「街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視ると街の名前が思い浮かぶ」というようなモノということで、「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というようなモノは「如何か?」というようなことを一寸考えていた。
「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というようなモノとしてレーニン像を思い出すという話題を綴っていた。が、それだけに留まらない。
ユジノサハリンスク辺りでは「日本国内の一寸した都市に在るようなサービスやモノは大概在る」という状態だが、場合によって「流行り始めが比較的新しい」ということで、日本国内で見受けられる様子と違う場合も在る。が、色々な業種の人達が「旅行で訪れた○○で見掛けたアレが好ましい…自分の携わる店でも…」と試行しているらしい例にも出くわす。
↓こんなモノに出くわした。
正しく「日本国内の一寸した都市に在る」という感だ。地域の代表的な建物の画が入った箱に菓子を入れて売っている。所謂“パン屋”な感じで、パンや菓子の製造販売すること、加えてカフェ的にそれらを飲物と合わせて店内で頂くという業態で方々にチェーン展開している店で見掛けて求めたモノであった。
↓序なので「箱の中」の画も…箱に画が在るように、柔らかい菓子がチョコレートに包まれているモノだ。稚内に持ち帰って、土産として方々に配った記憶も在る。
「地域の代表的な建物の画」という感じで箱に入っている画は<サハリン州郷土博物館>である。広大なロシアに在って、この種の建物は類例が無い。
この<サハリン州郷土博物館>であるが、広大なロシアの他地域で類例が見受けられない形状の建物で「他地域からの来客が在れば、視て頂くべきモノ」ということになっているようだ。それこそ、サハリン州政府が連邦政府の高官を迎える場面から、手近な身内が遊びに来るとか、何かで知り合った他地域の人達を迎えるという場面に至るまで、とにかくも「これが有名な…」と辺りを通って視て頂くという様子である。更に「街を代表するような場所」ということで、何かの記念撮影をこの場所でやっている人達も存外に頻繁に見掛ける。
↓建物の前に噴水まで設えられ、地元の人達にも広く親しまれている場所だ…
↓当然ながら年中視られる建物で、積雪期にも佇んでいる…
<サハリン州郷土博物館>は<樺太庁博物館>として1937年に竣工した建物である。“ソ連化”の後にも、そのまま博物館として使用され続けている。
聞けば、新たな建物を新設して<サハリン州郷土博物館>を移転するような構想もされたことが在ったらしいが、結局この建物が使われ続けている。2007年頃であったと聞くが、函館から瓦屋根の工事を手掛ける業者の職人達を招聘し、石州瓦による屋根を補修した経過も在ったようだ。竣工から間もなく85年で、老朽化も目立つようではあるが。
1945年の終戦、そして1946年の“ソ連化”であるが、現地でそれは「サハリンの行政等の中心がアレクサンドロフスク・サハリンスキーからユジノサハリンスクへ移った」という理解になっていると見受けられる。<サハリン州郷土博物館>については、「アレクサンドロフスク・サハリンスキーからユジノサハリンスクへ移った」という理解になっていて、「博物館自体が認識する歴史」として、博物館の「起こりの年」は「アレクサンドロフスク・サハリンスキーで博物館が起こった」という出来事の「1896年」となっている。「1937年」を起点にして「建物が80年!」というようなことは博物館自体でも言っている場合が在るが、「博物館の歴史」としては「1896年の開館以来125年」というような認識のようだ。
現在の<サハリン州郷土博物館>は、そのアレクサンドロフスク・サハリンスキーから移って来た収蔵品に<樺太庁博物館>から引き継がれた収蔵品ということで活動を始めていることになる。自然、民俗、歴史というような様々な分野の展示が見受けられる<サハリン州郷土博物館>だが、或る意味では「建物そのもの」が「少し貴重な展示品」という性質を帯びているかもしれない。
この建物について、「樺太時代」に「日本の関係者」が建てたということは現地でも知られている。1937年竣工も一部に知られている。が、その「知られ方」に関して言えば、一部に「?」という事が在る。
サハリンでは、この<サハリン州郷土博物館>について「日本の伝統的な様式である“テイカン”の形」というように紹介されている。これが多分、余り正しくない。
“テイカン”は「帝冠様式」のことに他ならないが、これは「伝統的」とは少し言い難い。「1930年代の日本で流行した様式」とすべきであろう。概ね、「鉄筋コンクリート造の洋式建築に和風の屋根」というような和洋折衷の建築様式ということになる。
「帝冠様式」が流行って行く契機に大阪城が在るらしい。
大阪城は「激動の幕末」に色々と在った後、その広い敷地を専ら陸軍が様々な用途に利用していた。
大阪城は「大坂城」として豊臣秀吉の下で起こり、豊臣家が敗れた戦い―「大坂冬の陣」、「大坂夏の陣」―の後に殆ど焼失してしまった。そして徳川幕府の下で再建された。その徳川幕府時代の「大坂城」には天守閣が在ったが、1660年に「焔硝蔵(火薬庫)に落雷」という事件―大爆発で多くの建物が焼失し、多数の死傷者が発生した…―で天守閣は姿を消した。(1660年の出来事から時日を経て、焔硝蔵については堅牢極まりない石造のモノが建てられ、陸軍も利用したと伝えられる。)
その頃以降、「大坂城」と呼ばれた時代、大阪城と呼ばれるようになっても天守閣は無いままだった。「激動の幕末」に色々と在ったという時期にも在った建物は一部が現在にまで伝わっているのだが、そんな時代には天守閣は無い状態で、色々な建物が敷地内に在って利用されていた訳だ。
元号が“大正”から“昭和”に変わろうというような頃、「大大阪」とも呼ばれて大いに発展していた大阪では、現在に受け継がれている様々なモノが登場しているのだが、専ら陸軍が利用していた大阪城に関して、一部を公園化して「街のシンボル」として天守閣を建てることになったのだった。
そして1931年に完成して登場したのが現在の建物であるが、この頃に「合わせて師団司令部庁舎も建てましょう」ということになっていた。大阪城と師団司令部庁舎とは相次いで隣接地に登場した。
こんなことで「昔の城を想定した和風建築」の大阪城と、「当時一般的だった洋風建築の庁舎そのもの!」であった師団司令部庁舎とが並んだのだが、これを見た建築家達が「和風の意匠を採り入れて、城と親和性が高い庁舎であったなら、もっと佳かったのでは?」という問題意識を持ったという。そして、その時点で一部の建築で実施されていた「和風な意匠を入れる」ということを前面に押し出す動きが起こった。
これが「帝冠様式」が流行った背景に在ったという話しだ。少し長くなったが、好きな話題でもあるので、敢えて綴った。「和風の意匠を入れる」というのが「伝統的」に該当するかもしれないが、それでも「帝冠様式」そのものは「1930年代の日本で流行した様式」ということになる。
ではこの「帝冠様式」は、何故「1930年代の流行」ということで、以降は流行らなくなったのか?回答は単純なことで「出来なくなってしまった」ということに尽きる。更にこれは「1940年 “幻”の東京五輪」にも少し関連が在る。
例えば1937年に竣工した建物と似たような建物を数年後に建てることは、技術的に不可能とも思い悪い。それでも「出来なくなってしまった」というのは、鉄骨を筆頭に、建設資材の使用量に厳しい制限が加えられ、華美なデザインを排するというようなことになって行ったからだ。1938年に<国家総動員法>というモノが成立しているが、中国大陸での戦争状態が長引いていて、各種資材に関する制限が拡がりつつあった中、1938年頃以降は「帝冠様式」のような建物が新たに登場しなくなったようだ。
1938年には、「1940年 東京五輪」について「開催権返上」と称して東京開催が見送られた。それは、鉄骨を大量に使う競技場建設が「進められない…」ということになったことも一因になっているのだ。五輪開催に向けて大きな競技場を建設するとすれば大量の鉄骨が要ることになるが、「それだけの鉄?軍艦がどれだけ建造出来るだろうか?」というような話しにもなっていた訳だ。
その後、「1940年 五輪」そのものは、東京が選出された時に“次点”であったヘルシンキで開催ということになった。しかし、その1940年頃にはヘルシンキのフィンランドも戦争に突入していて、前年の1939年時点で後に「第二次大戦」と呼ばれる時期に突入してしまっていて、「1940年 五輪」そのものが“幻”に終始してしまったのだった。
「帝冠様式」の<樺太庁博物館>(現在の<サハリン州郷土博物館>)は、結果的に「帝冠様式が流行った時期の最終盤」に登場した形となった。「帝冠様式」による建築は、現在も日本国内で色々と見受けられるが、台湾や満州でも見受けられたということだ。
実は<サハリン州郷土博物館>が契機で「帝冠様式」というモノに関心を寄せるようになった。名古屋市庁舎、愛知県庁舎は名古屋に立ち寄った時に眺めに行ってみた。現在は観光案内所となっている旧奈良駅はかなり気に入っていて、関西方面に出る際に敢えて奈良に宿を求め、これが窓から視える部屋に滞在するようにしたことさえ在る。他、未だ視ていないモノも色々と在る。結局「サハリンが入口で様々な関心が拡がる場合も在る」ということになるのではないか?
現在のユジノサハリンスクで、中心的な市街の多くは1906年、1907年頃から建設が進められた「豊原」を基礎としている。この「豊原」に<樺太庁博物館>(現在の<サハリン州郷土博物館>)が竣工した1937年頃の様子だが、「町」が「市」というようになった。当時、樺太は他所の県等とは取り扱いが別であったが、それでも北海道で「最も北の市」であった旭川市(1922年から「市」)から随分北―旭川から稚内で250km余り…稚内からコルサコフ港を経てユジノサハリンスクへ行けば180㎞程度…併せて430㎞程度なので、東京・名古屋間より遠い…―に「最も北の市」が登場したことになる。その後、1943年には樺太の市町村も他所の県と同じ取り扱いになり、改めて「豊原市」となっている。1941年頃の資料として、豊原市は人口3万7千人余りであったそうだ。
この連載は、「或る日、如何いう経過であれ、辿り着いて街を歩くと、別段に不便や不自由という程のことが気になって仕方ないということが在るでもない普通の街」という感であるユジノサハリンスクのようなサハリンの都市なのだが、それでも「サハリンってモノが在るの?」と存外の頻度で御訊ねを頂くという状況に思い至って綴り始めた。
或る意味では日本国内の一寸した街に在る店より手が込んだモノを供してくれるようなカフェが在り、店舗、サービスノウハウ、材料等が揃わなければ供し悪いモノを供してくれるようなファストフード系の店が在り、スーパーに立ち寄ればお惣菜からミカンまで何でも売っていて、祝い事の催事に使うレンタカーから花束まで各種サービスも普通に行われているユジノサハリンスクである。街の方々に都市緑地が整備され、地域の歴史を伝えようとするモニュメントが据えられている。プロスポーツのチームが在ってシーズンには試合が催されていて、著名な劇作家の足跡が残っているに留まらず、専属の劇団が公演活動もする劇場が在り、映画館も自国内や外国の映画を普通に上映している。
ハッキリ言えば、これらの「普通」が余りにも知られていない。または「特殊な編集」のような事でも在って、黙殺されているように思う。だから「サハリンってモノが在るの?」と存外の頻度で御訊ねを頂くのだと思う。
「特殊な編集」と申し上げたが、サハリンに関しては「嘗ての樺太」ということで、関係文物を取り上げる例が在るか、「嘗ての樺太…以上!」となってしまっている場合さえ在ると思う。そういう問題意識の故に、<サハリン州郷土博物館>の建物に関しては、散々に様々な話題を出した後に廻った。
「建物そのもの」が「少し貴重な展示品」という性質を帯びるかもしれないような、建物の竣工時点から80年以上、“博物館”というモノが起こったと自認する頃から120年以上という伝統を有している<サハリン州郷土博物館>の例だが、「これだけのモノが在る場所?日本国内の何処にでも溢れているのか?!」と問うてみたくなる。そんなモノは無い場所の方が多いのではないか?そういう場所に住んでいて、それで「サハリンってモノが在るの?」と訊ねるのか?何か変だ。
<サハリン州郷土博物館>に関しては、建物の来歴というのか、様式というような事柄に話しが及べば、話題は尽きずに話しがドンドン拡がる。こういう存在は「街の豊かな文化」を体現する存在たり得ると思う。そういう「街の豊かな文化」を体現する存在まで在るユジノサハリンスクを擁するサハリンについて、「サハリンってモノが在るの?」ではなく、「馴染みが無い…知らない…」という「フラットな地点」から視て頂きたいと思うのである。
【連載】現今事情―サハリン (10)
「街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視ると街の名前が思い浮かぶ」というようなモノが在ると思う。
これは例えば、「東京」とでも言えば煉瓦造の東京駅の建物を思い浮かべる、「大阪」とでも言えば大阪城が在る様子や通天閣が在る様子を思い浮かべるというようなこと、逆に煉瓦造の東京駅の建物の画が出れば「東京」を思い浮かべる、大阪城が在る様子の画や通天閣が在る様子の画が出ると「大阪」を思い浮かべるという次元のことだ。
こういうことには「個人差」も非常に大きいというようには思う。各々に、テレビドラマや映画のようなモノまで含めて「視ているモノ」は異なり、経験や見聞が異なる以上、「知っているか?知らないか?」という事情や、同じモノに抱くイメージは異なるのだから、上述例のように「街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視ると街の名前が思い浮かぶ」という具合にはならない場合が在ることは否定しない。が、上述例の「東京」や「大阪」は相当に高い割合の人が判ると思う。
不意にこんなことを思い出したのは「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というようなモノは「如何か?」というようなことを思ったからだ。
既にこの連載記事は9回綴っていて、サハリンの様子、その中心的な街であるユジノサハリンスクの様子を色々と論じてはいる。が、「ユジノサハリンスク」というのは、一般的には「知名度が低い外国の地方都市」という以上でも以下でもないとも思う。
上述で例示した「東京」や「大阪」という程度であれば、相当高い割合で「街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視ると街の名前が思い浮かぶ」というようなモノが在ると思う。が、数多在る国内各地の街については必ずしもそうではないかもしれない。「それは何処?」とか「そういう名前の街が在るのか?」ということになる場合も少なくない筈だ。国内でそういうことなのだから、「知名度が低い外国の地方都市」という以上でも以下でもない「ユジノサハリンスク」は、「それは何処?」どころか「何?それ?」かもしれない。
それでも「ユジノサハリンスク」は、「市行政府の見解」としては1882年に現在の市域の一部に村が起こったとされる以来の歴史を有し、現在の中心的な市街の多くは1906年、1907年頃から建設が進められた「豊原」を基礎としていて、市域で20万人余りが居住し、日常的に往来が見受けられる範囲に居住する30万人余りの商圏を形成しながら在るのだ。自身はこのユジノサハリンスクを何度も訪ね、短期、中期と滞在する経験を重ねている。そんな中で「サハリンってモノが在るの?」という問いに出くわし、色々と論じてみたくなったのだった。
自身としては何度も訪ねて滞在しているユジノサハリンスクなので、「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というモノは在る。
↓自身としては、この「巨大…」な感じのレーニン像は「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というモノの一つである。
銅像や大きなモニュメントが記憶に残るという場所は幾分在ると思っているが、こんなに「巨大…」な感じの銅像というのは、自身が視たことが在る範囲で類例が余り思い浮かばない。かなり以前に滞在した経過が在るモスクワで「大きな銅像」を色々と視た記憶が在るのだが、この「ユジノサハリンスクのレーニン」に比肩するモノは思い出し悪い。
↓ユジノサハリンスクの街に在れば、こんなような様子を見掛ける頻度は高いように思う。
この像は9m程度の高さと言われる。色々と利用可能な広い都市緑地の一隅を占めて建っている像で、広めなレーニン通を挟んでユジノサハリンスク市行政府庁舎と向き合っている。そのユジノサハリンスク市行政府庁舎は地上4階(地階も在るが…)で、広場と道路の幅で少し離れているが、「巨大なレーニン像と庁舎が似たような高さ?」に見える。「地上4階」となれば、各階の天井を平均2.5m程度―一般オフィスの入っている階と、少し広い会議室が設えられている階とで天井の高さが少し違うかもしれない…―と思えば10m程度であり、外から庁舎を視る場合には屋根や基礎部分の高さが若干加わる感じになる。レーニン像もそれに近いと推測出来るのだ。
このレーニン像は1970年に登場したそうだ。レーニンは1870年生まれだ。「生誕100年」でレーニンを顕彰するという動きが在り、方々で銅像等が登場した。ロシアを含む旧ソ連の国々、そして社会主義政権の下に在った欧州諸国で銅像が見受けられた。
ユジノサハリンスクを初めて訪ねるという方の一部に「こんなモノが?在る?」と驚かれる方が見受けられる。
「発せられる問い」には「含意」が在るものであるとも思う。ユジノサハリンスクの巨大なレーニン像を視て「こんなモノが?在る?」と言う方に関しては、酷く大きいので単純に驚くということに加えて、「社会主義政権の国々の経過の中、その種の政権の象徴というようなレーニンが何故未だに?」という「含意」が在ることが明らかだ。
1991年12月に“ソ連”は旗を下してしまった。そこへ至るまで、1989年頃から旧ソ連諸国や社会主義政権の下に在った欧州諸国で、体制が変わる動きが在った。社会主義政権が“退場”を余儀なくされた中、政権の象徴という感のレーニン像が撤去という動きが在った。そしてそれが日本国内でも、写真やビデオも交えて随分と報じられた経過が在った。もう30年も前だが。
そういう「レーニン像が撤去」を記憶している方が存外に多く、「“ソ連”は旗を下してしまって、年月を重ねた中で、未だにレーニン像?」ということになるのだ。
1990年代の前半頃、“ソ連”を「止めてしまった…」ということで、レーニンは「別段に用も無い?」という程度に考えられていたかも知れない。が、「レーニン像が撤去」を積極的に行っていたのは、「“ソ連”は止めた!!」という意識が高かった場所に限られるかもしれない。積極的に行っていなかった例も多いのだが、これはかなり単純な理由によると見受けられる。それは「レーニン像を撤去する費用を捻出することがままならなかった」ということに尽きてしまう可能性が高い。
“ソ連”という体制が存在した時代を「不当な時代」というように認識している人達が多数派を占めていると見受けられるような場所では、“ソ連”を「止めてしまった…」ということで「何処かへ消えろ!」とばかりに「レーニン像が撤去」だった。が、多くの地域では「何十年間も別段に邪魔になるでもない場所に在り続けた像で、撤去の大きな費用を使う余裕も無いのだから、放っておけ…」というようなことになったのであろう。
“ソ連”を「止めてしまった…」という後、1990年代の間は殊に「金が無い…」という話しばかりが聞こえて来たロシアだった。エリツィン政権からプーチン政権に交代して政治経済の体制が色々と整備され、「資源カード」を切って国庫も潤うような感じになり、「経済成長」という様相になって行くのは2000年代の半ば以降位と見受けられる。
そうやって“ソ連”を脱して“ロシア”という感じになって行くと、街の様々なモノ―道路、広場、公的施設を始めとする様々な建物、商業施設等々―が整備されて行く。そういう場面、例えば「広場を整備しよう!」というようなことになった時、「レーニン像…“旧時代”のモノだ。要るか?要らないよな…」という話しになる場合も生じるようになる。撤去に要する費用も何とか出来るようになっているのである。
しかしながら、今度は「レーニン像…“旧時代”のモノだ。要るか?要らないよな…」とは「少し違う意味合い」の事柄が出て来るようになった。レーニン像の中、ユジノサハリンスクの「巨大…」なモノのような殊に目立つモノを中心に、幾つかのモノが「文化財指定」となったのである。
「巨大…」な感じのレーニン像の台座辺りに、サハリン州政府のエンブレムが入ったプレートが貼り付けられているのが見える。そのプレートには州政府の文化担当省が、レーニン像を「文化財」に指定した旨が刻まれている。像は「特定の時代の人々による営みを伝える」という性質を帯びていて、同時に「制作当時から伝わる優れた美術品」とも見做される訳だ。
ユジノサハリンスクの「巨大…」なレーニン像は、撤去の動きが在ったというようには聞かない。アレは撤去に相当な費用が要ることは疑い無く、そういうことに資金を投じるのであれば、他の事に資金を投下するということになるのであろう。
