列車案内…:甲府駅改札口(2024.12.27)

↓松本方面に移動すべく、列車の発車時刻案内に着目していた。
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↑改札口辺りに在るこういう案内は何処ででも眼を向ける。駅では必須だと思う。

今般、小淵沢へ向かう列車に乗ることにした。小淵沢で乗換えて松本へ向かうことが出来るのだ。

ところで列車案内の脇に「山梨学院大学」の広告が見える。この大学は甲府市内に在って、甲府駅の手前、東京方向に1駅の酒折駅の辺りに看板が掲げられた建物を多く見掛けた。最寄駅であるらしい。武田神社を訪ねた際に乗車したタクシーの運転手氏によると、近年は色々な活動で学名が知られるようになって、山梨学院大学の人気も少し高まり、酒折駅辺りは「学園の街」という風情になっているそうだ。

また列車案内の辺りに、身延線でSUICAやPASMOが使えないという案内も在る。身延線はJR東海であい、JR東日本とはやや勝手が異なるようだ。今般、何箇所かで「交通系ICの利用の可否に関する“境界”」というようなモノに出くわすこととなった。最近は「とりあえず交通系ICで改札を潜る」という感じで、「利用不可の路線の列車にも乗ってしまう」というのが頻繁に在るのであろう。

甲府に関しては、様々な話題が在る。そういうモノに出会うべく再訪したいという想いが高まる。
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<かふふ驛煉瓦ひろば>…(2024.12.27)

↓甲府駅の1番ホーム辺りで見掛けた。<かふふ驛煉瓦ひろば>と名付けられている。「かふふ」とは「こうふ」(甲府)の旧仮名遣いであるのだという。
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↑1903(明治36)年に甲府駅が開業しているのだが、その頃の建築と見受けられるそうだ。一部を遺している。

明治期から昭和初期迄、鉄道では灯油ランプを多用していた。客車内の灯りに使ったのだという。そういうランプの準備をする場所、この煉瓦倉庫のような場所が多くの駅に設けられ、「整灯手」と呼ばれた職員がランプを扱う仕事に就いていたそうだ。

↓「かふふ驛」の面影を伝えるようにしていた場所の辺りに、現代の甲府駅の一般的な看板も在った。
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初めて甲府を訪ねて少し時日が経ったが、何か甲府が凄く懐かしいような気がしている。好い出会いだったのだと思う。
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211系電車…:小淵沢駅(2024.12.27)

甲府駅で乗込んだ列車は小淵沢駅に着いた。

↓そして小淵沢駅で待機していた列車に乗換える。
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↑3輛編成の211系電車だ。甲信方面では出会う機会が多い車輛だと思う。

小淵沢駅は山梨県の鉄道駅の中で最も西側に在る駅なのだそうだ。JR東日本の業務の上で、この駅と吉祥寺駅とをクス部中央線が「八王子支社」の管轄で、塩尻駅や松本駅方面、そして小海線が「長野支社」の管轄であうという。加えて、後から知ったが標高886.7mという辺りに在る駅だという。海岸部の標高というモノが非常に低い地域に住む自身にとっては、やや驚く事実だった。

↓行先表示は「松本」だ。
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こういうような車輛の列車を乗り継ぎ、途中の駅や着いた駅で街へ出るというような感じが非常に愉しいと思っている。
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211系電車…:甲府駅を発つ(2024.12.27)

↓立寄ってみた甲府はなかなかに興味深かった。初めて訪ねた街と好い感じで出逢えたかもしれない。が、とりあえず松本を目指して移動しようと甲府駅で列車に乗ることにした。
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↑小淵沢駅(こぶちざわえき)へ出ると、乗換の列車が在って、松本へ向かうことが叶うということであった。

