案内所で頂いた地図を頼みに、川越の街を色々と歩き廻っていた。冬の好天という中、歩き廻るのは心地好かった。
↓少し大きな不動明王が道路から見えるような感じで据えられていた。「寺?」というような様子だった。
↓少し歩を進めると門が在った。「成田山川越別院」ということだった。
↑1853(嘉永6)年に廃寺になっていた寺を、成田山新勝寺の別院として再興し、不動明王を本尊とするようにしたのが起こりであるという。再興に携わった石川照温は視力を失って絶望していた時に不動明王を見て、生活を改めて修行を積んでみたところ視力が回復したという経験をしたそうだ。そうしたことから不動明王を祀ったのだという。
↓弘法大師の画や像で、右手に持っている場合が多い五鈷杵(ごこしょ)という法具の大きなモノが在った。強力な魔を払うモノなのだという。
↓川越で不動明王や弘法大師の寺に出会ったことに感謝し、本堂で参拝した。
↓御朱印を頂いた。
↓こういう弘法大師のイラストが入ったモノも御願いした。
↑弘法大師(774-835)の生誕1250年ということで用意されたシリーズだという。
寺に立寄るというのも好い。そして参拝し、御朱印を頂くというのは更に好い。今般、川越が気に入ってしまったが、時々様子を想い起し、再訪を期したい。
「たばこ」…:川越(2023.12.25)
川越の街を歩き廻り、何となくコンビニに出くわした。飲物でも求めて、御店の前で一寸飲んで一息入れようとした。序に、何となく煙草を買っておこうと思い付いた。
コンビニで飲物をレジに持って行って、煙草を求めたい旨を申し出ると、棚から店員さんが出してくれるというのが普通なのだが、その煙草が見当たらない。尋ねれば「隣の隣が古くからの煙草屋さんなんです」とのことだった。街のコンビニで煙草の扱いが無い場合に見受けられる例だ…
↓その「隣の隣」である。
↑自販機だけではなく、戸が在って店内で店主氏が煙草を普通に販売していた。
御店に入って、店主氏に申出て煙草を求めた。店主氏は自身が提げていたカメラを眼に留め「佳い写真撮れましたか?」と言い出した。一寸笑ってしまったが、「御天気が好かったし、川越は写真に撮ると面白いモノも色々在ると思います」というように店主氏は言葉を継ぐ。大きく頷いた。
「佳い写真」か否かは判らないが、気に入った画を随分と撮った川越だった。街で煙草も求めたので、煙草税の一部は川越市に収めたことになる。こういうのを「感謝の納税」と嘯くのだが…
こういうさり気無いことも、何か色々と思い出される。愉しい訪問であったことの証左であると感じる。
コンビニで飲物をレジに持って行って、煙草を求めたい旨を申し出ると、棚から店員さんが出してくれるというのが普通なのだが、その煙草が見当たらない。尋ねれば「隣の隣が古くからの煙草屋さんなんです」とのことだった。街のコンビニで煙草の扱いが無い場合に見受けられる例だ…
↓その「隣の隣」である。
↑自販機だけではなく、戸が在って店内で店主氏が煙草を普通に販売していた。
御店に入って、店主氏に申出て煙草を求めた。店主氏は自身が提げていたカメラを眼に留め「佳い写真撮れましたか?」と言い出した。一寸笑ってしまったが、「御天気が好かったし、川越は写真に撮ると面白いモノも色々在ると思います」というように店主氏は言葉を継ぐ。大きく頷いた。
「佳い写真」か否かは判らないが、気に入った画を随分と撮った川越だった。街で煙草も求めたので、煙草税の一部は川越市に収めたことになる。こういうのを「感謝の納税」と嘯くのだが…
こういうさり気無いことも、何か色々と思い出される。愉しい訪問であったことの証左であると感じる。
案内看板…:川越の街(2023.12.25)
JR川越駅に着き、駅内に在った観光案内の窓口で街の地図を頂いた。結局「紙の地図」が最も使い易いと個人的には思う。
川越は歩いて巡ることも可能な範囲に色々な場所が在る。街の中を動き回っているバスに乗車するという移動手段も利用可能と聞いた。結果的には、着いてから発つ迄歩き廻ったのだったが。
↓そういう「歩き廻る」ということが可能であったのは、こうしたモノの御蔭でもあると思う。川越の街では、随所にこういう感じの案内看板が配置されていた。
↓少し図う歩いて進み、何となく案内看板が眼に留まるというような様子だ。鉄道駅、社寺、各種施設、少し知られた通というようなモノの呼称が在り、方角と大まかな距離が示される。そして御手洗が利用可能な場所はその旨のマークも在る。
こういうモノは、来訪者に便利であるに留まらず、辺りを頻繁に歩くのでもない住民にも便利ではないかと思う。こういう「徒歩で動く人達が見る前提のような看板」というのは意外に好きだ。
気持が好い好天の中であったこととも相俟って、「歩いて愉しかった川越」というのが、離れて然程の時日を経ていないにも拘らず、何度も思い出される。
川越は歩いて巡ることも可能な範囲に色々な場所が在る。街の中を動き回っているバスに乗車するという移動手段も利用可能と聞いた。結果的には、着いてから発つ迄歩き廻ったのだったが。
↓そういう「歩き廻る」ということが可能であったのは、こうしたモノの御蔭でもあると思う。川越の街では、随所にこういう感じの案内看板が配置されていた。
↓少し図う歩いて進み、何となく案内看板が眼に留まるというような様子だ。鉄道駅、社寺、各種施設、少し知られた通というようなモノの呼称が在り、方角と大まかな距離が示される。そして御手洗が利用可能な場所はその旨のマークも在る。
こういうモノは、来訪者に便利であるに留まらず、辺りを頻繁に歩くのでもない住民にも便利ではないかと思う。こういう「徒歩で動く人達が見る前提のような看板」というのは意外に好きだ。