レーニン像はユジノサハリンスクに留まらず、サハリンの方々の街にも建てられた。ユジノサハリンスクのように「巨大…」ではないのだが、「この街にも在った…」と何となく驚く程度に方々に在る。
↓アレクサンドロフスク・サハリンスキー…
↓ティモフスコエ…
↓ドリンスク…
↓コルサコフ…
↓ネべリスク…
レーニン像に注目して大きく写るように撮った画も、その限りでもない画も交っているが、とりあえず自身で撮った写真の中で眼に留めた「サハリン各地のレーニン像」である。写真に撮っていなかった、または保存しているモノの中から直ぐに出て来なかった例も幾分在る。そして自身が知らない例も在るであろう。各地のレーニン像は、色々な姿でレーニンが表現されているのが少し面白い。ティモフスコエのレーニン像は着帽姿だが「あの街は冬に殊に寒いから…」という冗談を聞いたような気もする。何やら「レーニン像巡りスタンプラリー」という程のことでも出来てしまいそうな程、方々に在って驚く。
これらの中、ネべリスクの街に在るレーニン像に関しては、撤去の動きが在ったようだ。現在地から撤去の場合、他所に移設するということにもなったのかもしれないが。
ネべリスクは、樺太時代に本斗と呼ばれていた、サハリンの南西部の日本海側に在る。この街では2007年に「直下型地震」という災害が在って、大きな被害が発生してしまっていた。そこで新しい公共施設等が順次整えられていた。
ネべリスクでの、地震災害からの復興は何次かに分けて順次建設事業を進めていたようだった。街の中心部、地区行政府庁舎、文化センター、嘗ての行政府庁舎を転用した郷土博物館が見受けられる辺りの広場を整備するということになった。広場の整備構想の中、レーニンのような「“政治的”な銅像」は「住民や来訪者が憩う街の広場」という場所に「要るか?」ということになり「要らないよな…」という観方が多数派を占めたという。レーニン像が在った辺りに噴水を設えるというような「整備計画完成予想図」まで作成されたらしい。しかし、「あの像は“文化財”的な意味合いが在るものである。そういうモノは、可能であるならば、本来据えられていた場所に残すべきでは?」という話しが出て来た。結果、ネべリスクの整備工事が終わって登場した新しい広場には、建立当初から変わらない位置にレーニン像が在り続けている。
何やら「レーニン像尽くし」というようになってはしまった。が、サハリンに関して「こんな観方も?」というようなことを思う。レーニン像の多くが登場した1970年辺りは、既に「半世紀前」である。レーニン像が「“旧時代”のモノだ。要るか?要らないよな…」と「話し」は在っても「資金を要し過ぎる故…」と見受けられる理由で何となく残ってしまったという1991年頃も既に「30年前」だ。
サハリンの都市もまた、「何十年かの変化が観られるような、普通の都市」なのである。
これは例えば、「東京」とでも言えば煉瓦造の東京駅の建物を思い浮かべる、「大阪」とでも言えば大阪城が在る様子や通天閣が在る様子を思い浮かべるというようなこと、逆に煉瓦造の東京駅の建物の画が出れば「東京」を思い浮かべる、大阪城が在る様子の画や通天閣が在る様子の画が出ると「大阪」を思い浮かべるという次元のことだ。
こういうことには「個人差」も非常に大きいというようには思う。各々に、テレビドラマや映画のようなモノまで含めて「視ているモノ」は異なり、経験や見聞が異なる以上、「知っているか?知らないか?」という事情や、同じモノに抱くイメージは異なるのだから、上述例のように「街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視ると街の名前が思い浮かぶ」という具合にはならない場合が在ることは否定しない。が、上述例の「東京」や「大阪」は相当に高い割合の人が判ると思う。
不意にこんなことを思い出したのは「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というようなモノは「如何か?」というようなことを思ったからだ。
既にこの連載記事は9回綴っていて、サハリンの様子、その中心的な街であるユジノサハリンスクの様子を色々と論じてはいる。が、「ユジノサハリンスク」というのは、一般的には「知名度が低い外国の地方都市」という以上でも以下でもないとも思う。
上述で例示した「東京」や「大阪」という程度であれば、相当高い割合で「街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視ると街の名前が思い浮かぶ」というようなモノが在ると思う。が、数多在る国内各地の街については必ずしもそうではないかもしれない。「それは何処?」とか「そういう名前の街が在るのか?」ということになる場合も少なくない筈だ。国内でそういうことなのだから、「知名度が低い外国の地方都市」という以上でも以下でもない「ユジノサハリンスク」は、「それは何処?」どころか「何?それ?」かもしれない。
それでも「ユジノサハリンスク」は、「市行政府の見解」としては1882年に現在の市域の一部に村が起こったとされる以来の歴史を有し、現在の中心的な市街の多くは1906年、1907年頃から建設が進められた「豊原」を基礎としていて、市域で20万人余りが居住し、日常的に往来が見受けられる範囲に居住する30万人余りの商圏を形成しながら在るのだ。自身はこのユジノサハリンスクを何度も訪ね、短期、中期と滞在する経験を重ねている。そんな中で「サハリンってモノが在るの?」という問いに出くわし、色々と論じてみたくなったのだった。
自身としては何度も訪ねて滞在しているユジノサハリンスクなので、「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というモノは在る。
↓自身としては、この「巨大…」な感じのレーニン像は「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というモノの一つである。
銅像や大きなモニュメントが記憶に残るという場所は幾分在ると思っているが、こんなに「巨大…」な感じの銅像というのは、自身が視たことが在る範囲で類例が余り思い浮かばない。かなり以前に滞在した経過が在るモスクワで「大きな銅像」を色々と視た記憶が在るのだが、この「ユジノサハリンスクのレーニン」に比肩するモノは思い出し悪い。
↓ユジノサハリンスクの街に在れば、こんなような様子を見掛ける頻度は高いように思う。
この像は9m程度の高さと言われる。色々と利用可能な広い都市緑地の一隅を占めて建っている像で、広めなレーニン通を挟んでユジノサハリンスク市行政府庁舎と向き合っている。そのユジノサハリンスク市行政府庁舎は地上4階(地階も在るが…)で、広場と道路の幅で少し離れているが、「巨大なレーニン像と庁舎が似たような高さ?」に見える。「地上4階」となれば、各階の天井を平均2.5m程度―一般オフィスの入っている階と、少し広い会議室が設えられている階とで天井の高さが少し違うかもしれない…―と思えば10m程度であり、外から庁舎を視る場合には屋根や基礎部分の高さが若干加わる感じになる。レーニン像もそれに近いと推測出来るのだ。
このレーニン像は1970年に登場したそうだ。レーニンは1870年生まれだ。「生誕100年」でレーニンを顕彰するという動きが在り、方々で銅像等が登場した。ロシアを含む旧ソ連の国々、そして社会主義政権の下に在った欧州諸国で銅像が見受けられた。
ユジノサハリンスクを初めて訪ねるという方の一部に「こんなモノが?在る?」と驚かれる方が見受けられる。
「発せられる問い」には「含意」が在るものであるとも思う。ユジノサハリンスクの巨大なレーニン像を視て「こんなモノが?在る?」と言う方に関しては、酷く大きいので単純に驚くということに加えて、「社会主義政権の国々の経過の中、その種の政権の象徴というようなレーニンが何故未だに?」という「含意」が在ることが明らかだ。
1991年12月に“ソ連”は旗を下してしまった。そこへ至るまで、1989年頃から旧ソ連諸国や社会主義政権の下に在った欧州諸国で、体制が変わる動きが在った。社会主義政権が“退場”を余儀なくされた中、政権の象徴という感のレーニン像が撤去という動きが在った。そしてそれが日本国内でも、写真やビデオも交えて随分と報じられた経過が在った。もう30年も前だが。
そういう「レーニン像が撤去」を記憶している方が存外に多く、「“ソ連”は旗を下してしまって、年月を重ねた中で、未だにレーニン像?」ということになるのだ。
1990年代の前半頃、“ソ連”を「止めてしまった…」ということで、レーニンは「別段に用も無い?」という程度に考えられていたかも知れない。が、「レーニン像が撤去」を積極的に行っていたのは、「“ソ連”は止めた!!」という意識が高かった場所に限られるかもしれない。積極的に行っていなかった例も多いのだが、これはかなり単純な理由によると見受けられる。それは「レーニン像を撤去する費用を捻出することがままならなかった」ということに尽きてしまう可能性が高い。
“ソ連”という体制が存在した時代を「不当な時代」というように認識している人達が多数派を占めていると見受けられるような場所では、“ソ連”を「止めてしまった…」ということで「何処かへ消えろ!」とばかりに「レーニン像が撤去」だった。が、多くの地域では「何十年間も別段に邪魔になるでもない場所に在り続けた像で、撤去の大きな費用を使う余裕も無いのだから、放っておけ…」というようなことになったのであろう。
“ソ連”を「止めてしまった…」という後、1990年代の間は殊に「金が無い…」という話しばかりが聞こえて来たロシアだった。エリツィン政権からプーチン政権に交代して政治経済の体制が色々と整備され、「資源カード」を切って国庫も潤うような感じになり、「経済成長」という様相になって行くのは2000年代の半ば以降位と見受けられる。
そうやって“ソ連”を脱して“ロシア”という感じになって行くと、街の様々なモノ―道路、広場、公的施設を始めとする様々な建物、商業施設等々―が整備されて行く。そういう場面、例えば「広場を整備しよう!」というようなことになった時、「レーニン像…“旧時代”のモノだ。要るか?要らないよな…」という話しになる場合も生じるようになる。撤去に要する費用も何とか出来るようになっているのである。
しかしながら、今度は「レーニン像…“旧時代”のモノだ。要るか?要らないよな…」とは「少し違う意味合い」の事柄が出て来るようになった。レーニン像の中、ユジノサハリンスクの「巨大…」なモノのような殊に目立つモノを中心に、幾つかのモノが「文化財指定」となったのである。
「巨大…」な感じのレーニン像の台座辺りに、サハリン州政府のエンブレムが入ったプレートが貼り付けられているのが見える。そのプレートには州政府の文化担当省が、レーニン像を「文化財」に指定した旨が刻まれている。像は「特定の時代の人々による営みを伝える」という性質を帯びていて、同時に「制作当時から伝わる優れた美術品」とも見做される訳だ。
ユジノサハリンスクの「巨大…」なレーニン像は、撤去の動きが在ったというようには聞かない。アレは撤去に相当な費用が要ることは疑い無く、そういうことに資金を投じるのであれば、他の事に資金を投下するということになるのであろう。
レーニン像はユジノサハリンスクに留まらず、サハリンの方々の街にも建てられた。ユジノサハリンスクのように「巨大…」ではないのだが、「この街にも在った…」と何となく驚く程度に方々に在る。
↓アレクサンドロフスク・サハリンスキー…
↓ティモフスコエ…
↓ドリンスク…
↓コルサコフ…
↓ネべリスク…
レーニン像に注目して大きく写るように撮った画も、その限りでもない画も交っているが、とりあえず自身で撮った写真の中で眼に留めた「サハリン各地のレーニン像」である。写真に撮っていなかった、または保存しているモノの中から直ぐに出て来なかった例も幾分在る。そして自身が知らない例も在るであろう。各地のレーニン像は、色々な姿でレーニンが表現されているのが少し面白い。ティモフスコエのレーニン像は着帽姿だが「あの街は冬に殊に寒いから…」という冗談を聞いたような気もする。何やら「レーニン像巡りスタンプラリー」という程のことでも出来てしまいそうな程、方々に在って驚く。
これらの中、ネべリスクの街に在るレーニン像に関しては、撤去の動きが在ったようだ。現在地から撤去の場合、他所に移設するということにもなったのかもしれないが。
ネべリスクは、樺太時代に本斗と呼ばれていた、サハリンの南西部の日本海側に在る。この街では2007年に「直下型地震」という災害が在って、大きな被害が発生してしまっていた。そこで新しい公共施設等が順次整えられていた。
ネべリスクでの、地震災害からの復興は何次かに分けて順次建設事業を進めていたようだった。街の中心部、地区行政府庁舎、文化センター、嘗ての行政府庁舎を転用した郷土博物館が見受けられる辺りの広場を整備するということになった。広場の整備構想の中、レーニンのような「“政治的”な銅像」は「住民や来訪者が憩う街の広場」という場所に「要るか?」ということになり「要らないよな…」という観方が多数派を占めたという。レーニン像が在った辺りに噴水を設えるというような「整備計画完成予想図」まで作成されたらしい。しかし、「あの像は“文化財”的な意味合いが在るものである。そういうモノは、可能であるならば、本来据えられていた場所に残すべきでは?」という話しが出て来た。結果、ネべリスクの整備工事が終わって登場した新しい広場には、建立当初から変わらない位置にレーニン像が在り続けている。
何やら「レーニン像尽くし」というようになってはしまった。が、サハリンに関して「こんな観方も?」というようなことを思う。レーニン像の多くが登場した1970年辺りは、既に「半世紀前」である。レーニン像が「“旧時代”のモノだ。要るか?要らないよな…」と「話し」は在っても「資金を要し過ぎる故…」と見受けられる理由で何となく残ってしまったという1991年頃も既に「30年前」だ。
サハリンの都市もまた、「何十年かの変化が観られるような、普通の都市」なのである。
【連載】現今事情―サハリン (9)
何処の地域でも、或る程度名前が知られた文学者が足跡を残しているということになれば、その事績を伝える像や記念碑を設ける例が在ると思う。
サハリンもそういう例に漏れない。
↓ユジノサハリンスクのレーニン通に沿った場所、サハリン州の図書館や美術館が在る辺りが都市緑地として整備されている。その辺りに像が在る。
↑「旅の途次」という風情の像である。ユジノサハリンスクに滞在すれば、通り過ぎる機会も多いかもしれないような場所である。
この像はアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(1860-1904)である。
チェーホフと言えば、晩年に近い時期の作品だが、『かもめ』、『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』、『桜の園』の“四大戯曲”が殊に知られている。これらの戯曲は世界中の様々な言葉に翻訳もされ、また翻案されて現在でも各国で上演されている。日本国内の演劇関係分野もそういう例に漏れない。
チェーホフと言えば、そういう訳で“劇作家”として知られるのだが、文学の世界に登場した時には寧ろ小説家だった。大長篇という作品でもなく、中篇、短篇の作品で知られていた。
そのチェーホフが30歳であった1890年、チェーホフはサハリンを実際に訪ねている。
↓「高名な劇作家」となった晩年近くの肖像が知られるチェーホフだが「30歳頃のイメージ?」というレリーフも見受けられる。
↑「チェーホフがやって来たサハリン」ということで、彼が綴った本や、チェーホフが訪ねた時代に関する展示が視られる資料館の前に設えられたモニュメントに、このレリーフが在る。
サハリンを訪ねたチェーホフは、当時のサハリンでの人々の暮らしぶりを詳細に調査し、自身の長い旅に関することを交えながら、或る種の“記録文学”という作品を綴った。『サハリン島』という作品だ。
↓サハリンでも何年間かの間隔でロシア語の本が出版されているようだが、日本国内でも『サハリン島』の翻訳は入手する等して読むことが出来る。
チェーホフは3箇月間にも及ぶ長い旅を経て、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレから船でアレクサンドロフスク・サハリンスキーに渡った。そしてサハリンの北寄りな辺りで活動し、そこから船で南下して現在のコルサコフに至り、サハリンの南寄りな辺りで活動してから帰国した。
チェーホフがサハリンを訪れた1890年頃の状況?日本では「1905年から1945年の樺太時代」ということは少し知られているが、「その以前?」という一面も在るような気がする。
「第6回」で、幕末期に日露間の国交が開かれた時期というようなことにも言及した。サハリンに関しては日本領かロシア領かは明確に決まらずに時日が経過していた。1875年に至り、サンクトペテルブルグへ赴いた特命全権大使の榎本武揚がロシア側と折衝して<樺太・千島交換条約>が締結された。結果「樺太全島をロシア領とし、その代わりに得撫島以北の諸島を日本が領有」ということになったのだった。
これを受けて、1875年以降、1905年までの時期はロシア領となったサハリンでロシア側の活動が展開されていた。1890年の「チェーホフが来訪して活動」という時期はこの時期に相当する。そしてその当時、サハリンは“流刑地”ということになっていた。
少し前に『熱源』という小説が少し話題になった。これはサハリンに在ったアイヌである“山辺安之助”ことヤヨマネクフ達が、サハリンのロシア領化を受けて北海道へ移り、移った北海道に拓いた村が疫病で壊滅的打撃を受けてしまい、またサハリンへ戻ってという経過が在って、そこにサハリンで活動してアイヌ等の少数民族の研究を行った元流刑囚のブロニスワフ・ピウスツキが関わるというような物語になっている。チェーホフの『サハリン島』に綴られた世界が、少し違う角度から見えるということになるかもしれない。
因みに、チェーホフのサハリン滞在の後半となるコルサコフに在った時期、「日本領事館」の近所の家に在って、日本人領事館員との交流も在ったと伝わる。色々と、仕事等で日本人が出入りしていた関係上、邦人保護等の必要性が在って、コルサコフに「領事館」が設けられていたのだ。
↓コルサコフにはその「日本領事館」の遺構が在る。(その場所は、現在ではロシア正教関係の施設が建っている。)
↑コルサコフの地に、「誰しも名前位は知っているロシアの有名作家」が足跡を残していて、その当時に「隣国から来ていた人達と“善隣交流”」という、なかなかに興味深い史実が在る訳だ。
こういう具合に「サハリンに所縁のチェーホフ」ということになると、尽きない程に話題は在る。こうしたことに加えて、「著名な劇作家」たるチェーホフの戯曲に触れる機会もサハリンでは在る。
↓ロシアで演劇を上演する劇場については「有名作家の名を冠する」という例が見受けられる。サハリンに在っては<チェーホフセンター>という名の劇場がユジノサハリンスクに設けられている。
「1905年から1945年の樺太時代」という時期、「ソ連のサハリン」の主要な街はチェーホフが上陸した経過も在るアレクサンドロフスク・サハリンスキーだった。そのアレクサンドロフスク・サハリンスキーで、演劇を上演する劇場が起こり、「南樺太のソ連化」という時代の後にユジノサハリンスクに劇場が移ったという理解になっている。
その劇場ではチェーホフの有名戯曲の上演も在る。
↓『桜の園』を観る機会を設けることが出来た。
サハリンも含め、ロシアで演劇を上演する「劇場」と言えば、「公演を行う劇団が活動している」ということになる。秋から春の“シーズン”の期間に、何本もの“レパートリー”を上演するのである。上記の『桜の園』は、その“シーズン”の期間の“レパートリー”の一つであったのだ。
ロシアで演劇を上演する「劇場」ということだが、ロシアでは少なくとも「“連邦構成体”の(少なくとも)中心的な街」には「間違いなく在る」という代物だ。“連邦構成体”というのは、ユジノサハリンスクが中心的な街となっているサハリン州も含めて85在るとされる。(クリミア半島の2つについて、国際的に認めない例も在るのだが、ロシア国内では数の中に入れている。)
少し前に、少し驚いたのだが、ロシア全土で「劇場マラソン」と称する取組が催された。これは沿海地方の中心的な街であるウラジオストクで始まり、ハバロフスク地方の中心的な街であるハバロフスク、そしてユジノサハリンスクへ“バトン”が回っていた。これはウラジオストクの劇場による公演をハバロフスクで、ハバロフスクの劇場による公演をユジノサハリンスクで、ユジノサハリンスクの劇場による公演をカムチャッカ地方のペトロパブロフスク・カムチャツキーで…というように「リレー」で85箇所を巡るというのである。
ユジノサハリンスクは人口20万人程度の街だ。日常的に往来が在る隣りの地区や周辺を含めて人口30万人台の都市圏だ。そういうような場所で、有名作家の事績が伝えられ、演劇のような文化活動も立派に行われている。「サハリンってモノが在るの?」という問いが発せられなければならない次元なのだろうか?少なくとも?演劇の上演も可能なホールは日本国内の地方都市に色々と在るとは思う。が、ユジノサハリンスクの劇場のように「常設劇団の活動」が盛んに行われているであろうか?そういう面ではサハリンの方が進んでいるのではないか?