今般12月から「新ルール」になった<青春18きっぷ>を利用していた。普通列車で移動する訳だが、東京を発って、1箇所道草して甲府に至って知らなかった街を愉しく歩き、更に松本を目指すというような行程で動くというのは「程好い感じ」だと思った。中央線も東京都内のような列車運行本数が凄く多い区間が在る他方、甲府へ向かう辺りや松本等に通じる辺りは程々の本数の列車が運行という感じになる。が、極端に列車本数が少ないというレベルでもないと感じていた。

↓甲信方面で少し見慣れた211系電車が待機していて、これに乗って小淵沢駅を目指した。
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↓車輛の側面に、こういう具合に行先表示が出るというのが個人的には気に入っている。
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↑「小淵沢」を最初は思わず「おぶちざわ」と読んでしまったが、「KOBUCHIZAWA」とローマ字が在って「こぶちざわ」と判る。個人的には、こういうような場所に現れるローマ字は「読み仮名」の一種だと思っている。

<青春18きっぷ>でも、他の何でも構わないが、切符を手に列車に乗って、見慣れぬ鉄路の向こうの知らない街に至って歩き廻るというようなことを繰り返しながら動くのは実に愉しい。今回、これまで長く甘い縁が無かった中央線方面で動き回る機会を設けられて非常に好かった。
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<甲府 時の鐘>…(2024.12.27)

「川越で観た建物に似ている?」と思いながら眺めた。
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↑江戸時代には、十二支の名を宛て「〇の刻」というモノを12種設け、概ね2時間毎に鐘を鳴らして街の人達に時刻を伝えるというようなことをしていた。それを「時の鐘」と呼ぶ。川越で観た建物もそういう趣旨のモノであった。

甲府での「時の鐘」は江戸時代に設けられていて、火災で焼失したというような経過を経て1818年に再建され、それが1872(明治5)年迄使用されていたと伝わっている。

2013(平成25)年、火災で焼失した「時の鐘」を模したと伝わる寺の鐘楼の、明治期に撮ったらしい写真を参照して忠実に再建したというのが写真の「時の鐘」であるそうだ。

こういうような、喪われた古い建物のイメージで何かを建てるというような事柄は面白いと思う。「松本へ向かう途中に寄る」という感じではありながら、色々と興味深い甲府に立寄る機会が設けられたことは大変に幸いだった。
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<藤村記念館>…(2024.12.27)

↓甲府駅の北側にこういう建物が在る。
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↑建物は文化財指定を受けており、文化財としての呼称は「旧睦沢学校校舎」という。1875(明治8)年、睦沢村(現在の甲斐市)に建てられた学校校舎だ。

1966(昭和41)年に武田神社に近い辺りに移築し、その際に建築時の県令であった藤村紫朗(ふじむらしろう 1845-1909)に因んで「藤村記念館」と命名され、資料館となった。2010(平成22)年に、甲府駅北口広場に再度移築されて現在に至っている。

県令であった藤村紫朗は「擬洋風建築」の建築を積極的に奨励していたということで、この学校もその一つである。「擬洋風建築」の学校と言えば松本の旧開智学校校舎も思い出す。方々で「擬洋風建築」の学校等が登場した明治時代前半頃の雰囲気に想いが巡る。

↓実際に立っていた場所を離れても、或る程度の多くの人が通るような場所に移築されて保存される歴史的建造物というのも好いように思う。
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今般、思い立って甲府に寄り、色々な文物と出くわし、凄く愉しかった。きっと再訪したい。
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<かぶとや>…:武田神社周辺:武田通り(2024.12.27)

↓趣が在る外観の建物だが、土産店である。
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↑ここで御手洗を拝借したのだったが、買物もした。菓子類等、甲府の美味しいモノも多々在るのだが、「武田信玄グッズ」というようなモノが豊富だ。殊にTシャツ等は、大きなサイズも豊富で、大きなサイズの需要家である自身には大変に有難い。

ここで求めたTシャツは、結局未だ旅の荷物の中だ。荷物を開けて如何こうというようなことを殆ど出来ずに一寸「治療生活」となっている。そのうちTシャツは引っ張り出す。

こうして土産店の建物の写真が出て来たのだが、なかなかに好い感じだと思った。
posted by Charlie at 10:51Comment(0)山梨県

武田神社…(2024.12.27)

