【連載】現今事情―サハリン (11)
「街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視ると街の名前が思い浮かぶ」というようなモノということで、「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というようなモノは「如何か?」というようなことを一寸考えていた。
「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というようなモノとしてレーニン像を思い出すという話題を綴っていた。が、それだけに留まらない。
ユジノサハリンスク辺りでは「日本国内の一寸した都市に在るようなサービスやモノは大概在る」という状態だが、場合によって「流行り始めが比較的新しい」ということで、日本国内で見受けられる様子と違う場合も在る。が、色々な業種の人達が「旅行で訪れた○○で見掛けたアレが好ましい…自分の携わる店でも…」と試行しているらしい例にも出くわす。
↓こんなモノに出くわした。
正しく「日本国内の一寸した都市に在る」という感だ。地域の代表的な建物の画が入った箱に菓子を入れて売っている。所謂“パン屋”な感じで、パンや菓子の製造販売すること、加えてカフェ的にそれらを飲物と合わせて店内で頂くという業態で方々にチェーン展開している店で見掛けて求めたモノであった。
↓序なので「箱の中」の画も…箱に画が在るように、柔らかい菓子がチョコレートに包まれているモノだ。稚内に持ち帰って、土産として方々に配った記憶も在る。
「地域の代表的な建物の画」という感じで箱に入っている画は<サハリン州郷土博物館>である。広大なロシアに在って、この種の建物は類例が無い。
この<サハリン州郷土博物館>であるが、広大なロシアの他地域で類例が見受けられない形状の建物で「他地域からの来客が在れば、視て頂くべきモノ」ということになっているようだ。それこそ、サハリン州政府が連邦政府の高官を迎える場面から、手近な身内が遊びに来るとか、何かで知り合った他地域の人達を迎えるという場面に至るまで、とにかくも「これが有名な…」と辺りを通って視て頂くという様子である。更に「街を代表するような場所」ということで、何かの記念撮影をこの場所でやっている人達も存外に頻繁に見掛ける。
↓建物の前に噴水まで設えられ、地元の人達にも広く親しまれている場所だ…
↓当然ながら年中視られる建物で、積雪期にも佇んでいる…
<サハリン州郷土博物館>は<樺太庁博物館>として1937年に竣工した建物である。“ソ連化”の後にも、そのまま博物館として使用され続けている。
聞けば、新たな建物を新設して<サハリン州郷土博物館>を移転するような構想もされたことが在ったらしいが、結局この建物が使われ続けている。2007年頃であったと聞くが、函館から瓦屋根の工事を手掛ける業者の職人達を招聘し、石州瓦による屋根を補修した経過も在ったようだ。竣工から間もなく85年で、老朽化も目立つようではあるが。
1945年の終戦、そして1946年の“ソ連化”であるが、現地でそれは「サハリンの行政等の中心がアレクサンドロフスク・サハリンスキーからユジノサハリンスクへ移った」という理解になっていると見受けられる。<サハリン州郷土博物館>については、「アレクサンドロフスク・サハリンスキーからユジノサハリンスクへ移った」という理解になっていて、「博物館自体が認識する歴史」として、博物館の「起こりの年」は「アレクサンドロフスク・サハリンスキーで博物館が起こった」という出来事の「1896年」となっている。「1937年」を起点にして「建物が80年!」というようなことは博物館自体でも言っている場合が在るが、「博物館の歴史」としては「1896年の開館以来125年」というような認識のようだ。
現在の<サハリン州郷土博物館>は、そのアレクサンドロフスク・サハリンスキーから移って来た収蔵品に<樺太庁博物館>から引き継がれた収蔵品ということで活動を始めていることになる。自然、民俗、歴史というような様々な分野の展示が見受けられる<サハリン州郷土博物館>だが、或る意味では「建物そのもの」が「少し貴重な展示品」という性質を帯びているかもしれない。
この建物について、「樺太時代」に「日本の関係者」が建てたということは現地でも知られている。1937年竣工も一部に知られている。が、その「知られ方」に関して言えば、一部に「?」という事が在る。
サハリンでは、この<サハリン州郷土博物館>について「日本の伝統的な様式である“テイカン”の形」というように紹介されている。これが多分、余り正しくない。
“テイカン”は「帝冠様式」のことに他ならないが、これは「伝統的」とは少し言い難い。「1930年代の日本で流行した様式」とすべきであろう。概ね、「鉄筋コンクリート造の洋式建築に和風の屋根」というような和洋折衷の建築様式ということになる。
