので立寄ってみた。<キャンティ>というイタリア料理のチェーン店の一つだった。
↓何となくハイボールを頂きながら、料理の登場を待った…
↓シーザーサラダを摘まんだ…
↓「真夜中のスパゲッティ」と名付けられた、少し辛目でガーリックのよく効いた「スープパスタ」をゆっくりと頂いた…
↓頂く時にスープが撥ねる場合が在るので、衣服が汚れ悪いようにこういう紙のエプロンが出て来る…
↓「何を頂こうか…」と迷う程度に色々と供しているモノが在る御店で、何か強く記憶に残った…
帆船日本丸・第一号ドック…(2022.08.04)
YOKOHAMA AIR CABIN(ヨコハマ エア キャビン)…(2022.08.05)
↓こんな様子を眼に留めた…
↑スキー場のゴンドラのようなモノが街の中を行き交っている…
↓こういうような「駅」が設けられ、桜木町駅前と運河パークとの間、所謂「汽車道」の上に相当する635m程の区間をゴンドラが結んでいるのだという。
↓こういう駅が設えられていた…
このゴンドラが<YOKOHAMA AIR CABIN>(ヨコハマ エア キャビン)と名付けられているということだ。2021年から運行しているのだという。自身は初めて実物を眼にしたのだが、考えてみると横浜に立寄ったのは2019年以来ということだった…
ところで<YOKOHAMA AIR CABIN>(ヨコハマ エア キャビン)だが、片道運賃が1000円らしい。今般は乗ってはみなかった…
↑スキー場のゴンドラのようなモノが街の中を行き交っている…
↓こういうような「駅」が設けられ、桜木町駅前と運河パークとの間、所謂「汽車道」の上に相当する635m程の区間をゴンドラが結んでいるのだという。
↓こういう駅が設えられていた…
このゴンドラが<YOKOHAMA AIR CABIN>(ヨコハマ エア キャビン)と名付けられているということだ。2021年から運行しているのだという。自身は初めて実物を眼にしたのだが、考えてみると横浜に立寄ったのは2019年以来ということだった…
ところで<YOKOHAMA AIR CABIN>(ヨコハマ エア キャビン)だが、片道運賃が1000円らしい。今般は乗ってはみなかった…
北鎌倉駅…(2022.08.05)
↓最大で15輛編成の列車が発着している。列車本数も少なくない。それでも何処となく「ローカル…」という風情が色濃く漂う…
↓北鎌倉駅である…
↓何時の頃からか、こういう駅名の看板になったようだ…
一体、何十年経ってしまったか?“親父殿”と、未だ小学校に入ったばかりの“賢弟”と、小学6年生であった自身とで列車や連絡船を乗り継いで首都圏に入り、叔父に御案内役を御願いして鎌倉を巡ったということが在った。
当時の自身は、習い覚えた「元寇」の事件で活躍したとされる北条時宗に所縁が深いという円覚寺を訪ねてみたいと言い出し、「鎌倉駅の手前の北鎌倉駅の眼前だから…」と聞き、何やら張り切って出掛けた覚えが在る。
そういう想い出も在って、そして雰囲気が好いということで、「新宿区民」であった学生時代、色々な機会に何やら「鎌倉にでも…」と出掛けて、北鎌倉駅にも何度も降り立った。そして鎌倉を歩いた…
今般「随分と御無沙汰…」と思い付き、北鎌倉駅を目指した。桜木町駅から大船駅へ出て、乗換えて直ぐに北鎌倉駅だ。
北鎌倉駅は幾つかの路線が交差する大船駅と、街の中心で大きな存在感を示す鎌倉駅との間に在る。何か不思議な存在感だ…
↓大船からの列車の後尾側に乗って着けば、列車の先頭側に近い辺りが改札口だった。15輛という長大な編成なので改札口まで随分と歩いたが、その間に反対方向に新しい車輛の列車が現れた…
何回も乗降していた他方、酷く御無沙汰で、眼にしたような車輛の姿を思い描いたこともなかった。
改札口を潜ると直ぐに円覚寺なのだが…多分、嘗ては円覚寺が何かの用途に用いていたか、所有していたかというような用地に関して、鉄道建設の際に話し合って軌道を通したということなのだと思う。円覚寺は「吃驚!!」という程度に近い。
時にはこんな駅を利用するのも好い…
↓北鎌倉駅である…
↓何時の頃からか、こういう駅名の看板になったようだ…
一体、何十年経ってしまったか?“親父殿”と、未だ小学校に入ったばかりの“賢弟”と、小学6年生であった自身とで列車や連絡船を乗り継いで首都圏に入り、叔父に御案内役を御願いして鎌倉を巡ったということが在った。
当時の自身は、習い覚えた「元寇」の事件で活躍したとされる北条時宗に所縁が深いという円覚寺を訪ねてみたいと言い出し、「鎌倉駅の手前の北鎌倉駅の眼前だから…」と聞き、何やら張り切って出掛けた覚えが在る。
