↓上富良野駅に至った。
↑少し待つと旭川へ向かう列車がやって来る。列車本数が然程多くない。乗込むことにした。
↓少しの間は駅舎内の待合の椅子に掛けていたが、「あと数分?」という頃になって、ホームに出て列車を待った。旭川方向への列車に乗る人達は存外に多かったかもしれない。
↓H100形も、何時の間にか眼に馴染んだような気がする。
↓これが停まって、扉が開いて乗込み、上富良野から離れる。それだけだが、乗ろうとしている列車を見ながら、既に「次の機会?」というようなことを考えてしまっている。
今般の上富良野訪問は好かったと思う。
<上富良野町郷土館>…:上富良野の街角(2024.05.12)
「開拓記念館」を訪ねようと上富良野駅から(多分)3km前後の道程を歩き、その同じ道を引き返しながら、上富良野駅を通り過ぎた市街地に至った。
↓こういう看板を見掛けた。
↑施設を紹介している場面で<かみふらの郷土館>となっている例も見受けられた。が、この看板が強く記憶に残るので、記事件名は<上富良野町郷土館>とした。多分、町立の施設であって、公には「上富良野町」としているだと思う。来訪する人達等への宣伝の意味合いで「かみふらの」と敢えてする場合も見受けられるということなのであろう。些事だが。
↓上記の看板の或る側へ少し歩を進める。「何処?」と左側を向くと立派な建物が在った。
↑確りと正面の壁の上方に「郷土館」と在る。間違いない。
↓なかなかに貫禄が在る見映えなのだが、往年の村役場を模した建物であるのだという。1919(大正8)年に登場した、他所でも類例が稀な程度の建物であったという「上富良野村役場」庁舎を模した。
↑1978(昭和53)年、現在へ連なる自治体の礎が築かれて80年を記念して建てられたのだという。
「入場無料」となっている。日付、人数、町内または町外の別、町外の場合は何処からかというのを表に書き記すというようになっている。
1階は左側が事務所のようになっていて、右側が展示室だった。「十勝岳ジオパーク 美瑛・上富良野エリア」という活動に関連し、自然関係、十勝岳を紹介する見地で「大正泥流」の話題を提供するという展示だった。
偶々なのだが、この場所で来る5月24日に上演するという紙芝居のリハーサルを行っているところだった。上演する際と同様に通してやってみるという場面になっていて、それを拝見した。「大正泥流」の挿話等の物語で、なかなかに興味深かった。
1階奥の真中に上へ上り、右、左と2方向に枝分かれした、往年の官公署や会社の建物に見受けられそうな設えだ。右側へ上り、2階の展示を一回りして左側から下りるという順路になっていた。
その2階は歴史関係である。
「開拓記念館」は、主に「三重団体」が入った経過や、「大正泥流」の際に懸命だった吉田貞次郎の事績等に少し絞り込まれた展示で、あの建物自体が興味深い。<上富良野町郷土館>はもう少し幅広く、街での暮らしや、農業等の変遷というようなことが判るような内容も加わっている。
当然ながら<上富良野町郷土館>でも「大正泥流」関係の紹介が在る。驚いたのは鉄道の件である。館内に枕木やレールがグチャグチャに流されて溜まってしまったような様子が判るようになった展示や、災害当時の記録写真、一部に「モノクロ写真の色復元」という処理を施した写真も在った。その中に、線路の下の土を抉って、そこから線路を捲り上げたようになっている写真が在った。「泥流」の威力の凄まじさが窺い知れる。
だが、凄まじい破壊以上に驚いた話しが在る。完全に破壊されてしまった鉄道だったが、数百人の作業員を投入して、数日後には列車が通ることが出来るようにし、以降は順次整えたということらしい。この「完全に破壊されたような鉄路を、数日でとりあえず使えるようにした」という史実に関して、或る意味で破壊の様の紹介以上に驚かされた。そして「最近の災害で鉄道が傷んでしまった時の様子は?」と、少々余計な事も頭の中を過った。
↓既に45年を経て、やや古くなった建物ではあるのだが、中の展示は興味深い。「開拓記念館」と相互に或る程度補完しながら上富良野の歴史が伝えられていると感じた。
「郷土誌」という語が在る。「郷土史」と似ているが、やや違う。
「郷土誌」とは、「郷土の地方的特性を、歴史、地理、風土、信仰、習俗、産業等の多方面から調査した記録」というような意味の語だ。上富良野では、地域のことを伝えるとして、歴史や十勝岳のことや産業の変遷というようなことを総合的に伝える、文字どおりに「郷土誌」的な取組をしていると観た。
何度か列車で通り過ぎたというだけだった上富良野である。「大正泥流」の後の人々の努力によって、今日でも列車で通り過ぎられる。それを初めて上富良野で列車を下りて、色々と見学をした中で知った訳である。
色々な意味で記憶に残る上富良野訪問だった。
↓こういう看板を見掛けた。
↑施設を紹介している場面で<かみふらの郷土館>となっている例も見受けられた。が、この看板が強く記憶に残るので、記事件名は<上富良野町郷土館>とした。多分、町立の施設であって、公には「上富良野町」としているだと思う。来訪する人達等への宣伝の意味合いで「かみふらの」と敢えてする場合も見受けられるということなのであろう。些事だが。
↓上記の看板の或る側へ少し歩を進める。「何処?」と左側を向くと立派な建物が在った。
↑確りと正面の壁の上方に「郷土館」と在る。間違いない。