サハリンもそういう例に漏れない。
↓ユジノサハリンスクのレーニン通に沿った場所、サハリン州の図書館や美術館が在る辺りが都市緑地として整備されている。その辺りに像が在る。
↑「旅の途次」という風情の像である。ユジノサハリンスクに滞在すれば、通り過ぎる機会も多いかもしれないような場所である。
この像はアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(1860-1904)である。
チェーホフと言えば、晩年に近い時期の作品だが、『かもめ』、『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』、『桜の園』の“四大戯曲”が殊に知られている。これらの戯曲は世界中の様々な言葉に翻訳もされ、また翻案されて現在でも各国で上演されている。日本国内の演劇関係分野もそういう例に漏れない。
チェーホフと言えば、そういう訳で“劇作家”として知られるのだが、文学の世界に登場した時には寧ろ小説家だった。大長篇という作品でもなく、中篇、短篇の作品で知られていた。
そのチェーホフが30歳であった1890年、チェーホフはサハリンを実際に訪ねている。
↓「高名な劇作家」となった晩年近くの肖像が知られるチェーホフだが「30歳頃のイメージ?」というレリーフも見受けられる。
↑「チェーホフがやって来たサハリン」ということで、彼が綴った本や、チェーホフが訪ねた時代に関する展示が視られる資料館の前に設えられたモニュメントに、このレリーフが在る。
サハリンを訪ねたチェーホフは、当時のサハリンでの人々の暮らしぶりを詳細に調査し、自身の長い旅に関することを交えながら、或る種の“記録文学”という作品を綴った。『サハリン島』という作品だ。
↓サハリンでも何年間かの間隔でロシア語の本が出版されているようだが、日本国内でも『サハリン島』の翻訳は入手する等して読むことが出来る。
チェーホフは3箇月間にも及ぶ長い旅を経て、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレから船でアレクサンドロフスク・サハリンスキーに渡った。そしてサハリンの北寄りな辺りで活動し、そこから船で南下して現在のコルサコフに至り、サハリンの南寄りな辺りで活動してから帰国した。
チェーホフがサハリンを訪れた1890年頃の状況?日本では「1905年から1945年の樺太時代」ということは少し知られているが、「その以前?」という一面も在るような気がする。
「第6回」で、幕末期に日露間の国交が開かれた時期というようなことにも言及した。サハリンに関しては日本領かロシア領かは明確に決まらずに時日が経過していた。1875年に至り、サンクトペテルブルグへ赴いた特命全権大使の榎本武揚がロシア側と折衝して<樺太・千島交換条約>が締結された。結果「樺太全島をロシア領とし、その代わりに得撫島以北の諸島を日本が領有」ということになったのだった。
これを受けて、1875年以降、1905年までの時期はロシア領となったサハリンでロシア側の活動が展開されていた。1890年の「チェーホフが来訪して活動」という時期はこの時期に相当する。そしてその当時、サハリンは“流刑地”ということになっていた。
少し前に『熱源』という小説が少し話題になった。これはサハリンに在ったアイヌである“山辺安之助”ことヤヨマネクフ達が、サハリンのロシア領化を受けて北海道へ移り、移った北海道に拓いた村が疫病で壊滅的打撃を受けてしまい、またサハリンへ戻ってという経過が在って、そこにサハリンで活動してアイヌ等の少数民族の研究を行った元流刑囚のブロニスワフ・ピウスツキが関わるというような物語になっている。チェーホフの『サハリン島』に綴られた世界が、少し違う角度から見えるということになるかもしれない。
因みに、チェーホフのサハリン滞在の後半となるコルサコフに在った時期、「日本領事館」の近所の家に在って、日本人領事館員との交流も在ったと伝わる。色々と、仕事等で日本人が出入りしていた関係上、邦人保護等の必要性が在って、コルサコフに「領事館」が設けられていたのだ。
↓コルサコフにはその「日本領事館」の遺構が在る。(その場所は、現在ではロシア正教関係の施設が建っている。)
↑コルサコフの地に、「誰しも名前位は知っているロシアの有名作家」が足跡を残していて、その当時に「隣国から来ていた人達と“善隣交流”」という、なかなかに興味深い史実が在る訳だ。
こういう具合に「サハリンに所縁のチェーホフ」ということになると、尽きない程に話題は在る。こうしたことに加えて、「著名な劇作家」たるチェーホフの戯曲に触れる機会もサハリンでは在る。
↓ロシアで演劇を上演する劇場については「有名作家の名を冠する」という例が見受けられる。サハリンに在っては<チェーホフセンター>という名の劇場がユジノサハリンスクに設けられている。
「1905年から1945年の樺太時代」という時期、「ソ連のサハリン」の主要な街はチェーホフが上陸した経過も在るアレクサンドロフスク・サハリンスキーだった。そのアレクサンドロフスク・サハリンスキーで、演劇を上演する劇場が起こり、「南樺太のソ連化」という時代の後にユジノサハリンスクに劇場が移ったという理解になっている。
その劇場ではチェーホフの有名戯曲の上演も在る。
↓『桜の園』を観る機会を設けることが出来た。
サハリンも含め、ロシアで演劇を上演する「劇場」と言えば、「公演を行う劇団が活動している」ということになる。秋から春の“シーズン”の期間に、何本もの“レパートリー”を上演するのである。上記の『桜の園』は、その“シーズン”の期間の“レパートリー”の一つであったのだ。
ロシアで演劇を上演する「劇場」ということだが、ロシアでは少なくとも「“連邦構成体”の(少なくとも)中心的な街」には「間違いなく在る」という代物だ。“連邦構成体”というのは、ユジノサハリンスクが中心的な街となっているサハリン州も含めて85在るとされる。(クリミア半島の2つについて、国際的に認めない例も在るのだが、ロシア国内では数の中に入れている。)
少し前に、少し驚いたのだが、ロシア全土で「劇場マラソン」と称する取組が催された。これは沿海地方の中心的な街であるウラジオストクで始まり、ハバロフスク地方の中心的な街であるハバロフスク、そしてユジノサハリンスクへ“バトン”が回っていた。これはウラジオストクの劇場による公演をハバロフスクで、ハバロフスクの劇場による公演をユジノサハリンスクで、ユジノサハリンスクの劇場による公演をカムチャッカ地方のペトロパブロフスク・カムチャツキーで…というように「リレー」で85箇所を巡るというのである。
ユジノサハリンスクは人口20万人程度の街だ。日常的に往来が在る隣りの地区や周辺を含めて人口30万人台の都市圏だ。そういうような場所で、有名作家の事績が伝えられ、演劇のような文化活動も立派に行われている。「サハリンってモノが在るの?」という問いが発せられなければならない次元なのだろうか?少なくとも?演劇の上演も可能なホールは日本国内の地方都市に色々と在るとは思う。が、ユジノサハリンスクの劇場のように「常設劇団の活動」が盛んに行われているであろうか?そういう面ではサハリンの方が進んでいるのではないか?
【連載】現今事情―サハリン (8)
劇映画やテレビドラマのような映像コンテンツを観て愉しむというようなことも好きだ。
映像コンテンツに関しては、日本国内のモノに限らず、外国のモノを愉しむ場合も在る。ここで話題にしているロシアのモノも好きだ。
ロシアでもソ連時代の昔から佳い映画は色々と制作されている。DVDソフトになっているような作品も多く在る。そういうソフトの中には、「稚内市の図書館」というような場所でも観られるモノさえ在る。
サハリンでも劇映画やテレビドラマのような映像コンテンツは色々と愉しむことは出来る。
ロシアでもテレビドラマの制作は色々と行われていて、新旧のドラマが色々とテレビ放映されている。ユジノサハリンスクに滞在し、滞在先に据えられたテレビでそういう新旧のロシアのテレビドラマを色々と観たのを覚えている。
幾つかのテレビドラマに関してはかなり気に入って楽しみに観ていて、地元の人達との話しで話題にしてみた記憶も在る。そして、場合によって「地元の人達以上にロシアのテレビドラマを愉しんでいる?」という妙な状況も在った。
そういうテレビドラマは、滞在している場所に在るテレビを視れば事足りる。他方で「ホールで観る映画」である。
サハリンの街では「文化センターのホールというような場所で映画上映」というようになっている場合も在る。が、ユジノサハリンスクには映画上映興行を専らとする映画館も在る。
↓何時頃から在るのか?少なくとも1980年代の写真が使われていたと推測される、1990年代前半に在った絵葉書で視たような記憶も在る程度の建物の映画館がこれだ。
↑<コムソモーリェツ>という古くからの名前をそのまま使っている。
↓こちらも古くから在るが、館の前に新たに噴水が整備されたという場所である。
↑<オクチャブリ>という古くからの名前がこちらも残っている。
因みに<コムソモーリェツ>は「共産主義者青年同盟」という、ソ連時代に在った青年組織の通称であり、<オクチャブリ>は「10月」の意味だが、ロシア革命の「10月革命」を指し示すソ連時代に多用された名称だ。要は、ユジノサハリンスクではソ連時代から映画館は街に整備されていて、体制が変わった後もそれは受継がれ、昔からの看板を掲げて現在でも映画上映興行が行われている訳だ。
サハリンの映画館だが、色々な作品が順次上映されている。
ロシア国内で制作される新作映画―ユジノサハリンスクに在る時、その種の新作ロシア映画で面白そうなモノを観る機会が設けられるのであれば、嬉々として映画館に足を運んだものだった…―の上映も在るが、時には古い名作を“名画座”か何かのように上映している場合も在る。そして色々な国々の映画も上映されている。日本国内でも紹介されている作品も上映される。そして日本の作品が上映される場合も無い訳ではない。現在時点で最も新しい例では、大人気アニメの『鬼滅の刃 無限列車』が上映されている。
ロシアの映画に関しては、ロシアの俳優が出演し、演じられている劇中人物達はロシア語を話している。(英語圏でも日本語の日本でも、そのほかの言語圏でもそれは同じであろう。)映画館で上映されている“外国映画”についても、劇中人物達はロシア語を話している。要は「吹き替え版」になっている。
外国映画に関して「字幕上映」というのは、日本では比較的多く在るやり方と見受けられるが、外国では「やや例外的」かもしれない。
随分以前に、ドイツ国内で映画館に入って<007>シリーズの映画を観てみれば、かの“ジェームス・ボンド”がドイツ語を話した!?国際諜報員という役柄なので、外国語を口にしても不自然でもないが、そうでもない。“ジェームス・ボンド”以外の出演俳優達が全てドイツ語を話した。英語の映画をドイツ語に吹き替えていたのだ。
ユジノサハリンスクの映画館で英語圏の映画を観たことが在るが、そこでは英語の人名“エリザベス”が“エリザベータ”、“メアリー”が“マリーヤ”、“ジェームス”が“ヤーコブ”とロシア語的に置き換わっていたので、少し不思議に思った。
もっと古い時期、1990年代位には“活動弁士”でもないが、1人か2人の人が外国語で発せられている台詞を説明する音声が入っているという不思議な方式も在ったが、最近ではそういうのは無い。日本国内で観る外国作品でも見受けられるように、各出演者に声優が割り振られて各々の台詞を発するようになっている。
↓話題にしたような様々な映画を観る、映画館のホールだ。
↑最近の、日本国内の映画館と何ら変わらない感じだ。
日本国内の映画館?最近は専ら“シネコン”という按配か?ユジノサハリンスクにも在った。諸般の事情で2020年に閉じて現在に至っているようなのだが。他の場所は、上映ホールが1つか2つかである。
日本国内の“シネコン”で入場券を求める場合、ホール内で随意に着席する“自由席”になっている映画と、窓口で小さな画面のようなモノを見せられて席を指定して求める映画が在ると思う。これはユジノサハリンスクの映画館でも何ら変わらない。既に埋まっている席と空席とが判る画面が示されるので、空席から「このX列のX番」と指定し、席番が印字された券を購入するのだ。
↓こういう感じだ。券と、観た作品のチラシを並べて何となく写真に収めておいたのだった。
↑チラシの映画は、第2次大戦期の独ソ戦でのレニングラードでの挿話を題材にした作品で興味深い内容だった。
ユジノサハリンスクは人口20万人程度の街だ。日常的に往来が在る隣りの地区や周辺を含めて人口30万人台の都市圏だ。こうして映画館の様子を見れば「普通…」という感じではないだろうか?
サハリンの街に関しては、もう随分以前から「サハリンってモノが在るの?」という問いが発せられなければならない次元にはない。「普通…」な都市の、「普通…」な暮らしが在るのだ。“映画館”という切口で、一寸御紹介してみた。
映像コンテンツに関しては、日本国内のモノに限らず、外国のモノを愉しむ場合も在る。ここで話題にしているロシアのモノも好きだ。
ロシアでもソ連時代の昔から佳い映画は色々と制作されている。DVDソフトになっているような作品も多く在る。そういうソフトの中には、「稚内市の図書館」というような場所でも観られるモノさえ在る。
サハリンでも劇映画やテレビドラマのような映像コンテンツは色々と愉しむことは出来る。
ロシアでもテレビドラマの制作は色々と行われていて、新旧のドラマが色々とテレビ放映されている。ユジノサハリンスクに滞在し、滞在先に据えられたテレビでそういう新旧のロシアのテレビドラマを色々と観たのを覚えている。
幾つかのテレビドラマに関してはかなり気に入って楽しみに観ていて、地元の人達との話しで話題にしてみた記憶も在る。そして、場合によって「地元の人達以上にロシアのテレビドラマを愉しんでいる?」という妙な状況も在った。
そういうテレビドラマは、滞在している場所に在るテレビを視れば事足りる。他方で「ホールで観る映画」である。
サハリンの街では「文化センターのホールというような場所で映画上映」というようになっている場合も在る。が、ユジノサハリンスクには映画上映興行を専らとする映画館も在る。
↓何時頃から在るのか?少なくとも1980年代の写真が使われていたと推測される、1990年代前半に在った絵葉書で視たような記憶も在る程度の建物の映画館がこれだ。
↑<コムソモーリェツ>という古くからの名前をそのまま使っている。
↓こちらも古くから在るが、館の前に新たに噴水が整備されたという場所である。
↑<オクチャブリ>という古くからの名前がこちらも残っている。
因みに<コムソモーリェツ>は「共産主義者青年同盟」という、ソ連時代に在った青年組織の通称であり、<オクチャブリ>は「10月」の意味だが、ロシア革命の「10月革命」を指し示すソ連時代に多用された名称だ。要は、ユジノサハリンスクではソ連時代から映画館は街に整備されていて、体制が変わった後もそれは受継がれ、昔からの看板を掲げて現在でも映画上映興行が行われている訳だ。
サハリンの映画館だが、色々な作品が順次上映されている。
ロシア国内で制作される新作映画―ユジノサハリンスクに在る時、その種の新作ロシア映画で面白そうなモノを観る機会が設けられるのであれば、嬉々として映画館に足を運んだものだった…―の上映も在るが、時には古い名作を“名画座”か何かのように上映している場合も在る。そして色々な国々の映画も上映されている。日本国内でも紹介されている作品も上映される。そして日本の作品が上映される場合も無い訳ではない。現在時点で最も新しい例では、大人気アニメの『鬼滅の刃 無限列車』が上映されている。
ロシアの映画に関しては、ロシアの俳優が出演し、演じられている劇中人物達はロシア語を話している。(英語圏でも日本語の日本でも、そのほかの言語圏でもそれは同じであろう。)映画館で上映されている“外国映画”についても、劇中人物達はロシア語を話している。要は「吹き替え版」になっている。
外国映画に関して「字幕上映」というのは、日本では比較的多く在るやり方と見受けられるが、外国では「やや例外的」かもしれない。
随分以前に、ドイツ国内で映画館に入って<007>シリーズの映画を観てみれば、かの“ジェームス・ボンド”がドイツ語を話した!?国際諜報員という役柄なので、外国語を口にしても不自然でもないが、そうでもない。“ジェームス・ボンド”以外の出演俳優達が全てドイツ語を話した。英語の映画をドイツ語に吹き替えていたのだ。
ユジノサハリンスクの映画館で英語圏の映画を観たことが在るが、そこでは英語の人名“エリザベス”が“エリザベータ”、“メアリー”が“マリーヤ”、“ジェームス”が“ヤーコブ”とロシア語的に置き換わっていたので、少し不思議に思った。
もっと古い時期、1990年代位には“活動弁士”でもないが、1人か2人の人が外国語で発せられている台詞を説明する音声が入っているという不思議な方式も在ったが、最近ではそういうのは無い。日本国内で観る外国作品でも見受けられるように、各出演者に声優が割り振られて各々の台詞を発するようになっている。
↓話題にしたような様々な映画を観る、映画館のホールだ。
↑最近の、日本国内の映画館と何ら変わらない感じだ。
日本国内の映画館?最近は専ら“シネコン”という按配か?ユジノサハリンスクにも在った。諸般の事情で2020年に閉じて現在に至っているようなのだが。他の場所は、上映ホールが1つか2つかである。
日本国内の“シネコン”で入場券を求める場合、ホール内で随意に着席する“自由席”になっている映画と、窓口で小さな画面のようなモノを見せられて席を指定して求める映画が在ると思う。これはユジノサハリンスクの映画館でも何ら変わらない。既に埋まっている席と空席とが判る画面が示されるので、空席から「このX列のX番」と指定し、席番が印字された券を購入するのだ。
↓こういう感じだ。券と、観た作品のチラシを並べて何となく写真に収めておいたのだった。
↑チラシの映画は、第2次大戦期の独ソ戦でのレニングラードでの挿話を題材にした作品で興味深い内容だった。
ユジノサハリンスクは人口20万人程度の街だ。日常的に往来が在る隣りの地区や周辺を含めて人口30万人台の都市圏だ。こうして映画館の様子を見れば「普通…」という感じではないだろうか?