個人的な、極勝手な感想ではあるのだが、「戦国時代の…」というようなことでも聞くと、何となく「武田信玄?」というようなことを思い浮かべる。武田家の盛衰に纏わる挿話が入る物語は数多在る。武田信玄は父との対立を乗り越え、息子と争うということも在ったが、隣の信濃国から日本海へ進出する野心を抱いて上杉謙信と争うようなことをしていたが、領国内での治水事業等にも努力していたのだという。その麾下には「二十四将」という多彩な人材が在って、強い結束で色々な事柄に取組んでいたという感じだ。そして後に大きな力を握って行く勢力にとっての脅威となっていた。

甲府では、その武田信玄の居館―信玄の父である信虎、後継者の勝頼と3代が使っていた…―であったという場所が、「武田神社」ということになって広く親しまれていると聞けば、「とりあえず行こう!」と思った。

甲府駅の南側に出て、武田神社側へ向かうバスの乗場が見当たらなかった。「ゴチャゴチャ言わず!」と素早くタクシーを使った。運転手氏と雑談に興じながら、「初めて立寄った甲府で、とりあえず武田神社…」という話しで動いたのも愉しかった。

↓武田神社の入口だ。
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↓正面は「神社」そのものである。
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↓敷地の脇は古い土塁を修復して石を積んだようになっていた。この辺は「神社」とは違う。
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↑土塁を備えた大名の居館ではあるが、信玄の晩年や勝頼の頃には見受けられたような「近世城郭」という感じの広い濠や高い石垣というようなモノが在るのでもない。

↓武田神社はこの武田家3代の居館であった場所を大正時代の初めに神社とした。祭神は武田信玄である。
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↓武田家3代の居館の跡ということで、半ば林のようにもなっている。
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↓椿の植え込みが眼に留まった。
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↓典雅な能舞台が好い感じだった。
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↓武田家の人達が使っていたらしい井戸も在る。
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↓井戸の辺りに龍が在った。
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今般、甲府で過ごした時間全般に関して、「移動の途中で少し慌ただしい動き」になってしまっていたのだが、この武田神社も含めてゆっくり再訪したいというように戻ってから強めに思うようになった。
posted by Charlie at 10:42Comment(0)山梨県

山手御門…:甲府城址(2024.12.27)

甲府駅辺りの鉄道は甲府城址の一部を貫くように敷設されている。

「甲府城址」とでも言えば、駅の南側を連想するという例が多いかもしれない。遺構はそちらが大きいのだが、北側にも在る。

↓こういう門が目立った。木造復元の「山手御門」という門だ。
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「甲府城」というのは、戦国大名の武田家3代の後、豊臣政権の時代に築かれた軍事や行政の拠点であった場所を、現在の城址の起源としている。徳川幕府の時代には、徳川家の一門が入る「親藩」の白となっていた。やがて柳沢吉保が甲府城に封じられるが、大和郡山へ移封となる。その移封の1724年以降、甲斐国は幕府直轄領となり、「甲府勤番」という役目が設けられて活動する。幕末期には「城代」という責任者が配置されるようになった。

今般、松本への移動の途次に寄っているので、甲府城址見学に殆ど時間を割いていない。が、今般はかの武田家3代の居館であった場所の武田神社が興味深かった。それでも、何時かまた甲府城址も訪ねたいと振り返っている。
posted by Charlie at 10:10Comment(0)山梨県

甲府駅陸橋…(2024.12.27)

↓甲府駅の辺りに大きな橋が在る。
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↑甲府駅の北側から南側に歩く時にこの橋を歩いて渡った。甲府駅に到着して程無く、甲府駅の南側からタクシーで北側へ移動してみるということもしたが、その際にもタクシーに乗って橋を渡った。