↓なかなかに貫禄が在る見映えなのだが、往年の村役場を模した建物であるのだという。1919(大正8)年に登場した、他所でも類例が稀な程度の建物であったという「上富良野村役場」庁舎を模した。
↑1978(昭和53)年、現在へ連なる自治体の礎が築かれて80年を記念して建てられたのだという。
「入場無料」となっている。日付、人数、町内または町外の別、町外の場合は何処からかというのを表に書き記すというようになっている。
1階は左側が事務所のようになっていて、右側が展示室だった。「十勝岳ジオパーク 美瑛・上富良野エリア」という活動に関連し、自然関係、十勝岳を紹介する見地で「大正泥流」の話題を提供するという展示だった。
偶々なのだが、この場所で来る5月24日に上演するという紙芝居のリハーサルを行っているところだった。上演する際と同様に通してやってみるという場面になっていて、それを拝見した。「大正泥流」の挿話等の物語で、なかなかに興味深かった。
1階奥の真中に上へ上り、右、左と2方向に枝分かれした、往年の官公署や会社の建物に見受けられそうな設えだ。右側へ上り、2階の展示を一回りして左側から下りるという順路になっていた。
その2階は歴史関係である。
「開拓記念館」は、主に「三重団体」が入った経過や、「大正泥流」の際に懸命だった吉田貞次郎の事績等に少し絞り込まれた展示で、あの建物自体が興味深い。<上富良野町郷土館>はもう少し幅広く、街での暮らしや、農業等の変遷というようなことが判るような内容も加わっている。
当然ながら<上富良野町郷土館>でも「大正泥流」関係の紹介が在る。驚いたのは鉄道の件である。館内に枕木やレールがグチャグチャに流されて溜まってしまったような様子が判るようになった展示や、災害当時の記録写真、一部に「モノクロ写真の色復元」という処理を施した写真も在った。その中に、線路の下の土を抉って、そこから線路を捲り上げたようになっている写真が在った。「泥流」の威力の凄まじさが窺い知れる。
だが、凄まじい破壊以上に驚いた話しが在る。完全に破壊されてしまった鉄道だったが、数百人の作業員を投入して、数日後には列車が通ることが出来るようにし、以降は順次整えたということらしい。この「完全に破壊されたような鉄路を、数日でとりあえず使えるようにした」という史実に関して、或る意味で破壊の様の紹介以上に驚かされた。そして「最近の災害で鉄道が傷んでしまった時の様子は?」と、少々余計な事も頭の中を過った。
↓既に45年を経て、やや古くなった建物ではあるのだが、中の展示は興味深い。「開拓記念館」と相互に或る程度補完しながら上富良野の歴史が伝えられていると感じた。
「郷土誌」という語が在る。「郷土史」と似ているが、やや違う。
「郷土誌」とは、「郷土の地方的特性を、歴史、地理、風土、信仰、習俗、産業等の多方面から調査した記録」というような意味の語だ。上富良野では、地域のことを伝えるとして、歴史や十勝岳のことや産業の変遷というようなことを総合的に伝える、文字どおりに「郷土誌」的な取組をしていると観た。
何度か列車で通り過ぎたというだけだった上富良野である。「大正泥流」の後の人々の努力によって、今日でも列車で通り過ぎられる。それを初めて上富良野で列車を下りて、色々と見学をした中で知った訳である。
色々な意味で記憶に残る上富良野訪問だった。
芝桜と蒲公英と…:上富良野神社:上富良野の風景…(2024.05.12)
↓上富良野神社の辺りで、花色で一隅を覆ってしまっているような様子に眼を奪われた。
↑芝桜である。上富良野を訪ねた時、この芝桜が好い時季であった。
↓そしてこの蒲公英にも眼を奪われた。
蒲公英を見て「Одуванчики(アドゥヴァンチキ)…」と呟いてしまった。
日本国内に滞在していた国外出身の友人と御一緒した際、友人が蒲公英を見掛けて「Одуванчики(アドゥヴァンチキ)!」と少し声を上げ、姿勢を低くしてそれを眺めていた様子を思い出した。
友人は幼少期、または少し長じてからも、春に戸外を駆け回って、蒲公英を愛でるようなことを好んでいて、見掛けると酷く懐かしく嬉しい気持ちになるのだという。
「春に戸外を駆け回って、蒲公英を愛でる」というような、如何でも構わないような事柄も、戦禍が続いて、人に大きなダメージをもたらしてしまうようなモノが、判り悪い状態で散らばってしまっているような中では、思うように出来なくなってしまう訳だ。それでも花は咲くのであろうが。そう思って、蒲公英が気になっている昨今である。
上富良野も、かの「大正泥流」のような状態になってしまった。村を放棄するも已む無しという論調が強まった中、父母と共に拓いた土地を簡単に諦めたくはないと復興が進められた。多分、そんな復興の頃にも、この蒲公英のような花が姿を見せ、「これが咲くなら、作物も育つようになる筈だ」と人に希望を与えたかもしれない。
こういうさり気無い花は、災禍や戦禍を乗り越えるような人々の傍らで、そういう努力を静かに見守る存在なのかもしれない。そういう花が、地域を見守る神社の辺りに在ったというのが、何か強く記憶に残る。
↓蒲公英と芝桜とが組み合わさって見える箇所も在り、何やら暫し佇んで見入ってしまった。
訪ねてみた上富良野から戻って然程の事実を経ているのでもないが、早くも懐かしくなる感じである。
↑芝桜である。上富良野を訪ねた時、この芝桜が好い時季であった。
↓そしてこの蒲公英にも眼を奪われた。
蒲公英を見て「Одуванчики(アドゥヴァンチキ)…」と呟いてしまった。