サハリンの街に関しては、もう随分以前から「サハリンってモノが在るの?」という問いが発せられなければならない次元にはない。「普通…」な都市の、「普通…」な暮らしが在るのだ。“映画館”という切口で、一寸御紹介してみた。
【連載】現今事情―サハリン (7)
本稿を綴っている「5月下旬の稚内」というのは、少し心地好い程度の15℃を超えて20℃を伺うような気温帯である日も見受けられる他方、10℃を切るような具合で肌寒く感じる場合も在る。
↓10℃程度で肌寒く感じるような日には、こういうような衣類の着心地が好いように思う。適度に厚地で温かいパーカーだ。
↑<SAKHALIN>(サハリン)と在るが、これは<アジアリーグアイスホッケー>に参加しているユジノサハリンスクのチームのロゴだ。ユジノサハリンスクの試合会場で売られていたモノである。
少し前に、稚内に招いたサハリンの人達の中にこれと同じモノを着ていた方を見掛けた。現地でも人気のアイスホッケーチームのグッズである。これを稚内に持ち帰っていて、10℃程度で肌寒く感じるような日には着用している。
<アジアリーグアイスホッケー>は、日本、韓国、ロシアのチームが参加し、各々の本拠地で試合を開催し、通常のリーグ戦を戦った後にプレイオフを催して優勝を争うというリーグ戦だ。
ユジノサハリンスクの<SAKHALIN>の本拠地には、日本、韓国の各チームがやって来て試合が開催される。逆に<SAKHALIN>は日本や韓国の各チームの本拠地に乗込んで試合を戦う。
最近は“事情”で国際間の移動が出来ないので、本来の<アジアリーグアイスホッケー>は「止むを得ず中止…」となってしまっている。日本国内では<ジャパンカップ>と称して、リーグに参加している各チームによるリーグ戦を催していたようだが。
↓<SAKHALIN>の試合会場は何時もなかなかに賑わい、チアリーダーも登場して華やかな感じで試合が展開される。
↓得点を狙う<SAKHALIN>に対して必死に護る対戦チームという様子であるが、毎試合、なかなかに迫力の在る試合が観られる。
ロシアはアイスホッケーが盛んだ。幾つものリーグが在る。<SAKHALIN>は<アジアリーグアイスホッケー>に参加していて、日本や韓国のチームと対戦するようにしているが、ユジノサハリンスクにはもう一つ、ロシア国内各地のチームと対戦するリーグに参加しているチームも在る。また愛好者人口も一定以上在るようで、少年達の活動も見受けられる。路線バスを利用すれば、アイスホッケーの活動に参加しているらしい、小学生程度の年代と見受けられる、道具や着替えの入ったバッグを提げて、アイスホッケーのスティックを持った少年を見掛ける場合も在る。
ユジノサハリンスクには、「観客を容れてアイスホッケーの試合等を開催」ということが出来るリンク―上記写真のようなイメージの場所―が少なくとも2つ在る。そして試合開催の例は聞かなかったが、練習が出来るリンクも他に在る。
ユジノサハリンスクは人口20万人程度の街だ。日常的に往来が在る隣りの地区や周辺を含めて人口30万人台の都市圏だ。そういう場所に「屋内スケートリンクが複数」である。ロシア国内と日本国内とでは、スケート系競技の存在感の大きさが違うであろうから、単純比較は難しいかもしれない。が、日本国内の「人口30万人台の都市圏」で「屋内スケートリンクが複数」という例は在るだろうか?恐らく無い。
自身ではスポーツは余り出来ないのだが、それでも観戦は大好きな方だ。観れば、意外に力も入る。
↓こういうモノも少し熱心に観戦した。
↑2018年から登場のバスケットボールチーム<ヴォストーク65>の試合の様子だ。このシーズンのチームで“斬り込み隊長”のような大活躍を見せていたミッチェルが豪快なダンクを決めた場面を運好く写真に収められた。大変に気に入っている写真だ。
ミッチェルは米国出身だ。所謂NCAA、米国の学生スポーツのリーグで活躍後、ロシアも含めた欧州諸国の色々なリーグのチームに参加して活動している選手だ。そういう選手は数多く見受けられる。ユジノサハリンスクの会場に現れる対戦チームにも、そういう「ロシア国外出身」の選手達が見受けられた。
ロシアは、欧州諸国のナショナルチームが競う国際競技でも上位進出を目指すような、バスケットボールの強豪国と言い得る国だ。外国出身選手も交えて、ロシア人選手主体で各チームが編成されているリーグ戦の試合はなかなかに見応えが在る。
ロシアの男子バスケットボールは、トップリーグ、1部リーグ、2部リーグというようなプロチームのリーグが設けられている。<ヴォストーク65>はその1部リーグに参加して善戦している。
<ヴォストーク65>の以前に<サハリン>というチームが在って、「新興チームながら善戦」と盛り上がったが、諸事情で活動休止になってしまった。そこで「もう一度夢を!」と2018年のシーズンにこの<ヴォストーク65>が登場したのだ。
「ヴォストーク」は「東方」という意味であるが、彼らの本拠地が在る、ユジノサハリンスク南郊のスポーツ施設の名でもある。そして「65」はサハリン州を示す地域コード番号だ。<ヴォストーク65>で「東方のサハリンのチーム」という含意になるであろうか。
<ヴォストーク65>が参加する1部リーグは、ロシア全土の各地に本拠地を構えるチームと対戦が在る。モスクワやその近く、或いはサンクトペテルブルグで試合が催される場合、例えば「試合のネット中継 午前2時開始」というのも在る。東西に大きく拡がるロシア国内では、大きな時差も在るのだ。そういう意味で、ロシア国内のスポーツのリーグ戦はなかなかに大変だ。
時差が在る各地の試合は「サハリン時間の深夜…」にやっている関係上、試合後にでも情報を得る他無いが、本拠地での<ヴォストーク65>の試合は何時も賑やかで、なかなかに華やかだ。会場を訪れるのは本当に愉しい。
↓アクロバティックな動きを見せる男女混成のダンスチームも登場し、愉しいパフォーマンスを披露してくれる。
↓会場内には、こういう具合に選手達の写真パネルも掲出されていた。
↓ユジノサハリンスクでは、多くのファンが<ヴォストーク65>の善戦に期待し、声援を贈っている様子が観られる訳だ。
「スポーツ」と言えば、サハリンの方が少年時代の思い出話を披露してくれたことが在った。
その方はサッカーチームに入ってプレーをしていたのだという。チームはサハリン州内の各チームが出場している大きな大会に参加していた。巧く勝ち上がったチームは決勝戦に進出した。決勝戦の試合の最中、その方はずうっとベンチを温めていたが、1対1の展開で迎えた試合の最終盤に「行ってこい!」との監督の号令で、交代出場をしてピッチに立った。或いは、その方だけが途中出場で体力も在って動きが好かったのかもしれない。チームの仲間達と共に相手ゴールを伺っていた中でボールが回って来て、それを思い切り蹴り込んだ。ボールはゴールネットを揺らした。試合は2対1で勝利で優勝だった。優勝を受けて、チームはウラジオストクで開催された「極東大会」という大会に進出したが、そこでは直ぐに敗退してしまった。
こういうのは、少年時代にスポーツ活動に関わった方の、聴いて愉しい想い出話によく在るのだが、「最近のサハリンの少年」が将来語る話しとは少し違うかもしれない。
想い出話を披露してくれた方の少年時代、少年スポーツの「より上位の大会」は「他地域で開催」というのが専らであった。が、近年はその「より上位の大会」の開催地がユジノサハリンスクであるという例も珍しくなくなった。要は、スポーツの試合を開催出来るような場所が以前よりも遥かに整って来ているということなのだ。その辺は、上述のスポーツ観戦の関係を御覧頂けば用意に察して頂けるであろう。
ユジノサハリンスクは人口20万人程度の街で、日常的に往来が在る隣りの地区や周辺を含めて人口30万人台の都市圏だ。それでも、本稿で綴ったような華々しいスポーツ活動も手b解されている。こういう地域を捉えて「サハリンってモノが在るの?」なのか!?
ユジノサハリンスクに滞在した経過で色々と思い出して懐かしい事は在るのだが、アイスホッケーやバスケットボールの観戦というのは非常に忘れ難い…
↓10℃程度で肌寒く感じるような日には、こういうような衣類の着心地が好いように思う。適度に厚地で温かいパーカーだ。
↑<SAKHALIN>(サハリン)と在るが、これは<アジアリーグアイスホッケー>に参加しているユジノサハリンスクのチームのロゴだ。ユジノサハリンスクの試合会場で売られていたモノである。
少し前に、稚内に招いたサハリンの人達の中にこれと同じモノを着ていた方を見掛けた。現地でも人気のアイスホッケーチームのグッズである。これを稚内に持ち帰っていて、10℃程度で肌寒く感じるような日には着用している。
<アジアリーグアイスホッケー>は、日本、韓国、ロシアのチームが参加し、各々の本拠地で試合を開催し、通常のリーグ戦を戦った後にプレイオフを催して優勝を争うというリーグ戦だ。
ユジノサハリンスクの<SAKHALIN>の本拠地には、日本、韓国の各チームがやって来て試合が開催される。逆に<SAKHALIN>は日本や韓国の各チームの本拠地に乗込んで試合を戦う。
最近は“事情”で国際間の移動が出来ないので、本来の<アジアリーグアイスホッケー>は「止むを得ず中止…」となってしまっている。日本国内では<ジャパンカップ>と称して、リーグに参加している各チームによるリーグ戦を催していたようだが。
↓<SAKHALIN>の試合会場は何時もなかなかに賑わい、チアリーダーも登場して華やかな感じで試合が展開される。
↓得点を狙う<SAKHALIN>に対して必死に護る対戦チームという様子であるが、毎試合、なかなかに迫力の在る試合が観られる。
ロシアはアイスホッケーが盛んだ。幾つものリーグが在る。<SAKHALIN>は<アジアリーグアイスホッケー>に参加していて、日本や韓国のチームと対戦するようにしているが、ユジノサハリンスクにはもう一つ、ロシア国内各地のチームと対戦するリーグに参加しているチームも在る。また愛好者人口も一定以上在るようで、少年達の活動も見受けられる。路線バスを利用すれば、アイスホッケーの活動に参加しているらしい、小学生程度の年代と見受けられる、道具や着替えの入ったバッグを提げて、アイスホッケーのスティックを持った少年を見掛ける場合も在る。
ユジノサハリンスクには、「観客を容れてアイスホッケーの試合等を開催」ということが出来るリンク―上記写真のようなイメージの場所―が少なくとも2つ在る。そして試合開催の例は聞かなかったが、練習が出来るリンクも他に在る。
ユジノサハリンスクは人口20万人程度の街だ。日常的に往来が在る隣りの地区や周辺を含めて人口30万人台の都市圏だ。そういう場所に「屋内スケートリンクが複数」である。ロシア国内と日本国内とでは、スケート系競技の存在感の大きさが違うであろうから、単純比較は難しいかもしれない。が、日本国内の「人口30万人台の都市圏」で「屋内スケートリンクが複数」という例は在るだろうか?恐らく無い。
自身ではスポーツは余り出来ないのだが、それでも観戦は大好きな方だ。観れば、意外に力も入る。
↓こういうモノも少し熱心に観戦した。
↑2018年から登場のバスケットボールチーム<ヴォストーク65>の試合の様子だ。このシーズンのチームで“斬り込み隊長”のような大活躍を見せていたミッチェルが豪快なダンクを決めた場面を運好く写真に収められた。大変に気に入っている写真だ。
ミッチェルは米国出身だ。所謂NCAA、米国の学生スポーツのリーグで活躍後、ロシアも含めた欧州諸国の色々なリーグのチームに参加して活動している選手だ。そういう選手は数多く見受けられる。ユジノサハリンスクの会場に現れる対戦チームにも、そういう「ロシア国外出身」の選手達が見受けられた。
ロシアは、欧州諸国のナショナルチームが競う国際競技でも上位進出を目指すような、バスケットボールの強豪国と言い得る国だ。外国出身選手も交えて、ロシア人選手主体で各チームが編成されているリーグ戦の試合はなかなかに見応えが在る。
ロシアの男子バスケットボールは、トップリーグ、1部リーグ、2部リーグというようなプロチームのリーグが設けられている。<ヴォストーク65>はその1部リーグに参加して善戦している。
<ヴォストーク65>の以前に<サハリン>というチームが在って、「新興チームながら善戦」と盛り上がったが、諸事情で活動休止になってしまった。そこで「もう一度夢を!」と2018年のシーズンにこの<ヴォストーク65>が登場したのだ。
「ヴォストーク」は「東方」という意味であるが、彼らの本拠地が在る、ユジノサハリンスク南郊のスポーツ施設の名でもある。そして「65」はサハリン州を示す地域コード番号だ。<ヴォストーク65>で「東方のサハリンのチーム」という含意になるであろうか。
<ヴォストーク65>が参加する1部リーグは、ロシア全土の各地に本拠地を構えるチームと対戦が在る。モスクワやその近く、或いはサンクトペテルブルグで試合が催される場合、例えば「試合のネット中継 午前2時開始」というのも在る。東西に大きく拡がるロシア国内では、大きな時差も在るのだ。そういう意味で、ロシア国内のスポーツのリーグ戦はなかなかに大変だ。
時差が在る各地の試合は「サハリン時間の深夜…」にやっている関係上、試合後にでも情報を得る他無いが、本拠地での<ヴォストーク65>の試合は何時も賑やかで、なかなかに華やかだ。会場を訪れるのは本当に愉しい。
↓アクロバティックな動きを見せる男女混成のダンスチームも登場し、愉しいパフォーマンスを披露してくれる。
↓会場内には、こういう具合に選手達の写真パネルも掲出されていた。
↓ユジノサハリンスクでは、多くのファンが<ヴォストーク65>の善戦に期待し、声援を贈っている様子が観られる訳だ。
「スポーツ」と言えば、サハリンの方が少年時代の思い出話を披露してくれたことが在った。
その方はサッカーチームに入ってプレーをしていたのだという。チームはサハリン州内の各チームが出場している大きな大会に参加していた。巧く勝ち上がったチームは決勝戦に進出した。決勝戦の試合の最中、その方はずうっとベンチを温めていたが、1対1の展開で迎えた試合の最終盤に「行ってこい!」との監督の号令で、交代出場をしてピッチに立った。或いは、その方だけが途中出場で体力も在って動きが好かったのかもしれない。チームの仲間達と共に相手ゴールを伺っていた中でボールが回って来て、それを思い切り蹴り込んだ。ボールはゴールネットを揺らした。試合は2対1で勝利で優勝だった。優勝を受けて、チームはウラジオストクで開催された「極東大会」という大会に進出したが、そこでは直ぐに敗退してしまった。
こういうのは、少年時代にスポーツ活動に関わった方の、聴いて愉しい想い出話によく在るのだが、「最近のサハリンの少年」が将来語る話しとは少し違うかもしれない。
想い出話を披露してくれた方の少年時代、少年スポーツの「より上位の大会」は「他地域で開催」というのが専らであった。が、近年はその「より上位の大会」の開催地がユジノサハリンスクであるという例も珍しくなくなった。要は、スポーツの試合を開催出来るような場所が以前よりも遥かに整って来ているということなのだ。その辺は、上述のスポーツ観戦の関係を御覧頂けば用意に察して頂けるであろう。
ユジノサハリンスクは人口20万人程度の街で、日常的に往来が在る隣りの地区や周辺を含めて人口30万人台の都市圏だ。それでも、本稿で綴ったような華々しいスポーツ活動も手b解されている。こういう地域を捉えて「サハリンってモノが在るの?」なのか!?
ユジノサハリンスクに滞在した経過で色々と思い出して懐かしい事は在るのだが、アイスホッケーやバスケットボールの観戦というのは非常に忘れ難い…
【連載】現今事情―サハリン (6)
現在のユジノサハリンスクの街は、1946年にユジノサハリンスクと正式に命名されたようだが、それ以前は豊原だった。豊原として建設されて発展していた街が“ソ連化”されたということになる。
そういう事情だから、街の主要な街路は豊原の時代からユジノサハリンスクの時代になっても然程大きくは変わらない。と言って、豊原時代の地図を手にユジノサハリンスクを歩き廻るというのは些か不便であるとは思う。道路の拡幅や、些かの変更が積み重なっている例や、細かい道が消えてしまっている例は多いからだ。
豊原は南樺太の日本領化の後、1906年頃から建設が本格化した都市で、札幌の例に倣って碁盤の目のような街路を整備して街を築いた。豊原に関して「小札幌」と呼ばれという紹介を耳にする場合も在る。ということは?札幌は京都を参考にしているらしいので、札幌を参考にした豊原は?「京都の孫?」と思わないでもないが、こんな事は聞かない。
現在のユジノサハリンスクは1906年頃から、または1907年頃から建設の街を下敷きにしている。それを「街の歴史」の中で「トヨハラ時代」という程度に認識はされているようだが、それを「街の起こり」というようには考えていないようだ。
「街の起こり」というようなことは、年号を特定し悪い事柄なのかもしれないが、サハリンの各都市では特定の故事を引いて、その年号を「建都」ということにしている。そして毎年のように「建都〇〇〇年」という程度に謳って、<街の日>と称する文化行事を催している。<街の日>?毎年開催する街の祭のようなものだ。
↓ユジノサハリンスクにこういうモノが据えられた場所が在る。
↑レーニン通を少し北上し、サハリンスカヤ通と交差する辺りで西寄りに進む。歩けば20分前後、バスなら停留所が2つという辺りの場所だ。道路から近く、容易に見付かる。
↓貼り付けられたプレートに注目する。
↑「ここに1882年、ロシアの入植者がウラジミロフカという村落を起こし、ユジノサハリンスク市の礎となった」というような趣旨のことが書かれている。
これは、1882年に「ウラジミロフカ村」が起こったという経過を示す記念碑である。ユジノサハリンスクでは「1882年にウラジミロフカ村が起こった」という故事を捉えて「建都」としている。ということは?来る2022年には「建都140年」ということになるのであろう。
聞く限り、「ウラジミロフカ村」の中心的な場所というのは、レーニン通とサハリンスカヤ通の交差する辺りを通り越した、もう少し北寄りな辺りと考えられるようだ。この記念碑が在る場所―現在、「ウラジミロフカ」と呼び習わされている辺り―は、村内の農場の一部であった場所のようだという。史跡を示そうとすれば、色々な話しも出て来ようが、とりあえず現在のユジノサハリンスクで「街の起こり」と考えている「ウラジミロフカ村」のことを伝える場所というのは興味深い。
この「ウラジミロフカ村」の碑からサハリンスカヤ通を東側へ引揚げる。
ゴロヴニーンの胸像が据えられた広場の脇を抜ければ、賑やかなレーニン通に至る。
↓サハリンスカヤ通もレーニン通も車輛通行量は少なくないが、その交差する辺りに少し目立つ建物が在る。
↑<サハリン>と名付けられた古くからの百貨店だ。意外に美しい建物であると、視る都度に思う。「テナント方式の商業ビル」とでも考えると判り易いかもしれない。館内では区画が仕切られていて、様々な個店が入っている。因みに、地階に食堂が在って、ランチタイムには意外に多く利用した思い出も在る。(極直近の様子は承知していないが…)
この<サハリン>百貨店の、サハリンスカヤ通を挟んだ辺りに映画館の建物が在って、その直ぐ近く、「隣」のような辺りに広場が整備されている。
↓その広場にこういうモノが据えられている。
↑渋い感じの風貌の胸像はニコライ・ワシーリエヴィチ・ルダノフスキー(1819-1882)である。
ルダノフスキーという人物は、「ロシア海軍の功労者」とされるネヴェリスコイの下で、サハリン南部の現地調査を手掛け、詳細な記録を残したという人物だ。
ルダノフスキーは、現在のコルサコフ地区に拠点を築いて指揮を執っていたネヴェリスコイ麾下の士官だった経過が在り、1853年から1854年に主に南部サハリンの各地を踏査し、地図を作成し、詳しい報告を遺したことで、ロシアでは少し知られる人物である。
「サハリンの歴史」ということでは、「地域の最も古い記録の一つは、かのルダノフスキーの記録で…」という例が色々と在るらしい。実際、南西部のネベリスク地区では、この記録が残っている「ルダノフスキーの到達」という故事を“建都”と位置づけてさえいる。
ルダノフスキーがサハリン南部で調査活動をしていたような時期?かの川路聖謨がプチャーチン提督と交渉して日露国交が開かれたような時期に相当する。川路聖謨を主人公に、来航したプチャーチン一行との色々な出来事も描かれる『落日の宴』という小説が非常に面白いが。
サハリンスカヤ通には、海事史関係の人物の胸像が据えられた広場は4箇所在る。西からゴロヴニーン、ルダノフスキー、クルーゼンシュテルンということになる。
↓最も東側に4箇所目が在る。
これがゲンナージー・イワノヴィチ・ネヴェリスコイ(1813-1876)の胸像だ。
ネヴェリスコイは現在の沿海地方やハバロフスク地方、更にサハリンで活動拠点を築くことや地理的調査という活動を展開した。かのムラビヨフ総督の意向を受けての活動だった。
ムラビヨフ総督?皇帝が勅任する役職であった<東シベリア総督>を長く務めて活躍した人物だ。シベリア東部から極東、更にアラスカまでを管轄する行政官のトップで、有事には派遣される軍隊の司令官たり得る立場でもあり、特命事項として外交課題にも取り組むという要職だった。
このムラビヨフ総督は、清国との交渉でアムール川流域の領土を獲得した功績によって「アムールスキー伯爵」という称号を贈られたことから、「ムラビヨフ-アムールスキー」と呼ばれる場合も在る。ウラジオストクの港と街を整備するということに関しては、1860年にこのムラビヨフ総督が号令を掛けたと言われている。
序でながら…このムラビヨフ総督は来日した経過も在る。1859年に来日し、幕吏達との交渉でサハリンの領有権を認めさせようとしたが、父祖の代から日本人が足跡を残している樺太の権利を放棄するべきでもないと、幕府側がその主張を退けたという。
このムラビヨフ総督の意向を受けて活動していたネヴェリスコイは1853年、サハリンに拠点を築いた。現在のコルサコフ地区―ユジノサハリンスクの南側の隣に設けられている地区―に築かれた拠点は、総督の名に因んで「ムラビヨフスキー哨所」と命名された。上述のルダノフスキーは、ネヴェリスコイの指示を受けて、この「ムラビヨフスキー哨所」を起点に方々を巡ったことになる。