気持が好い好天の中であったこととも相俟って、「歩いて愉しかった川越」というのが、離れて然程の時日を経ていないにも拘らず、何度も思い出される。
E233系電車&70-000形電車…:大宮駅(2023.12.25)
自身、東京に在って鉄道を利用して色々と動き廻っていた経験を有しているが、それもかなり以前のことになってしまっている。現在では新たな路線や運行系統が次々に登場し、見掛ける車輌も変わっている。
朝、氷川神社を参拝の後に大宮駅へ足を運び、川越駅へ移動しようとした。初めて「上野東京ライン」を利用して大宮駅にやって来たのだったが、駅には様々な路線が乗入れていて、大宮駅は広壮である。聞いたことが在る路線や運行系統も在るが、知らなかったモノも多目で驚いていた。
↓川越へ向かう「川越線」は通路の端から階下に階段で下りた辺りのホームで発着していた。
↑左が川越へ向かう列車だ。JR東日本のE233系電車だ。この路線には2013年に登場したようだ。右は「東京臨海高速鉄道」の車輌だという。1996年から2004年の期間で製造された70-000形電車だ。右側の列車は埼京線を経て大崎駅に至り、そこから「りんかい線」に乗入れ、新木場駅に到るのだという。
りんかい線と埼京線との相互乗入は2002年から始まったそうだ。2004年には10輌編成への統一が成り、「東京臨海高速鉄道」の車輌とJR東日本の車輌が相互に川越や大宮と新木場とを往来するようになったようだ。
今般はりんかい線方面へは出なかった。大宮駅を発着する列車の様子も、何時の間にか随分と変わったようだ。
朝、氷川神社を参拝の後に大宮駅へ足を運び、川越駅へ移動しようとした。初めて「上野東京ライン」を利用して大宮駅にやって来たのだったが、駅には様々な路線が乗入れていて、大宮駅は広壮である。聞いたことが在る路線や運行系統も在るが、知らなかったモノも多目で驚いていた。
↓川越へ向かう「川越線」は通路の端から階下に階段で下りた辺りのホームで発着していた。
↑左が川越へ向かう列車だ。JR東日本のE233系電車だ。この路線には2013年に登場したようだ。右は「東京臨海高速鉄道」の車輌だという。1996年から2004年の期間で製造された70-000形電車だ。右側の列車は埼京線を経て大崎駅に至り、そこから「りんかい線」に乗入れ、新木場駅に到るのだという。
りんかい線と埼京線との相互乗入は2002年から始まったそうだ。2004年には10輌編成への統一が成り、「東京臨海高速鉄道」の車輌とJR東日本の車輌が相互に川越や大宮と新木場とを往来するようになったようだ。
今般はりんかい線方面へは出なかった。大宮駅を発着する列車の様子も、何時の間にか随分と変わったようだ。
川越八幡宮…(2023.12.25)
↓川越にも八幡宮が在る。
↓街を歩き回り、JR川越駅へ向かう途中で出会った。
↓小さめながら、何か重厚な感じがした社だった。
↓「あと六年」という幟が見受けられる。川越八幡宮は、1030(長元3)年に源頼信が平忠常との戦に勝利することを祈願し、願いが叶って勝利したことを受けて創祀したと伝えられる。とすると?2030年で「創祀千年」である。それを踏まえた「あと六年」だ。
↑殆ど千年に及ぶ歴史が詰まった場所が、この川越八幡宮である。
↓何か雰囲気の好い神社だった。
↓参拝し、御朱印も頂いた。今般は川越に出くわし、好天の中で歩き廻り、愉しく過ごせたことが非常に好かった。
↓鳥居と光とが醸し出す雰囲気というようなモノを神社で眺めるのが一寸好きだ。
川越に関しては「列車で辿り着いて、何となく歩き廻るという感じの場所」というのが、個人的には酷く気に入った。戻って、然程の時日を経ていないが、早くも「何時かまた…」という程度に思っていることに気付かされる。
↓街を歩き回り、JR川越駅へ向かう途中で出会った。
↓小さめながら、何か重厚な感じがした社だった。
↓「あと六年」という幟が見受けられる。川越八幡宮は、1030(長元3)年に源頼信が平忠常との戦に勝利することを祈願し、願いが叶って勝利したことを受けて創祀したと伝えられる。とすると?2030年で「創祀千年」である。それを踏まえた「あと六年」だ。
↑殆ど千年に及ぶ歴史が詰まった場所が、この川越八幡宮である。
↓何か雰囲気の好い神社だった。
↓参拝し、御朱印も頂いた。今般は川越に出くわし、好天の中で歩き廻り、愉しく過ごせたことが非常に好かった。
↓鳥居と光とが醸し出す雰囲気というようなモノを神社で眺めるのが一寸好きだ。
川越に関しては「列車で辿り着いて、何となく歩き廻るという感じの場所」というのが、個人的には酷く気に入った。戻って、然程の時日を経ていないが、早くも「何時かまた…」という程度に思っていることに気付かされる。
氷川神社…:川越(2023.12.25)
↓川越で大きな存在感を示す神社として氷川神社が在る。
↑大宮にも氷川神社が在るが、相当古い時代に勧請されたと伝えられる神社で、歴代のこの地域を治めた人達の崇敬を受け、寄進も受けた経過が在る神社である。故に「総鎮守」とされる。更に<川越まつり>という催事は、本来はこの神社の祭礼ということになる<川越氷川祭>である。
↓街を歩き廻って、辿り着いた辺りから境内に進んだ。
↓趣深い額が鳥居に掛けられていた。
↓地域の人達に敬愛され、祈祷も色々と行われている様子である。
↓手水鉢の辺りの雰囲気が好かった。
↓龍が美しい。
↓存外に賑わっていて、写真はやや撮り悪い感ではあったが、確り参拝した。川越の地に辿り着き、心地好く、愉しく過ごす機会を設けられたことに大感謝である。御朱印も頂いた。
↑大宮にも氷川神社が在るが、相当古い時代に勧請されたと伝えられる神社で、歴代のこの地域を治めた人達の崇敬を受け、寄進も受けた経過が在る神社である。故に「総鎮守」とされる。更に<川越まつり>という催事は、本来はこの神社の祭礼ということになる<川越氷川祭>である。