日本国内に滞在していた国外出身の友人と御一緒した際、友人が蒲公英を見掛けて「Одуванчики(アドゥヴァンチキ)!」と少し声を上げ、姿勢を低くしてそれを眺めていた様子を思い出した。
友人は幼少期、または少し長じてからも、春に戸外を駆け回って、蒲公英を愛でるようなことを好んでいて、見掛けると酷く懐かしく嬉しい気持ちになるのだという。
「春に戸外を駆け回って、蒲公英を愛でる」というような、如何でも構わないような事柄も、戦禍が続いて、人に大きなダメージをもたらしてしまうようなモノが、判り悪い状態で散らばってしまっているような中では、思うように出来なくなってしまう訳だ。それでも花は咲くのであろうが。そう思って、蒲公英が気になっている昨今である。
上富良野も、かの「大正泥流」のような状態になってしまった。村を放棄するも已む無しという論調が強まった中、父母と共に拓いた土地を簡単に諦めたくはないと復興が進められた。多分、そんな復興の頃にも、この蒲公英のような花が姿を見せ、「これが咲くなら、作物も育つようになる筈だ」と人に希望を与えたかもしれない。
こういうさり気無い花は、災禍や戦禍を乗り越えるような人々の傍らで、そういう努力を静かに見守る存在なのかもしれない。そういう花が、地域を見守る神社の辺りに在ったというのが、何か強く記憶に残る。
↓蒲公英と芝桜とが組み合わさって見える箇所も在り、何やら暫し佇んで見入ってしまった。
訪ねてみた上富良野から戻って然程の事実を経ているのでもないが、早くも懐かしくなる感じである。
上富良野神社…:上富良野の街角(2024.05.12)
↓鳥居が連なっている場所に出くわした。奥に建物も見える。神社の参道であるようだ。
↓上富良野神社の参道である。
↓現在の社殿は1989(平成元)年のものであるらしい。
↓上富良野の総鎮守という、なかなかに風格が在る社殿だと思った。
この辺りには色々な人達が入植して種々の農場を拓くようなことをしていたが、各々の纏まりで暮らしの安寧や仕事の成功を祈るような社を設けていた。例えば「三重団体」と呼び習わされた三重県出身の人達が水田等を拓いていた辺りでは草分神社が在った。この種の神社の一部は現在でも伝わっているようだ。
そういう色々な人達の「各々の社」の他方、1899(明治32)年の(現在の富良野線ということになる)鉄道開通を契機に形成されて行った市街には、神社は無かった。そういうことで、1902(明治35)年に創祀され、翌年に分村というようなことも在って「上富良野神社」と号するようになり、「村の総鎮守」ということで経過して行くことになる。
↓上富良野で好い時間を過ごしていることに感謝の意を表すべく参拝した。
上富良野を訪ねようと考える契機になった小説『泥流地帯』であるが、「大正泥流」が発生する終盤寄りの辺り迄は、小学校の教員になって行く主人公が祖父の薫陶を受けて育っていくというような内容が多いが、そういう中に上富良野神社に纏わる話題が出て来る。市街の上富良野神社での祭は、大正10年代頃には既になかなかに盛大なものになっていて、人々が様々な催事を愉しんでいた様子が描かれている。
↓地域の歴史を見守って来た、そしてこれからも見守る存在の、地域を代表する神社の存在感は好いと思う。
<上富良野町開拓歴史広場>の辺りから上富良野神社迄歩いたが、小説『泥流地帯』の作中世界の人々が祭を見物に出ようと歩いたような道筋であったかもしれない。こういう過ごし方が好い。但し、列車で旭川に引揚げた後、やや多く歩いた関係で足取りが些か重くはなってしまったのだったが。
↓上富良野神社の参道である。
↓現在の社殿は1989(平成元)年のものであるらしい。
↓上富良野の総鎮守という、なかなかに風格が在る社殿だと思った。
この辺りには色々な人達が入植して種々の農場を拓くようなことをしていたが、各々の纏まりで暮らしの安寧や仕事の成功を祈るような社を設けていた。例えば「三重団体」と呼び習わされた三重県出身の人達が水田等を拓いていた辺りでは草分神社が在った。この種の神社の一部は現在でも伝わっているようだ。
そういう色々な人達の「各々の社」の他方、1899(明治32)年の(現在の富良野線ということになる)鉄道開通を契機に形成されて行った市街には、神社は無かった。そういうことで、1902(明治35)年に創祀され、翌年に分村というようなことも在って「上富良野神社」と号するようになり、「村の総鎮守」ということで経過して行くことになる。
↓上富良野で好い時間を過ごしていることに感謝の意を表すべく参拝した。
上富良野を訪ねようと考える契機になった小説『泥流地帯』であるが、「大正泥流」が発生する終盤寄りの辺り迄は、小学校の教員になって行く主人公が祖父の薫陶を受けて育っていくというような内容が多いが、そういう中に上富良野神社に纏わる話題が出て来る。市街の上富良野神社での祭は、大正10年代頃には既になかなかに盛大なものになっていて、人々が様々な催事を愉しんでいた様子が描かれている。
↓地域の歴史を見守って来た、そしてこれからも見守る存在の、地域を代表する神社の存在感は好いと思う。
<上富良野町開拓歴史広場>の辺りから上富良野神社迄歩いたが、小説『泥流地帯』の作中世界の人々が祭を見物に出ようと歩いたような道筋であったかもしれない。こういう過ごし方が好い。但し、列車で旭川に引揚げた後、やや多く歩いた関係で足取りが些か重くはなってしまったのだったが。