この「ムラビヨフスキー哨所」は、暫く活動した後、暫く休眠状態になってしまう。これは上述のプチャーチン提督と川路聖謨との日露国交の交渉にも「中断」という影響が及んだ事柄だが、所謂<クリミア戦争>によってロシアが英国と交戦に及んだというような事情が絡んだ。「英国と交戦」ということになれば、主要な戦線と縁が薄いような極東でも、英国艦船と出くわした場面で摩擦が生じる可能性が在るので、ロシア側は少し慎重になっていたのだった。
「ムラビヨフスキー哨所」は十数年を経て1867年頃に活動を再び活発化させたのだが、この頃にはムラビヨフ総督は退いていた。そういうことで改めて、当時のコルサコフ総督に因んで「コルサコフスキー哨所」と再命名した。そこから、辺りの通称が「コルサコフ」となった。「大泊」と呼ばれていた樺太時代を経て、“ソ連化”された際にこの古い通称の「コルサコフ」を復活させ、現在もコルサコフ地区と呼ばれている訳だ。
↓ユジノサハリンスクから南側へ40㎞程度も不意に動いてしまうが、コルサコフの街には、街の名の由来になったコルサコフ総督の胸像が在る。
このコルサコフ総督の胸像が在るコルサコフの街は、「ムラビヨフスキー哨所」が設けられたという故事、1853年を建都と位置付けている。そしてコルサコフでは「サハリンで最も古い街の一つ」という言い方もしている。(それよりも以前の時代の、色々な人達の足跡も在る訳ではあるが…)
↓序でながら、そのコルサコフには2013年に「建都160年記念」と称して新設されたネヴェリスコイの像も在る。
本稿を綴り始めた動機として、「サハリンってモノが在るの?」という問いに出くわすことが「面白くない!!」と思うということは在った。が、実は「サハリン」は「直ぐ近くであるにも拘らず、ロクに情報らしい情報が無い」という地域なのである。しかしながら、少しだけでも歩いてみれば、19世紀の北東アジアの様々な事項を想い起すような舞台であることに思い至る。そういうことを、街の一寸した広場の胸像等で普通に伝えようとしている様子も伺える。
こういうような「何となく街を歩き廻って出くわす地域の歴史」というような事柄は、存外に好いように自身では思う。こんな様に出くわすサハリンの街は「訪ねて愉しい!」と言い得るとも思う。
そういう事情だから、街の主要な街路は豊原の時代からユジノサハリンスクの時代になっても然程大きくは変わらない。と言って、豊原時代の地図を手にユジノサハリンスクを歩き廻るというのは些か不便であるとは思う。道路の拡幅や、些かの変更が積み重なっている例や、細かい道が消えてしまっている例は多いからだ。
豊原は南樺太の日本領化の後、1906年頃から建設が本格化した都市で、札幌の例に倣って碁盤の目のような街路を整備して街を築いた。豊原に関して「小札幌」と呼ばれという紹介を耳にする場合も在る。ということは?札幌は京都を参考にしているらしいので、札幌を参考にした豊原は?「京都の孫?」と思わないでもないが、こんな事は聞かない。
現在のユジノサハリンスクは1906年頃から、または1907年頃から建設の街を下敷きにしている。それを「街の歴史」の中で「トヨハラ時代」という程度に認識はされているようだが、それを「街の起こり」というようには考えていないようだ。
「街の起こり」というようなことは、年号を特定し悪い事柄なのかもしれないが、サハリンの各都市では特定の故事を引いて、その年号を「建都」ということにしている。そして毎年のように「建都〇〇〇年」という程度に謳って、<街の日>と称する文化行事を催している。<街の日>?毎年開催する街の祭のようなものだ。
↓ユジノサハリンスクにこういうモノが据えられた場所が在る。
↑レーニン通を少し北上し、サハリンスカヤ通と交差する辺りで西寄りに進む。歩けば20分前後、バスなら停留所が2つという辺りの場所だ。道路から近く、容易に見付かる。
↓貼り付けられたプレートに注目する。
↑「ここに1882年、ロシアの入植者がウラジミロフカという村落を起こし、ユジノサハリンスク市の礎となった」というような趣旨のことが書かれている。
これは、1882年に「ウラジミロフカ村」が起こったという経過を示す記念碑である。ユジノサハリンスクでは「1882年にウラジミロフカ村が起こった」という故事を捉えて「建都」としている。ということは?来る2022年には「建都140年」ということになるのであろう。
聞く限り、「ウラジミロフカ村」の中心的な場所というのは、レーニン通とサハリンスカヤ通の交差する辺りを通り越した、もう少し北寄りな辺りと考えられるようだ。この記念碑が在る場所―現在、「ウラジミロフカ」と呼び習わされている辺り―は、村内の農場の一部であった場所のようだという。史跡を示そうとすれば、色々な話しも出て来ようが、とりあえず現在のユジノサハリンスクで「街の起こり」と考えている「ウラジミロフカ村」のことを伝える場所というのは興味深い。
この「ウラジミロフカ村」の碑からサハリンスカヤ通を東側へ引揚げる。
ゴロヴニーンの胸像が据えられた広場の脇を抜ければ、賑やかなレーニン通に至る。
↓サハリンスカヤ通もレーニン通も車輛通行量は少なくないが、その交差する辺りに少し目立つ建物が在る。
↑<サハリン>と名付けられた古くからの百貨店だ。意外に美しい建物であると、視る都度に思う。「テナント方式の商業ビル」とでも考えると判り易いかもしれない。館内では区画が仕切られていて、様々な個店が入っている。因みに、地階に食堂が在って、ランチタイムには意外に多く利用した思い出も在る。(極直近の様子は承知していないが…)
この<サハリン>百貨店の、サハリンスカヤ通を挟んだ辺りに映画館の建物が在って、その直ぐ近く、「隣」のような辺りに広場が整備されている。
↓その広場にこういうモノが据えられている。
↑渋い感じの風貌の胸像はニコライ・ワシーリエヴィチ・ルダノフスキー(1819-1882)である。
ルダノフスキーという人物は、「ロシア海軍の功労者」とされるネヴェリスコイの下で、サハリン南部の現地調査を手掛け、詳細な記録を残したという人物だ。
ルダノフスキーは、現在のコルサコフ地区に拠点を築いて指揮を執っていたネヴェリスコイ麾下の士官だった経過が在り、1853年から1854年に主に南部サハリンの各地を踏査し、地図を作成し、詳しい報告を遺したことで、ロシアでは少し知られる人物である。
「サハリンの歴史」ということでは、「地域の最も古い記録の一つは、かのルダノフスキーの記録で…」という例が色々と在るらしい。実際、南西部のネベリスク地区では、この記録が残っている「ルダノフスキーの到達」という故事を“建都”と位置づけてさえいる。
ルダノフスキーがサハリン南部で調査活動をしていたような時期?かの川路聖謨がプチャーチン提督と交渉して日露国交が開かれたような時期に相当する。川路聖謨を主人公に、来航したプチャーチン一行との色々な出来事も描かれる『落日の宴』という小説が非常に面白いが。
サハリンスカヤ通には、海事史関係の人物の胸像が据えられた広場は4箇所在る。西からゴロヴニーン、ルダノフスキー、クルーゼンシュテルンということになる。
↓最も東側に4箇所目が在る。
これがゲンナージー・イワノヴィチ・ネヴェリスコイ(1813-1876)の胸像だ。
ネヴェリスコイは現在の沿海地方やハバロフスク地方、更にサハリンで活動拠点を築くことや地理的調査という活動を展開した。かのムラビヨフ総督の意向を受けての活動だった。
ムラビヨフ総督?皇帝が勅任する役職であった<東シベリア総督>を長く務めて活躍した人物だ。シベリア東部から極東、更にアラスカまでを管轄する行政官のトップで、有事には派遣される軍隊の司令官たり得る立場でもあり、特命事項として外交課題にも取り組むという要職だった。
このムラビヨフ総督は、清国との交渉でアムール川流域の領土を獲得した功績によって「アムールスキー伯爵」という称号を贈られたことから、「ムラビヨフ-アムールスキー」と呼ばれる場合も在る。ウラジオストクの港と街を整備するということに関しては、1860年にこのムラビヨフ総督が号令を掛けたと言われている。
序でながら…このムラビヨフ総督は来日した経過も在る。1859年に来日し、幕吏達との交渉でサハリンの領有権を認めさせようとしたが、父祖の代から日本人が足跡を残している樺太の権利を放棄するべきでもないと、幕府側がその主張を退けたという。
このムラビヨフ総督の意向を受けて活動していたネヴェリスコイは1853年、サハリンに拠点を築いた。現在のコルサコフ地区―ユジノサハリンスクの南側の隣に設けられている地区―に築かれた拠点は、総督の名に因んで「ムラビヨフスキー哨所」と命名された。上述のルダノフスキーは、ネヴェリスコイの指示を受けて、この「ムラビヨフスキー哨所」を起点に方々を巡ったことになる。
この「ムラビヨフスキー哨所」は、暫く活動した後、暫く休眠状態になってしまう。これは上述のプチャーチン提督と川路聖謨との日露国交の交渉にも「中断」という影響が及んだ事柄だが、所謂<クリミア戦争>によってロシアが英国と交戦に及んだというような事情が絡んだ。「英国と交戦」ということになれば、主要な戦線と縁が薄いような極東でも、英国艦船と出くわした場面で摩擦が生じる可能性が在るので、ロシア側は少し慎重になっていたのだった。
「ムラビヨフスキー哨所」は十数年を経て1867年頃に活動を再び活発化させたのだが、この頃にはムラビヨフ総督は退いていた。そういうことで改めて、当時のコルサコフ総督に因んで「コルサコフスキー哨所」と再命名した。そこから、辺りの通称が「コルサコフ」となった。「大泊」と呼ばれていた樺太時代を経て、“ソ連化”された際にこの古い通称の「コルサコフ」を復活させ、現在もコルサコフ地区と呼ばれている訳だ。
↓ユジノサハリンスクから南側へ40㎞程度も不意に動いてしまうが、コルサコフの街には、街の名の由来になったコルサコフ総督の胸像が在る。
このコルサコフ総督の胸像が在るコルサコフの街は、「ムラビヨフスキー哨所」が設けられたという故事、1853年を建都と位置付けている。そしてコルサコフでは「サハリンで最も古い街の一つ」という言い方もしている。(それよりも以前の時代の、色々な人達の足跡も在る訳ではあるが…)
↓序でながら、そのコルサコフには2013年に「建都160年記念」と称して新設されたネヴェリスコイの像も在る。
本稿を綴り始めた動機として、「サハリンってモノが在るの?」という問いに出くわすことが「面白くない!!」と思うということは在った。が、実は「サハリン」は「直ぐ近くであるにも拘らず、ロクに情報らしい情報が無い」という地域なのである。しかしながら、少しだけでも歩いてみれば、19世紀の北東アジアの様々な事項を想い起すような舞台であることに思い至る。そういうことを、街の一寸した広場の胸像等で普通に伝えようとしている様子も伺える。
こういうような「何となく街を歩き廻って出くわす地域の歴史」というような事柄は、存外に好いように自身では思う。こんな様に出くわすサハリンの街は「訪ねて愉しい!」と言い得るとも思う。
【連載】現今事情―サハリン (5)
この「現今事情―サハリン」と称する連載は、「振り返ると随分な数の写真が溜った」という中、何十点か写真を選んで、例えば「○○という場所はこういう感じ…」と一頻り御話しをすることさえ出来てしまうかもしれないという思い付きが出発点になっている。そういう中で「ロシア/サハリン州」の記事(=写真)が相対的に多い中、「サハリンを巡る話題の提起?」と思い付いたことが始まりであった。
そうした「始まり」が在った中で、自身の中で酷く気に懸ったのは「サハリンってモノが在るの?」という問いである。何やら最近は、6月から9月頃の期間に関しては「ネクタイ着用は無用」というようなことになっているらしいが、この「サハリンってモノが在るの?」という問いに関しては「年中必要!!」ということにでもなっているらしく、極々近年、極最近に至っても、未だに「サハリン辺りの事情通…」ということになっている自身に向かって投げ掛けられる機会が実に多い。内心では呆れている…
「振り返ると随分な数の写真が溜った」という中、何十点か写真を選んで、例えば「○○という場所はこういう感じ…」と一頻り御話しも出来るかもしれないという程度に思いながら、少なくとも自身に向かって「サハリンってモノが在るの?」という問いだけは、「断じて発っして頂きたくない!!」という主張をしたいというような気がした。その種の問いを「当たり前」と感じる人達が在るのであれば、「当たり前としていることは極めて異常!!心情的には許せん!!!」という主張が在っても悪くはない筈だ。
ハッキリ言って、様々な状況を見る限り「サハリンってモノが在るの?」という問いは「愚問の体裁を成さない程度に愚かしい愚問」というように思えてならず、「ハッキリ言えば、稚内を含む日本国内の小さな街の方が、余程モノが無い事を判っているか!??」という不愉快極まりないモノが込み上げる事を禁じ得ない。
そういう「やや尖り過ぎ?」な要素が入り込んだ中、「サハリンってモノが在るの?」という問いを発するような人達に向かって、「これでもそんなことを真面目な顔で問うのか?!?!」という、酷く尖った調子でこれまでの稿を綴っていたかもしれない。
が、そんなに「尖り過ぎ?」なことを思って如何なるのでもない。
↓こういう程度の考え方が好いであろうか?
↑「幸せはお買求め頂けませんが、1杯の珈琲はお求め頂けます」と在る。ユジノサハリンスク市内の珈琲スタンドで見付けて、気に入ったので写真に収めた。
誰でも随意に気に入っている美味い珈琲を求めて、少しばかり好い気分で愉しむという、そんな程度のことは出来る。ユジノサハリンスクはそういう場所であることは明らかだ。
美味い珈琲でも時々啜って歩き廻ることが愉しいというような街は、何処であろうと居心地は悪くないと思う。
ユジノサハリンスクという街は、地形の関係で南北に細長く市街が拡がっている。そういう事情なので、西側に在るユジノサハリンスクの鉄道駅を図の下、東側のスキー場も在る山が視える辺りは図の上となるような横長の案内地図が多いと思う。
その案内図の故に、「図の下側」から「図の上側」へ動くと「南北の移動」と錯覚する。が実際は「西から東への移動」だ。
現在のユジノサハリンスクの市街は、20世紀初めに「豊原」として建設整備された市街を下敷きにしている。その「豊原」の市街は、主要道路を境界のようにして、市域を東西南北に仕切っていた。
東西の仕切りになるのが現在のレーニン通だ。鉄道駅の在る側が西で、反対側の山が視える側が東だ。
↓こういう具合に巨大なレーニン像が在る広場が設えられ、奥に鉄道駅が視える。この広場を擁する、街の南北を貫く道路がレーニン通だ。
↑広場の近隣にユジノサハリンスク市行政府の本庁舎も見受けられる。
このレーニン像が視える辺りから少しばかり北上するとサハリンスカヤ通と交差する。このサハリンスカヤ通が、「豊原」の時代に街の南北の仕切りになっていた。サハリンスカヤ通の奥が北で、手前が南であることになる。
このサハリンスカヤ通の西寄り、鉄道の線路も視えるような側に広場が設えられている。
↓広場にこんな胸像も据えられている。
↑これを視て、アニメの『銀河英雄伝説』に登場する“帝国軍”の指揮官級の劇中人物達を思い出してしまったが、昔の海軍軍人の胸像である。(あのアニメの世界は、欧州諸国の昔の海軍を意識したようなデザインの服装を敢えてしているので、こういう「帝政ロシアの海軍士官の軍服」というイメージと重なる部分が在ると思うが…)
胸像の人物はワシ―リー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニーン(1776-1831)である。
ゴロヴニーンは、<ディアナ>号という船で、更に後年は<カムチャッカ>号という船で世界周航を複数回成功させている指揮官としてロシアでは知られている。そして日本でも<ゴローニン事件>と呼び習わされる、箱館を拠点にしていた商人の高田屋嘉兵衛が絡まる事件の当事者として少し知られている。
この広場には、ゴロヴニーンの伝記的な情報や、彼が指揮を執った<カムチャッカ>号を紹介するパネルも据えられている。(ロシア語の説明文が在る…)そこに、<ゴローニン事件>の詳述はされていないが、日本の幕吏に捕えられてしまい、2年近く日本に抑留されてしまったことと、その時の経験や見聞を綴った『日本幽囚記』がよく知られていることは紹介されていた。
実はこの胸像を視たことが切っ掛けで淡路島を訪ねてみたということも在った。
淡路島は、<ゴローニン事件>の「日本側当事者」ということになる高田屋嘉兵衛の故郷である。故郷の村に近い辺りに整備された公園の一隅に<高田屋嘉兵衛顕彰館>という資料館が設けられている。そこを訪ねた。
淡路島を訪ねてみた際には、ユジノサハリンスクからウラジオストクへ飛んで、飛行機を乗換えて成田空港に着き、そのままJRの特急と東海道新幹線を乗り継いで新大阪駅に出て、そこからJRの新快速で神戸の三ノ宮駅に到り、辺りの宿を求めた。そして三宮地区からバスを利用して淡路島を往復したのだ。
↓これは淡路島で撮っている画だ。
↑「時代劇?」という右側の人物は、淡路島が産んだ「実業家」とでも呼びたい活躍を見せた高田屋嘉兵衛だ。左側の外国人はロシアの海軍士官であったワシ―リー・ゴロヴニーンである。
1811年…ロシアとの摩擦の経過故に、ロシア人に警戒していた幕府にゴロヴニーンが捕えられてしまう。対してゴロヴニーンの部下だったリコルドは、日本側の高田屋嘉兵衛を捕えた。高田屋嘉兵衛はゴロヴニーンの解放を当局と掛け合うことを約して解放され、約束を果たしてゴロヴニーンを解放させた。 そんな故事に因んだ像である。高田屋嘉兵衛とゴロヴニーンは、実際には直接会って語らったということでもないようだが、一件の双方の主役が仲良く並んだ像だ。ロシアの彫刻家の作品であるという。
事件は、幕府が「ロシアとの摩擦の経過故に、ロシア人に警戒」ということで生じている。その、幕府がロシアを警戒する契機となった事件に少しばかり関係が在る人物について、このユジノサハリンスクのサハリンスカヤ通で知ることが出来る。
↓ゴロヴニーンの胸像が在る辺りからレーニン通を渡って、サハリンスカヤ通を東へ進んで行くと、こういう胸像が据えられた広場も在る。
これはアーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン(1770-1846)の胸像だ。ロシアではイヴァン・フョードロヴィチ・クルゼンシュテールンとして知られており、ユジノサハリンスクの胸像にはそのイワン・フョードロヴィチの方で名が刻まれている。
クルーゼンシュテルンは、バルト海沿岸部のドイツ系、スウェーデン貴族の流れを汲む一族の出で、エストニアで産れた。長じて海軍軍人となり、探検家として知られるような事績も残している。殊に1803年から1806年の期間で、ロシアとしては初めて記録に残る世界周航を達成している。そして、その際に通過した日本海に関して"MER DU JAPON" と記録し、諸国に“日本海”の名を紹介した人物と考えられる。
1804年にロシアの使節であるニコライ・レザノフが長崎へ至り、日本との通商関係樹立を目指して交渉に臨もうとしたものの巧く事が運ばなかった経過が在った。その際の、レザノフが乗っていた船の指揮を執っていたのがクルーゼンシュテルンということになるようだ。
日本の幕府との話し合いが巧く行かなかったレザノフは憤慨していたということだが、それを「忖度…」した関係者が在った。そしてその者達は日本の人達が活動していた場所を襲撃―艦砲を撃ち込むようなこと…―をしている。
日本の側では「夷狄の襲来!?」というような緊張感が走った。幕府は奥州方面の大名家に命じて武士団を現在の北海道等へ派遣する措置を講じた経過も在った。そんな人達は現在の稚内市内の宗谷にも足跡を残している。そして一部はサハリンの南側、コルサコフ地区にも滞在していた。
そんな経過が在った少し後の1811年、測量活動の途次に飲料水の補給可能性を探ろうと千島列島の島に上陸を試みたゴロヴニーンが幕吏達の前に姿を現した。幕吏達は即座にゴロヴニーンを捕えてしまった。後に箱館に在ったゴロヴニーンは、自身が捕えられてしまう原因ともなった、少し前の事件に関して知ったようであるが。
ユジノサハリンスクが在るサハリンは、巨大な大陸の国であるロシアでは「島々の地域」という呼ばれ方もしている。そしてサハリンの人達自体も、自分たちの地域を「島々の地域」と称してもいる。そういう地域の地誌等が伝えられる経過で、知られている人物達に関して、街の広場に胸像を据えて伝えようとしている訳だ。それ自体、極めて普通であると思う。
更に、19世紀頃の「海が国々を結び付けるという方向性が強まった?」というようにも視える時代のことが、サハリンスカヤ通を少しばかり歩けば視えて来る一面も在る訳だ。
或いは、こういう「さり気ない街の様子」が「不幸な程度?」に知られていないかもしれない。そんな想いが募る場合も在る。
そうした「始まり」が在った中で、自身の中で酷く気に懸ったのは「サハリンってモノが在るの?」という問いである。何やら最近は、6月から9月頃の期間に関しては「ネクタイ着用は無用」というようなことになっているらしいが、この「サハリンってモノが在るの?」という問いに関しては「年中必要!!」ということにでもなっているらしく、極々近年、極最近に至っても、未だに「サハリン辺りの事情通…」ということになっている自身に向かって投げ掛けられる機会が実に多い。内心では呆れている…
「振り返ると随分な数の写真が溜った」という中、何十点か写真を選んで、例えば「○○という場所はこういう感じ…」と一頻り御話しも出来るかもしれないという程度に思いながら、少なくとも自身に向かって「サハリンってモノが在るの?」という問いだけは、「断じて発っして頂きたくない!!」という主張をしたいというような気がした。その種の問いを「当たり前」と感じる人達が在るのであれば、「当たり前としていることは極めて異常!!心情的には許せん!!!」という主張が在っても悪くはない筈だ。
ハッキリ言って、様々な状況を見る限り「サハリンってモノが在るの?」という問いは「愚問の体裁を成さない程度に愚かしい愚問」というように思えてならず、「ハッキリ言えば、稚内を含む日本国内の小さな街の方が、余程モノが無い事を判っているか!??」という不愉快極まりないモノが込み上げる事を禁じ得ない。
そういう「やや尖り過ぎ?」な要素が入り込んだ中、「サハリンってモノが在るの?」という問いを発するような人達に向かって、「これでもそんなことを真面目な顔で問うのか?!?!」という、酷く尖った調子でこれまでの稿を綴っていたかもしれない。
が、そんなに「尖り過ぎ?」なことを思って如何なるのでもない。
↓こういう程度の考え方が好いであろうか?