↓なかなかに立派で大きな橋だ。
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甲府駅は1903(明治36)年に開業している。現在の中央線である。やがて1928(昭和3)年には現在の身延線が乗り入れている。

甲府駅辺りの鉄道は甲府城址の一部を貫くように敷設されている。その拡がる軌道を跨ぐように橋が架かっている。

↓結局、これは車輛も歩行者も往来可能な跨線橋ということになる。
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↓場所を特定すべく、バス停は「甲府駅(陸橋)」と称している。
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↓甲府駅の南寄りへ至った。交通量は少し多目で、断続的に多くの車輛が行き交っていた。
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こういうような様子も面白いと思う。
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武田通りの建物…:甲府(2024.12.27)

武田通りを散策し、もう少しで甲府駅の北側に着くというような辺りに至った。

↓大胆に植物が壁に着いた建物が眼に留まり、面白いと思った。
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↓画の右が武田神社で、上り坂になっていることが判る。
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聞けば、武田神社は大晦日ら元旦の初詣の場所として人気が高いということで、この武田通りは交通規制の対象になるというようなことだった。

何処の街にも、こういうような「一寸面白い」は多々在ると思う。
posted by Charlie at 02:00Comment(0)山梨県

甲府駅改札口周辺…(2024.12.27)

↓甲府駅に到着し、改札口を出て佇み、眼前の看板を見上げた。
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↑佇んで提げていたカメラを使っている辺りの背中側が「入口」となっている改札口だ。駅の出口や窓口等が矢印で示されている。何か美しいデザインの看板であるように思えて、少し見入った。

北口の側は武田神社が在る方向だ。南口の側は県庁が在る等、何か大きなオフィス街というような感でもある。

今般は「先を少し急ごう」と動いたが、この甲府にはもう少し親しんでみたいというような感じがする。
posted by Charlie at 15:27Comment(0)山梨県

武田通り…:甲府(2024.12.27)

↓武田神社から甲府駅の北側へ通じている道路は下り坂になっている。
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↓振り返ると武田神社の鳥居が見える。上り坂になっている。
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武田神社が在る場所は、戦国大名化して勢威を誇った武田家が3代に亘って本拠地としていた居館であった場所だ。現在、武田通りと呼ばれる道路に概ね沿うように「城下町」的な様相を呈していた。

↓路傍にさり気なく看板が出ている。戦国期の武田家の盛衰に纏わる挿話を扱う種々の物語に色々な人達が登場する。そんな人達が邸宅を構えていたと伝わる場所が示されている。
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↑武田神社の辺りに在った居館は、所謂「近世城郭」というような要塞のような感じでもなかったという。結束の高い家中の将士で地域を護れば事足りるという考え方であったとも伝わる。

武田家に関しては「二十四将」という言い方が在る。色々と活躍する多士済々な家臣たちを擁した武田家の様を現す表現だが、名門として尊重される武田家が守護という役に就き、地元の多くの武士達を傘下に従える様子が何世代も続く中、色々と活躍する豊富な人材が分厚くなっていたのだと想像出来る。

↓こういうような形でも史跡の紹介が在る。
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↓飯富虎昌は武田信虎、武田信玄の2代に仕えて活躍した人物で大変に信認が厚かった。武田信玄と対立してしまった息子の武田義信を補佐していた関係上、争いに巻き込まれて排されてしまったのだという。
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甲府の武田通りは、早くも「再訪してみたい場所」という感である。
posted by Charlie at 15:11Comment(0)山梨県

山梨県庁別館…(2024.12.27)

甲府駅の北側から南側へ少し歩いた。

↓こういうような様子を見掛けた。
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↓少し古風で典雅な建物であると思った。
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↓県庁関係の建物だった。
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↓1930(昭和5)年竣工の庁舎で、本庁舎として長く使われた。現在は別館として利用されているという。
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↑1945(昭和20)年7月に空襲が在ったのだが、甲府城址の地形の関係でこの建物は被害を免れており、竣工当時の様子が良好に保たれているのだという。