↓街を歩き廻って、辿り着いた辺りから境内に進んだ。
↓趣深い額が鳥居に掛けられていた。
↓地域の人達に敬愛され、祈祷も色々と行われている様子である。
↓手水鉢の辺りの雰囲気が好かった。
↓龍が美しい。
↓存外に賑わっていて、写真はやや撮り悪い感ではあったが、確り参拝した。川越の地に辿り着き、心地好く、愉しく過ごす機会を設けられたことに大感謝である。御朱印も頂いた。
丸型ポスト…:川越商工会議所前(2023.12.25)
↓古風な建物の辺りには、古風な郵便ポストが似合うと思う。
↓川越商工会議所は旧い建物が現役らしいが、このポストも現役である。
↑丸型ポストの脇に、駅や有名な景観の辺りへの矢印が入った道標が据えられている。こういうのを見ると「街が“歩く場所”を規定されている」という感じがする。街は車輌で通過する場所ということではなく、寧ろ歩き廻る場所だと個人的には思うので、こういう案内には交換を抱く。
さり気無く据えられた丸型ポストが何となく似合うような場所というのは、通り掛って心地が好いかもしれない。そんなことを想いながら辺りを通り過ぎた。
↓川越商工会議所は旧い建物が現役らしいが、このポストも現役である。
↑丸型ポストの脇に、駅や有名な景観の辺りへの矢印が入った道標が据えられている。こういうのを見ると「街が“歩く場所”を規定されている」という感じがする。街は車輌で通過する場所ということではなく、寧ろ歩き廻る場所だと個人的には思うので、こういう案内には交換を抱く。
さり気無く据えられた丸型ポストが何となく似合うような場所というのは、通り掛って心地が好いかもしれない。そんなことを想いながら辺りを通り過ぎた。
肉汁焼餃子&獺祭焼酎ハイボール…:川越(2023.12.25)
冬の好天に誘われ、朝から随分と歩いた。思い付いて訪ねてみた川越は、古い建物等が多く残る興味深い街並みが在り、社寺も色々と在り、この日は休みという場所も多かったが興味深い展示施設mの色々と在る。「随分と歩いた」としたが、「歩かざるを得なくなる」という感で、歩くことが愉しい場所だ。長くこの川越とは縁薄く、初めて訪ねたのだったが、出逢えて善かった。
そういうように気を好くして歩き廻ったが、多少の空腹を禁じ得ない、ほんの少し遅めな昼食時間帯ということになった。街の中から観てやや端側のJR川越駅への道すがら、何かを頂こうと辺りをキョロキョロと観ていた。
↓こういう場所に出くわした。
↑食事を摂ることが叶い、酒類も供しているようだった。
↓少し御得なランチというのもやっているようだ。御邪魔した。
↓こういうメニュー表が在った。これは焼餃子のランチで、焼餃子の追加を御願いし、米飯はやや少な目にして頂こう等と思った。
↓そしてこれに大注目してしまった。酒粕を蒸留して造る酒粕焼酎を供している。それもかの<獺祭>のモノだ。
女性の店員さんに料理や飲物を御願いした。「焼餃子のランチで、焼餃子の追加…」、「はい。畏まりました」である。続けて「そして是非飲ませて下さい。<獺祭ハイボール>を…」という言い出せば、店員さんは微笑んで大きく頷いた。
↓錫のタンブラーが使われていた。強めな炭酸に、吟醸香が少し感じられる酒粕焼酎で、凄く美味い。
↓卓上のおしぼりに面白いフレーズが在った。好みの酒と併せて好みの料理を摘まむというのは、正しく「文化」だ。
↓「肉汁餃子」は「そのままお試し頂けるモノ」ということだった。
↓調味料は用意されているが、とりあえずこれらを使わずに「肉汁餃子」を試すことにした。
↓こんな具合に供されたのだが、とりあえず調味料を使わずに「肉汁餃子」を試して好かった。肉汁とやや厚い皮が絡み合って凄く美味い。
↑辛いモノが一寸好きなので、少し調味料無しで頂いた後に辣油は点けた。
この御店は「川越が気に入った理由」の1つということにもなったかもしれない。凄く好い想い出となった。
そういうように気を好くして歩き廻ったが、多少の空腹を禁じ得ない、ほんの少し遅めな昼食時間帯ということになった。街の中から観てやや端側のJR川越駅への道すがら、何かを頂こうと辺りをキョロキョロと観ていた。
↓こういう場所に出くわした。
↑食事を摂ることが叶い、酒類も供しているようだった。
↓少し御得なランチというのもやっているようだ。御邪魔した。
↓こういうメニュー表が在った。これは焼餃子のランチで、焼餃子の追加を御願いし、米飯はやや少な目にして頂こう等と思った。
↓そしてこれに大注目してしまった。酒粕を蒸留して造る酒粕焼酎を供している。それもかの<獺祭>のモノだ。
女性の店員さんに料理や飲物を御願いした。「焼餃子のランチで、焼餃子の追加…」、「はい。畏まりました」である。続けて「そして是非飲ませて下さい。<獺祭ハイボール>を…」という言い出せば、店員さんは微笑んで大きく頷いた。
↓錫のタンブラーが使われていた。強めな炭酸に、吟醸香が少し感じられる酒粕焼酎で、凄く美味い。
↓卓上のおしぼりに面白いフレーズが在った。好みの酒と併せて好みの料理を摘まむというのは、正しく「文化」だ。
↓「肉汁餃子」は「そのままお試し頂けるモノ」ということだった。
↓調味料は用意されているが、とりあえずこれらを使わずに「肉汁餃子」を試すことにした。
↓こんな具合に供されたのだが、とりあえず調味料を使わずに「肉汁餃子」を試して好かった。肉汁とやや厚い皮が絡み合って凄く美味い。
↑辛いモノが一寸好きなので、少し調味料無しで頂いた後に辣油は点けた。
この御店は「川越が気に入った理由」の1つということにもなったかもしれない。凄く好い想い出となった。
秘伝かわ串&水炊き…:大宮(2023.12.24)