そういう想い出も在って、そして雰囲気が好いということで、「新宿区民」であった学生時代、色々な機会に何やら「鎌倉にでも…」と出掛けて、北鎌倉駅にも何度も降り立った。そして鎌倉を歩いた…
今般「随分と御無沙汰…」と思い付き、北鎌倉駅を目指した。桜木町駅から大船駅へ出て、乗換えて直ぐに北鎌倉駅だ。
北鎌倉駅は幾つかの路線が交差する大船駅と、街の中心で大きな存在感を示す鎌倉駅との間に在る。何か不思議な存在感だ…
↓大船からの列車の後尾側に乗って着けば、列車の先頭側に近い辺りが改札口だった。15輛という長大な編成なので改札口まで随分と歩いたが、その間に反対方向に新しい車輛の列車が現れた…
何回も乗降していた他方、酷く御無沙汰で、眼にしたような車輛の姿を思い描いたこともなかった。
改札口を潜ると直ぐに円覚寺なのだが…多分、嘗ては円覚寺が何かの用途に用いていたか、所有していたかというような用地に関して、鉄道建設の際に話し合って軌道を通したということなのだと思う。円覚寺は「吃驚!!」という程度に近い。
時にはこんな駅を利用するのも好い…
<赤レンガ倉庫>:横浜(2019.06.01)
↓横浜に残る古い建築の中、代表的なモノの一つのように思える…<赤レンガ倉庫>だ…
↑2棟の古い倉庫が、商業施設、文化施設として利用されている…整備された緑地の一隅に佇み、なかなかに風情が在る…
↓この「2号館」が1911年に竣工したそうだ…
↑こちらはギャラリーになっている箇所が目立つ文化施設だ…
↓この「1号館」は1913年に竣工したそうだ…
↑こちらはショップやカフェが入居している商業施設だ…
建物は1923年の<関東大震災>を受けて修理工事が施され、修理は1930年に竣工したそうだ…そして倉庫としての利用が続き、1989年に利用が終了した…1992年に横浜市が建物を取得し、保存工事を経て、内装工事を施して2002年から現在のような感じで活用されているということだ…
↓今般の横浜立寄りに際しては、「1号館」の中のカフェで寛いでみたのだったが…
>><スパイシークランチラテ>…(2019.06.01)
↓「酷く画になる…」と、建物を眺め入りながら辺りで過ごしていた…
そのうち、またゆっくり寄りたいような感じだ…
↑2棟の古い倉庫が、商業施設、文化施設として利用されている…整備された緑地の一隅に佇み、なかなかに風情が在る…
↓この「2号館」が1911年に竣工したそうだ…
↑こちらはギャラリーになっている箇所が目立つ文化施設だ…
↓この「1号館」は1913年に竣工したそうだ…
↑こちらはショップやカフェが入居している商業施設だ…
建物は1923年の<関東大震災>を受けて修理工事が施され、修理は1930年に竣工したそうだ…そして倉庫としての利用が続き、1989年に利用が終了した…1992年に横浜市が建物を取得し、保存工事を経て、内装工事を施して2002年から現在のような感じで活用されているということだ…
↓今般の横浜立寄りに際しては、「1号館」の中のカフェで寛いでみたのだったが…
>><スパイシークランチラテ>…(2019.06.01)
↓「酷く画になる…」と、建物を眺め入りながら辺りで過ごしていた…
そのうち、またゆっくり寄りたいような感じだ…
<さかみ>=<みかさ>…:記念艦<三笠>:横須賀(2019.06.01)
↓<さかみ>と在って「?」と思うが…嘗ては横書きの場合も「右から左へ」と書いたということで、これは<みかさ>である…
↑横須賀に在る記念艦<三笠>だ。艦の後尾側からの眺めだ…
大学1年生の頃だったと思う…アパートで近所の友人と話していて、日露戦争がどうしたこうしたという話題に及び、「日本海海戦の戦艦が何処かに飾って在ったような?何処だった?!」という話しになった。「多分、横浜とか横須賀とかだろう…新潟辺りという可能性も??」ということになった…こういう話しは酷く気になる…そこで…何も無ければ在宅していそうな時間帯で、特段に迷惑になるような遅過ぎる夜でもなかったので、思い付いた神奈川県民だった別な友人に電話を架け「日露戦争の戦艦が何処ぞの海辺の辺りに飾られているという話しになって、何処だったかと…」と尋ねれば「あぁ、それ…<三笠公園>のことだね…」と即答だった。そして後日、その友人に場所へ御案内願ったのが初めてだった…と記憶している…
↓こちらが艦首の側だ…
↓側面にも艦砲が色々と据えられている…
記念艦<三笠>の艦内見学受付が「数分前に終わった」というような頃に、この場所に至った…中は見学出来なかったが…かなり久し振りにこれを視られた。好かった!