外観を眺めたに留まってはいるが、何気なくこういう建物に出くわすというのも、馴染が薄い街を気儘に散策する楽しさというものだ。
posted by Charlie at 14:19Comment(0)山梨県

<甲州ハイボール>…(2024.12.27)

↓大月駅で見付けた。
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↑地元山梨県を示す「甲州」の名を冠したハイボールだ。

↓少しサッパリした味のように思った。
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道中に、動き回っている辺りの地名を冠した飲物に出くわし、それを頂いてみるような感じというのも好いように思う。
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翡翠(カワセミ)…(2024.12.27)

↓「街灯に鳥が微動だにせずに?それも互いに逆を向いて、対になっている?」と思った。
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↑甲府の武田通で見掛けた。

↓順光になる側に回って眺めた。造ったオブジェを街灯に飾っているのだ。特徴的な形状で、鮮やかな色合いの鳥だった。
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↑鳥類に詳しいのでもないが、これは「翡翠(カワセミ)というモノ?」と思った。

↓歩を進めると別な箇所にも居た。
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体の色が輝くような青緑色をしていて「飛ぶ宝石」とも呼ばれる翡翠(カワセミ)は1984(昭和59)年に「甲府市の鳥」に指定されている。更に1986(昭和61)年には「甲府市指定文化財(天然記念物)」にも指定されているようだ。

清流に棲む翡翠(カワセミ)であるが、武田通の先である武田神社の辺りにも飛来数場合が在るという。宝石のような鳥ということで、宝飾品製造を盛んに行っているという甲府のシンボルとされ、更に美しい自然を象徴する鳥として愛され、武田通を整備する時にオブジェを用意したのだと思う。この武田通辺り等で翡翠(カワセミ)は何羽程度据えられているのだろうかというようなことを思った。

こういう感じも好いと思う。
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武田信玄公之像…(2024.12.27)

↓「甲府」とでも言えば想い起されるような感じかもしれない。
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↓甲府駅の南側に在る。武田信玄(1521‐1573)の像である。
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「情けは味方 仇は敵なり」として、勢力圏を拡げる戦いの傍ら、治水事業のような民政にも力を注ぎ、仁政を布くことを心掛けていたという武田信玄は甲府の街の、或いは山梨県の基礎を築いた伝説的な指導者というような存在感を放っているのかもしれない。

↓「武田信玄」とでも聞けば、この像のように床机(しょうぎ)に腰を下ろして戦況を静かに見守り、「山は動かず」と気を動転させてしまうことを諫めているというような様子を想う。
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所謂「風林火山」である。「風の如く」は何でも素早く進めるべきであろうということ、「林の如く」は手際良く粛々と事を運ぶべきであろうということ、「火の如く」は果敢に挑むべきであろうということ、「山の如く」は動転しない、或いはブレないということが大事だということであるように自身では思っている。

↓実は今般、初めてこの有名な像を観た。甲府が初めてであったが、山梨県全般も初めてだったのだ。
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色々な物語の作中人物として、また人物や言行に関する論評も多い人物として知られる武田信玄だが、御当地で敬愛されているような様子が伝わる大きな銅像を観たのは興味深かった。
posted by Charlie at 21:50Comment(0)山梨県

武田信虎公之像…(2024.12.27)

↓甲府駅北側の広場に佇む像だ。
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↓「武田信虎公之像」とある。
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武田信虎(1494または1498‐1574)は武田信玄(1521‐1573)の父で、甲斐の守護大名であった。やがて戦国大名というようになって行った。甲斐国守護所を移転し、「甲斐国府中とする」として「甲府」という呼称を創出した。現在は武田神社になっている辺りに「躑躅ヶ崎館」と呼ばれた居館を築き、近隣一帯に家臣達を住ませる「城下町化」も進めたという。

↓甲府の建都を指導した人物ということになる武田信虎だ。
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今般、この銅像に少し注目してしまった。
posted by Charlie at 21:21Comment(0)山梨県