稚内から夜行バスで早朝の札幌駅へ出るという大変な回り道をしながら旭川空港へ至り、無事に羽田空港へ飛んだ。そして大宮駅に至って宿に入った。前夜に既に始まってしまった長い一日「プラスアルファ」が暮れようとしている中、街へ出てみた。
↓こんな看板を眼に留めた。
↓鶏肉関係の料理を売りにする居酒屋のようだ。「手頃な価格で美味い街角の入り易い御店」という風情なので御邪魔した。
↓何となく思ったとおりの感じだった。
↓飲物の選択肢も豊富そうだ。
↓レモンサワーを御願いし、これを頂きながら料理の登場を待った。
↓「秘伝かわ串」だ。鳥皮の串焼きだが、“秘伝”を謳う甘辛いタレで味を付けていて、これがかなり美味かった。
↑1本から御願い出来るようだが、とりあえずメニュー表に「10本」と在った。「多いかな…5本!」と御願いした。が、10本でも平らげてしまうことが出来たと思う。
↓そして「水炊き」である。
↓「御一人様」には十分過ぎるボリュームの鍋物である。工夫が重ねられたスープで野菜や鶏肉を煮て頂くことになる。
↓「御馳走様でした…」という感だ。
出先でのこういう感じの食事も好い感じだと思う。
↓こんな看板を眼に留めた。
↓鶏肉関係の料理を売りにする居酒屋のようだ。「手頃な価格で美味い街角の入り易い御店」という風情なので御邪魔した。
↓何となく思ったとおりの感じだった。
↓飲物の選択肢も豊富そうだ。
↓レモンサワーを御願いし、これを頂きながら料理の登場を待った。
↓「秘伝かわ串」だ。鳥皮の串焼きだが、“秘伝”を謳う甘辛いタレで味を付けていて、これがかなり美味かった。
↑1本から御願い出来るようだが、とりあえずメニュー表に「10本」と在った。「多いかな…5本!」と御願いした。が、10本でも平らげてしまうことが出来たと思う。
↓そして「水炊き」である。
↓「御一人様」には十分過ぎるボリュームの鍋物である。工夫が重ねられたスープで野菜や鶏肉を煮て頂くことになる。
↓「御馳走様でした…」という感だ。
出先でのこういう感じの食事も好い感じだと思う。
<川越まつり会館>…(2023.12.25)
<蔵造りの町並み>と呼ばれる辺りを歩き廻っていた。
↓こういう建物を眼に留めた。
↑辺りの様子に馴染んだ感じ、特殊でもないとは思ったが「まつり会館」なる看板が気になって近付き、入ってみた。
如何いう場所なのか尋ねれば、「<川越まつり>の山車を展示している。本物が置かれている」ということで、有料の展示施設だった。「面白そう?」と入ってみた。
↓こういう具合に<川越まつり>の本物の山車が展示されている。
↑ビデオや三脚の使用等は御遠慮願うとのことだが、館内の写真撮影は構わないということだった。
この山車が飾られたホールでは、<川越まつり>を紹介する6分間程度のビデオが上映され、関係者が来館者に色々な話しをしてくれるようになっている。それを通じて、<川越まつり>のこと、祭に登場する山車のこと、それに関連する地域の歴史等を知ることが叶うのだ。
↓新旧色々なモノが混在しているが、29基の山車が在る。基本的に町内で山車を持っていて、祭では町内関係者が山車を曳く催事に参加する。1基は嘗て地元企業が製作して市に寄贈したモノで、山車の町内以外で希望する児童生徒の中から抽選で選ばれた人達が曳くというようにしているそうだ。
↓現在はこの<八幡太郎>の山車がホールに在る。
↓もう一つ<鏡獅子>の山車も在る。
↓背が高い山車はこういう骨組みになっている。これは<川越まつり>の発展に寄与しようと製作を手掛けた方が在ったが、志半ばで他界されたことを受け、御遺族が市に寄贈したモノということである。
↑頂上に「魂を降臨させる」という人形を載せるのだが、その頂上部分は「引っ込む」仕掛けになっていて、高さが少し低くなるのだという。
こういう山車を使う祭は、江戸で起こって盛んになり、それが川越にも伝わった。江戸では祭の山車が江戸城の中を練り歩いて将軍が観るという場面も在ったということで、城門を潜る場合の高さの制約というものが在るので「頂上部が引っ込む仕掛け」が考案されて普及したそうだ。それが「そのまま」に川越の祭で使う山車にも受け継がれているのである。
↓「江戸彫」と呼ばれる精密な彫刻が施された山車は見事なものだ。
↓西陣織等の華麗な布で飾るという場合も在るようだ。
こうした山車だが、新造すると「億円」の桁の費用を要するようだ。
↓山車を曳く人達は揃いの衣装を身に着ける。現在、ホールに在る山車の関係者の使う衣装が飾られていた。
祭に際しては、踊りや御囃子も在り、各々に進む山車が出会って、競うように御囃子の演奏が行われて掛け声を出し合うという賑やかな場面が繰り広げられるのだそうだ。
この<川越まつり会館>はかなり深い奥行きに設えられた建物に、画のような様々なモノが展示されている。素晴らしいのは、関係者の皆さんが熱心に判り易く御話ししてくれることだった。川越の人達が愛し、大切に受継がれている貴重なモノに関して非常に強く伝わる。そして祭に携わった様々な人達の談話のようなモノが館内に掲示されていたのも興味深く拝見した。
それにしても、川越の山車を使う祭は江戸で起こって伝わったのだというが、江戸では山車を使う祭が廃れてしまった。それは路面電車の架線のようなモノが街に広く張り巡らされ、背の高い山車が使い悪くなり、肩に担ぐ神輿を使うというのが専らになって行ったということのようだ。川越ではそれが残って受継がれた訳だ。ということは、「川越」でこそ「江戸の文化」が古き善き姿で受継がれているというようなことになるのかもしれない。
何となく眼に留まって立寄ったのだったが、凄く興味深い展示施設に出遭えた。非常に善かった。
↓こういう建物を眼に留めた。