↑横須賀に在る記念艦<三笠>だ。艦の後尾側からの眺めだ…
大学1年生の頃だったと思う…アパートで近所の友人と話していて、日露戦争がどうしたこうしたという話題に及び、「日本海海戦の戦艦が何処かに飾って在ったような?何処だった?!」という話しになった。「多分、横浜とか横須賀とかだろう…新潟辺りという可能性も??」ということになった…こういう話しは酷く気になる…そこで…何も無ければ在宅していそうな時間帯で、特段に迷惑になるような遅過ぎる夜でもなかったので、思い付いた神奈川県民だった別な友人に電話を架け「日露戦争の戦艦が何処ぞの海辺の辺りに飾られているという話しになって、何処だったかと…」と尋ねれば「あぁ、それ…<三笠公園>のことだね…」と即答だった。そして後日、その友人に場所へ御案内願ったのが初めてだった…と記憶している…
↓こちらが艦首の側だ…
↓側面にも艦砲が色々と据えられている…
記念艦<三笠>の艦内見学受付が「数分前に終わった」というような頃に、この場所に至った…中は見学出来なかったが…かなり久し振りにこれを視られた。好かった!
「ソロ」…:<サンライズ出雲>車内…(2019.06.01)
一度乗車してみたかった<サンライズ出雲>…横浜駅の窓口でアッサリと「ソロ」と呼ばれる寝台を確保することが出来、乗車してみることにした…
↓横浜駅から乗車すれば…「個室」の扉が並んでいる通路に出る。自身の券に記載の番号の扉を開けると、こういう具合に見えた…
↑低い位置で、車輌の側面側の壁に沿うような形で寝台が据えられている。画の右が進行方向だった…
↓姿勢を低くしてみると、寝台の奥も見えた…
↑画の右に妙な「出っ張り」が在るのだが…これは隣の寝台が「2階」になっているが故に在るモノだ…
「ソロ」というのは、1人用の最も狭い個室で、「下段の部屋」と「上段の部屋」の入口扉が相互に通路に並んでいる訳だ…外に出る場合、何やら“暗証番号”を設定して扉を施錠可能なようになっていた。使い心地は好かった…
立ち上がる場合には、入口側に身体を寄せて立ち上がるという感じだ…圧迫感は無いが、寝台に陣取れば何となく「2段ベットの下段」という空間の感覚ではある…
入口辺りに荷物を置く等して、少し幅が狭い寝台に横たわって、ゆったりと乗車していた…幅が然程広くない箇所に身体を横たえると、何となく“カプセル”のようなモノにでも身体が収まっているような、少し不思議な感じもした…
これも何度か思い立って、なかなか券を確保出来なかったものが、念願叶って乗車出来たということになるが…是非また乗ってみたいものだ…
↓横浜駅から乗車すれば…「個室」の扉が並んでいる通路に出る。自身の券に記載の番号の扉を開けると、こういう具合に見えた…
↑低い位置で、車輌の側面側の壁に沿うような形で寝台が据えられている。画の右が進行方向だった…
↓姿勢を低くしてみると、寝台の奥も見えた…
↑画の右に妙な「出っ張り」が在るのだが…これは隣の寝台が「2階」になっているが故に在るモノだ…
「ソロ」というのは、1人用の最も狭い個室で、「下段の部屋」と「上段の部屋」の入口扉が相互に通路に並んでいる訳だ…外に出る場合、何やら“暗証番号”を設定して扉を施錠可能なようになっていた。使い心地は好かった…
立ち上がる場合には、入口側に身体を寄せて立ち上がるという感じだ…圧迫感は無いが、寝台に陣取れば何となく「2段ベットの下段」という空間の感覚ではある…
入口辺りに荷物を置く等して、少し幅が狭い寝台に横たわって、ゆったりと乗車していた…幅が然程広くない箇所に身体を横たえると、何となく“カプセル”のようなモノにでも身体が収まっているような、少し不思議な感じもした…
これも何度か思い立って、なかなか券を確保出来なかったものが、念願叶って乗車出来たということになるが…是非また乗ってみたいものだ…
<サンライズ出雲>:横浜駅…(2019.06.01)
東京駅を出発した列車が東海道線を進み、横浜駅発車の時刻の1分前か2分前程度に現れる…というように思って<サンライズ出雲>の登場を待ち望み、発車まで15分を切ったような頃にホームに出た…
横浜駅…東海道線…忙しそうだ…夜10時を過ぎているが、3分や5分に1本という頻度で、熱海や小田原等に向かう各種の列車が発着していた…
↓漸く…こういう具合に<サンライズ出雲>が現れる旨が掲出された…「寝特」と在る。「寝台特急」だ!