嘗てはガソリンスタンドであったと見受けられる場所…:上富良野の街角(2024.05.12)
少年期から何処でも1人で歩き廻る、自転車に乗って動き廻るということを随分とやっていたと思う。目に入る様々なモノ、殊に判り易い何かを覚えて「目印」のようにして、それを辿って行動するというような「習性」が何時の間にか心身に沁み込んでいるかもしれない。
現在でも、標識や看板や建物をその「目印」にして、色々な街を歩き廻る感じだ。何時の間にか各コンビニチェーンの看板が、その「目印」になる場合が増えたような気もするが、コンビニの看板以上に目立つのはガソリンスタンドだと思う。歩き廻る分には車輌用の燃料に用事は無いが、車輌が出入し易いような造りの故に「家並が切り取られたようになっている」と見え、同時に車輌に給油をする設備の形状が独特なので目立つのだ。
上富良野の街を歩き、そのガソリンスタンドらしきモノが遠目に見えた。「一寸、覚えておくと好さそうだ」と考えながら近付いた。そして多少驚いた。
↓こういう様子になっていた。草が伸びてしまっている様子、施設が一部傷んだ様子を見ると何年間もこのままだったと見受けられる。
少し先に営業しているガソリンスタンドも在った。そのガソリンスタンドの「移転前」の場所であったのか、廃業してしまった場所なのかは判らない。が、特徴的な施設が放棄されたような様子で、年月を経てしまっている様を何となく観るというのも少し興味深い。
現在でも、標識や看板や建物をその「目印」にして、色々な街を歩き廻る感じだ。何時の間にか各コンビニチェーンの看板が、その「目印」になる場合が増えたような気もするが、コンビニの看板以上に目立つのはガソリンスタンドだと思う。歩き廻る分には車輌用の燃料に用事は無いが、車輌が出入し易いような造りの故に「家並が切り取られたようになっている」と見え、同時に車輌に給油をする設備の形状が独特なので目立つのだ。
上富良野の街を歩き、そのガソリンスタンドらしきモノが遠目に見えた。「一寸、覚えておくと好さそうだ」と考えながら近付いた。そして多少驚いた。
↓こういう様子になっていた。草が伸びてしまっている様子、施設が一部傷んだ様子を見ると何年間もこのままだったと見受けられる。
少し先に営業しているガソリンスタンドも在った。そのガソリンスタンドの「移転前」の場所であったのか、廃業してしまった場所なのかは判らない。が、特徴的な施設が放棄されたような様子で、年月を経てしまっている様を何となく観るというのも少し興味深い。
踏切の標識…:上富良野の街角(2024.05.12)
<かみふらの開拓記念館>または<上富良野町開拓記念館>:<上富良野町開拓歴史広場>(2024.05.12)
↓<上富良野町開拓歴史広場>に家が建っている。少し古い建物だ。
↓これが<上富良野町開拓記念館>だ。
↑施設を紹介する情報の中には<かみふらの開拓記念館>という標記も見受けられる。故にこの記事の件名は「<かみふらの開拓記念館>または<上富良野町開拓記念館>」としてみた。些事かもしれないが。
この建物は、小説の『続 泥流地帯』に「主人公兄弟の隣人として登場する村長」のモデルとされる人物、「大正泥流」の当時に上富良野の村長を務めていた吉田貞次郎の家であった建物だという。
建物は「大正泥流」当時に少し傷んだものの残ったことから使用され続けたという。やがてこの<上富良野町開拓歴史広場>を整備した際に移築し、「開拓記念館」としたのだ。
↓大正時代の建築だ。それだけでもなかなかに貴重だと思うが、「大正泥流」の記憶を伝えるという価値も在る建物である。
↓観る角度を変える毎に独特な雰囲気に見えて興味深かった。
実は…この「開拓記念館」が開く前に辺りに到着していたので、戸外で建物をゆっくりと眺めていたのだった。
↓やがて開いたので見学させて頂いた。
展示はかなり興味深かった。「三重団体」が辺りに入って開拓を始めるようなことと、吉田貞次郎の事績や所縁の品、「大正泥流」の記録写真等が在った。また吉田貞次郎の伝記的な事柄を紹介するビデオを興味深く拝見した。
「大正泥流」の記録写真は、本当に言葉を失うような様子だ。災害後に「村の放棄も已む無し」という論調が強かったというのも頷かざるを得ない。が、吉田貞次郎村長は、「父母と共に拓いたこの地を諦めたくはない!」と復興を推進しようとし、それを何とか果たして行くのである。
↓上富良野駅に着き、そこから沿道の景色を眺めながら存外に長く歩いた。が、そうやって訪ねた価値は在った。
ここを見学後、辿った道を市街側へ引揚げ、更に上富良野で少し過ごした。
↓これが<上富良野町開拓記念館>だ。
↑施設を紹介する情報の中には<かみふらの開拓記念館>という標記も見受けられる。故にこの記事の件名は「<かみふらの開拓記念館>または<上富良野町開拓記念館>」としてみた。些事かもしれないが。
この建物は、小説の『続 泥流地帯』に「主人公兄弟の隣人として登場する村長」のモデルとされる人物、「大正泥流」の当時に上富良野の村長を務めていた吉田貞次郎の家であった建物だという。
建物は「大正泥流」当時に少し傷んだものの残ったことから使用され続けたという。やがてこの<上富良野町開拓歴史広場>を整備した際に移築し、「開拓記念館」としたのだ。
↓大正時代の建築だ。それだけでもなかなかに貴重だと思うが、「大正泥流」の記憶を伝えるという価値も在る建物である。