↑辺りの様子に馴染んだ感じ、特殊でもないとは思ったが「まつり会館」なる看板が気になって近付き、入ってみた。
如何いう場所なのか尋ねれば、「<川越まつり>の山車を展示している。本物が置かれている」ということで、有料の展示施設だった。「面白そう?」と入ってみた。
↓こういう具合に<川越まつり>の本物の山車が展示されている。
↑ビデオや三脚の使用等は御遠慮願うとのことだが、館内の写真撮影は構わないということだった。
この山車が飾られたホールでは、<川越まつり>を紹介する6分間程度のビデオが上映され、関係者が来館者に色々な話しをしてくれるようになっている。それを通じて、<川越まつり>のこと、祭に登場する山車のこと、それに関連する地域の歴史等を知ることが叶うのだ。
↓新旧色々なモノが混在しているが、29基の山車が在る。基本的に町内で山車を持っていて、祭では町内関係者が山車を曳く催事に参加する。1基は嘗て地元企業が製作して市に寄贈したモノで、山車の町内以外で希望する児童生徒の中から抽選で選ばれた人達が曳くというようにしているそうだ。
↓現在はこの<八幡太郎>の山車がホールに在る。
↓もう一つ<鏡獅子>の山車も在る。
↓背が高い山車はこういう骨組みになっている。これは<川越まつり>の発展に寄与しようと製作を手掛けた方が在ったが、志半ばで他界されたことを受け、御遺族が市に寄贈したモノということである。
↑頂上に「魂を降臨させる」という人形を載せるのだが、その頂上部分は「引っ込む」仕掛けになっていて、高さが少し低くなるのだという。
こういう山車を使う祭は、江戸で起こって盛んになり、それが川越にも伝わった。江戸では祭の山車が江戸城の中を練り歩いて将軍が観るという場面も在ったということで、城門を潜る場合の高さの制約というものが在るので「頂上部が引っ込む仕掛け」が考案されて普及したそうだ。それが「そのまま」に川越の祭で使う山車にも受け継がれているのである。
↓「江戸彫」と呼ばれる精密な彫刻が施された山車は見事なものだ。
↓西陣織等の華麗な布で飾るという場合も在るようだ。
こうした山車だが、新造すると「億円」の桁の費用を要するようだ。
↓山車を曳く人達は揃いの衣装を身に着ける。現在、ホールに在る山車の関係者の使う衣装が飾られていた。
祭に際しては、踊りや御囃子も在り、各々に進む山車が出会って、競うように御囃子の演奏が行われて掛け声を出し合うという賑やかな場面が繰り広げられるのだそうだ。
この<川越まつり会館>はかなり深い奥行きに設えられた建物に、画のような様々なモノが展示されている。素晴らしいのは、関係者の皆さんが熱心に判り易く御話ししてくれることだった。川越の人達が愛し、大切に受継がれている貴重なモノに関して非常に強く伝わる。そして祭に携わった様々な人達の談話のようなモノが館内に掲示されていたのも興味深く拝見した。
それにしても、川越の山車を使う祭は江戸で起こって伝わったのだというが、江戸では山車を使う祭が廃れてしまった。それは路面電車の架線のようなモノが街に広く張り巡らされ、背の高い山車が使い悪くなり、肩に担ぐ神輿を使うというのが専らになって行ったということのようだ。川越ではそれが残って受継がれた訳だ。ということは、「川越」でこそ「江戸の文化」が古き善き姿で受継がれているというようなことになるのかもしれない。
何となく眼に留まって立寄ったのだったが、凄く興味深い展示施設に出遭えた。非常に善かった。
<蔵造りの町並み>…:川越(2023.12.25)
↓「江戸時代の蔵」のような建物が「普通の少し古くからの商店」という様子になっている様に出くわして驚いた。
↓「黒漆喰」という壁である。江戸時代の建築の技法らしい。
↓他方で明治時代後期以降という風な様式の建物も交じる。こういう様子が、江戸時代から明治、大正、昭和、更に平静を経た令和の現在迄、人々の営みが営々と受継がれている街であることを強く意識させてくれる。
↓一瞥すると、何かの資料館の“建物展示”というのか、「映画のセット?」というようなことも思ってしまうが、普通に商店としての活動が為されている様子である。
↓相対的に新しい建物に、古い建物が挟まれるようにして在るのが面白い。
↓多分、これが最初に建てられたような頃は「普通」だったのだと思うが、何か「酷く手が掛かりそうな建物…」と思いながら眺めていた。
国外から日本国内に入る方の中には「日本の旧い建物の在る街並みが観てみたい」という方も在るであろう。そういうようなことであれば、川越は「首都圏に在って日帰り」ということをし易い場所だと思う。川越そのものが首都圏の一部ということにもなるであろうが。
川越を訪ね、離れてから然程の時日を経ていないが、早くも「何時か再訪…」と考えていることに気付かざるを得ない。
↓「黒漆喰」という壁である。江戸時代の建築の技法らしい。
↓他方で明治時代後期以降という風な様式の建物も交じる。こういう様子が、江戸時代から明治、大正、昭和、更に平静を経た令和の現在迄、人々の営みが営々と受継がれている街であることを強く意識させてくれる。
↓一瞥すると、何かの資料館の“建物展示”というのか、「映画のセット?」というようなことも思ってしまうが、普通に商店としての活動が為されている様子である。
↓相対的に新しい建物に、古い建物が挟まれるようにして在るのが面白い。
↓多分、これが最初に建てられたような頃は「普通」だったのだと思うが、何か「酷く手が掛かりそうな建物…」と思いながら眺めていた。
国外から日本国内に入る方の中には「日本の旧い建物の在る街並みが観てみたい」という方も在るであろう。そういうようなことであれば、川越は「首都圏に在って日帰り」ということをし易い場所だと思う。川越そのものが首都圏の一部ということにもなるであろうが。