「帝冠様式」が流行って行く契機に大阪城が在るらしい。
大阪城は「激動の幕末」に色々と在った後、その広い敷地を専ら陸軍が様々な用途に利用していた。
大阪城は「大坂城」として豊臣秀吉の下で起こり、豊臣家が敗れた戦い―「大坂冬の陣」、「大坂夏の陣」―の後に殆ど焼失してしまった。そして徳川幕府の下で再建された。その徳川幕府時代の「大坂城」には天守閣が在ったが、1660年に「焔硝蔵(火薬庫)に落雷」という事件―大爆発で多くの建物が焼失し、多数の死傷者が発生した…―で天守閣は姿を消した。(1660年の出来事から時日を経て、焔硝蔵については堅牢極まりない石造のモノが建てられ、陸軍も利用したと伝えられる。)
その頃以降、「大坂城」と呼ばれた時代、大阪城と呼ばれるようになっても天守閣は無いままだった。「激動の幕末」に色々と在ったという時期にも在った建物は一部が現在にまで伝わっているのだが、そんな時代には天守閣は無い状態で、色々な建物が敷地内に在って利用されていた訳だ。
元号が“大正”から“昭和”に変わろうというような頃、「大大阪」とも呼ばれて大いに発展していた大阪では、現在に受け継がれている様々なモノが登場しているのだが、専ら陸軍が利用していた大阪城に関して、一部を公園化して「街のシンボル」として天守閣を建てることになったのだった。
そして1931年に完成して登場したのが現在の建物であるが、この頃に「合わせて師団司令部庁舎も建てましょう」ということになっていた。大阪城と師団司令部庁舎とは相次いで隣接地に登場した。
こんなことで「昔の城を想定した和風建築」の大阪城と、「当時一般的だった洋風建築の庁舎そのもの!」であった師団司令部庁舎とが並んだのだが、これを見た建築家達が「和風の意匠を採り入れて、城と親和性が高い庁舎であったなら、もっと佳かったのでは?」という問題意識を持ったという。そして、その時点で一部の建築で実施されていた「和風な意匠を入れる」ということを前面に押し出す動きが起こった。
これが「帝冠様式」が流行った背景に在ったという話しだ。少し長くなったが、好きな話題でもあるので、敢えて綴った。「和風の意匠を入れる」というのが「伝統的」に該当するかもしれないが、それでも「帝冠様式」そのものは「1930年代の日本で流行した様式」ということになる。
ではこの「帝冠様式」は、何故「1930年代の流行」ということで、以降は流行らなくなったのか?回答は単純なことで「出来なくなってしまった」ということに尽きる。更にこれは「1940年 “幻”の東京五輪」にも少し関連が在る。
例えば1937年に竣工した建物と似たような建物を数年後に建てることは、技術的に不可能とも思い悪い。それでも「出来なくなってしまった」というのは、鉄骨を筆頭に、建設資材の使用量に厳しい制限が加えられ、華美なデザインを排するというようなことになって行ったからだ。1938年に<国家総動員法>というモノが成立しているが、中国大陸での戦争状態が長引いていて、各種資材に関する制限が拡がりつつあった中、1938年頃以降は「帝冠様式」のような建物が新たに登場しなくなったようだ。
1938年には、「1940年 東京五輪」について「開催権返上」と称して東京開催が見送られた。それは、鉄骨を大量に使う競技場建設が「進められない…」ということになったことも一因になっているのだ。五輪開催に向けて大きな競技場を建設するとすれば大量の鉄骨が要ることになるが、「それだけの鉄?軍艦がどれだけ建造出来るだろうか?」というような話しにもなっていた訳だ。
その後、「1940年 五輪」そのものは、東京が選出された時に“次点”であったヘルシンキで開催ということになった。しかし、その1940年頃にはヘルシンキのフィンランドも戦争に突入していて、前年の1939年時点で後に「第二次大戦」と呼ばれる時期に突入してしまっていて、「1940年 五輪」そのものが“幻”に終始してしまったのだった。
「帝冠様式」の<樺太庁博物館>(現在の<サハリン州郷土博物館>)は、結果的に「帝冠様式が流行った時期の最終盤」に登場した形となった。「帝冠様式」による建築は、現在も日本国内で色々と見受けられるが、台湾や満州でも見受けられたということだ。
実は<サハリン州郷土博物館>が契機で「帝冠様式」というモノに関心を寄せるようになった。名古屋市庁舎、愛知県庁舎は名古屋に立ち寄った時に眺めに行ってみた。現在は観光案内所となっている旧奈良駅はかなり気に入っていて、関西方面に出る際に敢えて奈良に宿を求め、これが窓から視える部屋に滞在するようにしたことさえ在る。他、未だ視ていないモノも色々と在る。結局「サハリンが入口で様々な関心が拡がる場合も在る」ということになるのではないか?