↓観る角度を変える毎に独特な雰囲気に見えて興味深かった。
実は…この「開拓記念館」が開く前に辺りに到着していたので、戸外で建物をゆっくりと眺めていたのだった。
↓やがて開いたので見学させて頂いた。
展示はかなり興味深かった。「三重団体」が辺りに入って開拓を始めるようなことと、吉田貞次郎の事績や所縁の品、「大正泥流」の記録写真等が在った。また吉田貞次郎の伝記的な事柄を紹介するビデオを興味深く拝見した。
「大正泥流」の記録写真は、本当に言葉を失うような様子だ。災害後に「村の放棄も已む無し」という論調が強かったというのも頷かざるを得ない。が、吉田貞次郎村長は、「父母と共に拓いたこの地を諦めたくはない!」と復興を推進しようとし、それを何とか果たして行くのである。
↓上富良野駅に着き、そこから沿道の景色を眺めながら存外に長く歩いた。が、そうやって訪ねた価値は在った。
ここを見学後、辿った道を市街側へ引揚げ、更に上富良野で少し過ごした。
地図…:<上富良野町開拓歴史広場>(2024.05.12)
上富良野では1897(明治30)年に開拓に着手されたことを、現在に続く自治体の礎が築かれた出来事と捉えており、1997(平成9)年には「100年」ということで<上富良野町開拓歴史広場>を整備している。
この<上富良野町開拓歴史広場>は地域の歴史等を伝えるような場、住民や来訪者の憩いの場というような様子になっている。そして「三重団体」というように呼び習わされたという、三重県からの入植者達が拓いて農地を起こしたとされる地区の一隅にこの広場は設けられている。
↓広場にこういうモノが在った。
↑地図である。少し立体的に見える描写の立派な図だと思う。
↓暫しこの地図を眺めた。
↑十勝岳の山頂側から下って、川などになっている先に上富良野が在り、図の真中辺りに在る上富良野駅から見て、図の左側の辺りが<上富良野町開拓歴史広場>ということになる。
1926(大正15)年の十勝岳噴火の際に生じた「大正泥流」は、十勝岳を少し遠くに望む麓の開けた辺りに襲い掛かったということになる。地図が掲出されている辺りの向こうに、十勝岳が薄い噴煙を上げているのも見えていた。
「大正泥流」は噴火の際の熱で、山頂周辺に未だ多く残っていた雪が一気に融け、大量の水が土や岩と共に流れ、木々を薙ぎ倒して、漫然と木が押し流されるのでもなく「縦に回転」という凄まじい勢いで押出した訳だ。
<上富良野町開拓歴史広場>が在る辺りも含め、明治30年代から大正年間の30年間程で拓かれた農地などは「大正泥流」で悉く損なわれてしまった。その他の財物も相当な被害を受け、犠牲者も多く生じている。その災害後の復興の取組は、言ってみれば「2回目の開拓」というようなものであったのだという。
こうした歴史を伝えようとする場を訪ねることが出来たのは非常に善かったと思う。
この<上富良野町開拓歴史広場>は地域の歴史等を伝えるような場、住民や来訪者の憩いの場というような様子になっている。そして「三重団体」というように呼び習わされたという、三重県からの入植者達が拓いて農地を起こしたとされる地区の一隅にこの広場は設けられている。
↓広場にこういうモノが在った。
↑地図である。少し立体的に見える描写の立派な図だと思う。
↓暫しこの地図を眺めた。
↑十勝岳の山頂側から下って、川などになっている先に上富良野が在り、図の真中辺りに在る上富良野駅から見て、図の左側の辺りが<上富良野町開拓歴史広場>ということになる。
1926(大正15)年の十勝岳噴火の際に生じた「大正泥流」は、十勝岳を少し遠くに望む麓の開けた辺りに襲い掛かったということになる。地図が掲出されている辺りの向こうに、十勝岳が薄い噴煙を上げているのも見えていた。
「大正泥流」は噴火の際の熱で、山頂周辺に未だ多く残っていた雪が一気に融け、大量の水が土や岩と共に流れ、木々を薙ぎ倒して、漫然と木が押し流されるのでもなく「縦に回転」という凄まじい勢いで押出した訳だ。
<上富良野町開拓歴史広場>が在る辺りも含め、明治30年代から大正年間の30年間程で拓かれた農地などは「大正泥流」で悉く損なわれてしまった。その他の財物も相当な被害を受け、犠牲者も多く生じている。その災害後の復興の取組は、言ってみれば「2回目の開拓」というようなものであったのだという。
こうした歴史を伝えようとする場を訪ねることが出来たのは非常に善かったと思う。
チューリップ…:上富良野の風景…(2024.05.12)
「大正泥流」の埋木…:<上富良野町開拓歴史広場>(2024.05.12)
↓広場にこういうように木が置かれていた。
↑少なくともベンチではない。座面が整えられているのでもない。そして製材が施された材木でもないことも見れば判る。
↓反対側の端である。両方とも少し激しく傷んでいる。人為的に切断したのではなく「折られた」という様子である。
↑これが1926(大正15)年の「大正泥流」で押し流された木なのである。2018年に住宅工事の現場で埋まっていたのが発見されたそうだ。
「両端が傷んでいる」というのは、激しい泥流で「叩き折られた」ようになった木の幹が、単純に押し流されるのでもなく「縦に回転」というすさまじい勢いで迫ったので、色々と硬いモノに当る等で両端が摺られながら傷んだと推定出来る。
屋外に置かれているため、この埋木は少し傷んだ感も否めないが、「大正泥流」の恐るべき破壊力を想わせるモノである。