川越を訪ね、離れてから然程の時日を経ていないが、早くも「何時か再訪…」と考えていることに気付かざるを得ない。
川越商工会議所…(2023.12.25)
<大正浪漫夢通り>…:川越(2023.12.25)
川越を訪ねてみた日は荒天に恵まれた。冬の蒼天の下、心地好く歩き廻っていた。
↓古い建物が並ぶ辺りに差し掛かった。
↓半ば「時が停まった」かのような、少し不思議な気分になった。
↓古い外観を活かして利用するという方式で、色々な事業が展開していると見受けられた。
↓焼き芋か何かを売っているような様子だった。
この辺りは<大正浪漫夢通り>と名付けられている。明治時代後期や大正時代、または昭和初期という建物が残っている訳だが、昭和期にはアーケードが架けられた商店街だったそうだ。1995(平成7)年にアーケードを撤去し、古い建物を活かした「大正浪漫」をテーマにした街を目指し始めている。現在もそうした取り組みは続き、電線を地中化し、道路を石畳にするというようなことをしている。
↓こういう感じは、なるほど「大正時代」を想起させる。明治時代の終わりに近い辺りからコンクリートが各種の建築に多用されるようになっていて、画のような感じの建物も増えて行ったようである。
↓他方で、こういう感じの建築も以前から受継がれて、明治時代の終わりに近い辺り以降も新築されていたようだ。
「街並みそのもの」が「何かの展示」というような様子である。街には、国内外の旅行者が多く見受けられた。少し立寄って歩き廻るには好適な街であるとも思う。
↓古い建物が並ぶ辺りに差し掛かった。
↓半ば「時が停まった」かのような、少し不思議な気分になった。
↓古い外観を活かして利用するという方式で、色々な事業が展開していると見受けられた。
↓焼き芋か何かを売っているような様子だった。
この辺りは<大正浪漫夢通り>と名付けられている。明治時代後期や大正時代、または昭和初期という建物が残っている訳だが、昭和期にはアーケードが架けられた商店街だったそうだ。1995(平成7)年にアーケードを撤去し、古い建物を活かした「大正浪漫」をテーマにした街を目指し始めている。現在もそうした取り組みは続き、電線を地中化し、道路を石畳にするというようなことをしている。
↓こういう感じは、なるほど「大正時代」を想起させる。明治時代の終わりに近い辺りからコンクリートが各種の建築に多用されるようになっていて、画のような感じの建物も増えて行ったようである。
↓他方で、こういう感じの建築も以前から受継がれて、明治時代の終わりに近い辺り以降も新築されていたようだ。
「街並みそのもの」が「何かの展示」というような様子である。街には、国内外の旅行者が多く見受けられた。少し立寄って歩き廻るには好適な街であるとも思う。
氷川神社…:大宮(2023.12.25)
「大宮」という地名は、「武蔵一宮」の雅称に由来するのだという。「武蔵一宮を擁する地域」ということで、江戸時代に辺りが「大宮宿」と呼び習わされたことが起りなのだという。
その「武蔵一宮」たる、“伝説”そのものを含むような由緒を有する氷川神社を訪ねてみたいと思っていた。大宮に到着した前日の夕刻、既に暗くなっていて按配が悪いと思ったので、朝から時間を設けて足を運んだのである。
↓荷物を大宮駅のロッカーに預けてから歩き始め、10分強でこういう看板に行き当たった。
↓大きな木に鳥居という様子で、通路が延びている。長い伝統を誇る大きな神社の参道という様相だ。
↓狛犬が迎えてくれた。吽形だ…
↓狛犬には当然ながら阿形も在る…
↓初詣の時季を控え、その準備が少しずつ進められているという様子も見受けられたが、こうやって立派な鳥居が本格的な境内の入口と示してくれている。
↓境内の木々と朝の光が醸し出す雰囲気が好い。
↓嘗て、帝国海軍の艦艇には艦名に所縁の地域の神社の紙を勧請するようなことが行われていたという。艦内に神棚を設え、艦名を冠して「〇〇神社」と号したらしい。かの戦艦<武蔵>に関しては、「武蔵一宮」たる氷川神社の神職が招かれて儀式を執り行ったのだという。そういう経過を伝える碑が境内に据えられていた。
↓橋の向こうに楼門が見える。朝の清掃も入念に行われている様子だ。
↓凄く貫禄が在る門で、暫し足を停めて見入った。
↓正面で楼門と向き合って、境内の中に歩を進めた。
↓大きな木が散在する感じが、何か面白い。
↓凄く「神社らしい…」と見入ってしまった光景だ。
凄く雰囲気の好い場所だった。縁薄かった大宮に、多少の遠回りながらも無事に着いたことに感謝と確り参拝し、御朱印を御願いした。
↓こういう具合、左側の頁に押印で書き込みをして頂いた。
↑窓口で御願いした神職の方が隣の頁を眼に留め、「あっ!?上川神社…」と反応した。実は北海道に所縁が在る方で、上川神社等に色々と御縁が在るということで、少し言葉を交わした。北海道から南下して訪ねた大宮の氷川神社で、北海道に所縁の方と出くわしたというのも強く大きな御縁だ。そういうことにも感謝しながら引揚げることになった。
↓他地域から大宮を訪ねるというようなことは余り聞かない。そしてこの氷川神社を訪ねてみたという話しも、個人的には聞いた記憶が無い。が、それはそれとして、なかなかに興味深い。
そういうことで、冬の好天という中で訪ねた氷川神社は「機会が在れば再訪…。否!再訪機会を是非設けたい」という場所に数え得るようになった。
その「武蔵一宮」たる、“伝説”そのものを含むような由緒を有する氷川神社を訪ねてみたいと思っていた。大宮に到着した前日の夕刻、既に暗くなっていて按配が悪いと思ったので、朝から時間を設けて足を運んだのである。
↓荷物を大宮駅のロッカーに預けてから歩き始め、10分強でこういう看板に行き当たった。