↑「幸せはお買求め頂けませんが、1杯の珈琲はお求め頂けます」と在る。ユジノサハリンスク市内の珈琲スタンドで見付けて、気に入ったので写真に収めた。
誰でも随意に気に入っている美味い珈琲を求めて、少しばかり好い気分で愉しむという、そんな程度のことは出来る。ユジノサハリンスクはそういう場所であることは明らかだ。
美味い珈琲でも時々啜って歩き廻ることが愉しいというような街は、何処であろうと居心地は悪くないと思う。
ユジノサハリンスクという街は、地形の関係で南北に細長く市街が拡がっている。そういう事情なので、西側に在るユジノサハリンスクの鉄道駅を図の下、東側のスキー場も在る山が視える辺りは図の上となるような横長の案内地図が多いと思う。
その案内図の故に、「図の下側」から「図の上側」へ動くと「南北の移動」と錯覚する。が実際は「西から東への移動」だ。
現在のユジノサハリンスクの市街は、20世紀初めに「豊原」として建設整備された市街を下敷きにしている。その「豊原」の市街は、主要道路を境界のようにして、市域を東西南北に仕切っていた。
東西の仕切りになるのが現在のレーニン通だ。鉄道駅の在る側が西で、反対側の山が視える側が東だ。
↓こういう具合に巨大なレーニン像が在る広場が設えられ、奥に鉄道駅が視える。この広場を擁する、街の南北を貫く道路がレーニン通だ。
↑広場の近隣にユジノサハリンスク市行政府の本庁舎も見受けられる。
このレーニン像が視える辺りから少しばかり北上するとサハリンスカヤ通と交差する。このサハリンスカヤ通が、「豊原」の時代に街の南北の仕切りになっていた。サハリンスカヤ通の奥が北で、手前が南であることになる。
このサハリンスカヤ通の西寄り、鉄道の線路も視えるような側に広場が設えられている。
↓広場にこんな胸像も据えられている。
↑これを視て、アニメの『銀河英雄伝説』に登場する“帝国軍”の指揮官級の劇中人物達を思い出してしまったが、昔の海軍軍人の胸像である。(あのアニメの世界は、欧州諸国の昔の海軍を意識したようなデザインの服装を敢えてしているので、こういう「帝政ロシアの海軍士官の軍服」というイメージと重なる部分が在ると思うが…)
胸像の人物はワシ―リー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニーン(1776-1831)である。
ゴロヴニーンは、<ディアナ>号という船で、更に後年は<カムチャッカ>号という船で世界周航を複数回成功させている指揮官としてロシアでは知られている。そして日本でも<ゴローニン事件>と呼び習わされる、箱館を拠点にしていた商人の高田屋嘉兵衛が絡まる事件の当事者として少し知られている。
この広場には、ゴロヴニーンの伝記的な情報や、彼が指揮を執った<カムチャッカ>号を紹介するパネルも据えられている。(ロシア語の説明文が在る…)そこに、<ゴローニン事件>の詳述はされていないが、日本の幕吏に捕えられてしまい、2年近く日本に抑留されてしまったことと、その時の経験や見聞を綴った『日本幽囚記』がよく知られていることは紹介されていた。
実はこの胸像を視たことが切っ掛けで淡路島を訪ねてみたということも在った。
淡路島は、<ゴローニン事件>の「日本側当事者」ということになる高田屋嘉兵衛の故郷である。故郷の村に近い辺りに整備された公園の一隅に<高田屋嘉兵衛顕彰館>という資料館が設けられている。そこを訪ねた。
淡路島を訪ねてみた際には、ユジノサハリンスクからウラジオストクへ飛んで、飛行機を乗換えて成田空港に着き、そのままJRの特急と東海道新幹線を乗り継いで新大阪駅に出て、そこからJRの新快速で神戸の三ノ宮駅に到り、辺りの宿を求めた。そして三宮地区からバスを利用して淡路島を往復したのだ。
↓これは淡路島で撮っている画だ。
↑「時代劇?」という右側の人物は、淡路島が産んだ「実業家」とでも呼びたい活躍を見せた高田屋嘉兵衛だ。左側の外国人はロシアの海軍士官であったワシ―リー・ゴロヴニーンである。
1811年…ロシアとの摩擦の経過故に、ロシア人に警戒していた幕府にゴロヴニーンが捕えられてしまう。対してゴロヴニーンの部下だったリコルドは、日本側の高田屋嘉兵衛を捕えた。高田屋嘉兵衛はゴロヴニーンの解放を当局と掛け合うことを約して解放され、約束を果たしてゴロヴニーンを解放させた。 そんな故事に因んだ像である。高田屋嘉兵衛とゴロヴニーンは、実際には直接会って語らったということでもないようだが、一件の双方の主役が仲良く並んだ像だ。ロシアの彫刻家の作品であるという。
事件は、幕府が「ロシアとの摩擦の経過故に、ロシア人に警戒」ということで生じている。その、幕府がロシアを警戒する契機となった事件に少しばかり関係が在る人物について、このユジノサハリンスクのサハリンスカヤ通で知ることが出来る。
↓ゴロヴニーンの胸像が在る辺りからレーニン通を渡って、サハリンスカヤ通を東へ進んで行くと、こういう胸像が据えられた広場も在る。
これはアーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン(1770-1846)の胸像だ。ロシアではイヴァン・フョードロヴィチ・クルゼンシュテールンとして知られており、ユジノサハリンスクの胸像にはそのイワン・フョードロヴィチの方で名が刻まれている。
クルーゼンシュテルンは、バルト海沿岸部のドイツ系、スウェーデン貴族の流れを汲む一族の出で、エストニアで産れた。長じて海軍軍人となり、探検家として知られるような事績も残している。殊に1803年から1806年の期間で、ロシアとしては初めて記録に残る世界周航を達成している。そして、その際に通過した日本海に関して"MER DU JAPON" と記録し、諸国に“日本海”の名を紹介した人物と考えられる。
1804年にロシアの使節であるニコライ・レザノフが長崎へ至り、日本との通商関係樹立を目指して交渉に臨もうとしたものの巧く事が運ばなかった経過が在った。その際の、レザノフが乗っていた船の指揮を執っていたのがクルーゼンシュテルンということになるようだ。
日本の幕府との話し合いが巧く行かなかったレザノフは憤慨していたということだが、それを「忖度…」した関係者が在った。そしてその者達は日本の人達が活動していた場所を襲撃―艦砲を撃ち込むようなこと…―をしている。
日本の側では「夷狄の襲来!?」というような緊張感が走った。幕府は奥州方面の大名家に命じて武士団を現在の北海道等へ派遣する措置を講じた経過も在った。そんな人達は現在の稚内市内の宗谷にも足跡を残している。そして一部はサハリンの南側、コルサコフ地区にも滞在していた。
そんな経過が在った少し後の1811年、測量活動の途次に飲料水の補給可能性を探ろうと千島列島の島に上陸を試みたゴロヴニーンが幕吏達の前に姿を現した。幕吏達は即座にゴロヴニーンを捕えてしまった。後に箱館に在ったゴロヴニーンは、自身が捕えられてしまう原因ともなった、少し前の事件に関して知ったようであるが。
ユジノサハリンスクが在るサハリンは、巨大な大陸の国であるロシアでは「島々の地域」という呼ばれ方もしている。そしてサハリンの人達自体も、自分たちの地域を「島々の地域」と称してもいる。そういう地域の地誌等が伝えられる経過で、知られている人物達に関して、街の広場に胸像を据えて伝えようとしている訳だ。それ自体、極めて普通であると思う。
更に、19世紀頃の「海が国々を結び付けるという方向性が強まった?」というようにも視える時代のことが、サハリンスカヤ通を少しばかり歩けば視えて来る一面も在る訳だ。
或いは、こういう「さり気ない街の様子」が「不幸な程度?」に知られていないかもしれない。そんな想いが募る場合も在る。
【連載】現今事情―サハリン (4)
激しい雨、風雨模様、冬季であれば吹雪というようなことでもなければ、勿論体調や気分次第でもあるが「何となく街を散策」というようなことをすることを好む。
「何となく街を散策」というようなことは、何処に行ってもする。地元であれ、国内各地であれ、サハリンであれ、それは変わらない。
↓ユジノサハリンスクで「何となく街を散策」ということでもすれば、この種の場所に途中で寄る機会が多いかもしれない。
↑ユジノサハリンスクの街中には、様々なカフェが在る。多くの店で「持ち帰り」で紙等のカップに入れて供してくれるモノも売られているので、寄道で店内の席に座る以外に、外に飲物を持出して戸外で頂いてみる場合も多い。
「珈琲等を時折求め、それを飲みながら街で散策」というスタイルも、地元であれ、国内各地であれ、サハリンであれ変わらない。そして、そういう中で「何処となく惹かれる何か…」を見出すのが「止められない面白さ…」であると思っている。
ユジノサハリンスクでも色々なモノを見出した。ユジノサハリンスクに限らず、サハリンの各地でも色々と見出した。時々そういう色々を思い出す。
↓不思議な自動車を見掛ける場合も在る…
↑ユジノサハリンスクの街中で何度も見掛けて、「アレは何??」と思っていた。
少々高価そうな車を乗り回している人達はユジノサハリンスクの街中で色々と見掛けたが、写真の車は「余りにも派手?!」だと思った。この種の所謂“リムジン”というようなタイプの車を殊更に好むというような方でも在るのかと思った。
しかしそれは正しくはなかった。この車は「催事用に貸出す車輌」ということである。“運転手付き”ということなのか、“レンタカー”のように借りた方等が運転するのか、その辺の仕組は確かめてはいない。(慣れた運転手でなければ、扱い悪そうには見える車ではある…)
こういう車は主に慶事に用いられているようだ。例えば「新婚さん」がこういう車に乗って市内の名所等を巡って、方々でビデオや写真を盛んに撮っている様子が、殊に気候が好い初夏から秋にはユジノサハリンスク市内でも多く見受けられる。
何時頃からなのかは判らないが、ロシアでは意外に古くから「新婚さん」が街の名所を巡って、家族や友人がそれに同行して写真を沢山撮るというような慣例は在るらしい。歩いて動き回る範囲でやっていた場合も在ったのだろうが、何時の間にか車で巡るようになった。「慶事だ!」と、「新婚さん」御本人達か親しい友人か家族が車を用意し、車を少し飾るというようなこともするようになって行った。現在でもそういうスタイルが在る。寧ろ多いかもしれない。しかしそれと同時に、こういう「余りに華々しい…」という車輌を用意してみるというやり方も出て来て、それなりに流行っているように見受けられる。
日本国内でも「新婚さん」が、街の景色が好い場所で記念撮影をしている様子を見掛けたことが在る。「大切な慶事」に「少し特別…」という気持ちからやっていることであると思う。何処の街であったか、何やら「ピカピカ発光している?陽光が反射するモノがチラチラ?」という様子に出くわし、少し近付いて視るとテレビドラマや映画、またはモデル撮影で使う“レフ版”を持つアシスタントを従えたカメラマンが「新婚さん」をバシバシと撮っている様子だったことが在った。「アシスタントを従えるカメラマン」に写真撮影を依頼すれば、「それなり?」な料金であると思う。それでも「大切な慶事」は「少し特別…」だから「それなり?」な料金も構わない訳だ。
こういう「大切な慶事」は「少し特別…」だからと、金が掛かるサービスを利用するということについて、日本国内の街でもユジノサハリンスクでも大きな差異は無いのであろう。ユジノサハリンスクの“リムジン”も高価と見受けられる車なので、どういう仕組であるにせよ、利用するには「それなり?」な料金であることに疑いは無い。
何も「新婚さん」に限らず、巷に「慶事」というモノは色々と在る。
↓主に「慶事」に関連すると思うのだが、ユジノサハリンスクにはこういう場所が在る。
↑周囲の店舗等が営業を終えている夜間に、煌々と灯が点いている店は、花束に使うような花を売る店だ。「24時間営業」である。
花屋が「24時間営業」をやっている?「24時間営業」の店で花を売っているのでもない。「花屋!」が如何いう訳か「24時間営業」だ。これはユジノサハリンスクで偶々在ったということでもない。ロシアの街、一定以上の規模の街では広く見受けられるものであるようだ。
ユジノサハリンスク等で視ると、何やら「一寸したことで花を贈る」という慣習が広く行渡っているようだ。誕生日、入学や卒業、何かの記念日、表彰でも受けるような栄誉、その他に例えば「音楽をやっている友人や知人がライブハウスで演奏するので演奏後に」とか「久し振りに親しい友人に会う機会が設けられたから」というような次元に至るまで、「慶事」という範疇の何かが在れば「とりあえず花束を贈る」のだ。
更に夥しい花束の需要が生じる慣行も見受けられる。<国際女性デー>(3月8日)になれば、個人や事業所で、仕事上の付き合いが在る関係先の女性に花束を贈る、家族や極親しい友人の間で女性に花束を贈るという慣行が見受けられ、その時季の花屋は酷く忙しいらしい。その<国際女性デー>の花束を用意しようと、1箇月位前に花屋に予約をするというのもよく在る話しだ。他に「学校の新学期」に花束を贈り合うような慣行等も見受けられるようだが、何かにつけて花束が登場する。
ユジノサハリンスクの花屋で売られている花卉類だが、これらはロシア国内の花卉類の流通経路を通じて供給されている。様々な国や地域で生産されている花卉類が輸入されている。他方にロシア国内で生産されている例も在るようだ。
↓そしてサハリンにはこれも在る。
↑ユジノサハリンスクの郊外に在る温室で花卉類が生産されている。生産を手掛ける会社が花屋部門も持っていて、そこで入手可能なモノだ。地元ではなかなかに人気が高いとも聞く。折角頂いたので、適当な容器に入れて飾っていた花の様子が好くなった時に写真を撮っておいた。
この「サハリンの温室で育った」という花卉に関しては、日本国内で花の販売に関連する仕事に携わっている方達と一緒に拝見したことも在った。日本国内で売られているモノと比べて何ら遜色が無いというどころか、かなり良質と見受けられるそうだ。安定的な輸送手段が在って、十分な量の供給が可能となって、経費を吸収可能であると同時に消費者に受け入れられる販売価格と出来るのであれば「サハリンの花卉を日本国内に輸入して販売へ…」ということだって夢ではない。
ユジノサハリンスクの街の中では飲物を時折求めながらというようなことをしながら歩くことが可能である。そうやって歩き回っていて、酷く華々しい車を見掛けると、慶事用に貸出すサービスの車だ。慶事を盛り上げるサービスが一定程度普及している。そして慶事を彩る花について、24時間売っている店さえ在り、街に豊富に花卉は在る。花卉の一部は地元の会社が温室栽培していて、それも販売されて好評を博しているという。
こういうような場所であるサハリンを捉えて「サハリンってモノが在るの?」と問うてみる必然性が在るのだろうか?微塵も無いと思えるのだが、如何であろうか?
「何となく街を散策」というようなことは、何処に行ってもする。地元であれ、国内各地であれ、サハリンであれ、それは変わらない。
↓ユジノサハリンスクで「何となく街を散策」ということでもすれば、この種の場所に途中で寄る機会が多いかもしれない。
↑ユジノサハリンスクの街中には、様々なカフェが在る。多くの店で「持ち帰り」で紙等のカップに入れて供してくれるモノも売られているので、寄道で店内の席に座る以外に、外に飲物を持出して戸外で頂いてみる場合も多い。
「珈琲等を時折求め、それを飲みながら街で散策」というスタイルも、地元であれ、国内各地であれ、サハリンであれ変わらない。そして、そういう中で「何処となく惹かれる何か…」を見出すのが「止められない面白さ…」であると思っている。
ユジノサハリンスクでも色々なモノを見出した。ユジノサハリンスクに限らず、サハリンの各地でも色々と見出した。時々そういう色々を思い出す。
↓不思議な自動車を見掛ける場合も在る…
↑ユジノサハリンスクの街中で何度も見掛けて、「アレは何??」と思っていた。
少々高価そうな車を乗り回している人達はユジノサハリンスクの街中で色々と見掛けたが、写真の車は「余りにも派手?!」だと思った。この種の所謂“リムジン”というようなタイプの車を殊更に好むというような方でも在るのかと思った。
しかしそれは正しくはなかった。この車は「催事用に貸出す車輌」ということである。“運転手付き”ということなのか、“レンタカー”のように借りた方等が運転するのか、その辺の仕組は確かめてはいない。(慣れた運転手でなければ、扱い悪そうには見える車ではある…)
こういう車は主に慶事に用いられているようだ。例えば「新婚さん」がこういう車に乗って市内の名所等を巡って、方々でビデオや写真を盛んに撮っている様子が、殊に気候が好い初夏から秋にはユジノサハリンスク市内でも多く見受けられる。
何時頃からなのかは判らないが、ロシアでは意外に古くから「新婚さん」が街の名所を巡って、家族や友人がそれに同行して写真を沢山撮るというような慣例は在るらしい。歩いて動き回る範囲でやっていた場合も在ったのだろうが、何時の間にか車で巡るようになった。「慶事だ!」と、「新婚さん」御本人達か親しい友人か家族が車を用意し、車を少し飾るというようなこともするようになって行った。現在でもそういうスタイルが在る。寧ろ多いかもしれない。しかしそれと同時に、こういう「余りに華々しい…」という車輌を用意してみるというやり方も出て来て、それなりに流行っているように見受けられる。
日本国内でも「新婚さん」が、街の景色が好い場所で記念撮影をしている様子を見掛けたことが在る。「大切な慶事」に「少し特別…」という気持ちからやっていることであると思う。何処の街であったか、何やら「ピカピカ発光している?陽光が反射するモノがチラチラ?」という様子に出くわし、少し近付いて視るとテレビドラマや映画、またはモデル撮影で使う“レフ版”を持つアシスタントを従えたカメラマンが「新婚さん」をバシバシと撮っている様子だったことが在った。「アシスタントを従えるカメラマン」に写真撮影を依頼すれば、「それなり?」な料金であると思う。それでも「大切な慶事」は「少し特別…」だから「それなり?」な料金も構わない訳だ。
こういう「大切な慶事」は「少し特別…」だからと、金が掛かるサービスを利用するということについて、日本国内の街でもユジノサハリンスクでも大きな差異は無いのであろう。ユジノサハリンスクの“リムジン”も高価と見受けられる車なので、どういう仕組であるにせよ、利用するには「それなり?」な料金であることに疑いは無い。
何も「新婚さん」に限らず、巷に「慶事」というモノは色々と在る。
↓主に「慶事」に関連すると思うのだが、ユジノサハリンスクにはこういう場所が在る。
↑周囲の店舗等が営業を終えている夜間に、煌々と灯が点いている店は、花束に使うような花を売る店だ。「24時間営業」である。
花屋が「24時間営業」をやっている?「24時間営業」の店で花を売っているのでもない。「花屋!」が如何いう訳か「24時間営業」だ。これはユジノサハリンスクで偶々在ったということでもない。ロシアの街、一定以上の規模の街では広く見受けられるものであるようだ。
ユジノサハリンスク等で視ると、何やら「一寸したことで花を贈る」という慣習が広く行渡っているようだ。誕生日、入学や卒業、何かの記念日、表彰でも受けるような栄誉、その他に例えば「音楽をやっている友人や知人がライブハウスで演奏するので演奏後に」とか「久し振りに親しい友人に会う機会が設けられたから」というような次元に至るまで、「慶事」という範疇の何かが在れば「とりあえず花束を贈る」のだ。
更に夥しい花束の需要が生じる慣行も見受けられる。<国際女性デー>(3月8日)になれば、個人や事業所で、仕事上の付き合いが在る関係先の女性に花束を贈る、家族や極親しい友人の間で女性に花束を贈るという慣行が見受けられ、その時季の花屋は酷く忙しいらしい。その<国際女性デー>の花束を用意しようと、1箇月位前に花屋に予約をするというのもよく在る話しだ。他に「学校の新学期」に花束を贈り合うような慣行等も見受けられるようだが、何かにつけて花束が登場する。
ユジノサハリンスクの花屋で売られている花卉類だが、これらはロシア国内の花卉類の流通経路を通じて供給されている。様々な国や地域で生産されている花卉類が輸入されている。他方にロシア国内で生産されている例も在るようだ。
↓そしてサハリンにはこれも在る。
↑ユジノサハリンスクの郊外に在る温室で花卉類が生産されている。生産を手掛ける会社が花屋部門も持っていて、そこで入手可能なモノだ。地元ではなかなかに人気が高いとも聞く。折角頂いたので、適当な容器に入れて飾っていた花の様子が好くなった時に写真を撮っておいた。
この「サハリンの温室で育った」という花卉に関しては、日本国内で花の販売に関連する仕事に携わっている方達と一緒に拝見したことも在った。日本国内で売られているモノと比べて何ら遜色が無いというどころか、かなり良質と見受けられるそうだ。安定的な輸送手段が在って、十分な量の供給が可能となって、経費を吸収可能であると同時に消費者に受け入れられる販売価格と出来るのであれば「サハリンの花卉を日本国内に輸入して販売へ…」ということだって夢ではない。
ユジノサハリンスクの街の中では飲物を時折求めながらというようなことをしながら歩くことが可能である。そうやって歩き回っていて、酷く華々しい車を見掛けると、慶事用に貸出すサービスの車だ。慶事を盛り上げるサービスが一定程度普及している。そして慶事を彩る花について、24時間売っている店さえ在り、街に豊富に花卉は在る。花卉の一部は地元の会社が温室栽培していて、それも販売されて好評を博しているという。
こういうような場所であるサハリンを捉えて「サハリンってモノが在るの?」と問うてみる必然性が在るのだろうか?微塵も無いと思えるのだが、如何であろうか?