尚、この埋木に関しては、別な場所に在る<郷土館>で屋内のケースに入った状態で展示されているが、こちらは「工事現場で掘出された現物のまま」に近いと見受けられた。
こういうモノはなかなかに貴重で、こうやって公開しているのも意義在ることだと思う。
↑少なくともベンチではない。座面が整えられているのでもない。そして製材が施された材木でもないことも見れば判る。
↓反対側の端である。両方とも少し激しく傷んでいる。人為的に切断したのではなく「折られた」という様子である。
↑これが1926(大正15)年の「大正泥流」で押し流された木なのである。2018年に住宅工事の現場で埋まっていたのが発見されたそうだ。
「両端が傷んでいる」というのは、激しい泥流で「叩き折られた」ようになった木の幹が、単純に押し流されるのでもなく「縦に回転」というすさまじい勢いで迫ったので、色々と硬いモノに当る等で両端が摺られながら傷んだと推定出来る。
屋外に置かれているため、この埋木は少し傷んだ感も否めないが、「大正泥流」の恐るべき破壊力を想わせるモノである。
尚、この埋木に関しては、別な場所に在る<郷土館>で屋内のケースに入った状態で展示されているが、こちらは「工事現場で掘出された現物のまま」に近いと見受けられた。
こういうモノはなかなかに貴重で、こうやって公開しているのも意義在ることだと思う。
草分神社…:<上富良野町開拓歴史広場>(2024.05.12)
精確には<上富良野町開拓歴史広場>の範囲を少しだけ外れるのかもしれない。やや離れた辺りからも小説『泥流地帯』の文学碑が判るのだが、その直ぐ隣りのような辺りである。
↓そこに鳥居が在る。
↓社殿に近付いてみた。
↑複雑な形状の雲が蠢くような天を背景に、影絵のようになっている社殿が美しいと思った。
↓草分神社という社だ。
北海道内では方々の色々な人達が各地に入植し、村を興そうとする中で、安寧を祈るべく祠や社を起こし、それが地域の神社となって現在に迄受継がれている例が多々在る。上富良野もそういうような例に洩れない。
今日<上富良野町開拓歴史広場>となっている辺りを含む地域では、1897(明治30)年頃から入植が始まったというのだが、その翌年となる1898(明治31)年には神社の礎となる場が設けられたという。
村を拓くべくやって来た人達は、「当地に着いた頃、楡木の辺りで野宿をする」という経験をしており、その木を“御守り”としながら天照大神御札に御参りをしたのだという。やがて1902(明治35)年には正式に伊勢皇大神宮の御分霊大麻を受け神祀を建立した。そして村の歩みが始まったという場所の名を冠して「草分神社」と号したのだという。
その後は「大正泥流」で損なわれ、再建されというような経過で、現在に繋がっているようである。
この地を拓き、様々な苦難も潜り抜けたという経過を知るべく、感じるべく上富良野を訪れて観たが、そういう好い経験が出来ているということに感謝の意を表しようと、草分神社に参拝した。
↓そこに鳥居が在る。
↓社殿に近付いてみた。
↑複雑な形状の雲が蠢くような天を背景に、影絵のようになっている社殿が美しいと思った。
↓草分神社という社だ。
北海道内では方々の色々な人達が各地に入植し、村を興そうとする中で、安寧を祈るべく祠や社を起こし、それが地域の神社となって現在に迄受継がれている例が多々在る。上富良野もそういうような例に洩れない。
今日<上富良野町開拓歴史広場>となっている辺りを含む地域では、1897(明治30)年頃から入植が始まったというのだが、その翌年となる1898(明治31)年には神社の礎となる場が設けられたという。
村を拓くべくやって来た人達は、「当地に着いた頃、楡木の辺りで野宿をする」という経験をしており、その木を“御守り”としながら天照大神御札に御参りをしたのだという。やがて1902(明治35)年には正式に伊勢皇大神宮の御分霊大麻を受け神祀を建立した。そして村の歩みが始まったという場所の名を冠して「草分神社」と号したのだという。
その後は「大正泥流」で損なわれ、再建されというような経過で、現在に繋がっているようである。
この地を拓き、様々な苦難も潜り抜けたという経過を知るべく、感じるべく上富良野を訪れて観たが、そういう好い経験が出来ているということに感謝の意を表しようと、草分神社に参拝した。
<十勝岳爆発災害復興60周年記念 『泥流地帯』>の文学碑…(2024.05.12)
↓こういう碑が在る。
「三重団体」と呼び習わされた三重県からの入植者達が拓いたという地区の一隅が<上富良野町開拓歴史広場>となっている。入植者達による開拓、更に「大正泥流」からの復興の努力と、上富良野は「2回の開拓」というような経過を辿っている。そうした歴史を伝えようということである。その辺りにこの文学碑が在る。
↓『泥流地帯』の終盤に近い辺り、泥流災害が発生してしまった辺りの描写が文学碑には刻まれている。
↓1984(昭和59)年に碑を建立したようだ。
小説を読んで「何時かは上富良野を訪ねる」と思っていて、物語の背景とされた時代のこと等が紹介されている辺りに、この文学碑が据えられているのは心動かされる。
「三重団体」と呼び習わされた三重県からの入植者達が拓いたという地区の一隅が<上富良野町開拓歴史広場>となっている。入植者達による開拓、更に「大正泥流」からの復興の努力と、上富良野は「2回の開拓」というような経過を辿っている。そうした歴史を伝えようということである。その辺りにこの文学碑が在る。