↓大きな木に鳥居という様子で、通路が延びている。長い伝統を誇る大きな神社の参道という様相だ。
↓狛犬が迎えてくれた。吽形だ…
↓狛犬には当然ながら阿形も在る…
↓初詣の時季を控え、その準備が少しずつ進められているという様子も見受けられたが、こうやって立派な鳥居が本格的な境内の入口と示してくれている。
↓境内の木々と朝の光が醸し出す雰囲気が好い。
↓嘗て、帝国海軍の艦艇には艦名に所縁の地域の神社の紙を勧請するようなことが行われていたという。艦内に神棚を設え、艦名を冠して「〇〇神社」と号したらしい。かの戦艦<武蔵>に関しては、「武蔵一宮」たる氷川神社の神職が招かれて儀式を執り行ったのだという。そういう経過を伝える碑が境内に据えられていた。
↓橋の向こうに楼門が見える。朝の清掃も入念に行われている様子だ。
↓凄く貫禄が在る門で、暫し足を停めて見入った。
↓正面で楼門と向き合って、境内の中に歩を進めた。
↓大きな木が散在する感じが、何か面白い。
↓凄く「神社らしい…」と見入ってしまった光景だ。
凄く雰囲気の好い場所だった。縁薄かった大宮に、多少の遠回りながらも無事に着いたことに感謝と確り参拝し、御朱印を御願いした。
↓こういう具合、左側の頁に押印で書き込みをして頂いた。
↑窓口で御願いした神職の方が隣の頁を眼に留め、「あっ!?上川神社…」と反応した。実は北海道に所縁が在る方で、上川神社等に色々と御縁が在るということで、少し言葉を交わした。北海道から南下して訪ねた大宮の氷川神社で、北海道に所縁の方と出くわしたというのも強く大きな御縁だ。そういうことにも感謝しながら引揚げることになった。
↓他地域から大宮を訪ねるというようなことは余り聞かない。そしてこの氷川神社を訪ねてみたという話しも、個人的には聞いた記憶が無い。が、それはそれとして、なかなかに興味深い。
そういうことで、冬の好天という中で訪ねた氷川神社は「機会が在れば再訪…。否!再訪機会を是非設けたい」という場所に数え得るようになった。
マンホールの蓋…:川越(2022.12.25)
自販機…:川越市役所周辺(2023.12.25)
川越熊野神社…(2023.12.25)
川越はなかなかに面白い感じで、冬の蒼天の下を心地好く歩き廻った。
↓年季が入った石の鳥居を眼に留めた。
↑川越熊野神社だ。
↓「神社」では「初詣の備え」という雰囲気が色濃い場所も多かった。ここも例に漏れないのかもしれないが、「茅の輪くぐり」の設えが見受けられた。
川越熊野神社は、1590年に紀州熊野から分祀されたのだという。開運、縁結び、厄除けの神社として知られるそうだ。
↓無事に川越へやって来て、好い時間を過ごしていることに感謝の意を表すべく参拝し、御朱印を頂いた。
↓「熊野神社」と言えば「八咫烏」(ヤタガラス)である。こういうキャラクターが在る。
旧いモノが色々と伝わる川越で、長い伝統を受け継ぐ神社に出会えた。
↓年季が入った石の鳥居を眼に留めた。
↑川越熊野神社だ。
↓「神社」では「初詣の備え」という雰囲気が色濃い場所も多かった。ここも例に漏れないのかもしれないが、「茅の輪くぐり」の設えが見受けられた。
川越熊野神社は、1590年に紀州熊野から分祀されたのだという。開運、縁結び、厄除けの神社として知られるそうだ。
↓無事に川越へやって来て、好い時間を過ごしていることに感謝の意を表すべく参拝し、御朱印を頂いた。
↓「熊野神社」と言えば「八咫烏」(ヤタガラス)である。こういうキャラクターが在る。
旧いモノが色々と伝わる川越で、長い伝統を受け継ぐ神社に出会えた。
時の鐘:川越(2023.12.25)
「冬の好天」という様相の中、JR川越駅を起点にゆっくりと街を歩き廻った。色々と旧い建物も残る川越は、歩き廻るのが愉しい街だと思う。
↓蒼天に映える感じの塔が視える。
↓「蔵造りの街並み」の一隅に枝道のようなモノが在り、そこに聳え立っている塔だ。
↑「時の鐘」であるが、「鐘撞堂」(かねつきどう)とも呼ばれるようだ。
↓江戸時代、17世紀半ばに登場したモノが、火災等で損なわれる都度に再建され、現在のモノは1893(明治26)年の火災の翌年に再建されたそうだ。
↓街の人達に時刻を伝えるべく鐘が撞かれたという経過が在る場所だ。損なわれても再建され、街と人々を見守り続けた塔だ。「川越」の「象徴」のような存在感を放つ塔だ。
好い感じでこの塔を眺めることが叶って善かった。
↓蒼天に映える感じの塔が視える。
↓「蔵造りの街並み」の一隅に枝道のようなモノが在り、そこに聳え立っている塔だ。
↑「時の鐘」であるが、「鐘撞堂」(かねつきどう)とも呼ばれるようだ。
↓江戸時代、17世紀半ばに登場したモノが、火災等で損なわれる都度に再建され、現在のモノは1893(明治26)年の火災の翌年に再建されたそうだ。
↓街の人達に時刻を伝えるべく鐘が撞かれたという経過が在る場所だ。損なわれても再建され、街と人々を見守り続けた塔だ。「川越」の「象徴」のような存在感を放つ塔だ。
好い感じでこの塔を眺めることが叶って善かった。
公衆電話ボックス…:午後:大宮駅東口(2023.12.25)
「壁」??「△」(さんかく)??:大宮にて(2023.12.25)
公衆電話ボックス…:早朝:大宮駅東口(2023.12.25)
朝6時過ぎ、大宮駅へ足を運んだ。
↓前夜にも眼に留めていたが、未だ灯りが残る早朝の感じも少し面白いと思った。
↑空いた公衆電話ボックスが5つ並んでいる。何度もこの辺りを通り掛かった。が、誰かが公衆電話ボックスを利用している様子は見掛けなかった。
大都市圏では、午前6時過ぎという時間帯に存外な人通りが見受けられると思う。そういうのは、過ぎる程に静かな街で暮らしていると「大きな違い…」と気になる。