↓いよいよ列車が入って来た!
↓東海道線では、長大な編成の列車は然程珍しくもないが…それでも14輌は少し壮観である…
長い編成で、長い時間、長距離を走り抜く列車に乗車する旅…何か「郷愁」のようなモノが沸き起こる感だ…
横浜駅…東海道線…忙しそうだ…夜10時を過ぎているが、3分や5分に1本という頻度で、熱海や小田原等に向かう各種の列車が発着していた…
↓漸く…こういう具合に<サンライズ出雲>が現れる旨が掲出された…「寝特」と在る。「寝台特急」だ!
↓いよいよ列車が入って来た!
↓東海道線では、長大な編成の列車は然程珍しくもないが…それでも14輌は少し壮観である…
長い編成で、長い時間、長距離を走り抜く列車に乗車する旅…何か「郷愁」のようなモノが沸き起こる感だ…
<赤レンガ倉庫>を望む…(2019.06.01)
羽田空港に着陸後…降りた場所からビルまでの間に乗せられたバスがモタモタとして、ビルの地下に在る京浜急行の駅へ至るまでに30分程度を要してしまい「何だか面白くない…」と思いながら、京浜急行の列車で横浜に出た。横浜駅では、一度乗車してみたかった<サンライズ出雲>の切符がアッサリと入手出来て、何やら「御機嫌!!」ということになった。
その<サンライズ出雲>に乗車するまでの時間を利用し、「やや懐かしい…」と感じる<東郷平八郎元帥>を眺めようと横須賀に出て、横須賀で少しばかり空腹を満たし、横浜に引き返して少し散策することにした…
↓「<赤レンガ倉庫>というモノが辺りに?」と歩いていて行き当った光景だ…
↑思わず足を停め、暫し眺め入っていた…実際には「港の古い倉庫の建物」なのだが…「森の中の古い洋館」というようにも見える…不思議だ…
↓整備された緑地に花が…その向こうに、古い倉庫の外観を活かし、中を綺麗にした商業施設、文化施設である<赤レンガ倉庫>が浮かび上がるような感じだ…
「ドラマチックな夕暮れの空」という風でもなかったように思ったが、それでも日没辺りの微妙な光加減な時間帯に、こういう様子は「凄く画になる」と思った…
旅に出ると…存外に「惜しげもなく…」と景色が好い街を「通過…」に近いことにしてしまう…今般の横浜が正しくそういう事例になってしまうかもしれない…
↓この後、<赤レンガ倉庫>の中に在るカフェに寄って寛いだのだった…
>><スパイシークランチラテ>…(2019.06.01)
その<サンライズ出雲>に乗車するまでの時間を利用し、「やや懐かしい…」と感じる<東郷平八郎元帥>を眺めようと横須賀に出て、横須賀で少しばかり空腹を満たし、横浜に引き返して少し散策することにした…
↓「<赤レンガ倉庫>というモノが辺りに?」と歩いていて行き当った光景だ…
↑思わず足を停め、暫し眺め入っていた…実際には「港の古い倉庫の建物」なのだが…「森の中の古い洋館」というようにも見える…不思議だ…
↓整備された緑地に花が…その向こうに、古い倉庫の外観を活かし、中を綺麗にした商業施設、文化施設である<赤レンガ倉庫>が浮かび上がるような感じだ…
「ドラマチックな夕暮れの空」という風でもなかったように思ったが、それでも日没辺りの微妙な光加減な時間帯に、こういう様子は「凄く画になる」と思った…
旅に出ると…存外に「惜しげもなく…」と景色が好い街を「通過…」に近いことにしてしまう…今般の横浜が正しくそういう事例になってしまうかもしれない…
↓この後、<赤レンガ倉庫>の中に在るカフェに寄って寛いだのだった…
>><スパイシークランチラテ>…(2019.06.01)