【連載】現今事情―サハリン (3)
夕方から夜の中途半端な時間帯に、「何時でも御休み頂いて結構です…」という状態で寛ぎたい他方、「何か適当に美味い夕食を軽く…」(場合によってはひどい空腹で、確りと頂きたいかもしれないが…)という程度に思う場面は存外に多いような気がする。
こういう状態が“出先”で発生すると如何するか?“出先”となれば「土地の美味いモノを適当な場所で…」ということにもなろうが、それでも「何やら動き回って草臥れたので、とりあえず寛ぎたいのだが、他方で一寸食べたい…」という“我儘”は生じる。或いはその種の、または少し意味合いが異なる場合も在りうる“我儘”を満たしてくれるのが「各種のサービス」というモノだ。
実は過日、“出先”の旭川でこの種の“我儘”が生じた。所用を足して安堵し、稚内へ引揚げる途次に立ち寄り「翌早朝から“続き”の移動…」ということにした。サウナをも設えた大浴場を擁している気に入った宿の部屋を求めて寛ぐことにした。宿へ入るまでの時間、少し街を歩き廻ってもみていて、何か酷く「何時でも御休み頂いて結構という状態で…」という渇望が在ったと同時に、「一寸食べたい…」という“我儘”が生じた訳だ。
そうした中、何れにしても「宿の室内で飲むモノ」を求めたかったので、旭川の駅辺りに在る商業施設に入っているスーパーに向かった。そこで飲物の他、<総菜コーナー>で「一寸摘むモノ」も求めたのだった。
日本国内の方々で似たようなことをやっている。時には…<総菜コーナー>を設けているようなスーパーの営業時間帯と自身の行動とが噛合わずにこの種の真似がやり悪い、または出来ない場合も在る。
サハリン?ユジノサハリンスク辺りは如何か?
↓確り出来る!
夕刻に一寸出掛けて、やや遅い時間に滞在先へ引揚げた。完全に引揚げてしまう前、道すがらの早朝から深夜まで営業のスーパーに立ち寄り、<総菜コーナー>を覗いて「これ?好いかな?」と求めてみた訳だ。
この時は何となく寿司にした。結局、日本起源の料理ではあるが、地元で製造可能なように、味の好みに合うように、適正と思われる価格で販売可能なようにと、内容がアレンジされて定着し、こうして<総菜コーナー>に寿司が並んでいるのである。
↓夜になると、残った総菜類を売り切ってしまおうということで「割引」のシールを貼り付けるというのも在るのだ。(序でながら「本日中に御召上がりを!」とも在るが…)ユジノサハリンスクに滞在し、空腹な状態で「やや遅め…」になると、敢えてこの“シール”を狙ってスーパーに寄ってみるようにしたことも在った。
立寄ったスーパーは早朝から深夜まで営業だ。この種の総菜類を利用しようということならとにかく便利だった。日本国内では?コンビニでこういう真似が出来るであろう。が、日本国内のコンビニの多くでは「割引」のシールを貼り付けという例は聞かない。
ユジノサハリンスクのスーパーでは、夜に訪れると総菜類の「割引」のシールを貼り付けというのまで見受けられ、日本国内で何となく立寄るスーパーと然程の差は無いと思う。当然ながら、日本国内とは異なる商品が出回っていて、消費者の嗜好も異なるので「何やら見慣れないモノが色々と…」という程度には思う。が、果物や野菜、魚や肉、各種加工食品や調味料、各種飲料、菓子類、惣菜、住宅内での一寸した消耗品というような、「日本国内のスーパーで見掛ける商品の各領域」というようなモノは揃っている。
↓こういうモノもユジノサハリンスクのスーパーで求めてみたことが在った。
網状になった袋にミカンが入ったモノが売られていた。ユジノサハリンスクで、或いはサハリンやロシア全般での傾向かもしれないが、年末年始を挟むような時季、何やらミカンの人気が高まっているように見受けられた。これは日本国内と似たような傾向かもしれない。
そういうように思うのだが、このユジノサハリンスクで求めたミカンの、袋の結び目に貼り付いたラベルをよく見ると「ミカン(日本国)」と書かれて、正しい手続きで輸入されていると謳われているようだった。何処の県のミカンなのかまでは不詳だった。が、ユジノサハリンスクでも日本国内で出回っているモノと同様のモノが普通に売られているのである。
↓本当に、日本国内でミカンを求めて頂く場合と何ら変わりは無い…
輸出入には、商品量の多い少ないと無関係に諸経費が生じるので、そうした諸経費を販売価格で吸収可能な状況か否かの判断が少々難しい場合も在るであろう。日本国内の側で、「新たな販路…」と思い立つのは結構だが、「諸経費を販売価格で吸収可能な状況」にするには「相当量を供給」という必要も在って、例示したミカンのような商品が売られるようになるまでには意外に手が掛かっている。
例えば、日本国内からサハリンへミカンを輸出しようとして、諸経費が10万円程度発生したとする。ミカンが1箱3千円とすれば、その1箱をサハリンに送り込んだ時点で「1箱10万3千円」だ。箱の中のミカンを幾らで販売するのか?売る術が無いような異常な価格にしかならない。が100箱も輸出するなら、1箱3千円なら30万円で、諸経費を合わせると40万円になる。であれば「日本国内で1箱3千円、サハリンでは1箱4千円」ということになる。サハリンでこの4千円が「妥当…」とされて販売が伸ばせるのであれば、輸出入の商談は成立で、取引も或る程度続けることが出来るということになる。
極々大雑把に考えてみたが、こういうようなロシアと諸外国との輸出入を介して流通しているモノ、そしてロシア国内で製造されて流通しているモノがサハリンのスーパーにも入り込んでいるのだ。
日本国内で何となく立寄るスーパーと然程の差は無いような店がサハリンで拡がり始めたのは、多分2000年代以降位だ。そういう時代に起こっているということは?そもそもの最初から、在庫、売上の管理、加えて「売れ筋を狙って仕入れ」というように出来る「商品のバーコードを読み込んで精算」という仕組みで販売が展開されているということになる。
ここで、スーパーで見掛けて求めた総菜とミカンとを取上げた。何れのモノも、カゴに入れてレジへ持って行き、レジでは店員さんがバーコードを読む作業をする。「割引」の惣菜は、店員さんが何やら操作をすると値引きされる。そしてレジで精算を行う訳だ。
カフェが「エスプレッソマシンを使って淹れた珈琲を供する」にいきなりなっているのと同様、「以前の時代の…」という方式を飛ばして「最近主流の管理方式」でスーパーは営まれている訳だ。そして、日本国内の対面販売に近いような方式の店も在る他方、スーパーはチェーン店化さえしていて、ユジノサハリンスク市内や、最近では周辺の他地区でも見受けられるようになった。
果物や野菜、魚や肉、各種加工食品や調味料、各種飲料、菓子類、惣菜、住宅内での一寸した消耗品と言った「スーパーで見掛ける商品の各領域」というようなモノは、日本国内でもサハリンでも、とりあえずスーパーを覗けば揃っている。それでも尚、「サハリンってモノが在るの?」と問われ続けなければならないのだろうか?
こういう状態が“出先”で発生すると如何するか?“出先”となれば「土地の美味いモノを適当な場所で…」ということにもなろうが、それでも「何やら動き回って草臥れたので、とりあえず寛ぎたいのだが、他方で一寸食べたい…」という“我儘”は生じる。或いはその種の、または少し意味合いが異なる場合も在りうる“我儘”を満たしてくれるのが「各種のサービス」というモノだ。
実は過日、“出先”の旭川でこの種の“我儘”が生じた。所用を足して安堵し、稚内へ引揚げる途次に立ち寄り「翌早朝から“続き”の移動…」ということにした。サウナをも設えた大浴場を擁している気に入った宿の部屋を求めて寛ぐことにした。宿へ入るまでの時間、少し街を歩き廻ってもみていて、何か酷く「何時でも御休み頂いて結構という状態で…」という渇望が在ったと同時に、「一寸食べたい…」という“我儘”が生じた訳だ。
そうした中、何れにしても「宿の室内で飲むモノ」を求めたかったので、旭川の駅辺りに在る商業施設に入っているスーパーに向かった。そこで飲物の他、<総菜コーナー>で「一寸摘むモノ」も求めたのだった。
日本国内の方々で似たようなことをやっている。時には…<総菜コーナー>を設けているようなスーパーの営業時間帯と自身の行動とが噛合わずにこの種の真似がやり悪い、または出来ない場合も在る。
サハリン?ユジノサハリンスク辺りは如何か?
↓確り出来る!
夕刻に一寸出掛けて、やや遅い時間に滞在先へ引揚げた。完全に引揚げてしまう前、道すがらの早朝から深夜まで営業のスーパーに立ち寄り、<総菜コーナー>を覗いて「これ?好いかな?」と求めてみた訳だ。
この時は何となく寿司にした。結局、日本起源の料理ではあるが、地元で製造可能なように、味の好みに合うように、適正と思われる価格で販売可能なようにと、内容がアレンジされて定着し、こうして<総菜コーナー>に寿司が並んでいるのである。
↓夜になると、残った総菜類を売り切ってしまおうということで「割引」のシールを貼り付けるというのも在るのだ。(序でながら「本日中に御召上がりを!」とも在るが…)ユジノサハリンスクに滞在し、空腹な状態で「やや遅め…」になると、敢えてこの“シール”を狙ってスーパーに寄ってみるようにしたことも在った。
立寄ったスーパーは早朝から深夜まで営業だ。この種の総菜類を利用しようということならとにかく便利だった。日本国内では?コンビニでこういう真似が出来るであろう。が、日本国内のコンビニの多くでは「割引」のシールを貼り付けという例は聞かない。
ユジノサハリンスクのスーパーでは、夜に訪れると総菜類の「割引」のシールを貼り付けというのまで見受けられ、日本国内で何となく立寄るスーパーと然程の差は無いと思う。当然ながら、日本国内とは異なる商品が出回っていて、消費者の嗜好も異なるので「何やら見慣れないモノが色々と…」という程度には思う。が、果物や野菜、魚や肉、各種加工食品や調味料、各種飲料、菓子類、惣菜、住宅内での一寸した消耗品というような、「日本国内のスーパーで見掛ける商品の各領域」というようなモノは揃っている。
↓こういうモノもユジノサハリンスクのスーパーで求めてみたことが在った。
網状になった袋にミカンが入ったモノが売られていた。ユジノサハリンスクで、或いはサハリンやロシア全般での傾向かもしれないが、年末年始を挟むような時季、何やらミカンの人気が高まっているように見受けられた。これは日本国内と似たような傾向かもしれない。
そういうように思うのだが、このユジノサハリンスクで求めたミカンの、袋の結び目に貼り付いたラベルをよく見ると「ミカン(日本国)」と書かれて、正しい手続きで輸入されていると謳われているようだった。何処の県のミカンなのかまでは不詳だった。が、ユジノサハリンスクでも日本国内で出回っているモノと同様のモノが普通に売られているのである。
↓本当に、日本国内でミカンを求めて頂く場合と何ら変わりは無い…
輸出入には、商品量の多い少ないと無関係に諸経費が生じるので、そうした諸経費を販売価格で吸収可能な状況か否かの判断が少々難しい場合も在るであろう。日本国内の側で、「新たな販路…」と思い立つのは結構だが、「諸経費を販売価格で吸収可能な状況」にするには「相当量を供給」という必要も在って、例示したミカンのような商品が売られるようになるまでには意外に手が掛かっている。
例えば、日本国内からサハリンへミカンを輸出しようとして、諸経費が10万円程度発生したとする。ミカンが1箱3千円とすれば、その1箱をサハリンに送り込んだ時点で「1箱10万3千円」だ。箱の中のミカンを幾らで販売するのか?売る術が無いような異常な価格にしかならない。が100箱も輸出するなら、1箱3千円なら30万円で、諸経費を合わせると40万円になる。であれば「日本国内で1箱3千円、サハリンでは1箱4千円」ということになる。サハリンでこの4千円が「妥当…」とされて販売が伸ばせるのであれば、輸出入の商談は成立で、取引も或る程度続けることが出来るということになる。
極々大雑把に考えてみたが、こういうようなロシアと諸外国との輸出入を介して流通しているモノ、そしてロシア国内で製造されて流通しているモノがサハリンのスーパーにも入り込んでいるのだ。
日本国内で何となく立寄るスーパーと然程の差は無いような店がサハリンで拡がり始めたのは、多分2000年代以降位だ。そういう時代に起こっているということは?そもそもの最初から、在庫、売上の管理、加えて「売れ筋を狙って仕入れ」というように出来る「商品のバーコードを読み込んで精算」という仕組みで販売が展開されているということになる。
ここで、スーパーで見掛けて求めた総菜とミカンとを取上げた。何れのモノも、カゴに入れてレジへ持って行き、レジでは店員さんがバーコードを読む作業をする。「割引」の惣菜は、店員さんが何やら操作をすると値引きされる。そしてレジで精算を行う訳だ。
カフェが「エスプレッソマシンを使って淹れた珈琲を供する」にいきなりなっているのと同様、「以前の時代の…」という方式を飛ばして「最近主流の管理方式」でスーパーは営まれている訳だ。そして、日本国内の対面販売に近いような方式の店も在る他方、スーパーはチェーン店化さえしていて、ユジノサハリンスク市内や、最近では周辺の他地区でも見受けられるようになった。
果物や野菜、魚や肉、各種加工食品や調味料、各種飲料、菓子類、惣菜、住宅内での一寸した消耗品と言った「スーパーで見掛ける商品の各領域」というようなモノは、日本国内でもサハリンでも、とりあえずスーパーを覗けば揃っている。それでも尚、「サハリンってモノが在るの?」と問われ続けなければならないのだろうか?
【連載】現今事情―サハリン (2)
自身は、何でも美味しく頂き、場合によって「食べ過ぎ…!!」ということも仕出かす性分だ。(故に、健康上の留意事項も生じてしまわないでもないが…)
実はハンバーガーというモノが酷く好きであったりする。
↓正しくハンバーガーというモノの写真である。
ハンバーガーというモノに関しては、或る程度知られた廉価な商品も在るチェーン店のモノから、各地の少し手が込んでいるような評判のモノに至るまで色々と頂いている。上記の画は、ユジノサハリンスクで頂いたモノだ。
ブログの各記事で「該当する話題」に“ラベル”または“タグ”と称される「キーワードを添える」という機能が在る。それの一つに「ハンバーガー」も設定している。
ハンバーガーという“ラベル”または“タグ”をクリックすると、各地で出くわしたハンバーガーの画と、出くわした際の事等を綴った記事が現れる。札幌や旭川、奈良、大阪、京都と言った国内各地に加えて、ウラジオストクやユジノサハリンスクで頂いたモノまで、色々なモノを取り上げている。更に国内の有名チェーン店のモノも在る。
自身でこのハンバーガーという“ラベル”または“タグ”を付した記事を次々に眺めてみれば、方々での様々な想い出が蘇る。が、これらに関して「漫然と写真だけ眺める」のであれば、「何れが日本国内?何れがロシア国内?」が判り悪いのではなかろうか?(場合によって、日本語の文字またはロシア語の文字が何処かに写っていて、それで「日本国内?ロシア国内?」が判る場合も在るかもしれないが…)
ハンバーガーというのは、基本的にはパン、ハンバーグ、野菜等、調味料を合わせる訳で、何れを欠いても作って供することは出来ない。更に、それらの必要なモノに関して「これなら結構…」と質的に納得出来るモノを揃える必要も在るであろう。そして調理のやり方も適正に行われなければならない。
極端に言えば、例えば最高級の肉を使っても、焼き方が下手であれば不味いとか、合わせる野菜の質が悪ければ佳い肉も台無しであろうし、使うべき調味料を間違えば酷い味になるであろうし、パンの質が悪ければ頂いても不満ばかり残ってしまうというようなことだ。モノもサービスノウハウも、何もかもが揃っている条件下でなければ、美味いハンバーガーは頂き悪い。
その美味いハンバーガーがユジノサハリンスクで頂くことが出来る?モノもサービスノウハウも、何もかもが揃っているということではないのか?