↓前夜にも眼に留めていたが、未だ灯りが残る早朝の感じも少し面白いと思った。
↑空いた公衆電話ボックスが5つ並んでいる。何度もこの辺りを通り掛かった。が、誰かが公衆電話ボックスを利用している様子は見掛けなかった。
大都市圏では、午前6時過ぎという時間帯に存外な人通りが見受けられると思う。そういうのは、過ぎる程に静かな街で暮らしていると「大きな違い…」と気になる。
大宮駅東口…(2023.12.24)
公衆電話ボックス…:大宮駅東口(2023.12.24)
<こりすのトトちゃん>…:大宮駅東口(2023.12.24)
予約した宿を探そうと、大宮駅東口の少し北寄りな辺りに出た。
↓こんな可愛らしいキャラクターの像を眼に留めた。
↑現在の「さいたま市」の以前、「大宮市」が「市制50年」を迎えた1990(平成2)年に「記念マスコット」となった<こりすのトトちゃん>である。1994(平成6)年に像が設置されたそうだ。
<こりすのトトちゃん>は大宮出身の「あすかけん」という絵本作家が生み出したキャラクターなのだそうだ。嘗ての「大宮市」では、自然や環境と調和しながら発展を目指して躍動する街のマスコットとしてリスを採用したようだ。序でに、サッカーの<大宮アルディージャ>でもリスをマスコットキャラクターに採用している。これは俊敏に走り回るリスがサッカーチームというイメージに合っているということと、リスが愛される動物だからということなのだという。
ほんの少しだけでも、馴染みが薄い街を歩けば、少しばかり面白いモノに出くわす…
↓こんな可愛らしいキャラクターの像を眼に留めた。
↑現在の「さいたま市」の以前、「大宮市」が「市制50年」を迎えた1990(平成2)年に「記念マスコット」となった<こりすのトトちゃん>である。1994(平成6)年に像が設置されたそうだ。
<こりすのトトちゃん>は大宮出身の「あすかけん」という絵本作家が生み出したキャラクターなのだそうだ。嘗ての「大宮市」では、自然や環境と調和しながら発展を目指して躍動する街のマスコットとしてリスを採用したようだ。序でに、サッカーの<大宮アルディージャ>でもリスをマスコットキャラクターに採用している。これは俊敏に走り回るリスがサッカーチームというイメージに合っているということと、リスが愛される動物だからということなのだという。
ほんの少しだけでも、馴染みが薄い街を歩けば、少しばかり面白いモノに出くわす…
上野東京ライン 宇都宮線直通…:大宮駅にて(2023.12.24)
品川駅で、ホームに出た時に現れた列車に直ぐに乗車し、列車を大宮駅で下りた。
↓こういう行先表示が出ていた。
「東北新幹線の建設に伴い分断された上野駅・東京駅間の東北本線列車線を再度敷設し、上野駅を起点とする東北本線系統の列車(宇都宮線・高崎線・常磐線)を東京駅へ乗り入れさせ、さらに東海道線の品川駅・横浜駅方面へ直通運転させる路線」というのに「上野東京ライン」という愛称が付いたそうだ。2015(平成27)年から、この「上野東京ライン」の列車が運行されている。
↓現れた列車に黙って直ぐに乗ったので余り観ていなかったが、2階建てグリーン車も連結した15輛編成の長大な列車だ。
↓長大な列車を何となく見送ってしまった。
↓大宮より先、宇都宮まで行く列車だ。車内はなかなかに賑わっていた。
一度だけ「湘南新宿ライン」というの―2001年に運行が始まったそうだ…―で浦和から新宿を経て横浜に至るという列車に乗車した記憶が在る。埼玉県側から、より直線的な経路で横浜辺りへ出るのがこの「上野東京ライン」なのだと聞いた。首都圏では、様々な改良が施され、新しい系統の列車運行が順次行われている訳だ。
徒歩での旅行が当然だった江戸時代には、江戸の中心から「1日で動ける最も遠めな辺り」ということで、大宮の辺りは宿場町として栄えた経過があるという。その江戸の中心から離れた「品川宿」の更に南西辺りの羽田空港駅から大宮駅へ、1時間10分程度で到着してしまった。大宮駅・品川駅間は38km弱であるようだ。
↓そんなことも想いながら、何となく駅名の看板を眺めてしまった。
大きな駅であるが、個人的にはなじみが薄い駅にやって来た訳だ。
↓こういう行先表示が出ていた。
「東北新幹線の建設に伴い分断された上野駅・東京駅間の東北本線列車線を再度敷設し、上野駅を起点とする東北本線系統の列車(宇都宮線・高崎線・常磐線)を東京駅へ乗り入れさせ、さらに東海道線の品川駅・横浜駅方面へ直通運転させる路線」というのに「上野東京ライン」という愛称が付いたそうだ。2015(平成27)年から、この「上野東京ライン」の列車が運行されている。
↓現れた列車に黙って直ぐに乗ったので余り観ていなかったが、2階建てグリーン車も連結した15輛編成の長大な列車だ。
↓長大な列車を何となく見送ってしまった。
↓大宮より先、宇都宮まで行く列車だ。車内はなかなかに賑わっていた。
一度だけ「湘南新宿ライン」というの―2001年に運行が始まったそうだ…―で浦和から新宿を経て横浜に至るという列車に乗車した記憶が在る。埼玉県側から、より直線的な経路で横浜辺りへ出るのがこの「上野東京ライン」なのだと聞いた。首都圏では、様々な改良が施され、新しい系統の列車運行が順次行われている訳だ。
徒歩での旅行が当然だった江戸時代には、江戸の中心から「1日で動ける最も遠めな辺り」ということで、大宮の辺りは宿場町として栄えた経過があるという。その江戸の中心から離れた「品川宿」の更に南西辺りの羽田空港駅から大宮駅へ、1時間10分程度で到着してしまった。大宮駅・品川駅間は38km弱であるようだ。
↓そんなことも想いながら、何となく駅名の看板を眺めてしまった。
大きな駅であるが、個人的にはなじみが薄い駅にやって来た訳だ。