現在のユジノサハリンスクで、中心的な市街の多くは1906年、1907年頃から建設が進められた「豊原」を基礎としている。この「豊原」に<樺太庁博物館>(現在の<サハリン州郷土博物館>)が竣工した1937年頃の様子だが、「町」が「市」というようになった。当時、樺太は他所の県等とは取り扱いが別であったが、それでも北海道で「最も北の市」であった旭川市(1922年から「市」)から随分北―旭川から稚内で250km余り…稚内からコルサコフ港を経てユジノサハリンスクへ行けば180㎞程度…併せて430㎞程度なので、東京・名古屋間より遠い…―に「最も北の市」が登場したことになる。その後、1943年には樺太の市町村も他所の県と同じ取り扱いになり、改めて「豊原市」となっている。1941年頃の資料として、豊原市は人口3万7千人余りであったそうだ。
この連載は、「或る日、如何いう経過であれ、辿り着いて街を歩くと、別段に不便や不自由という程のことが気になって仕方ないということが在るでもない普通の街」という感であるユジノサハリンスクのようなサハリンの都市なのだが、それでも「サハリンってモノが在るの?」と存外の頻度で御訊ねを頂くという状況に思い至って綴り始めた。
或る意味では日本国内の一寸した街に在る店より手が込んだモノを供してくれるようなカフェが在り、店舗、サービスノウハウ、材料等が揃わなければ供し悪いモノを供してくれるようなファストフード系の店が在り、スーパーに立ち寄ればお惣菜からミカンまで何でも売っていて、祝い事の催事に使うレンタカーから花束まで各種サービスも普通に行われているユジノサハリンスクである。街の方々に都市緑地が整備され、地域の歴史を伝えようとするモニュメントが据えられている。プロスポーツのチームが在ってシーズンには試合が催されていて、著名な劇作家の足跡が残っているに留まらず、専属の劇団が公演活動もする劇場が在り、映画館も自国内や外国の映画を普通に上映している。
ハッキリ言えば、これらの「普通」が余りにも知られていない。または「特殊な編集」のような事でも在って、黙殺されているように思う。だから「サハリンってモノが在るの?」と存外の頻度で御訊ねを頂くのだと思う。
「特殊な編集」と申し上げたが、サハリンに関しては「嘗ての樺太」ということで、関係文物を取り上げる例が在るか、「嘗ての樺太…以上!」となってしまっている場合さえ在ると思う。そういう問題意識の故に、<サハリン州郷土博物館>の建物に関しては、散々に様々な話題を出した後に廻った。
「建物そのもの」が「少し貴重な展示品」という性質を帯びるかもしれないような、建物の竣工時点から80年以上、“博物館”というモノが起こったと自認する頃から120年以上という伝統を有している<サハリン州郷土博物館>の例だが、「これだけのモノが在る場所?日本国内の何処にでも溢れているのか?!」と問うてみたくなる。そんなモノは無い場所の方が多いのではないか?そういう場所に住んでいて、それで「サハリンってモノが在るの?」と訊ねるのか?何か変だ。
<サハリン州郷土博物館>に関しては、建物の来歴というのか、様式というような事柄に話しが及べば、話題は尽きずに話しがドンドン拡がる。こういう存在は「街の豊かな文化」を体現する存在たり得ると思う。そういう「街の豊かな文化」を体現する存在まで在るユジノサハリンスクを擁するサハリンについて、「サハリンってモノが在るの?」ではなく、「馴染みが無い…知らない…」という「フラットな地点」から視て頂きたいと思うのである。