↓『泥流地帯』の終盤に近い辺り、泥流災害が発生してしまった辺りの描写が文学碑には刻まれている。
↓1984(昭和59)年に碑を建立したようだ。
小説を読んで「何時かは上富良野を訪ねる」と思っていて、物語の背景とされた時代のこと等が紹介されている辺りに、この文学碑が据えられているのは心動かされる。
水田…:上富良野の風景…(2024.05.12)
随分と広大な地域が含まれる「上川地方」というモノは旭川を核に拡がる。その「上川地方」では様々な種類の米が栽培されている。米飯として消費する米ばかりではなく、もち米や酒米も栽培しているようだ。
「上川地方」や、北海道内の他の地域では、概ね5月中に水田に水を入れて田植えを始める。水が入ったばかりのような水田は美しいと思う。
↓そういう様子を見掛けた。暫し佇んで様子を眺めた。
↑水を入れたばかりのような水田の水面に天が映り込む。
この様子を見て小説の『続 泥流地帯』を思い出した。小学校の教員として勤める弟に対し、「あんちゃん」こと兄は水田の復興に懸命だった。やがて「復興後、初めての収穫」が得られるようになって行く。水田を見掛けたのは、この『続 泥流地帯』のモデルになった「三重団体」と呼び習わされた農地という場所なのだ。
非常に美しいと思ったが、小説を読んでいた関係で心動かされたという面も在った。
「上川地方」や、北海道内の他の地域では、概ね5月中に水田に水を入れて田植えを始める。水が入ったばかりのような水田は美しいと思う。
↓そういう様子を見掛けた。暫し佇んで様子を眺めた。
↑水を入れたばかりのような水田の水面に天が映り込む。
この様子を見て小説の『続 泥流地帯』を思い出した。小学校の教員として勤める弟に対し、「あんちゃん」こと兄は水田の復興に懸命だった。やがて「復興後、初めての収穫」が得られるようになって行く。水田を見掛けたのは、この『続 泥流地帯』のモデルになった「三重団体」と呼び習わされた農地という場所なのだ。
非常に美しいと思ったが、小説を読んでいた関係で心動かされたという面も在った。
十勝岳を遠くに望む…:上富良野の風景…(2024.05.12)
『泥流地帯』、『続 泥流地帯』という、実質的に「上下巻」のようになっている小説が在る。
上富良野の少し北に在る美瑛を訪ねたことが何度も在る。美瑛で人気の「青い池」だが、アレは十勝岳の噴火災害を想定した防災工事の結果として出来た池で、見た目が面白いので評判になったという場所だ。その「十勝岳の噴火災害を想定した防災工事」という中、記録されている中で最悪の被害が発生した「大正泥流」こと1926(大正15)年5月の災害という時期に題材を求めた物語として『泥流地帯』、が知られているということが話題になる。
『泥流地帯』、『続 泥流地帯』について美瑛で聞いた話しが切っ掛けで知ったのだが、物語の主な舞台となるのは上富良野である。作中には主人公の兄弟の隣人として、実在の村長をモデルにした劇中人物が登場する。未だ幼い村長の娘達が主人公達に懐き、そえが契機で隣人としての交流が始まる。小学校の教員として勤める弟に対し、「あんちゃん」こと兄は災害で手放された水田の復興に必死に取組み、村の農地の復興に熱心な村長と共鳴するのであった。
この劇中人物のモデルとなった村長が建て、泥流災害の際に多少の被害を被りながらも残ったという貴重な家が、移築されて資料館になっている。上富良野に限らず、北海道内では方々の人達がグループになって入植し、開拓をして農業に従事というような例は多く在る。劇中人物のモデルとなった村長の吉田貞次郎自身も、両親の入植に伴って上富良野にやって来て育ったという人である。「三重団体」と呼び習わされ、三重県出身者のグループが開拓した地域が在る。入植者達の開拓の後、泥流災害からの復興は「第2次開拓」というような事柄な訳で、そういう経過を紹介している資料館が、「三重団体」が活動していた辺りの一隅に在る。
その資料館だが、上富良野駅から3km弱の場所だ。旭川・富良野間の道路に出て道なりに進むと在ると、地図を見て知った。朝、上富良野駅に着いてからゆっくり歩いて資料館に向かい、見学をしてから上富良野駅側へ引揚げ、更に歩き廻って昼頃の列車で旭川へ引揚げると好いと思い付いた訳だ。
前置きが非常に長くなってしまった。
↓駅から資料館を目指した際に足を停めて眺めた様子だ。
↑遠くの山並みの中で、薄く噴煙が見えるのが十勝岳であると見受けられる。
泥流災害から懸命に復興し、上富良野は「豊かな農業地域」というような様相になっている。遠くに十勝岳を望む中に種々の畑等が広がっているという様が「上富良野らしい」と思った。
↓多少、雲が多い。が、雲の感じも面白いと思った。
旭川・富良野間の道路の端、歩道を進んでいたが、目指す資料館が間違いなく在るのか不安も覚えた。「770m」と案内看板で出ていて大いに安堵し、歩調が多少速まった。
↓資料館を訪ねた後、また上富良野駅側へ歩いた。再び「上富良野らしい」と思った様を眺めた。
↓薄く噴煙が上がる山を望みながら、人々の営みが営々と続くのだ。
正直、後から「足取りがやや重くなる…」という程度に歩いたのだが、御蔭で上富良野が忘れ難い場所になったように思う。馴染の薄い地域は、歩き廻ると発見も多いと思う。