↓この写真である。
↑世界的に有名な企業がロシア国内の工場で製造しているというモノであるというケチャップだ。
このケチャップは、世界的に有名な企業が関与している訳だが、同じ呼称が冠せられたのケチャップを日本国内でも見掛ける。日本国内のモノと、ロシア国内のモノとの差異?日本語話者が多数派の国と、ロシア語話者が多数派の国なので、各々のラベルに違いが在ることだけは誰でも判る。(日本国内でも見覚えが在るようなラベルにロシア語の文字が入っているのも、何となく面白い…)が、そのラベル以外の違い等は「顕微鏡でも使って観察するか、徹底的な化学分析をする」でもない限り判らないと思う。
ロシア国内には、純粋な国内企業、設立に外国企業が関与した企業等が色々活動していて、様々な商品が製造されている。それらが流通する他、様々な品物も普通に輸入されている。
↓大きなコンテナのトレーラーを街中で見掛ける場合も在る。
↑写真のコンテナには、ウラジオストクを本拠地とする海運会社のロゴマークが入っている。
サハリンの港には、ウラジオストク辺りに集まった様々なモノを満載したコンテナが送り込まれている。出回っている様々なモノは、こういうコンテナに載せられてサハリンにやって来ている。
サハリンでは、方々からやって来る様々なモノと、サハリンの様々な企業等で製造される、またはサハリンの一次産業が生産する産物が消費されているということになる。
↓これは世界中に同じ看板を掲げた店が在るというファストフードの店で供せられる、かなりボリューム感が在るサンドウィッチだ。
ユジノサハリンスクに滞在した中、このファストフードの市内に何軒か在る店の一つが滞在先から訪ね易い辺りに在った。「24時間営業」を謳う店舗で、頻繁に朝食に寄っていた。店員さん達の間では「朝7時のおっちゃん」で通っていたらしい。或る日、7時半頃に立寄ると「おはようございます。あれ?遅いですね…今朝は…何時も御見掛けすれば、大概は7時ですから…」と店員さんに話し掛けられた程だった。
このファストフードの店だが、日本国内の同じ看板を掲げる店には無いモノが在る。日によって在庫の有無は在るものの「ライ麦パン」というようなモノ、所謂「黒パン」に類するモノを選択することが可能なようになっていた。写真はその「ライ麦パン」を選んだ日に、持ち合わせたカメラで撮った画だ。
この種の、世界中で展開している「パンを使ったメニュー」を供するファストフードのような店に関して、ロシア国内の店は存外に国際的評価が高いらしい。ロシアは「パンが良質」という評価も在るのだという。「パンが良質」であれば、他の材料と合わせても美味い筈だ。
国内製造、輸入品を問わず、市中に様々なモノは出回っている。そういう前提で、モノもサービスノウハウも、何もかもが揃っている条件下でなければ佳いモノは出来ないと見受けられるハンバーガーのようなモノが普通に供されている。そして、同じ看板を掲げる世界的なファストフードのチェーン店では「同じモノを日本国内で視たことが無い…」というモノまで供されていた。
「サハリンってモノが在るの?」と存外の頻度で御訊ねを頂くが、これらの事情を承知していると「御訊ねを頂くということそのもの」が「意味不明の極み…」だとさえ思う。
実はハンバーガーというモノが酷く好きであったりする。
↓正しくハンバーガーというモノの写真である。
ハンバーガーというモノに関しては、或る程度知られた廉価な商品も在るチェーン店のモノから、各地の少し手が込んでいるような評判のモノに至るまで色々と頂いている。上記の画は、ユジノサハリンスクで頂いたモノだ。
ブログの各記事で「該当する話題」に“ラベル”または“タグ”と称される「キーワードを添える」という機能が在る。それの一つに「ハンバーガー」も設定している。
ハンバーガーという“ラベル”または“タグ”をクリックすると、各地で出くわしたハンバーガーの画と、出くわした際の事等を綴った記事が現れる。札幌や旭川、奈良、大阪、京都と言った国内各地に加えて、ウラジオストクやユジノサハリンスクで頂いたモノまで、色々なモノを取り上げている。更に国内の有名チェーン店のモノも在る。
自身でこのハンバーガーという“ラベル”または“タグ”を付した記事を次々に眺めてみれば、方々での様々な想い出が蘇る。が、これらに関して「漫然と写真だけ眺める」のであれば、「何れが日本国内?何れがロシア国内?」が判り悪いのではなかろうか?(場合によって、日本語の文字またはロシア語の文字が何処かに写っていて、それで「日本国内?ロシア国内?」が判る場合も在るかもしれないが…)
ハンバーガーというのは、基本的にはパン、ハンバーグ、野菜等、調味料を合わせる訳で、何れを欠いても作って供することは出来ない。更に、それらの必要なモノに関して「これなら結構…」と質的に納得出来るモノを揃える必要も在るであろう。そして調理のやり方も適正に行われなければならない。
極端に言えば、例えば最高級の肉を使っても、焼き方が下手であれば不味いとか、合わせる野菜の質が悪ければ佳い肉も台無しであろうし、使うべき調味料を間違えば酷い味になるであろうし、パンの質が悪ければ頂いても不満ばかり残ってしまうというようなことだ。モノもサービスノウハウも、何もかもが揃っている条件下でなければ、美味いハンバーガーは頂き悪い。
その美味いハンバーガーがユジノサハリンスクで頂くことが出来る?モノもサービスノウハウも、何もかもが揃っているということではないのか?
↓この写真である。
↑世界的に有名な企業がロシア国内の工場で製造しているというモノであるというケチャップだ。
このケチャップは、世界的に有名な企業が関与している訳だが、同じ呼称が冠せられたのケチャップを日本国内でも見掛ける。日本国内のモノと、ロシア国内のモノとの差異?日本語話者が多数派の国と、ロシア語話者が多数派の国なので、各々のラベルに違いが在ることだけは誰でも判る。(日本国内でも見覚えが在るようなラベルにロシア語の文字が入っているのも、何となく面白い…)が、そのラベル以外の違い等は「顕微鏡でも使って観察するか、徹底的な化学分析をする」でもない限り判らないと思う。
ロシア国内には、純粋な国内企業、設立に外国企業が関与した企業等が色々活動していて、様々な商品が製造されている。それらが流通する他、様々な品物も普通に輸入されている。
↓大きなコンテナのトレーラーを街中で見掛ける場合も在る。
↑写真のコンテナには、ウラジオストクを本拠地とする海運会社のロゴマークが入っている。
サハリンの港には、ウラジオストク辺りに集まった様々なモノを満載したコンテナが送り込まれている。出回っている様々なモノは、こういうコンテナに載せられてサハリンにやって来ている。
サハリンでは、方々からやって来る様々なモノと、サハリンの様々な企業等で製造される、またはサハリンの一次産業が生産する産物が消費されているということになる。
↓これは世界中に同じ看板を掲げた店が在るというファストフードの店で供せられる、かなりボリューム感が在るサンドウィッチだ。
ユジノサハリンスクに滞在した中、このファストフードの市内に何軒か在る店の一つが滞在先から訪ね易い辺りに在った。「24時間営業」を謳う店舗で、頻繁に朝食に寄っていた。店員さん達の間では「朝7時のおっちゃん」で通っていたらしい。或る日、7時半頃に立寄ると「おはようございます。あれ?遅いですね…今朝は…何時も御見掛けすれば、大概は7時ですから…」と店員さんに話し掛けられた程だった。
このファストフードの店だが、日本国内の同じ看板を掲げる店には無いモノが在る。日によって在庫の有無は在るものの「ライ麦パン」というようなモノ、所謂「黒パン」に類するモノを選択することが可能なようになっていた。写真はその「ライ麦パン」を選んだ日に、持ち合わせたカメラで撮った画だ。
この種の、世界中で展開している「パンを使ったメニュー」を供するファストフードのような店に関して、ロシア国内の店は存外に国際的評価が高いらしい。ロシアは「パンが良質」という評価も在るのだという。「パンが良質」であれば、他の材料と合わせても美味い筈だ。
国内製造、輸入品を問わず、市中に様々なモノは出回っている。そういう前提で、モノもサービスノウハウも、何もかもが揃っている条件下でなければ佳いモノは出来ないと見受けられるハンバーガーのようなモノが普通に供されている。そして、同じ看板を掲げる世界的なファストフードのチェーン店では「同じモノを日本国内で視たことが無い…」というモノまで供されていた。
「サハリンってモノが在るの?」と存外の頻度で御訊ねを頂くが、これらの事情を承知していると「御訊ねを頂くということそのもの」が「意味不明の極み…」だとさえ思う。
【連載】現今事情―サハリン (1)
「○○ってモノが在るの?」という問いを聞いて如何思うであろうか?「○○」には地域名、市町村名等の場所を示す呼称が入る。
自身で少しこの「○○ってモノが在るの?」という問いを考えてみた。
「○○ってモノが在るの?」という問いが発せられるとすれば?それは恐らく「○○」に“災害”のようなことでも発生した地域名、市町村名等の場所を示す呼称が入る場合ということになるのでもないだろうか?
大きな“災害”のようなことでも発生した場合、被災地域では「アレが足りない…」というような“困りごと”が生じてしまう場合が考えられる。「アレは?コレは?」と被災地域の状況を案じる中で、「(被災地域名)ってモノが在るの?」という問いが出て来る場合も在るであろう。
そんな事例程度しか、「○○ってモノが在るの?」という問いが発せられる状況が思い浮かばない。
何か「妙な事…」を綴り始めているような気がしないでもない。が、この「大きな“災害”のようなことでも発生した被災地域を案じている」というような状況以外に、問いが発せられる状況を思い付かないような「○○ってモノが在るの?」について、如何いう訳か「存外の頻度で御訊ねを頂いている…」ということに思い当たるのだ。
自身が「存外の頻度で御訊ねを頂いている…」ということに思い当たってしまう「○○ってモノが在るの?」だが、「○○」には「サハリン」が入る。
「サハリンってモノが在るの?」と、最近でも存外の頻度で御訊ねを頂く。傍目には自身が“事情通”だと観られているから御訊ねを頂くということか?“事情通”でも、その限りでもないのでも、自身で思うに大差は無い。ハッキリ申し上げると、「サハリンってモノが在るの?」という問いそのものが、今では「意味不明の極み…」のように思えてならないのだ。
↓この写真だ。
↑これはカフェで供される飲物で、華々しいラテアートが施されている。
この写真はサハリンの中心的な街ということになるユジノサハリンスク市内で撮った。カフェに立寄り、飲物を御願いするとこの華々しいラテアートが登場したのだ。
自身の珈琲の好み?日本国内で一般的な、ハンドドリップの系譜で、またはサイフォンを使って淹れるような、特段に甘味料やミルク等を加えない、所謂「ブラック」が好い。それでも、ユジノサハリンスクではこの華々しいラテアートを愉しみながら各種の飲物を頂いた。
ユジノサハリンスクというより「ロシアの一寸した規模の街」の多くが該当してしまうのかもしれないが、カフェでは「エスプレッソマシンを使って淹れた珈琲を供する」というのが“当然視”されているように見受けられる。逆に言えば、「ハンドドリップの系譜で、またはサイフォンを使って淹れるような珈琲を供する」という段階を一足飛びにしてしまって、「エスプレッソマシンを使って淹れた珈琲を供する」という時点から「いきなりカフェの文化が花開いた」ということにもなるのかもしれない。
ユジノサハリンスクの街に在って「珈琲を頂いて一息…」とでも思い付き、カフェに立寄るとする。店員さんに「珈琲を御願いします」とでも言えば、即座に「何れですか?」と訊き返される。何故なら、「エスプレッソマシンを使って淹れた珈琲を供する」というのが“当然視”されているので、<アメリカーノ>、<カプチーノ>、<ラッテ>、<カフェモカ>、<キャラメルマキアート>というような呼称と、多くの店で設定されている「大・中・小」のようなサイズを申し出て飲物を御願いする通例になっているからだ。「珈琲を御願いします」に対して「何れですか?」は、用意されている珈琲豆の種類を指定することを促すというようなものではないのだ。
こんなことなので、「何処かの飲食店に入って“とりあえず飲物”」という状況で、「珈琲でも…」ではなく「カプチーノでも…」と言い出すような方も、ユジノサハリンスクでは存外に多く出くわした。
他方、日本国内の地方の街で、更に大きな街で「カプチーノでも…」とでも言い出せば、何方かと言えば「当店にございません…」が多いのではないか?「珈琲でも…」なら多くの場所で対応可能で、「ホットになさいますか?アイスになさいますか?」というのも在るかもしれない。この「アイスコーヒー」はユジノサハリンスクでは、時々売られている“缶コーヒー”が冷えた状態になっていた例が在ったような気がする位で、見掛けないと思う。
写真の華々しいラテアートだが、率直に申し上げて、自身の眼で視て、そしてそれが施された飲物を頂いてみたというのは「ユジノサハリンスクの店」位なものだ。写真の程度に華々しいラテアートは、ユジノサハリンスク市内でも限られた場所で見受けられる。もっとシンプルなラテアートであれば多くの場所で見受けられる。ユジノサハリンスク以外に、ウラジオストク空港でもラテアートを施した飲物は頂いた記憶が在った。
↓そしてこの写真だ。
↑チーズケーキに大きなイチゴが載っている。
これもユジノサハリンスクの街に在るカフェだ。ユジノサハリンスクのカフェでは、市内や近隣の街で製造されているケーキ等も供している場合が多い。
ケーキは地元の人達の嗜好に合わせている例が多いので、自身を含む外国人が気に入るか否かはやや微妙だ。ケーキのような嗜好品は、日本国内でも「好み…」が別れると思う。多くの人が「好い!」というケーキを試して「それ程でも…」と思う場合も、然程人気が高くないと見受けられるケーキでも「これ!気に入った!」となる場合も在るのだと思う。
自身は、何でも美味しく頂き、場合によって「食べ過ぎ…!!」ということも仕出かす性分なので、ユジノサハリンスクのカフェで供されるケーキは何れも美味しく頂いた。
この写真のケーキの美味さを論じようというのでもない。注目は「イチゴ」だ。ケーキに大きなイチゴが載っている状態?これは一定程度の数、このイチゴが確保出来る程度に、何処かで生産しているか輸入されているということを意味するように思う。
↓更にこの写真だ。
↑これは「カフェ店内で頂く」という場合に、ケーキに華やかなデコレーションを施すようにしている店も見受けられたという画である。
これもまたユジノサハリンスクで撮っている。
ユジノサハリンスク辺りで、何か“災害”のようなことでも発生しているのでもない。カフェに立寄って、飲物やケーキを頂く程度のことが普通という程度の場所だ。そういう場所を捉えて「サハリンってモノが在るの?」と問う?「意味不明の極み…」のように思えてならない訳だ。
実は「振り返ると沢山の写真…」ということに想いが廻った時に思ったのだ。何十点か写真を選んで、例えば「○○という場所はこういう感じ…」と一頻り御話しをすることさえ出来てしまうかもしれないとである。
通常、ブログでは「撮った写真」が「主」と考えて色々と綴っている。が、このシリーズでは「論じてみたい何か」が「主」で、「撮った写真」で論を補うというような具合になると思う。
昨年来、「サハリンを訪ねる」というような、国外旅行はやり悪い“事情”が生じている。自身、2019年10月に渡航した経過が在ったが、それ以降は彼の地を訪れていない。それでも、比較的近年の見聞、そしてそういう見聞に関連する写真が多々在る。そこで「【連載】現今事情―サハリン」と銘打って、暫く綴ってみようと考えた。
自身で少しこの「○○ってモノが在るの?」という問いを考えてみた。
「○○ってモノが在るの?」という問いが発せられるとすれば?それは恐らく「○○」に“災害”のようなことでも発生した地域名、市町村名等の場所を示す呼称が入る場合ということになるのでもないだろうか?
大きな“災害”のようなことでも発生した場合、被災地域では「アレが足りない…」というような“困りごと”が生じてしまう場合が考えられる。「アレは?コレは?」と被災地域の状況を案じる中で、「(被災地域名)ってモノが在るの?」という問いが出て来る場合も在るであろう。
そんな事例程度しか、「○○ってモノが在るの?」という問いが発せられる状況が思い浮かばない。
何か「妙な事…」を綴り始めているような気がしないでもない。が、この「大きな“災害”のようなことでも発生した被災地域を案じている」というような状況以外に、問いが発せられる状況を思い付かないような「○○ってモノが在るの?」について、如何いう訳か「存外の頻度で御訊ねを頂いている…」ということに思い当たるのだ。
自身が「存外の頻度で御訊ねを頂いている…」ということに思い当たってしまう「○○ってモノが在るの?」だが、「○○」には「サハリン」が入る。
「サハリンってモノが在るの?」と、最近でも存外の頻度で御訊ねを頂く。傍目には自身が“事情通”だと観られているから御訊ねを頂くということか?“事情通”でも、その限りでもないのでも、自身で思うに大差は無い。ハッキリ申し上げると、「サハリンってモノが在るの?」という問いそのものが、今では「意味不明の極み…」のように思えてならないのだ。
↓この写真だ。
↑これはカフェで供される飲物で、華々しいラテアートが施されている。
この写真はサハリンの中心的な街ということになるユジノサハリンスク市内で撮った。カフェに立寄り、飲物を御願いするとこの華々しいラテアートが登場したのだ。
自身の珈琲の好み?日本国内で一般的な、ハンドドリップの系譜で、またはサイフォンを使って淹れるような、特段に甘味料やミルク等を加えない、所謂「ブラック」が好い。それでも、ユジノサハリンスクではこの華々しいラテアートを愉しみながら各種の飲物を頂いた。
ユジノサハリンスクというより「ロシアの一寸した規模の街」の多くが該当してしまうのかもしれないが、カフェでは「エスプレッソマシンを使って淹れた珈琲を供する」というのが“当然視”されているように見受けられる。逆に言えば、「ハンドドリップの系譜で、またはサイフォンを使って淹れるような珈琲を供する」という段階を一足飛びにしてしまって、「エスプレッソマシンを使って淹れた珈琲を供する」という時点から「いきなりカフェの文化が花開いた」ということにもなるのかもしれない。
ユジノサハリンスクの街に在って「珈琲を頂いて一息…」とでも思い付き、カフェに立寄るとする。店員さんに「珈琲を御願いします」とでも言えば、即座に「何れですか?」と訊き返される。何故なら、「エスプレッソマシンを使って淹れた珈琲を供する」というのが“当然視”されているので、<アメリカーノ>、<カプチーノ>、<ラッテ>、<カフェモカ>、<キャラメルマキアート>というような呼称と、多くの店で設定されている「大・中・小」のようなサイズを申し出て飲物を御願いする通例になっているからだ。「珈琲を御願いします」に対して「何れですか?」は、用意されている珈琲豆の種類を指定することを促すというようなものではないのだ。
こんなことなので、「何処かの飲食店に入って“とりあえず飲物”」という状況で、「珈琲でも…」ではなく「カプチーノでも…」と言い出すような方も、ユジノサハリンスクでは存外に多く出くわした。
他方、日本国内の地方の街で、更に大きな街で「カプチーノでも…」とでも言い出せば、何方かと言えば「当店にございません…」が多いのではないか?「珈琲でも…」なら多くの場所で対応可能で、「ホットになさいますか?アイスになさいますか?」というのも在るかもしれない。この「アイスコーヒー」はユジノサハリンスクでは、時々売られている“缶コーヒー”が冷えた状態になっていた例が在ったような気がする位で、見掛けないと思う。
写真の華々しいラテアートだが、率直に申し上げて、自身の眼で視て、そしてそれが施された飲物を頂いてみたというのは「ユジノサハリンスクの店」位なものだ。写真の程度に華々しいラテアートは、ユジノサハリンスク市内でも限られた場所で見受けられる。もっとシンプルなラテアートであれば多くの場所で見受けられる。ユジノサハリンスク以外に、ウラジオストク空港でもラテアートを施した飲物は頂いた記憶が在った。
↓そしてこの写真だ。
↑チーズケーキに大きなイチゴが載っている。
これもユジノサハリンスクの街に在るカフェだ。ユジノサハリンスクのカフェでは、市内や近隣の街で製造されているケーキ等も供している場合が多い。
ケーキは地元の人達の嗜好に合わせている例が多いので、自身を含む外国人が気に入るか否かはやや微妙だ。ケーキのような嗜好品は、日本国内でも「好み…」が別れると思う。多くの人が「好い!」というケーキを試して「それ程でも…」と思う場合も、然程人気が高くないと見受けられるケーキでも「これ!気に入った!」となる場合も在るのだと思う。
自身は、何でも美味しく頂き、場合によって「食べ過ぎ…!!」ということも仕出かす性分なので、ユジノサハリンスクのカフェで供されるケーキは何れも美味しく頂いた。
この写真のケーキの美味さを論じようというのでもない。注目は「イチゴ」だ。ケーキに大きなイチゴが載っている状態?これは一定程度の数、このイチゴが確保出来る程度に、何処かで生産しているか輸入されているということを意味するように思う。
↓更にこの写真だ。
↑これは「カフェ店内で頂く」という場合に、ケーキに華やかなデコレーションを施すようにしている店も見受けられたという画である。
これもまたユジノサハリンスクで撮っている。
ユジノサハリンスク辺りで、何か“災害”のようなことでも発生しているのでもない。カフェに立寄って、飲物やケーキを頂く程度のことが普通という程度の場所だ。そういう場所を捉えて「サハリンってモノが在るの?」と問う?「意味不明の極み…」のように思えてならない訳だ。
実は「振り返ると沢山の写真…」ということに想いが廻った時に思ったのだ。何十点か写真を選んで、例えば「○○という場所はこういう感じ…」と一頻り御話しをすることさえ出来てしまうかもしれないとである。
通常、ブログでは「撮った写真」が「主」と考えて色々と綴っている。が、このシリーズでは「論じてみたい何か」が「主」で、「撮った写真」で論を補うというような具合になると思う。
昨年来、「サハリンを訪ねる」というような、国外旅行はやり悪い“事情”が生じている。自身、2019年10月に渡航した経過が在ったが、それ以降は彼の地を訪れていない。それでも、比較的近年の見聞、そしてそういう見聞に関連する写真が多々在る。そこで「【連載】現今事情―サハリン」と銘打って、暫く綴ってみようと考えた。