上富良野の少し北に在る美瑛を訪ねたことが何度も在る。美瑛で人気の「青い池」だが、アレは十勝岳の噴火災害を想定した防災工事の結果として出来た池で、見た目が面白いので評判になったという場所だ。その「十勝岳の噴火災害を想定した防災工事」という中、記録されている中で最悪の被害が発生した「大正泥流」こと1926(大正15)年5月の災害という時期に題材を求めた物語として『泥流地帯』、が知られているということが話題になる。
『泥流地帯』、『続 泥流地帯』について美瑛で聞いた話しが切っ掛けで知ったのだが、物語の主な舞台となるのは上富良野である。作中には主人公の兄弟の隣人として、実在の村長をモデルにした劇中人物が登場する。未だ幼い村長の娘達が主人公達に懐き、そえが契機で隣人としての交流が始まる。小学校の教員として勤める弟に対し、「あんちゃん」こと兄は災害で手放された水田の復興に必死に取組み、村の農地の復興に熱心な村長と共鳴するのであった。
この劇中人物のモデルとなった村長が建て、泥流災害の際に多少の被害を被りながらも残ったという貴重な家が、移築されて資料館になっている。上富良野に限らず、北海道内では方々の人達がグループになって入植し、開拓をして農業に従事というような例は多く在る。劇中人物のモデルとなった村長の吉田貞次郎自身も、両親の入植に伴って上富良野にやって来て育ったという人である。「三重団体」と呼び習わされ、三重県出身者のグループが開拓した地域が在る。入植者達の開拓の後、泥流災害からの復興は「第2次開拓」というような事柄な訳で、そういう経過を紹介している資料館が、「三重団体」が活動していた辺りの一隅に在る。
その資料館だが、上富良野駅から3km弱の場所だ。旭川・富良野間の道路に出て道なりに進むと在ると、地図を見て知った。朝、上富良野駅に着いてからゆっくり歩いて資料館に向かい、見学をしてから上富良野駅側へ引揚げ、更に歩き廻って昼頃の列車で旭川へ引揚げると好いと思い付いた訳だ。
前置きが非常に長くなってしまった。
↓駅から資料館を目指した際に足を停めて眺めた様子だ。
↑遠くの山並みの中で、薄く噴煙が見えるのが十勝岳であると見受けられる。
泥流災害から懸命に復興し、上富良野は「豊かな農業地域」というような様相になっている。遠くに十勝岳を望む中に種々の畑等が広がっているという様が「上富良野らしい」と思った。
↓多少、雲が多い。が、雲の感じも面白いと思った。
旭川・富良野間の道路の端、歩道を進んでいたが、目指す資料館が間違いなく在るのか不安も覚えた。「770m」と案内看板で出ていて大いに安堵し、歩調が多少速まった。
↓資料館を訪ねた後、また上富良野駅側へ歩いた。再び「上富良野らしい」と思った様を眺めた。
↓薄く噴煙が上がる山を望みながら、人々の営みが営々と続くのだ。
正直、後から「足取りがやや重くなる…」という程度に歩いたのだが、御蔭で上富良野が忘れ難い場所になったように思う。馴染の薄い地域は、歩き廻ると発見も多いと思う。
上富良野駅到着…(2024.05.12)
↓静かな駅ながら、富良野方面へ出ようとする高校生位と見受けられる若者達が何人か乗車した。彼らが乗車しようと待っている中で下車した。そして彼らが乗り込んで車輛の扉が閉まった。
↓駅の出口は跨線橋を渡った先だ。跨線橋から、乗って来たH100形が富良野方面へ去って行く様を見送った。
↓最近の旭川・富良野間では、このH100形が主流、と言うより「専ら」というようになっていると思う。
↓駅舎側に駅名標が掲げられている。
↑北海道内の駅では御馴染のビール会社の広告が在るが、上富良野はビールの材料の一つであるホップを栽培していると聞く。
↓掲出された時刻表だ。やや運行間隔が広い感じだ。
↓運賃表が掲出されている。
↓平日の日中は窓口が開いていて係員が居るが、日曜日や祝日は居ない。そこでこの券売機が活躍である。
↓古くは急行列車も停車する駅であったという。現在では「半ば無人駅」という様子である。他方、駅の真前にタクシーは半ば常駐していた。
富良野や、(現在は廃線で行けないが…)新得との間を往来した際、この上富良野駅の辺りは間違いなく通過している。が、駅で列車を下りた経過は無い。「訪ねてみよう」とでも思えば、何かの序でというのでもなく、随意に動くことの出来る時に一寸計画して寄ってみる他に訪ねる機会も術も無いような場所だと思う。
今般、「想い」も在って、上富良野を訪ねてみたのだった。
↓駅の出口は跨線橋を渡った先だ。跨線橋から、乗って来たH100形が富良野方面へ去って行く様を見送った。
↓最近の旭川・富良野間では、このH100形が主流、と言うより「専ら」というようになっていると思う。
↓駅舎側に駅名標が掲げられている。
↑北海道内の駅では御馴染のビール会社の広告が在るが、上富良野はビールの材料の一つであるホップを栽培していると聞く。
↓掲出された時刻表だ。やや運行間隔が広い感じだ。
↓運賃表が掲出されている。
↓平日の日中は窓口が開いていて係員が居るが、日曜日や祝日は居ない。そこでこの券売機が活躍である。
↓古くは急行列車も停車する駅であったという。現在では「半ば無人駅」という様子である。他方、駅の真前にタクシーは半ば常駐していた。
富良野や、(現在は廃線で行けないが…)新得との間を往来した際、この上富良野駅の辺りは間違いなく通過している。が、駅で列車を下りた経過は無い。「訪ねてみよう」とでも思えば、何かの序でというのでもなく、随意に動くことの出来る時に一寸計画して寄ってみる他に訪ねる機会も術も無いような場所だと思う。
今般、「想い」も在って、上富良野を訪ねてみたのだった。